ここ8年、詩仙堂に通っているのに、遺宝展(5/25~27)に行ったことはなかった。今年は絶対忘れず行こうと、初日に出かけた。
道路に面した門(写真上・左)をくぐると、ゆるやかに続く階段の両側から竹が生い茂り、静かな時が始まる。竹の間から見える茅葺の建物(写真上・中)はプライベート空間で、現在も使われている、と伺った。階段の先には低い門(写真上・右)があり、本来の玄関は、石畳の先、その正面。開け放した玄関から、座敷を通して向こう側に新緑の庭が見える。拝観入り口は建物左手。開門は9時で、早めに行ったつもりでも、先客がいた。遺宝展は10時開場(~4時)なので、時間まで、ゆっくりとお庭を楽しんだ。
さつきは、あと10日~2週間というところだろうか。さつきの時季も楽しみだが、今の庭は、茶花が多く、彩り豊か。
バイカウツギ(上段左)、カキツバタ(同右)、アヤメ(中段左)、オオベニウツギ(同右)、オオデマリ(下段左)、テッセン(同右)。このテッセンは、十方明峰閣(坐禅堂)の垣根にあり、ここで遺宝展が行なわれていた。
ここは、通常拝観できず、お庭にも入ることはできない。垣根越しに見るしかなかった建物に、入ることが嬉しい。
和室の壁に笹竜胆の紋(石川家の家紋、と伺う)の入った幕がめぐらされ、それを覆うほど沢山の掛け軸が吊るされている。漢詩の大家である丈山使用の典籍が木箱と共に。狩野探幽画の36歌仙の杉板が2枚、『詩僊堂』や『小有洞』などの扁額などなど。襖には真新しい襖絵(5年ほど前にできたらしい)が垣間見え、これもいつか見たいものだと思う。
何と言っても圧巻は、丈山筆の隷書体の掛け軸。隷書体は、パソコンで使用するフォントとしてしか、目にしない。手書きの、この美しさ。
もう一つ、気になったのは、王維の五言絶句の書。ちょうど手持ちの『漢詩鑑賞事典』に載っていた。タイトルは『竹里館』。
獨坐幽篁裏/彈琴復長嘯/深林人不知/名月來相照
奥深い竹林に独り座って、琴を弾いたり長吟したり。この愉しみは月と自分だけが知っている・・・。この漢詩は、徳川から離れ、文人として暮らした丈山の境地、そのものと思われる。『都名所図会』の絵図を見ると、『小有洞』門の周囲は竹、また竹。
一句目は、詩仙の間の、床の間にあった掛け軸「独坐鎮寰宇」を思い出させる。「寰宇」とは世界の意で、調べてみると「唯我独尊絶対主観の境地」という意味らしい。茶席の掛け軸で用いられる禅語とのこと。この意味、仏教とは隔たっているような気がする。個人的には、坐禅を組んで無の境地に至ると心が澄んだ宙のように清らかになる、そういう坐禅を勧める標語のようなもの、のように感じる。主観に重きを置いていないように思うのだ。只管打坐。ひたすら坐禅せよ、ということではないか。
『都名所図会(1786年再板)』では「詩仙堂」、『拾遺都名所図会(1787年)』でも「詩仙堂」、『都名所画譜(1894年)』では、「詩僊堂」の名で絵図が掲載されている。さきの扁額と同様の文字だ。「仙」は、もとは「僊」の俗字だと、『新字源(角川)』にあった。「最初は、こちらの字を使っていたようです」と、ご住職。
(日文研HP『都名所図会』:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_232.html)
(同『拾遺都名所図会』:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_409.html)
(同『都名所画譜』:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/gafu/page7/KM_07_01_011F.html)
『拾遺都名所図会』は、丈山の名について詳述している。「石川丈山の姓ハ源氏 諱ハ重之 初の名ハ嘉右衛門 後に左親衛と改む 一の諱は凹 字は丈山 六々山人と別穪して世々三州に住す」。
笹竜胆紋は、凹凸窠玄関前の須弥檀の緞帳にも刺繍されていた。笹竜胆と言えば、清和源氏のシンボル。丈山は、さきの引用より、源氏だ。また一方で、竜胆は、曹洞宗の寺院に多い紋とも言われる。宗祖・道元が久我家(村上源氏)出身で、その家紋が竜胆だからだ。この詩仙堂は、現在、曹洞宗大本山永平寺の末寺となっている。二つの意味の笹竜胆。しかし、ここの寺紋は、ひっそりとしている。普段目にするのは、緞帳の一箇所のみ。飾り瓦や軒丸瓦にも、その意匠は見られない。
「凹凸窠」から取ったのか、「凹」が諱というのは珍しい。一体誰がつけたのだろう。
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