聖護院門跡の南向かいにある須賀神社。剣鉾が出るという神幸祭は、5月第二日曜だ。
春日上通に面した鳥居(写真左)付近には、自転車がいっぱい。神事に出席する方のものか、行列に参加する方のものか。交通整理の警官も出ている。神官の一人に許可をもらって、鳥居前に自転車を置かせて頂いた。
境内では、行列に参加するアルバイトの学生さんたちが大勢、装束に身を包んで待機。行列の小道具(写真右)も出ているし、自転車は邪魔になった。
鳥居をくぐって左側に本殿がある。
神事は1時から始まっており、私は少し遅れて着いた。名前を呼んで、順に玉串を上げておられるようだ。吉田神社総代の方も呼ばれていた。聞けば、午前中は吉田神社の神事に須賀神社の氏子ら関係者が出席したとのこと。
「吉田神社とは関わりがあるのよ。聖護院さんもね。」と教えられた。
須賀神社は、1141年創建だが、吉田神楽岡に長期間遷座(1332~1924年)していたため、吉田神社との関係が深いのだろう。写真上は、神事が終了して撒饌が済んだ頃。約30分の神事の間は、撮影を遠慮した。
本殿奥に黒っぽく写っているものが、祭で町内を巡行する神輿。神官・氏子らが退席すると「バイトさん」と声がかかり、神輿を出して、巡行準備を始めた。
準備にはおよそ30分(写真左)。2時前に行列は神社を出発し、春日上通を東へ、錦林小学校まで。学校沿いの吉田東通には、各町の子ども神輿がずらっと並んで待っていた。行列は北へと進み、後ろを、子ども神輿がついてゆく。神楽坂通を折れて、聖護院脇の道を下る。春日上通に突き当たり、西へ。
聖護院前で、お寺の方から祈祷を受け(写真右)、東大路通を越えて京大病院の間の信号まで。そこで休憩してから、南側の町内を廻るのだという。疏水の橋を渡った向こうに聖護院蓮華蔵町があり、そこへも行くのだと聞いた。
剣鉾は、殆ど担いで廻る(写真左)が、何ヶ所かで「鉾差し」が行なわれる。鉾を立てて、腰につけた差袋に載せ、鈴を鳴らすのがそれだ(写真下)。剣鉾は、4基だった。
狭い路地で、電線の間を縫うように鉾差しをする所(写真下・右)もある。京大病院前では、いくつかの剣鉾が一度に鉾差しを行なった。見るからに重い鉾を、バランスを取って持ち、天に突き上げるようにして鈴を鳴らす。悪霊退散。どなたもベテランのようにお見受けしたが、かなり難しそうだ。
鉾のかざりの神額には、それぞれ「天得矛」(写真下)・「 西天王」・三日月の意匠・太陽の意匠が見られた。
鉾を持つ方々の法被には、鉾かざりの意匠に合わせた紋が入っていた。これは葵。神額の下(写真では右側)には、立ち葵紋のようなものが見える。
神社の提灯(写真右)や行列の小道具殆どに、三つ巴と木瓜紋が入っていた。八坂神社の神紋と同じ。
そもそも、全国の須賀神社は、祇園信仰の 神社である。須賀神社をはじめ、八坂神社・八雲神社は「天王社」であり、牛頭天王=スサノオノミコトを祭神とする。ヤマタノオロチを退治したスサノオが、クシナダ姫と結婚して住む土地を探したとき、「この土地に来て、私の心はすがすがしい。(『古事記』河出文庫)」と言って、出雲の須賀に宮殿を建てたのだという。またそこで「八雲立つ」の歌を詠んだことから、「八雲」「須賀」は、スサノオと関連する神社の名前となった。
この神社が、かつて平安神宮の地にあって「西天王社」と呼ばれていたのは、牛頭天王からきた名だろう。平安神宮は「岡崎西天王町」で、近辺には「岡崎天王町」「岡崎東天王町」の地名が残っている。
「角豆(ささげ)祭」の謂れともなった、ササゲ(マメ科の一年草)に似たキササゲ(ノウゼンカズラ科の落葉高木)が、境内に生えている(写真下)。「ささげのつる葉に多くのさや豆がつくように氏子の繁栄を祝う意味であろう」と、鳥居前の京都市の立て札にあった。
祭の最中、人気のなくなった本殿を見ると、まだ新しいことがよくわかる。
「5年ほど前の、祭前日の夜中に、全焼したの。神輿も、燃えてしまって。」「氏子が、頑張って再建したのよ。原因はわからないの。放火か、失火か。 」
ひどい話があるものだ。無事再建なった須賀神社の、氏子の皆さんのご苦労を想像する。
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