≪輪旅 関ヶ原古戦場を巡る! その4≫
藤堂高虎陣跡と京極高知陣跡は関ヶ原中学の構内にあった。
藤堂高虎。近江国浅井郡に生まれた高虎は、最初、浅井長政に仕える。その後、主君を次々に替え、最後は秀吉、家康と8名の戦国武将に仕えた。風見鶏、世渡り上手・・・変わり身の達人であったことは間違いがない。
また、高虎は城造りの名人で、伊賀上野城、宇和島城など、12の城の縄張りにかかわったという。
京極高知。その祖先は近江源氏の佐々木氏であり、のちに六角氏(近江観音寺城城主)京極氏へと分かれる。戦国時代の下克上により、京極氏は浅井長政の家臣となるが、浅井家の没落後は藩主に復帰し、江戸時代から明治維新まで大名家を維持した。近江柏原の清滝寺には歴代の京極氏の墓がある。
次ぎに訪れたのが大谷吉継の墓所。西の首塚、不破の関跡、壬申の乱にまつわる史跡などを回り、中山の集落よりJR東海道線を潜るレンガ造りのトンネルを抜け、その先より遊歩道を上って行く。墓所は小高い丘の上にあった。吉継が関ヶ原に参戦したのは三成との友情出演か。
藤古川のダムを越え、植林帯の林道を進んだところが宇喜多秀家陣跡。天満神社の境内に立派な碑が建っていた。西軍の敗戦後、秀家は伊吹山中を敗走し、今の揖斐川町白樫の農家に42日間かくまわれたという。
小西行長陣跡は開戦地碑の近くにあった。行長も敗戦後は伊吹山中に逃走するが、春日辺りで落武者狩りに合い、捉えられて京都で斬首された。
島津義弘陣跡は薄暗い林の中にあった。今も美濃と薩摩との交流があるという。義弘といえば西軍劣勢の中での敵陣突破。後方に逃げるのは武士としての恥じ、意表を突いて敵中を抜け、上石津から五僧を越えて薩摩に逃げ帰ったという。
最後の訪問地が笹尾山。西軍の実質的な大将(実際の総大将は毛利輝元)であった石田三成の陣跡でもある。その頂上に立てば関ヶ原の地は一望の元であった。西軍の採った布陣は完璧で、素人が見ても有利な体制であったが、合戦時に本気で戦う西軍は、三成、義弘、行長、秀家、吉継ぐらいで、あとは状況を見ながらという傍観者であった。有名な小早川秀秋の寝返りが東軍勝利の切っ掛けになったとはいえ、西軍の多くは本気で豊臣家のために戦おうという思いは無かったように思えてならない。
秀吉の死後、誰が後継者になるかは誰の目にも明らかであったのでは。人望、実力ともに最強であった徳川家康であることは。
藤堂高虎陣跡と京極高知陣跡は関ヶ原中学の構内にあった。
藤堂高虎。近江国浅井郡に生まれた高虎は、最初、浅井長政に仕える。その後、主君を次々に替え、最後は秀吉、家康と8名の戦国武将に仕えた。風見鶏、世渡り上手・・・変わり身の達人であったことは間違いがない。
また、高虎は城造りの名人で、伊賀上野城、宇和島城など、12の城の縄張りにかかわったという。
京極高知。その祖先は近江源氏の佐々木氏であり、のちに六角氏(近江観音寺城城主)京極氏へと分かれる。戦国時代の下克上により、京極氏は浅井長政の家臣となるが、浅井家の没落後は藩主に復帰し、江戸時代から明治維新まで大名家を維持した。近江柏原の清滝寺には歴代の京極氏の墓がある。
次ぎに訪れたのが大谷吉継の墓所。西の首塚、不破の関跡、壬申の乱にまつわる史跡などを回り、中山の集落よりJR東海道線を潜るレンガ造りのトンネルを抜け、その先より遊歩道を上って行く。墓所は小高い丘の上にあった。吉継が関ヶ原に参戦したのは三成との友情出演か。
藤古川のダムを越え、植林帯の林道を進んだところが宇喜多秀家陣跡。天満神社の境内に立派な碑が建っていた。西軍の敗戦後、秀家は伊吹山中を敗走し、今の揖斐川町白樫の農家に42日間かくまわれたという。
小西行長陣跡は開戦地碑の近くにあった。行長も敗戦後は伊吹山中に逃走するが、春日辺りで落武者狩りに合い、捉えられて京都で斬首された。
島津義弘陣跡は薄暗い林の中にあった。今も美濃と薩摩との交流があるという。義弘といえば西軍劣勢の中での敵陣突破。後方に逃げるのは武士としての恥じ、意表を突いて敵中を抜け、上石津から五僧を越えて薩摩に逃げ帰ったという。
最後の訪問地が笹尾山。西軍の実質的な大将(実際の総大将は毛利輝元)であった石田三成の陣跡でもある。その頂上に立てば関ヶ原の地は一望の元であった。西軍の採った布陣は完璧で、素人が見ても有利な体制であったが、合戦時に本気で戦う西軍は、三成、義弘、行長、秀家、吉継ぐらいで、あとは状況を見ながらという傍観者であった。有名な小早川秀秋の寝返りが東軍勝利の切っ掛けになったとはいえ、西軍の多くは本気で豊臣家のために戦おうという思いは無かったように思えてならない。
秀吉の死後、誰が後継者になるかは誰の目にも明らかであったのでは。人望、実力ともに最強であった徳川家康であることは。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます