
《輪旅 山城・大和・河内を行く! その2》
天皇陵巡り、それは地味な旅ではあるが、興味を持って廻れば奥深い世界でもある。西暦2007年は、皇紀でいえば2667年になるとか・・・天皇陵巡りは天皇家124代、2667年を遡る旅でもある。
陵墓自体は、初期の頃の濠を廻らした前方後円墳から、丘の一部を利用した円墳まで規模はそれぞれであるが、現地に立ち、その全容を眺めながら往時を想像してみるのも面白い。
日本最古の官道といわれる竹内(たけのうち)街道は推古天皇の時代には存在したといい、現在の堺市、松原市、羽曳野市、太子町、葛城市へとつないでいた。
このルートはシルクロードの終点でもあり、大陸から船で海を渡り、瀬戸内海を経て境湊へと上陸したという。そこより竹内街道を通って大和の明日香へともたらされた。
竹内街道沿いには堺市の百舌鳥耳原古墳群、藤井寺市から羽曳野市に至る古市古墳群、太子町の古墳群が存在する。この街道沿いが日本の歴史に深く関わっていることは、実際に訪れてみて実感するものである。
第17代履中(りちゅう)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は百舌鳥耳原南陵。全国に国司を置いて官事を記録させたという。濠を廻らした立派な前方後円墳であった。
第16代仁徳(にんとく)天皇:在位は?父は応神天皇で陵墓名は百舌鳥耳原仲陵。その政治はまさしく「仁」と「徳」の聖王であったという。三重の濠を廻らした前方後円墳は世界最大で、一周すると3キロ弱あるという。
第18代反正(はんぜい)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は百舌鳥耳原北陵。
今日のメンバーは、昨夜の宿で世話になったサイクリング仲間のM氏と、クラブつながりのI氏。I氏の案内で長尾街道、竹内街道と走って藤井寺市を目指す。I氏いわく、40年前に走ったときは畑に覆われた丘陵地だったとか。
第14代仲哀(ちゅうあい)天皇:在位は?父は日本武尊で陵墓名は恵我長野西陵。
濠を廻らした前方後円墳であった。
藤井寺といえば葛井寺、西国三十三札所の第5番にあたる。聖武天皇の発願で行基が創建したという。折角なのでお参りをする。
第19代允恭(いんぎょう)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は恵我長野北陵。前方後円墳の濠は干上がって草原になっていた。
これよりは竹内街道となる国道166号を走って太子町を目指した。二上山の山裾を行く街道沿いは河内ぶどうの産地とかで、山の中腹まで栽培されたぶどう畑は見ごたえがあった。
第31代用明(ようめい)天皇:在位は585~587、父は欽明天皇で陵墓名は河内磯長原陵。仏法を信じ、かつ神道を尊んだ信仰心の篤い人物だったという。聖徳太子の父であり、推古天皇の兄でもある。長い坂を上った丘からは南河内の風景が眼下に広がっていた。
叡福寺:上之太子とも呼ばれ(ちなみに中之太子は野中寺)聖徳太子の廟所でもある。国重要文化財の多宝塔は立派であった。
最終、河内源氏の墓所を訪れ、石川に沿った南河内サイクルラインを走って帰途に着いた。
天皇陵巡り・・・それはイマジネーションの世界でしかない。遠くにこんもりとした丘が見えると、それが天皇陵であり、千年、二千年の歴史を経ていると想像するだけで感動がある。
宮内庁により厳重な管理がされており、その墳丘は手付かずの自然林でもある。陵墓を囲む濠はゆったりとたたずみ、昔と変わらずに青い空を映していた。
天皇陵巡り、それは地味な旅ではあるが、興味を持って廻れば奥深い世界でもある。西暦2007年は、皇紀でいえば2667年になるとか・・・天皇陵巡りは天皇家124代、2667年を遡る旅でもある。
陵墓自体は、初期の頃の濠を廻らした前方後円墳から、丘の一部を利用した円墳まで規模はそれぞれであるが、現地に立ち、その全容を眺めながら往時を想像してみるのも面白い。
日本最古の官道といわれる竹内(たけのうち)街道は推古天皇の時代には存在したといい、現在の堺市、松原市、羽曳野市、太子町、葛城市へとつないでいた。
このルートはシルクロードの終点でもあり、大陸から船で海を渡り、瀬戸内海を経て境湊へと上陸したという。そこより竹内街道を通って大和の明日香へともたらされた。
竹内街道沿いには堺市の百舌鳥耳原古墳群、藤井寺市から羽曳野市に至る古市古墳群、太子町の古墳群が存在する。この街道沿いが日本の歴史に深く関わっていることは、実際に訪れてみて実感するものである。
第17代履中(りちゅう)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は百舌鳥耳原南陵。全国に国司を置いて官事を記録させたという。濠を廻らした立派な前方後円墳であった。
第16代仁徳(にんとく)天皇:在位は?父は応神天皇で陵墓名は百舌鳥耳原仲陵。その政治はまさしく「仁」と「徳」の聖王であったという。三重の濠を廻らした前方後円墳は世界最大で、一周すると3キロ弱あるという。
第18代反正(はんぜい)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は百舌鳥耳原北陵。
今日のメンバーは、昨夜の宿で世話になったサイクリング仲間のM氏と、クラブつながりのI氏。I氏の案内で長尾街道、竹内街道と走って藤井寺市を目指す。I氏いわく、40年前に走ったときは畑に覆われた丘陵地だったとか。
第14代仲哀(ちゅうあい)天皇:在位は?父は日本武尊で陵墓名は恵我長野西陵。
濠を廻らした前方後円墳であった。
藤井寺といえば葛井寺、西国三十三札所の第5番にあたる。聖武天皇の発願で行基が創建したという。折角なのでお参りをする。
第19代允恭(いんぎょう)天皇:在位は?父は仁徳天皇で陵墓名は恵我長野北陵。前方後円墳の濠は干上がって草原になっていた。
これよりは竹内街道となる国道166号を走って太子町を目指した。二上山の山裾を行く街道沿いは河内ぶどうの産地とかで、山の中腹まで栽培されたぶどう畑は見ごたえがあった。
第31代用明(ようめい)天皇:在位は585~587、父は欽明天皇で陵墓名は河内磯長原陵。仏法を信じ、かつ神道を尊んだ信仰心の篤い人物だったという。聖徳太子の父であり、推古天皇の兄でもある。長い坂を上った丘からは南河内の風景が眼下に広がっていた。
叡福寺:上之太子とも呼ばれ(ちなみに中之太子は野中寺)聖徳太子の廟所でもある。国重要文化財の多宝塔は立派であった。
最終、河内源氏の墓所を訪れ、石川に沿った南河内サイクルラインを走って帰途に着いた。
天皇陵巡り・・・それはイマジネーションの世界でしかない。遠くにこんもりとした丘が見えると、それが天皇陵であり、千年、二千年の歴史を経ていると想像するだけで感動がある。
宮内庁により厳重な管理がされており、その墳丘は手付かずの自然林でもある。陵墓を囲む濠はゆったりとたたずみ、昔と変わらずに青い空を映していた。
歴史を知って走るのとは全然気持ちが違うんでしょうねぇ~~
今回写真はあまり撮りませんでしたか?
このシリーズは不評のようです。
訪問者数が一気に減りましたので(笑)
まあ、新しいカテゴリー?へチャレンジする時にリスクは付き物で、仕方ないですかね。
大事なのは、なんでもない事に興味を持って訪れてみること・・・意外な発見や感動があるものです。仁徳天皇陵の大きさは半端じゃなかった。エジプトなんか行く必要はありませんよ(笑)
何にでも興味を持つ・・・たとえばどこかの町のウナギ屋さんを全て走破?するとか・・・
歴史もいろんな切り口がありますよ。好きな武将がいれば、徹底的に探ってみるとか・・・たとえば明智光秀・・・生まれは恵那の明智町か御嵩の明智か・・・越前の朝倉氏に仕官して出世の切っ掛けをつかんだとか(先週、鯖江方面へ行ってきました。ガラシャ神社なるものがありました)・・・最後、山崎の合戦で秀吉に敗れ、近江坂本へ逃げ帰る途中、伏見の小栗栖(おぐりす)の藪で落ち武者狩に討たれた。(先々週に行って来ました)
ついでのお話ですが、醍醐寺や東福寺は訪れる価値ありです。
写真・・・天皇陵の写真は全て同じに見えますよ(笑)
これからもご愛読をお願いします。