今日は夏日になるとか。一気に初夏ですか
山のような洗濯物を干してから、miuのお散歩に
途中でチワワを二匹連れている方に遭遇。
二匹とも男の子。チョコタンのおチビちゃんがmiuを見てもう片方の男の子はフレンドリー miuに遊ぼう♪
ビビリのmiuは慌てて抱っこをせがむ
抱っこされたら余裕で、下のワンコに向かってウゥー
社交性ゼロ
今朝母の夢を見た。
目が覚めて『あぁ~もうすぐお母さんの命日だなぁ~』
母は5月2日に、私たちに囲まれて静かに逝ってしまった。
大学病院で緊急手術をした時には『数ヶ月どころかこの数日が山です』と言われた。
それから2ヶ月も頑張ってくれた。
私は自分の親不孝を心の中で詫びながら、毎日見舞った。
ICUから出られて、なんとか喋る事ができるようになった。
その頃私は、親戚の男性の選挙の遊説隊として、数日間どうしても選挙カーに乗らねばならないハメになってしまった。
朝からお昼までは母に付き添い、車を飛ばして新幹線に飛び乗り、夜まで選挙カーに乗ってうぐいすをやった。
ある日母がポツンと『夜の8時になるまでは寝られない。○美が無事に何事もなく選挙カーから降りるようにといつも祈っている。8時になるまで心配で・・・』
自分が死に直面しながら闘っているのに・・・
私は泣くまいと必死で冗談を言ったように思う。
帰りの車の中でたまらずに泣いた。
ずっとずっと泣いた。
熱が出て具合が悪い母が心配で、ベットの横に付き添っていた私に『もう遅いから。気をつけて帰りなさいね』
ドアーを閉めるときにフッと母を見たらじっと私を見ていた。
『明日・・また来るから。元気でいてね』
うんうんとうなずいて、私に小さく手を振った。
意識のある母の最後の姿だった。
翌朝病院から電話があり、慌てて駆けつけた私の目に意識のない母が飛び込んできた。
担当医の『今日・明日です。お母さんはよく持ったと思いますよ』
両手をポケットに突っ込んで、壁に寄りかかりながら平然と言った医者に『ひとの親の病状を言うのに手をポケットに入れながら言うんですか今日明日なんて軽々しく言わないで下さい』
これまで耐えて我慢してきた悔しさが一気に噴出してしまった。
こいつ絶対に許さない
『大学病院という所は、治る可能性がある人の為に最新設備や最先端の医療がある。お母さんは治る見込みがないのだから別の病院に移ったらどうか!?』エレベーターの中で言われた事もあった。
人の生命に対してどうしてこんな冷酷な事が言えるのか。
思い出すと今でも悔しさと怒りで体が震える。
最期の時、妹と母に声を掛けた。
『お母さん、もう頑張らなくていいよ』
『生んでくれてありがとう』
母はその言葉が聞こえたかのように、すっと眠るように逝った。
美貌の母らしく最期まで綺麗な母だった。
私は母に対して優しい娘ではなかった。
年老いた母に対して冷たい娘だったと思う。
母が亡くなってから、自分の体の一部がもぎ取られたように辛くて哀しくて寂しくて毎日のように泣いていた。
スーパーに買い物に行っても、母を思い出し涙がこぼれて立ち尽くす事もあった。
そんな私を支えてくれたのが家族とmiuだった。
昼間一人でいると涙が溢れてしまう事も度々あった。
泣いている私の側でペロペロ手や顔をなめて心配そうにしていたmiu。
話し相手になってくれたmiu。
家族とmiuがいてくれたから、泣きながらも顔を上げて、立ち上がって歩む事ができた。
今年の5月2日は、細野さんの座談会兼飲み会が我が家である。
お母さん!みんな元気でいるからね
私はやっぱりわがままで、みんなに呆れながらも意気揚々と生きているからネ
☆ごめんなさい。ただ今コメント欄ははずさせて頂いています☆
山のような洗濯物を干してから、miuのお散歩に
途中でチワワを二匹連れている方に遭遇。
二匹とも男の子。チョコタンのおチビちゃんがmiuを見てもう片方の男の子はフレンドリー miuに遊ぼう♪
ビビリのmiuは慌てて抱っこをせがむ
抱っこされたら余裕で、下のワンコに向かってウゥー
社交性ゼロ
今朝母の夢を見た。
目が覚めて『あぁ~もうすぐお母さんの命日だなぁ~』
母は5月2日に、私たちに囲まれて静かに逝ってしまった。
大学病院で緊急手術をした時には『数ヶ月どころかこの数日が山です』と言われた。
それから2ヶ月も頑張ってくれた。
私は自分の親不孝を心の中で詫びながら、毎日見舞った。
ICUから出られて、なんとか喋る事ができるようになった。
その頃私は、親戚の男性の選挙の遊説隊として、数日間どうしても選挙カーに乗らねばならないハメになってしまった。
朝からお昼までは母に付き添い、車を飛ばして新幹線に飛び乗り、夜まで選挙カーに乗ってうぐいすをやった。
ある日母がポツンと『夜の8時になるまでは寝られない。○美が無事に何事もなく選挙カーから降りるようにといつも祈っている。8時になるまで心配で・・・』
自分が死に直面しながら闘っているのに・・・
私は泣くまいと必死で冗談を言ったように思う。
帰りの車の中でたまらずに泣いた。
ずっとずっと泣いた。
熱が出て具合が悪い母が心配で、ベットの横に付き添っていた私に『もう遅いから。気をつけて帰りなさいね』
ドアーを閉めるときにフッと母を見たらじっと私を見ていた。
『明日・・また来るから。元気でいてね』
うんうんとうなずいて、私に小さく手を振った。
意識のある母の最後の姿だった。
翌朝病院から電話があり、慌てて駆けつけた私の目に意識のない母が飛び込んできた。
担当医の『今日・明日です。お母さんはよく持ったと思いますよ』
両手をポケットに突っ込んで、壁に寄りかかりながら平然と言った医者に『ひとの親の病状を言うのに手をポケットに入れながら言うんですか今日明日なんて軽々しく言わないで下さい』
これまで耐えて我慢してきた悔しさが一気に噴出してしまった。
こいつ絶対に許さない
『大学病院という所は、治る可能性がある人の為に最新設備や最先端の医療がある。お母さんは治る見込みがないのだから別の病院に移ったらどうか!?』エレベーターの中で言われた事もあった。
人の生命に対してどうしてこんな冷酷な事が言えるのか。
思い出すと今でも悔しさと怒りで体が震える。
最期の時、妹と母に声を掛けた。
『お母さん、もう頑張らなくていいよ』
『生んでくれてありがとう』
母はその言葉が聞こえたかのように、すっと眠るように逝った。
美貌の母らしく最期まで綺麗な母だった。
私は母に対して優しい娘ではなかった。
年老いた母に対して冷たい娘だったと思う。
母が亡くなってから、自分の体の一部がもぎ取られたように辛くて哀しくて寂しくて毎日のように泣いていた。
スーパーに買い物に行っても、母を思い出し涙がこぼれて立ち尽くす事もあった。
そんな私を支えてくれたのが家族とmiuだった。
昼間一人でいると涙が溢れてしまう事も度々あった。
泣いている私の側でペロペロ手や顔をなめて心配そうにしていたmiu。
話し相手になってくれたmiu。
家族とmiuがいてくれたから、泣きながらも顔を上げて、立ち上がって歩む事ができた。
今年の5月2日は、細野さんの座談会兼飲み会が我が家である。
お母さん!みんな元気でいるからね
私はやっぱりわがままで、みんなに呆れながらも意気揚々と生きているからネ
☆ごめんなさい。ただ今コメント欄ははずさせて頂いています☆