戦後の教育の中で、人々の「自我」を育てることが重視されてきました。それはそれで意味のあることだったのかもしれません。しかし、この自我というものが私たち自身を根源になっているのも確かです。
「俺が、私が・・・」どうにもならないことを、何とかしようとするところに苦しみがあるのです。「あれも欲しい、これも欲しい。」と、ものが手に入らないことに苦しむのです。自分の考え方が正しくて、まわりはすべて間違っているという傲慢な心によって、人間関係がぎくしゃくするのです。
物が欲しい、権力を持ちたいみんな必要な欲望ですが、大きくなりすぎると苦しみのもとになるだけです。
人間、生きていくためには自我は必要なものですし、経済が発展していくためには自我が必要だったのかもしれません。しかし、自我が大きくふくらみ過ぎると、苦しみの元になります。
「自我」(ego)は抑えて「自己」(own,self)を見つめるのが禅の目的なのです。
「俺が、私が・・・」どうにもならないことを、何とかしようとするところに苦しみがあるのです。「あれも欲しい、これも欲しい。」と、ものが手に入らないことに苦しむのです。自分の考え方が正しくて、まわりはすべて間違っているという傲慢な心によって、人間関係がぎくしゃくするのです。
物が欲しい、権力を持ちたいみんな必要な欲望ですが、大きくなりすぎると苦しみのもとになるだけです。
人間、生きていくためには自我は必要なものですし、経済が発展していくためには自我が必要だったのかもしれません。しかし、自我が大きくふくらみ過ぎると、苦しみの元になります。
「自我」(ego)は抑えて「自己」(own,self)を見つめるのが禅の目的なのです。