行雲流水

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柴山全慶老師 の『越後獅子禅話』を読む

2011年07月01日 | 禅の心
【長唄・越後獅子・全文】

打つや太鼓の音もすみわたり 角兵衛 角兵衛と招かれて
居ながら見する石橋の 浮世を渡る風雅もの
歌ふも舞ふもはやすのも 一人旅寝の草枕
おらが女房をほめるぢゃないが 飯も炊いたり水仕事
あさよるたびに楽しみを ひとり笑みして
来りける越路がた お國名物は様々あれど 田舎なまりに片言まじり
獅子唄になる言の葉を 雁の便りに 届けてほしや
小千谷縮の何処やらが 見え透く国の習ひにや 縁を結べば
兄やさん 兄ぢゃないもの 夫ぢゃもの
来るか来るかと濱へ出て 見ればの ほいの 濱の松風音や
まさるさ やっとかけの ほいまつかとな
好いた水仙 好かれた柳の ほいの 心石竹 気はや紅葉さ
やっとかけの ほいまつかとな
辛苦甚句もおけさ節
何たら愚痴だえ 牡丹は持たねど 越後の獅子は
己が姿を花と見て 庭に咲いたり咲かせたり
そこのおけさに異なこと言はれ ねまりねまらず待ち明かす
御座れ話しませうぞこん小松の蔭で 松の葉の様にこん細やかに
弾いて唄ふや 獅子の曲
向ひ小山のしちく竹 いたふし揃へてきりを細かに十七が
室の小口に昼寝して 花の盛りを 夢に見て候
見渡せば 見渡せば 西も東も花の顔 何れ賑ふ人の山 人の山
打ち寄する 打ち寄する 女波男波の絶え間なく
逆巻く水の面白や 面白や
晒す細布手にくるくると さらす細布手にくるくると
いざや帰らん 己が住家へ


【柴山全慶老師の法話】
○さて、もしこのデデン!の一声をわれわれ人間の一生に比べたならば、どのようなことに当たるでしょう。「オギャー!」とあげた産声と見るべきではないでしょうか。
○この「オギャー!」の一声こそは、全く文字通りに無念無心、無垢清浄であります。○この一声には、大臣になりたい野心もなければ、お金持ちになりたい欲望もなければ、学者になりたい希望もないと思います。また、ホームレスに(※きたろう言い換え)なったら恥ずかしいという思いもなければ、汚い着物を着ては他人に笑われるとも考えていないでしょう。
「澄み渡り」と原文にありますが、実は澄むの澄まないのという、分別心の汚れさえないほど澄み切っているのが「オギャー!」の一声なのであります。
○これこそ神の一声、天真仏の一声ではないでしょうか。
○天あることを知らず、地あることを知らず、美醜あることを知らず、自他あることを知らざるのこの一声こそ、天地一杯、宇宙一杯に鳴り響いた一声でなければなりません。


【法話を味わう】
越後獅子のデデン・デデンという太鼓の音が、天地いっぱいの音なのです。人生、嫌なことが多く苦しいものかもしれませんが、この世に生まれてきたことは奇跡であり、宇宙に一つしかない命を生きていくことになるのです。
自分自身の尊厳を知ることは、他人の尊厳を知ることであり、生命の尊厳を知ることでもあります。
釈尊がお生まれになった時に、七歩歩いて、天と地を指して「天上天下唯我独尊」とおっしゃったのは、まさに私たちの命は宇宙と同じくらい重いものだと言うことを象徴しているのです。

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