行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

道徳はやはり危険なものだ

2014年03月21日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
歎異抄の結語の一節です。
 まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまふしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、あしきをしりたるにてもあらめど、煩惱具足の凡夫、火宅旡常の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、たゞ念佛のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか。まことに、われもひとも、そらごとをのみまふしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらうなり。
 
  親鸞聖人の仰せには、「善悪の二つについて、自分は何も知らぬ。なぜかといえば、如来のおん心に善しと思われるところまで知りぬいてこそ、善を知ったといえるのだ。如来が悪と思われるところまで徹底して知ったとき、悪を知ったと言えるのである。けれども、わたしたちは煩悩にまみれた凡夫であり、この世界は無常の火宅であって、すべてがうそいつわり、何一つ無い。ただその中で念仏だけが真実である」といわれたのである。
 
 ここで補足しておくと、親鸞聖人は、ものごとの善悪などわからないと言っているのではありません。善いことはよい、悪いことは悪いのです。それが仏教思想の根幹だからです。善悪の判断を時代とともに人間が勝手に決めてしまうのです。戦争では人殺しをすることは殊勝なことでしたが、宗教的には許されることではありません。道徳は人間の勝手な善悪の判断であって、危険なものなのです。そのことを親鸞聖人は言いたかったのです。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする