行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

「捨」ということ

2014年07月08日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
 木村政覚師が鶯を捕まえようと寺の裏山に入っていった弟子を諫めて話したことばです。

 おまえたちは、鶯の鳴き声にひかれ、愛するあまりに、捕らえてわが所有にしたいために追い回したのであるが、それは大変な誤りである。鶯を愛するがゆえに、捕らえて籠に入れる。それは鶯にとって迷惑千万である。ちっとも愛することになっていない。もし本当に愛するならば、築山の植え込みの中で鳴いているのを、こちらの方からじっと見守ってやりなさい。愛というのは仏教では貪愛と言って、煩悩の一つに数えられている。「愛は奪う」と言って、愛すると自分の所有にしたくなる。所有せられて果たして愛されることになるのか。所有せられる方にしてみれば決して幸いではあるまい。むしろ迷惑である。所有せずに愛する。それが本当の愛である。仏教では所有しないで、相手を自由な立場に置いたまま愛するのを捨という。それは慈悲の極致である。無所得の愛、それが捨の精神である。

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