行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

友松圓諦師が中道を語る

2014年07月15日 | 禅の心
釈尊が説かれた教えの根本は中道。中道とは正しい道。それだけではない。実際の人間生活に役立つ正しい道、現実に即した、空理空論ではない正道、それが中道。ところが、釈尊が亡くなって百年も経つと、仏教は思弁化した。坊さん達が暇になったんだね。これで釈尊の努力がふいになった。釈尊は形而上的、思弁的、観念的で抽象的になったウパニシャッド(古代インドの宗教)哲学を、形而下的、実践的、現実的にするべくつとめられたのにね。またひっくり返してしまった。それを見事に、再び現実化した人は誰か。知る人ぞ知るだね。法然上人です。
膝をつねって無理に目を覚まして念仏をしろというのではない。眠かったら寝なさい。目覚めたら念仏せよ。すばらしいね。ここに無碍(こだわりのなさ)がある。自然法爾です。中道とは、これをいう。

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生まれ出る苦しみ

2014年07月15日 | 禅の心
僧医として活躍されている対本宗訓師の言葉です。
 私たちは忘れておりますが、赤ちゃんはあの狭い産道を通ってこの世に誕生いたします。アメリカの学者さんがこの研究をやっていて、胎児が、産道を潜って出てくるというのは本人にとって非常に辛い、苦しい体験なのだそうです。法律的な命の始まりは出産の直後からなのですが、実は赤ちゃんはおなかの中でいろいろなことがちゃんと分かっていて、出産のときの苦しい、辛い体験は後々の人格形成に非常に大きな影響を与えるものだというのです。
 このアメリカの学者さんの研究は、私たちの仏教でいう生まれ出る苦しみと正に響きあっていると思うのです。ですから、帝王切開で生まれる子もこれは別の意味で生まれる苦しみはあるわけで、普通に分娩される子とこのことについては勿論同じなのです。赤ちゃんと一身同体にあるお母さんは非常に大変で、しかし、この苦しみには耐えられるのです。なぜかというと、苦しみの理由が分かっているからなのです。辛い、苦しい思いも、赤ちゃんを生む為の、新しい命を世に生み出す為の苦しみだと分かっているし、そしてその苦しみは、大きな喜びに変わると分かっているからこそ耐えられるのです。
 それが、病気一般ではどうでしょうか?
 どこまで行けばこの病気は良くなるのか、どこまで行けばこの辛い思いから開放されるのか、どうしてこの病気を今自分が患うのか分からない。それが更に苦しみを増幅させてしまう。
 ですから、私たちの生老病死は、私たち自身に実にいろいろなことを教えてくれます。生まれ出た赤ちゃん一個の「いのち」がだんだん成長していって、生老病死しますから病気にもなる。怪我をすることもありましょう。身体だけではないから、心の中にもいろんな葛藤を抱えたり、或いは傷を受けてトラウマになったりといろんなことがあるでしょう。そして次第に年老いて最後は死を迎える。どんな人間でも生老病死、必ず生まれ出る苦しみから始まって、最後は死の苦しみに向き合わなければいけないのです。お釈迦さまはこれを「苦」といわれたのです。

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