放逸(おこたり)を脚(しりぞ)けし賢き人(ひと)は
智慧の高閣(たかや)にのぼり
こころにうれいなくして
憂(うれい)ある愚衆(ひと)をみおろすなり
山頂に立つひとの
地に在(あ)るものをみるごとく(法句経第28番)
怠け心を退けることのできる賢者は
智慧の高閣(たかどの)に登り、
自らは心に憂い無くして
憂いある人々を見下(みおろ)す。
山の頂に立っている人が
地上の人々を見下(みおろ)すように。
私は、この一節には違和感をおぼえます。「他人を見下ろす」ということについてです。禅では自分が悟りを開いて、他人を見下すことを魔禅といって戒めています。私は、この一節を、心に憂いがなくなって高慢になるのではなく、憂いをもった人々を自分と同じように憂いのないように救ってあげたいと受け取っています。
智慧の高閣(たかや)にのぼり
こころにうれいなくして
憂(うれい)ある愚衆(ひと)をみおろすなり
山頂に立つひとの
地に在(あ)るものをみるごとく(法句経第28番)
怠け心を退けることのできる賢者は
智慧の高閣(たかどの)に登り、
自らは心に憂い無くして
憂いある人々を見下(みおろ)す。
山の頂に立っている人が
地上の人々を見下(みおろ)すように。
私は、この一節には違和感をおぼえます。「他人を見下ろす」ということについてです。禅では自分が悟りを開いて、他人を見下すことを魔禅といって戒めています。私は、この一節を、心に憂いがなくなって高慢になるのではなく、憂いをもった人々を自分と同じように憂いのないように救ってあげたいと受け取っています。