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行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

上から目線で見ていないか

2020年07月07日 | 仏の心
『宣言』には勦る(いたわる)という言葉が使われています。人々の同情やあわれみが差別にたち向かっていく力をそぎおとしたというように、勦ることはいい意味で使っていません。(明治の融和運動が背景にありますが長くなるのでやめておきます)
同情や憐れみは時として残酷で人を傷つけてしまうことがあります。
お金持ちに「人生お金じゃないよ」と言われれば「アンタなんかに貧しさの辛さがわかるもんかい」と思うでしょうし、大学出の人に「人生勉強じゃないよ」と言われても説得力がありません。
私はできるだけ「かわいそう」という言葉は使わないようにしています。自分が交通事故で死にそうになったとき、不安な時に、この気持ちは元気な人にはわからないだろうなと思ったからです。
リンクをはることができませんでしたので、少し長いですが、次にはりました。

優秀賞
「障がい者差別について」
八尾市立高美中学校3年 丸山 奈美
私は障がい者です。今までいろいろな言葉を言われてきました。その中でも
特に気になった言葉は、「かわいそう」です。一体、何がそんなに「かわいそう」
なのでしょうか。確かに不便だと思ったことはありますが、不幸だとか、悲し
いとかは思ったことは全くありません。しかし、健常者はやたらと私たち障が
い者を「かわいそう」と言うのです。私はこれが差別だと感じています。指が
ちゃんと五本なければ、「かわいそう」なのでしょうか。足がなければ、「かわ
いそう」なのでしょうか。健常者にしてみれば、きっとそうなのかもしれませ
んが、私たちにとって障がいは「かわいそう」でも何でもないのです。「かわい
そう」の意味をはき違えていると思います。私は、この体に誇りを持ち、精一
杯生きています。健常者には、障がい者の気持ちはどんなに努力しても理解で
きません。同じ障がいを持つ以外は。
ある病気で失明してしまった人がいます。私はその人から直接、話を聞いた
訳ではありませんが、その人は、今まで見えていたものが一瞬で消えてしまっ
たと言ったそうです。そして、こうも言いました。
「私は最初から何も見えなかった人より、ずっと幸せだ。」
私は言葉の意味が分かりませんでした。今まで見えていたものが何も見えな
くなったのに、もう一度その景色を見たいと思わないのか、それなら、最初か
らなにも見えなかった人のほうが幸せなのではないか。たくさんの疑問が浮か
びました。そして、そのあと、こう言ったのです。
「私は色を知っている。赤と言われれば赤と分かる。そして形も知っている。
三角形と言われれば三角形と分かる。最初から見えない人は、色も、形も知ら
ない。でも私は知っている。それは幸せなことだ。」
この言葉を聞いた時、私は痛感しました。同じ障がい者でもわからないこと
があるということを。もし、本人からその言葉を直接聞いていたら、どんな気
持ちになったのでしょうか。友人から聞いても衝撃的だったのに、本人から聞
いていたら泣いてしまったかもしれません。「障がい者の気持ちがわかる」とい
う人もいますが、私たちにとって言葉は何の意味もないのです。
私には、言われて嫌な言葉があります。テレビを見ていたり、学校で紹介さ
れた作文などを見ていると、「理解してあげる」「受けいれてあげなければなら
ない」という言葉が何度も出てきます。私はこの言葉にひどく苛立ちました。「か
わいそう」と思われるのは仕方ないことなのかもしれません。実際、周囲の健
常者にはそう見えてしまうのですから。しかし、「理解してあげる」は、あまり
にも上から目線ではないでしょうか。健常者は、いとも簡単に私たちに、「理解してあげる」と言いますが、理解するなど、不可能に近いのです。それなのに
どうしてそんなに上から目線なのでしょう。健常者だから、障がい者よりも偉
いのでしょうか。「理解し合う」のほうが適切だと思います。私たちにとって、
「理解してあげる」や、「受けいれてあげる」は、最上級の差別です。
しかし、健常者からすると、今まで私の挙げてきた差別は、きっと私たちへ
の励ましやいたわり、つまり健常者なりの優しさなのだと思います。しかし私
たちにとっては差別のような言葉に聞こえてしまうのです。
障がい者への差別とはどのようなものか、これはとても難しい問題だと思い
ます。腕がない人を馬鹿にしたり、ひどい言葉を投げつけたりすることは差別
と判別しやすいですが、私の挙げた「かわいそう」などは判別しづらいと思い
ます。しかしよく考えればわかることもあります。「理解してあげる」はそのひ
とつの例でしょう。この言い方は失礼かもしれない、これは少し上から目線か
も、というように、一人ひとりが少し考え、小さな意識をすれば、差別は少し
ずつなくなるのです。障がい者差別は一人ひとりの小さな心遣いで、消えていくものだと私は信じています。

お金持ちと貧しい方、障がいのある方と健常者というように、分断、対立する考え方は仏教的ではありません。教科書の無償化運動やこのたびの新型コロナウイルスに係わる10万円の給付金は困っている人が「かわいそう」だからという発想ではなく、みんなが救われる(度われる)という観音様、阿弥陀様的な発想だと思います。ユニバーサルデザインという考えかたもそうだと思います。般若心経の「ぎゃーてー ぎゃーてー」の部分の思想だと思っています。

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