球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

脱燃え尽き

2009-08-15 | たぶん難解な話
一時期、根を詰めて何かに取り組んでそれが一段落したときに、
必ずと言っていいほどいわゆる"燃え尽き症候群"みたいな状況に陥る。
※どうも正しい意味では"仕事中に力尽きる"ことらしいけど、
 今はそれが終わった後の状態を指す。
そしてその後に必ず考える"俺は何のために生きてるんだっけ?"
自分が打ち込む対象が消えてしまったことを、僕はそのように表現してきた。



"そしてその後に必ず考える"
という表現が出来るようになったのは個人的には結構大きい進歩で、
その経験が一度や二度でないからこそこう書ける。
具体的には、ものすごく大変な思いをしている間中は
"○○の件は、今の件が落ち着いたらじっくりやろう"ということを思うわけだけど、
実際に落ち着いてしまうと全くその辺のことをする気力が湧かず、結局忙しいときと
自分のOutputの質が殆ど変わらなくなるという現象だ。

受験生のときも、高校3年生のときの定演が終わって以来そんな状況になったっけ…
そんでもって一人で自分の生きる意味って奴をずっと考えて、結果浪人までした。
浪人してからはずっと本を読んでいた。



結論から言えば、行動することの中にしか答えはない(見付からない)。
前の生活スタイルであったものが消えたのだから、
今あるものの中で何かを見つけていくしかない。

机に向かって、今ある材料を整理するために文字で長文を認めてみても仕方がない。
(経験的に言えば、少なくとも15,000字分考えたくらいではダメだった。
 つまりやり方を変えろということなのだろう。)

かといって誰かに相談することも選択肢としてはあまり良くない。
理由は、自分がそうだったから。
相談相手の反応がどういったものになるかは言ってみないとわからないが、
大半のケースではまともな回答が得られそうにないし、
仮になにかの回答をもらってしまってもそのアドバイスは
2日と持たずに自分の手綱を離れて天馬よろしく飛び去ってしまう。
結局、この質問相手には借り物の人生なんて役に立たないのだ。
自分が動いて、自分が見つけた答えしか結局役に立ってくれない。

"愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ"と宰相ビスマルクは語ったが、
自分が愚者であるという設定になることを恐れて経験主義者を
必要以上に軽んじるのは愚かなことと僕は考えている。
もっともこの諺?も、言葉だけが一人歩きしている印象があって
今ひとつ影響を受ける気が起きないというのはあるのだけど。
大体"歴史に学ぶ"という表現は解釈の余地がありすぎる。



ということで、まずは動いて様子をみてみるしかない。
今の世の中には、自分の生きる意味なんて判らずに
今あることに追われながら生きている人もたくさんいる。
それが幸せか判らないが、何かに追われていようがいまいが
自分のやれることなんてそう大きくは変わらない。

さあ、歩こう。
コメント
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