曾良庵句帳について
どこから記載すれば この曾良庵句帳が解りやすいのか
曽祖父の人生の一旦が見える句集でもあり まずは 何故「曾良庵」を名のったのかを記載しておきたい
曾良庵句帳の中の題字は 中村不折氏
珍しくい不折氏の絵も収められている
記
諏訪は芭蕉翁と奥の細道を旅した河合曾良の生まれた土地で、その為か昔から俳句が盛んであった。
系列も一つではないらしいが、江戸中期に【藤原文輔】という人がいた。
上諏訪の人で和泉屋喜右エ門といい、盛んに俳道の復古を説き、曾良の後継をもって自ら任じ、
蕉門四世曾良庵と名乗って天明の頃『穂屋野の春』という機関紙を発行した。
その弟子の中に【顕湖亭文嘯(ぶんしょう)】という人がおり、この人が曾良庵を継ぎ、
次に【茶山】という人を経て、【雪人】が受け継ぎさらに曽祖父【一太郎】にさづけられたらしい。
名跡を継いだ時に文台(文机)が渡っている筈だというのだが、現在存在はしていない。
現実にあるべきならば、仕事場でもあった東京にあったのかもしれない。
しかし、雪人師のお墨付きともいうべき一文が「曾良庵句集」の跋文に残っている。
〇〇唯一(ゆいつ)叟(そう)は鵞湖俳壇の耆宿(きしゃく)也。
小にして才を負て敏甚、其残(きざん)に滑稽を学びて、夙(つと)に其の名を馳(は)す。
芸を百家に遊ぶ。ひとり蕪村が正声を賞して神と共に遊ぶが如し。
余東都に在るの日叟亦上京して、塵事に奔走す。
然も尚箇事を忘れず実によく見性の域に入れり。余為に曾良庵の号を贈りて之を祝す
。此号は曾良翁の俳系文輔・文嘯・茶山を経て余の家に伝えしものなり。
今年叟余が湖畔の寓を訪れて、年来の吟詠を採輯せしを録して以て示される。
蓋しその還暦を記念せんとするなり。
閲して嘆じていわく是集や、叟が各時代の風調を網羅して綽として特見あり。
所謂自家の醜を自家の発するものなり。以て自伝に代ふべく以て児孫に胎(のこ)すべしと、
叟亦うなづく。仍(よっ)て顛末を記して序となす。
昭和辛未年七月 諏訪 雪人 誌
上記の内容は 前文としてついている
また これに付け加えるのは 曽祖父の仕事が政界にあったことであり
俳句にも政界の動きなどが載っている
それでは 句帳を読んでいきたい
いつもとは違う感じの物語
急に 硬い歴史ものになっちゃいそうです