ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【クジラの妻】難波先生より

2018-01-15 15:12:14 | 難波紘二先生
【クジラの妻】1/13「毎日」の「季語刻々」という俳句欄に 
<汐(しお)曇り鯨の妻のなく夜かな>(大島蓼太)
という句が載っていた。https://mainichi.jp/articles/20180113/ddm/041/070/095000c
 読んですぐ、これは全盲の国学者・塙保己一の妻が中秋の月見の宴で詠んだとされる、
<明月や座頭の妻の泣く夜かな> http://rinnou.net/cont_04/zengo/110901.html
のパクリだなと思った。(正確な出典は不明)この句はひろく人口に膾炙している。
 座頭からザトウクジラを連想して、「鯨の妻」に換え、冬の季語として「汐曇り」を持ってきたにすぎないのでは?「名月」なら季語は秋になる。
 満ち潮で海上に霧が発生する「汐曇り」になると、なぜ「鯨の妻」が泣かなければならないのか?夜だから晴れていても、見えないのが当たり前ではないか。現代では、ザトウクジラの雄は「求愛の歌」を歌うことが知られているが、鯨が「いさな」と呼ばれていた時代にそういう知識があったとは思えない。意味不明の句だ。
 ただ年代を見ると、
★大島蓼太(りょうた)、〔享保3(1718) 〜 天明7(1787)〕は江戸時代の俳人で、蕪村らと共に俳諧中興の五傑の一人、とされている。これに対して、
★ 塙保己一(はなわ ほきいち)〔延享3(1746)〜 文政4(1821)〕は、
大島より28年遅く生まれ、約34年遅く亡くなっている。
 そうなると元句は大島蓼太の<汐(しお)曇り鯨の妻のなく夜かな>である可能性も出て来る。元句を知った保己一の妻か門下生が、
<明月や座頭の妻の泣く夜かな>
と改作した可能性も出て来る。「鯨の妻」という用語は異様であり、当時鯨は「いさな(勇魚)」と呼ばれ大きな魚だと考えられていたことを考えると、語法としてもおかしい。
 ただ「蕪村句集」(角川文庫)には鯨を詠んだ句が4句あるが、
 <十六夜(いざよい)や鯨来そめし熊野浦>(安永6=1777年)
のように風景描写が主体であり、蓼太のように鯨を擬人化した句はない。
 芭蕉(1644〜94)には、
<水無月や鯛はあれども塩鯨>(元禄5=1692)
という鯨の句が一句だけある。(山本健吉 「芭蕉全発」, 講談社学術文庫)
 (これは鯨の皮膚と皮下脂肪に少し筋肉を付けて薄切りし、塩漬けしたものを刺身としてか、煮て食うのだそうだ。出典WIKI)
 WIKI「ザトウクジラ」によると和名は「背中に琵琶を負った盲目の琵琶法師に似ていることにちなむ」とあるから、江戸期に「ザトウクジラ」はすでにあったと考えられる。「鯨→ザトウクジラ→座頭」という連想で
「座頭の妻のなく夜かな」という下句ができ、これに合わせて「明月や」という発句が作られた可能性もあるな、と考えなおした。

 どちらが元句かは私には決められない。コラムの執筆者「坪内稔典(つぼうち としのり、俳号ではねんてん)」という人は、WIKI「坪内稔典」によると
<たんぽぽの ぽぽのあたりが火事ですよ>が代表句だそうだ。
これも私にはさっぱり理解できない。
 但し「鯨の妻」という奇抜な表現は狂歌に似ており、もとは保己一の学塾で生まれた句を、大島蓼太が捻って奇抜な句にした可能性も残るだろう。
 要は坪内稔典氏の好みによって「季語刻々」は書かれているようだ。読んで損した。

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