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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【六ヶ所村】難波先生より

2013-09-04 12:53:45 | 難波紘二先生
【六ヶ所村】というのは明治23年に、青森県下北半島の根っこのあたりにある、6つの村が合併して誕生したときの名称だそうだ。
 本田靖春「村が消えた」(講談社文庫、キンドル版)
 を読んで驚いた。今、核燃料再処理施設と石油備蓄タンクがある「六ヶ所村」は実際には「六ヶ所村上弥栄(いやさか)地区」といい、戦後昭和22年に荒蕪地に、開拓農民が入植し、開墾により農業・牧畜を営んだところだが、国と青森県の「住民対策大綱」という政策により、崩壊・離村に追い込まれた地域だというのだ。
 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=61413205

 確かに、「上弥栄」、「弥栄平」は巨大な石油タンクと核燃料再処理施設が占めているのが、国土地理院の地図からも明らかだ。


 角田房子「墓標なき八万の死者:満蒙開拓団の壊滅」(中公文庫, 1976)を読んで、戦前の満蒙移民について、いっぱしの理解を持っていたつもりだったが、本田の本を読んで恥じた。


 角田本により、満州の牡丹江から佳木斯(チャムス)へ至る鉄道駅に「弥栄」という駅があるのは知っていたが、まさかこれが東北各県からの第一次入植者の「屯田兵村」とは知らなかった。「弥栄(いやさか)」というのは、天皇の健康と発展を祈る、軍国時代の合い言葉というかかけ声である。かれらが敗戦後下北半島の荒蕪地に再入植した際に、たまたま下手に「弥栄平(やさかだいら)」という字名があり、それで「上弥栄」と名づけたのだという。原野か山林だったから、新たな字名が必要だったのだ。ここに国から、1戸5ヘクタールの払い下げを受け、当初33戸、最終的に79戸が入植した。


 いわゆる戦後の「開拓村」である。この開拓村は主に満蒙で農業に携わっていた移民対策として実行された。なかには土地所有のまま、不在地主として移民し、戦後の「農地解放」により、日本国内の農地を国に没収された旧地主もあったという。
 「上弥栄」集落が、オイルショック後の国策として「石油備蓄地区」として目を付けられ、さらに「原発燃料の再処理基地」に目され、農民が地上げにあって、次々に土地を手放し、離村して行くプロセスを本田は克明に描いている。


 何しろ、ただ同然に払い下げられた土地が、10アール(反)当たり6万円、5ヘクタールが300万円で売れた。宅地だと坪1万円、1アールは300坪だから自宅周辺の農地を「宅地」にすれば、10アールが3000万円になった。札束で頬をなでられるのだから、たいていの入植農民はなびいた。何しろトラクター1台が300万円もした時代だ。10年年賦でも農民には払えない。


 こうして、当初は全員一致で「土地開発反対」を唱えていた民も、1人去り、2人去りして、1973年4月には集落から住民が消えた。村が消滅したのだ。本田の冷静な追跡レポートによれば、村から出て行った旧開拓民たちの多くは、都市に出てアパートのオーナとか、食堂のオーナーになって農業から離れてしまった。この時、消滅したのは「上弥栄」だけで、六ヶ所村の他集落は今も残っている。石油備蓄基地と原発関連産業に未来を託した「賛成派」である。彼らこそ、福島原発事故後の、つけを払わされる住民なのである。


 第一次満蒙移民が行われたのは昭和7(1932)年で、満州国が成立した直後であり、関東軍が立案したことは間違いない。第一次移民は全員が軍隊経験がある在郷軍人で武器弾薬は関東軍から支給された武装移民だった。戦後の他の著作は、「満蒙移民の悲劇」のみを強調していて、彼らが侵略の一翼をなしていて、現地では安い満州人や朝鮮人を雇用して、地主として暮らしていたことを報じていない。


 因果は巡り巡って、今の六ヶ所村の住民とわれわれ国民全体に巡ってきているように思う。「トイレなきマンション」といわれた原発の核燃料再処理問題が、まさか満蒙移民問題と結びついていたとは思わなかった…
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