ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【両弁の便法】難波先生より

2012-11-08 23:52:02 | 難波紘二先生
【両弁の便法】「遣欧米使節団」が出発した1871(明治4)年に、琉球・宮古島の島民66人が台湾南部に漂着し、うち66名が原住民の「牡丹社」住民に殺害されるという事件が起こった。


 外務卿副島種臣が、1873(明治6)年に北京を訪れ、この問題について談判したところ、清国政府は「台湾原住民は化外の民で、清国の統治が及ばぬから責任はない」と回答した。そこで「それならば自力で懲罰を与えるしかない」と1874(明治7)年の「台湾出兵」になった。
 (もっとも、これには沖縄の一部である宮古島を「日本領」と認めさせ、これまで薩摩藩と中国に両属してきた琉球を、日本領として清に認めさせる、というねらいもあった。清が宮古島の島民を「日本国民」と認めたことは、沖縄を「日本領」と認めたことになるのである。)


 同年5月、西郷隆盛の弟、陸軍中将西郷従道を最高司令官とする陸軍3,000の兵は、長崎を出向し台湾南部に上陸した。その前に日本側は柳原前光公使を通じて清朝政府と談判し「台湾は清国の管轄か」と訊ねせているが、明白な回答がなかった。
 しかし台湾派遣軍が約3ヶ月で台湾を制圧すると、「なぜ兵を出して、勝手に国民を殺傷をするのか?」と抗議をしてきた。
 このように中国はノラクラ主義で、交渉にらちがあかず、同年9月、内務卿大久保利通が特命全権大使になり、北京に清国政府との談判に行った。(この時大久保は、事と次第によっては、全権大使の一存で和戦を決しても構わない、という委任を取り付けていた。)


 最初、大久保は正論で切り込み、「貴国はどういう根拠で台湾がそちらの領土であると主張するのか」と訊ねたが、「人民が税を納めているから。歴史的に根拠があるから」とノラリクラリとするばかりで、結局、水掛け論に陥った。
 
 そこで大久保は、「恫喝」という賭に出た。「本職は日清両国の平和のために来たのであるが、双方の主張がこのままでは、とうてい合意は期しがたい。このままでは、使命をなげうって本国に帰国するよりほかはない。
 ただここに一筋の活路がある。それは両弁の便法である」、と最後通牒を突きつけた。
 当時の日本に清国と戦うだけの国力はなかったが、国内に50万人の失業武士をかかえていた。大久保には戦うだけの気魄はあった。


 「両弁の便法」とはなにか?
 それは「台湾の帰属問題は棚上げして、現実に日本が出兵して、台湾南部を占領しているという事実がある。それをどう解決するか、話し合いをしましょう」、という提案である。
 賠償金を請求されることはわかっているから、あえて清国側からは提案を出さない。そこで大久保から切り出した。
 「第一に、当国が琉球人殺害の罪を問うために、台湾に兵を出したのには、ずいぶん金もかかっておる。これについて何とかしてもらえないか。
 第二に、もともと当国は義のために出兵したのであり、いまこういう状態になった以上は、ただで撤兵するというわけにゆかない。これに対しても、貴国の方でなんとかしてもらえないか。」


 「日本が撤兵するのは当たり前である。もともと台湾は…」と、清国側はまた元の主張を持ち出す。
 大久保は、「いや、両方の便法とは、根本の問題は一切論じないことです。今になって根本問題に戻るのはやめましょう」といって、この議論を封じた。
 すると清国側は、「では被害にあった琉球人の遺族へ皇帝から補償金を出しましょう。それで辛抱して兵を引いてほしい」と提案してきた。
 大久保は、「ではいくら出してくれるか。また今のことを念書にしてもらいたい」という。
 清国は、「額は皇帝が決めることだから、幾ら出すと言えない。まだ奏上していないから、念書は書けない」という。


 ノラリクラリとして誠意がまったくない清国の態度に、大久保が愛想を尽かした。「談判破裂で帰国する」という最後通牒の書面を送った。戦争するよりほかないというサインを送ったのである。そこであわてた清国政府が、英国公使に仲裁を依頼した。


 訪ねてきたウェード公使に大久保は3条件を提示した。
 第一に、日本の台湾出兵を「義挙」と認めること、
 第二に、今回の「漂着民遭難」のような紛争の根を断つため「化外の民」というような議論は今回限り撤回すること、
 第三に、琉球人犠牲者に補償金を支払うこと、軍用費を弁済すること、征台軍が建設した道路、堡塁は後で支那人が使うのだから、その費用を支払うこと、
 これを骨子として「北京条約」が成立した。


 その骨子は以下の通りである。
 1.日本国のこの度の行為は、「保民義挙」のために起こされたものであり、中国はこれを「不是」となさず。
 2. 被害にあった難民の家には憮恤金(ぶじゅつきん)十万両を出し、日本が開拓建造した道路建造物に対して費用四十万両を支払う。
 3.今回の遭難事件に関する外交交渉は、これを限りに終結し、以後、台湾生蕃人の取り締まりは中国政府が責任を負う。
 (実際には台湾征討の戦費は、四十万両の倍以上かかっている。撤兵の面子を立てるため、この額で収めたのである。)


 これで明治7年9月10日に始まり、何度も決裂しそうになった日清交渉は10月31日、急転直下に妥結した。
 大久保の、正面から理路整然と条理をつくして相手の急所をつく主張と、正攻法でだめなら現実論で落とし前をつけさせようとする柔軟なからめ手戦法と、「和戦の意を決するは、この会議にあり、一にかかってこの全権大久保にある」という気魄が、清国政府首脳を圧倒したのである。


 大久保による「北京条約」締結の結果、1)宮古島は、従って宮古島が付属する沖縄諸島は、日本国の領土であることを清国は承認した。2)台湾は中国領であり、その住民の統治に中国政府は責任を負うことを認めた。3)台湾とその周辺の領土、領民問題は、これで決着し、以後二度と蒸し返さないこと、以上の三点を中国政府は約束したのである。


 条約成立後、外務省関係者は帰国したが、一人大久保は随員4,5名を連れ、台湾に直行し征台軍都督西郷中将と会談し、迅速な撤兵について打ち合わせを行った。
 台湾派遣軍の戦死者は少なかったが、マラリア流行地のため多くの戦病死者が出た。その遺体は、本国への運送が間に合わず、路傍のあちこちに仮埋葬がしてあった。勲位姓名を記した木製の墓標が建ててあったが、中には倒れたり傾いたものもあった。
 道を進む大久保は、これらを見ると必ず草むらに入り、一つ一つ立て直し、一礼をして立ち去った。随員はこれを見て思わず涙を流したと、随行した金井之恭は伝えている。


 これらのエピソードは、外交の要諦や政治家大久保利通の人柄、能力、責任感などについて、あまり知られていないことを伝えているようだ。
 「両弁の便法」は周恩来の手法とも似ており、「尖閣諸島」問題の解決にも、役立ちそうな貴重な外交経験である。


 また、明治9年には、すでに「官尊民卑」の官僚主義が内務省に生まれつつあったことを、順天堂での病理解剖問題は示しているように思われる。
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