ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ドクロ】難波先生より

2012-11-08 23:50:39 | 難波紘二先生
【ドクロ】大久保の死後、32年経った1910(明治43)年に、「報知新聞」記者が生前の大久保を知る人たちにインタビューし、その記憶を自由に語ってもらった。記事は新聞に連載された後に、1912年に松原致遠編「大久保利通」という本になって出たが、のち非常な稀覯本となった。
 復刻本が出るなどいろいろあって、学術文庫版は新聞連載記事と照合し、なるたけそれに近いかたちに順序を配列して刊行したものである。
 だから、「一次資料」である。貴重なものだ。


 中には、日本医学史の史料としても初耳というエピソードもある。医学史家といえどもこんな本までは読まないからだ。
 千葉佐倉に創立された医学校順天堂の二代目佐藤尚中の養子佐藤進は、1869(明治2)年、維新後初の留学生(旅券番号1番)となり、ベルリンに留学した。
1871(明治4)年11月、横浜から「遣欧米使節団」が出発した。一行は明治政府の大立て者、右大臣岩倉具視を全権に、参議木戸孝允と大蔵卿大久保利通を副使とし、40人ほどの使節団に60人ほどの留学生が従っていた。


 米国、英国、仏国をまわって使節団がベルリンを訪れたのは、1873(明治6)年3月である。
 使節団が泊まっているホテルから、「大久保卿が用がある」という連絡が来た。
急いでホテルに行き、奥まった一室を訪問すると、大久保がいて「父上から託されたものがある」と風呂敷に包んだ桐箱を取り出した。
重さといい、紐で頑丈に縛ってあることといい、中味は銀か陶磁の花瓶のようだ。大久保卿も、中味が無事かどうか知りたそうなので、許しをえて箱を開けてみた。


 すると中から、ドクロが1個出てきた。実は前に、ベルリン大学の解剖学ライヘルト教授から、「解剖学教室や博物館に、各人種の頭蓋骨を研究のために集めている。他の人種のものはおおかたそろったが、日本人のものだけない。医学研究の進歩のために、なんとか協力してもらえないか」と頼まれたことがある。「佐倉順天堂にあるたった1個の頭蓋骨さえ、塾生がいのちがけで、夜中に墓を掘って入手したのに、とうてい無理だろう」と思いつつも、義父尚中に入手方を依頼する手紙を送っておいたのだった。


 よい機会とばかり、ドクロを手にして、大久保卿に解剖学の重要性を説明した。
 大久保は体調不良を訴えており、日本では父尚中の診察を受けていたので、ベルリンでの健康診断を奨めた。その斡旋をし、翌日、宮廷差し回しの馬車に同乗し、ベルリン大学内科の名医フレーリヒス教授の自宅に行った。家は公園の中にあり、建物も堂々としたものだったので、無口な大久保が驚いて、「医者もこれくらい立派な門戸を張るぐらいの大家にならなくてはいかんぞ」と珍しく声を発した。


 佐藤進はベルリン大学から日本初の「医学博士号」を授与され、1876(明治8)年に帰朝した。翌、明治9年、本所に開業している知人の山本某医師ががたずねてきた。講談の名人二代目松林伯円(しょうりんはくえん)の息子を治療しているが、重態で助かりそうにない。ついては父親の伯円は「倅はどうせ死ぬ。せめてものことに、屍体を解剖のために献じて、医学研究に用立ててほしい」といっている。なんとか順天堂病院で解剖してもらえるように、手配してもらえないか、というのである。


 伯円の心義(こころぎ)に感じて承諾し、さっそく東京府に解剖願いを出したが、何日経っても、役所からウンともスンとも返事がない。当時の府知事は楠本正隆、内務省の衛生局長は長与専斎だった。密かに調べると内務省では、「屍体解剖の必要があればすべて官立の病院で行うべきである。順天堂は私立病院にすぎない。こういう重大なことを私立病院に許すという前例をつくると、どのような禍根を残すことになるやもしれない…」という議論がおこなわれている、とわかった。


 そこで翌日、出勤前に大久保の私邸に出かけ、名刺を差し出し面会を求めた。先客が帰った後、大久保が会って話しを聞いてくれた。
 伯円の殊勝な心がけ、医学における生前の診断を確かめる病理解剖の重要性、解剖願いが許可にならないいきさつについて、佐藤は話した。
 大久保は眼光を炯々(けいけい)として、黙って佐藤の話を聞き終えた。終わると、タバコを二、三服吸うほどの間考えていたが、口を開くと静かにこういった。
 「その他に何か用があるのか」
 「それだけです」
 「よろしい、分かった」
 それだけの会話であった。佐藤はすぐに大久保邸を辞した。


 翌日、東京府庁から一通の封書が届いた。開けてみると、前に提出した解剖願いの書類で、末尾余白にこう朱書してあった。
 「願いの趣き、聞き届け候こと、年月日、東京府知事 楠本正隆」


 大久保は判断力、決断力において群を抜いた政治家であったといわれるが、その一端を伺わせるエピソードである。
 私は「病理解剖の歴史」(「病理と臨床Vol.30: 病理解剖マニュアル」,文光堂, 2012, pp.302-308)という論文を書くときにずいぶん調べたが、この順天堂病院での二代目伯円の息子の病理解剖については気づかなかった。当時の内務省衛生局長である長与専斎の「自伝」にも書いてない。

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