ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【倫理と論理】難波先生より

2013-04-03 12:39:20 | 難波紘二先生
【倫理と論理】に関する話は、韓国における日本に対する態度ないし反応が、しばしば論理的批判の代わりに倫理的批判を代用している、あるいは両者を混同している、という文脈で持ち出した。
 批判対象に倫理的あるいは道徳的糾弾を行って、論理的に批判したつもりになっている、というのは日本のマスコミにもよく見られるが、韓国ほどはなはだしくはない。


 集団で取りまき、怒鳴りあげ、相手をつるし上げれば、「勝った」と思いこむのはかって「解放同盟」がやった糾弾闘争の手口だ。
 同じものは程度は低いが日本のマスコミにみられ、極度のものは韓国の市民運動にみられる。いずれも「自分を棚に置いている」点で、共通している。


 「論理と倫理は同じものだ」というのは、オットー・ワイニンガーの言葉から学んだ。彼(Otto Weininger: 1880-1903)はオーストリアの哲学者でユダヤ人である。1902年にキリスト教に改宗。唯一の著書『Geschlecht und Charakter (性と性格)』(1903)を出版後に自殺している。


 「論理と倫理は基本的に同じであり、それらは自分自身に対する責務以外のものではありえない。」
 かれのこの言葉は、レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン(1, 2)』(みすず書房)の冒頭エピグラム(引用句)として載っている。
 『論理哲学論考』の著者としてルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインがもっとも好んだ文言である。
 意味は明瞭である。論理と倫理はどちらも首尾一貫したものでないといけない、と述べている。


 実は私はワイニンガーの著書をまだ読んでいない。『性と性格』は内容的に女性に対する偏見と差別が強いとされ、戦前の訳しかなく、このため古書価格が高騰しているからだ。性差別はおいておいて、倫理と論理に関して、これほど明瞭な言明をなした思想家は他にいないのだから、戦後の訳書があってよかろうと思うが、ない。


 それで4/1になって、SFCの加藤君がNYTの記事を知らせてくれた。お礼申し上げます。
 http://nyti.ms/XqlQ0m


 「われらの首尾一貫しない倫理本能」と題する作家マシュー・ハトソンによる一文である。
 最近の「実験社会心理学誌」と「パーソナリティ&社会心理学雑誌」に掲載された研究論文を紹介している。


 内容は「状況設定」により、ある問題に対する倫理的判断は容易に変わる、というものだ。実験が間違っているとは思わない。
 重要なことはわれわれの物差し=倫理的判断は一定でなければならない、ということだ。
 幸い、ハトソンも文末はこのように締めている。
 <But we can encourage consistency in moral reasoning by viewing issues from many angles,

discussing them with other people and monitoring our emotions closely. In recognizing

our psychological quirks, we just might find answers we can live with.>

 (しかし道徳的理由づけにおける一貫性を、問題の多面的考察、他者との議論や自己の感情の内省によって、強化することは可能である。われらの心理学的歪みを認識することで、何とか使いものになる回答を見出せるかもしれない。)




 「重要な手紙は出す前に、一晩おいて読みなおせ」と日本ではいう。

 バートランド・ラッセルは『幸福論』で、「重要な問題はすぐに答えを出さず、先送りして無意識に解決させよ」と書いている。いずれも情緒や感情が入ると、理性的判断に歪みが生じることを警告したものだ。

 情緒や感情は脳の視床下部の働きで、理性や論理は大脳皮質の活動だが、意識下で直反射的に働くのは視床下部である。しかも意識はニューロンの発火に0.5秒遅れて自覚される。「口より先に手が出る」のはこのためだ。手が出てしまうと、後は「行為を正当化」する理屈を口にするようになる。




 最近の韓国における排日運動、中国における反日デモも、みなこの類だ。民度の低さ、教養のなさ、いや「考えることなき」を物語っている。ワイニンガーのことをウィトゲンシュタインとのからみで論じた本を最近読んだ記憶があり、どの本だったか定かでないので、何冊かを当たっていたら、山田風太郎『戦中派不戦日記』昭20年7/18の項に興味深い記入があるのを見つけた。




 「この国の人は利害に明らかだが道理や倫理に暗い。事に従うことを好み考えることを好まない。…ゆえにおよそその為すところ、浅薄で十二分にものごとの隅々まで透徹することができない。…この国には口の人、手の人が多くて脳の人が少ない。」(中江兆民『一年有半』)これはいまの韓国、中国にも当てはまるし、残念だが「アベノミクス」に浮かれている日本人にもいえる。




 ところで、日本の本には人名索引も事項索引もついていないから、一冊ずつ頁を繰らねばならず、探すのに膨大に手間が暇がかかる。洋書なら一発で探せるのに。これも「脳の人」がすくないためだ。

 結局4時間かかって風太郎の『戦中派虫けら日記』、『戦中派不戦日記』、『戦中派焼け跡日記』、『戦中派闇市日記』4冊の全ページを繰って、彼が昭和21年8月4日に『性と性格』(改造社文庫)上巻を読了し、下巻を昭和22年5月25日に読了していることを突きとめた。




 『戦中派焼け跡日記』の昭和21年12月5日の項に、女性に対する否定的なアフォリズムばかりが36も並べてあり、ソクラテスからジョルジュ・サンド(女流作家)まで及んでいるが、これが突然ここに出てくる理由が不明だった。しかし、これはワイニンガーの本からの抜き書きだったのである。これは通読では発見できない。「ワイニンガー」とからむ項目を意識的に探したから見つかったのである。




 『戦中派焼け跡日記』(2002)と『戦中派闇市日記』(2003)はともに2001年7月の風太郎死去後に小学館から出版されたもので、編集に問題がある。昭和21年1月6日から9日までの記載は、風太郎の生存中に出された『戦中派不戦日記』(講談社文庫)昭和20年12月19~20日の記事がそのまま転載されている。

 同じく『戦中派焼け跡日記』昭和21年2月4日の記事にある餓死屍体20体が解剖実習室に運ばれてくる話は、『戦中派不戦日記』11月28日の日記の一部を切り取ってここに挿入したものである。また『戦中派焼け跡日記』は日記(大学ノート)に書かれている彼の小説のアイデアや梗概が、編集者により意図的にカットされている。




 産経新聞の関厚夫は「作家の日記を読む」という欄を前に持っていたが、上記のことを知らず、『戦中派焼け跡日記』(2002)1月の記事から米兵がモルヒネ押収に来る話を取りあげていたので、メールで誤りを指摘したら返事も来ない代わりに、二面の連載が中断された。

 いま、彼は高杉晋作の小説を同紙に連載しているが、どうせいい加減な資料調べしかしていないのだろうと思うと読む気にもなれない。




 脱線したが、ワイニンガーを引用した著者について調べるだけで4時間かかった。索引のない和書を用いた研究が、いかに知的生産性がないかを示す良い例である。洋書なら索引があるので、20分あれば4冊の本を調べられる。

 ほんの気分転換のつもりで書きはじめたが、半日を潰してしまった。本の付加価値は索引があるかどうか、参考にした文献の一覧があるかどうかでまったく違う。出版が生き残れるかどうかは、これにかかっているだろう。出版社にはぜひ、価値のある本を作ってもらいたいものだ。
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