ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【江副浩正】難波先生より

2013-02-11 12:50:24 | 難波紘二先生
【江副浩正】が亡くなった。詳しいことは週刊新潮や文藝春秋の訃報欄が書くだろう。
 共同(中国)は「東大在学中から若者の気持ちを捉え」と書いている。何のことかわからないだろう。
 産経は「ビジネスは東京大学在学中に始まった。学生新聞の広告取りを始めたことをきっかけに、営業のノウハウを取得、卒業後すぐの昭和35年に広告会社<大学新聞広告社>を創業」と書いている。
 これでもまだ読者はよくわからないだろう。


 私は昭和35年大学入学、36年には自治会と広島大学新聞会に関係していたので、よく知っている。
 当時全国に100以上の大学新聞があった。みな学生が編集・発行していた。予算は自治会経費からも来るが、それだけでは足りず、広告集めが大変だった。飛び込みで、地元企業や商店に広告の依頼に行った。広告主と話すのは社会勉強になったが、手間暇が大変だった。


 そこに江副の「大学新聞広告社」が登場した。彼がやったことは、東京で企業から広告を集め、それを東大新聞など全国の大学学生新聞に掲載させることである。これで一挙に地方の大学新聞にも大手一流企業の広告が載るようになった。広告の見本刷りとその「紙型」(紙製の鋳型。印刷所でこれに鉛を流し込んで版型をつくる)を郵送して来た。採用すれば、仲介手数料を引いたものが学生新聞の口座に振り込まれるというわけだ。刊行後、掲載紙を3部だか郵送する義務があった。


 これで全国の大学学生新聞は大いに助かった。広告取りの手間暇が省けたからだ。
 「それにしても頭の良いやつがいるもんだ」と妙に感心した。学生新聞で広告取りをしたやつでないと思いつかないし、東大卒でないと実行に移せない。やがて就職情報誌を手がけるようになり「リクルート」(新兵募集の意)社が生まれた。


 世に出てからのことは新聞が報じるとおりである。
 ロシア系米国作家ウラジミール・ナボコフは「人生は百盗作、一創造だ」と述べた。
 「凡人は他人をコピーするが、天才は自分をコピーする」とも言っている。


 江副の最大のオリジナリティは、誰も目を付けていなかった全国の大学新聞に広告を供給するというアイデアを思いついたところにある。折から高度経済成長が始まり、企業は人材確保にやっきになったから、学生向けの広告に需要があった。その後、新左翼内部の内ゲバや大学紛争で、新聞会が崩壊したり学生新聞が発行不能になると、雑誌を発行し直接学生に情報を発信した。
 これも「学生新聞向け広告」という発想の延長にあり、「自分のコピー」である。


 私は商法のことはわからないが、「リクルート未公開株の譲渡」という事件さえ起こさなければ、きっと叙位叙勲の対象となっていた人物だと思う。
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