【奇縁】
堀川恵子『教戒師』(講談社, 2014/1, \1,700)を読んで驚いた。ここにはある僧籍の教誨師から聴き出した、死刑囚が刑の執行を待つ拘置所の環境や死刑囚との面談の内容や死刑執行の様子が書いてある。
30歳の頃から東京拘置所の教戒師を務め、82歳で亡くなるまで数多くの死刑囚と面談を重ね、その処刑に立ち会ってきた僧侶からの聞き書きである。著者は2009年春、東京拘置所の古い「教戒師名簿」を入手し、三田のオーストラリア大使館の近くにある教戒師の寺を訪れる。これが本の11ページに書いてある。
読んだ瞬間に寺の名前と住職の姓に思い当たった。三田・当光寺の渡邊師だ。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BD%93%E5%85%89%E5%AF%BA/@35.652585,139.739136,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x4844d996fa2d889b?hl=ja
書物としてはユダヤ教の聖書も、キリスト教の聖書も、ゾロアスター教の経典も、イスラームのコーランも、ヒンズーの経典も、仏教の経典もずいぶん読んだ。が、生きた宗教者として感銘を受けた人物は二人しかいない。
一人は医学生の頃、岡山の癩療養所「長島愛生園」で布教していた、牛乳瓶の底みたいに厚い近眼の眼鏡をかけていたベルギー人の神父だった。夏休みに志願して研修に出かけた。宿舎で部屋が隣だったので、神父の晩酌のご相伴にあずかり、ビールを飲みながら神学論争をした。私が「実際に神を自分で見たわけではないので、信じられない」というと、神父はこう答えた。「貴方が神を見ていなくても、実際に神を見たという人がいて、もしその人が信じられるなら、神を信じることができます。イエスが神を見たといわれ、使徒たちはみなそれを信じました。私たちはそれに続く人たちを次々と、ずっと信じてきているのです。」
見事な反論だった。自然科学の諸法則でも、自分ですべてを証明するわけにいかない。これも「信じる(credo)」という行為により成り立っている。
もう一人はこういった。「御浄土があるかどうか、それはわかりません。何しろ行って戻ってきた人が誰もいないのですから…。」
たいていの僧侶が御浄土の有り難さを説くが、この人はそうしなかった。
楽譜入りの歌詞を配り、テープでオルガンの曲を聴かせ、二番から斉唱を促した。故人に寄せる想いを詠った、哀調のこもった短調の曲だった。
本堂にも坐り椅子が用意されていて、慣れない正座に苦しめられることがなかった。かたちは正座だが、下腿は椅子の下に折り込めるから足に体重がかからない。こういう合理主義の僧には逢ったことがない。この浄土真宗の僧侶が郷里の檀那寺の次男であることは知っていた。その縁で、東京で死んだ末弟の墓はそこにある。それが三田・当光寺だ。
1931年生まれの渡邊普相師は、広島市中1年生、14歳の時に広島駅前で被曝している。朝、勤労奉仕の職場に出勤するために、同級生20人と一緒に、草津の材木工場まで運ぶ陸軍のトラックを待っていて原爆に遭った。広島駅前にあった商店街、旅館街の木造建物は爆発により、一瞬のうちに倒壊したそうだ。
その後、市中を卒業し龍谷大学に進み、卒業後、上京して教誨師の先輩篠田龍雄に巡り会い、当光寺の婿養子となり自らも教誨師の道を歩む。
こんな話は渡邊師からこれまで一度も聞いたことがない。これは死刑囚の秘録というよりも、「わしらはみな人殺しじゃ」と思いながら、多くの死刑執行に立ち会ってきて、その重荷からアル中になり、精神病院にも入院した、一人の僧侶のドキュメントである。惜しいことに渡邊師は2012年の暮れに亡くなられた。
しかし、すぐれて人を魅了する著者の性格もあって、世に埋もれてしまったかもしれない貴重なドキュメントが、世に出たことを素直に喜びたい。それにしてもこの世は「複雑系」で、どこでどのように繋がっているかわからないものだ。この本もやがて書評で取り上げたい。
堀川恵子『教戒師』(講談社, 2014/1, \1,700)を読んで驚いた。ここにはある僧籍の教誨師から聴き出した、死刑囚が刑の執行を待つ拘置所の環境や死刑囚との面談の内容や死刑執行の様子が書いてある。
30歳の頃から東京拘置所の教戒師を務め、82歳で亡くなるまで数多くの死刑囚と面談を重ね、その処刑に立ち会ってきた僧侶からの聞き書きである。著者は2009年春、東京拘置所の古い「教戒師名簿」を入手し、三田のオーストラリア大使館の近くにある教戒師の寺を訪れる。これが本の11ページに書いてある。
読んだ瞬間に寺の名前と住職の姓に思い当たった。三田・当光寺の渡邊師だ。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BD%93%E5%85%89%E5%AF%BA/@35.652585,139.739136,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x0:0x4844d996fa2d889b?hl=ja
書物としてはユダヤ教の聖書も、キリスト教の聖書も、ゾロアスター教の経典も、イスラームのコーランも、ヒンズーの経典も、仏教の経典もずいぶん読んだ。が、生きた宗教者として感銘を受けた人物は二人しかいない。
一人は医学生の頃、岡山の癩療養所「長島愛生園」で布教していた、牛乳瓶の底みたいに厚い近眼の眼鏡をかけていたベルギー人の神父だった。夏休みに志願して研修に出かけた。宿舎で部屋が隣だったので、神父の晩酌のご相伴にあずかり、ビールを飲みながら神学論争をした。私が「実際に神を自分で見たわけではないので、信じられない」というと、神父はこう答えた。「貴方が神を見ていなくても、実際に神を見たという人がいて、もしその人が信じられるなら、神を信じることができます。イエスが神を見たといわれ、使徒たちはみなそれを信じました。私たちはそれに続く人たちを次々と、ずっと信じてきているのです。」
見事な反論だった。自然科学の諸法則でも、自分ですべてを証明するわけにいかない。これも「信じる(credo)」という行為により成り立っている。
もう一人はこういった。「御浄土があるかどうか、それはわかりません。何しろ行って戻ってきた人が誰もいないのですから…。」
たいていの僧侶が御浄土の有り難さを説くが、この人はそうしなかった。
楽譜入りの歌詞を配り、テープでオルガンの曲を聴かせ、二番から斉唱を促した。故人に寄せる想いを詠った、哀調のこもった短調の曲だった。
本堂にも坐り椅子が用意されていて、慣れない正座に苦しめられることがなかった。かたちは正座だが、下腿は椅子の下に折り込めるから足に体重がかからない。こういう合理主義の僧には逢ったことがない。この浄土真宗の僧侶が郷里の檀那寺の次男であることは知っていた。その縁で、東京で死んだ末弟の墓はそこにある。それが三田・当光寺だ。
1931年生まれの渡邊普相師は、広島市中1年生、14歳の時に広島駅前で被曝している。朝、勤労奉仕の職場に出勤するために、同級生20人と一緒に、草津の材木工場まで運ぶ陸軍のトラックを待っていて原爆に遭った。広島駅前にあった商店街、旅館街の木造建物は爆発により、一瞬のうちに倒壊したそうだ。
その後、市中を卒業し龍谷大学に進み、卒業後、上京して教誨師の先輩篠田龍雄に巡り会い、当光寺の婿養子となり自らも教誨師の道を歩む。
こんな話は渡邊師からこれまで一度も聞いたことがない。これは死刑囚の秘録というよりも、「わしらはみな人殺しじゃ」と思いながら、多くの死刑執行に立ち会ってきて、その重荷からアル中になり、精神病院にも入院した、一人の僧侶のドキュメントである。惜しいことに渡邊師は2012年の暮れに亡くなられた。
しかし、すぐれて人を魅了する著者の性格もあって、世に埋もれてしまったかもしれない貴重なドキュメントが、世に出たことを素直に喜びたい。それにしてもこの世は「複雑系」で、どこでどのように繋がっているかわからないものだ。この本もやがて書評で取り上げたい。
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