盗人宿

いまは、わかる方だけ、おいでいただければ。

虚脱感から客観に

2011-11-26 17:34:29 | にゃんころ
立川談志が、他界しました。

私の落語好きは、小学生の頃に出会った談志が、そもそものきっかけですからね。
他の噺家の訃報も確かに残念ですが、今回ばかりは桁が違います。
いまはまだ、頭を整理できません。思いつくままに綴っていきます。

いくら私が年寄りといっても、二つ目の小ゑんの時代は知りません。真打ちに昇進して談志を名乗ったのは、私が小学校に入る前ですからね。
そして小学生時代、我が家にあったのは真空管の白黒テレビが1台。
バラエティはいまのように作り手も視聴者も痴呆ばかりではなく、まっとうな芸能番組も多く流れていました。
私の両親はけっこう観ていたので、必然的に私もそれに触れる機会があった。

その中でもよく見かけたのが、新作落語「授業中(山のあなあな)」が大人気だった三遊亭歌奴と、落語はめったに聴けなかったけれど必ずどこかの番組で顔を出していた林家三平でした。
どちらも大好きで、テレビに出てくるだけでうれしかった。
もちろん「山のあなあなあなあなあな、あな、あなた、あなたもう寝ましょうよ」「なんでそこだけどもらないんだ」は、寝るという本当の意味をわからず笑ってたわけですけど。

しかし何より幸運だったのは、「笑点」の立ち上げと初期の放送に、間に合ったことです。
なんとおもしろい番組なんだろう、と釘付けになりました。
いまの笑点しか知らない人には想像もつかないでしょうが、当時の笑点はレベルもクオリティも桁違いに高かったのです。
子供や年寄りに媚びてレベルを下げる、なんてことを談志は微塵も考えなかった。
だから小学生にすべては理解できなかったけれど、理解できた部分はとてつもなくおもしろかった。

そこからはもう、談志にのめり込み、その流れで落語にのめり込みました。

振り返ると、私はとても恵まれていました。
まず父が「本物」を見分ける目を持っていたこと。
他に番組はいくらもあるだろうに、毎週日曜は必ず談志の笑点を観ていました。
落語や演芸なら何でもいいわけではなく、「ああこれはつまらない」「この人は観なくてもいい」と平気でチャンネルを変える人なのに。

あるいは私が東京下町のまん真ん中に住んでいたこと。
残念ながら貧乏人なので、寄席に行くというのはとてもハードルの高いものでしたが、周囲にはまだ落語の登場人物を地で行くような人物が、たくさん住んでいました。
焼け残った古い長屋もあったし、いまのマンション生活者のような「義務感でのおすそわけ」ではなく、ごく普通に日々のおかずや惣菜が行き来していました。
私は昭和前半までの落語の世界を肌で感じられた、最後の世代だったのかもしれません。


あー、やはりまとまらないね。
書き始めたのが訃報の当日。
それから3日、DVD を引っ張り出し、ネットを探しまわり、常に談志の何かを再生しながら、まだいなくなったことを実感できない。
私にとっては「崩御」ともいえる大きな出来事を客観視するには、長い時間が必要でしょう。
頭は猛烈な空ぶかしを繰り返すばかりです。