こちら、自由が丘ペット探偵局 作者古海めぐみ
17
「今日私にお昼を奢らせてくださいな。」
ハルが立ち上がって、まるでオリンピックの選手宣誓みたい
に片手を挙げた。
「お昼ごはんですか・・?」
春が時計を見ながら聞き返した。
「はい。お昼になったらどこか美味しいところに案内して
ください。私の写真が完成した記念に奢らせて。」
「でも・・悪いわ・・・」
「いいじゃないか。せっかく云ってるんだから・・」
健太はハルの肩に両手を乗せてゆっくりと揉みだした。
「そう。忙しいお兄さん。あなたもいらっしゃい。」
「サンキュウ!メルシー・ボク!シェイシェイ!」
「いいんですか・・」
春が困った顔でポートレート写真を箱に仕舞ってリボン飾り
をつけながら云った。
「私の気持ちですから是非。」
「はいー。」
春は、紙袋に写真の箱を入れてハルに手渡した。
「どこかいいお店ご存知?」
「私、ハンバーガー屋さんとかガスライトしか知らないんです」
「おお。いいとこあるよ。上田ユーちゃんの「キッズ・ローブ
」の近くに和食ランチの洒落た店がオープンしたばかりだ。
オバチャマにもちょうどいいと思うよ。」
と健太が目を輝かせた。
「じゃ、そこ。それまでちょっと私、熊野神社にお参りして
きます。お昼にまたここに来ます。」
「いや、それじゃ熊野神社で待ち合わせのがいいぜ。その店
神社のそばだから・・」
「キッズ・ローブの近くならそうね。」
「それでは、二時間後。神社で。」
と肖像画を丁寧に風呂敷で包んで貰った写真の紙袋に入れて
大事に胸に抱えると涼しそうに微笑んだ。
「では、後ほどー」
「ああ。それ、重いから預かっておきますよ。ランチの後で
お渡しすれば・・・お帰りの時でも。」
「そうう。そうしようかな。はい。」
ハルは紙袋を春に戻してカメラ店を出て行った。
「オレも午前中に預かり犬の散歩に行こう!」
健太がつづいていなくなると写真館HALが突然静かになった。
* * *
その熊野神社の向いの新しい和食カフェは、定年夫婦が
はじめたばかりで雑誌やタウン誌に広告も出さず魚料理が
メインで器や箸、家具に和風のデザインを凝らした小ぢんまり
とした地味な佇まいの店だった。
だからランチ時でも知る人ぞ知るお店という感じで半分も客
が入っていなかった。
春たちが窓側の席につくと、まるでどこかで見ていたように
上田祐二がサチと一緒に入って来て、あら、どうしたの?って
軽い挨拶からはじまって、じゃ、ご一緒に!とハルおばあ
ちゃんの奢りランチにしっかりと合流して、刺身定食、
煮魚ご膳、さば焼きランチと魚パーティーみたいになった。
「私は、白ワインくださいな。」
ハルは上機嫌でお酒を注文した。
健太と祐二は、とりあえずビールと言いそうになったが
じっと堪えた。
「店長、午後も仕事ありますから。」
とサチにクギをさされて、ジンジャーエールと祐二は、飲み物
を注文した。
健太も春のバイクにどうせ乗るんでしょ、という目光線でつま
んなそうにコーヒーと云い添えた。
「ごめんなさいね。私だけお酒のんで・・」
ハルは、ワイングラスを口に持って行きながらペロリと舌を
出してゴクンと飲んだ。
シワだらけのハルの喉にドイツワインが転がりながら落ちて
いくのを健太と祐二は、ごくんと喉を鳴らして見つめた。
この妙な沈黙を破って、春が煮魚をつついて話をはじめた。
「昨日アメリカのマリア・ワタナベ教授からメールで返事が
来たの。私を助けてくれた野犬の話をメールで送ったら。」
「ナニナニ、アメリカ留学で知り合った例の動物学者ー。」
上田祐二がそういうと、健太がマグロを挟んだ箸を祐二の顔
に突き出して、「オオカミ狂いのエロ教授」とかぶせかけて来た。
「ちゃんとした先生よ。マリアさん。」
春は、口を尖らせた。
「で、なんだって?あの野犬。」
「ニホンオオカミの可能性が高いって・・」
「ニホンオオカミって絶滅したんでしょ。」
サチが祐二に同意を求めるように云うと、「確か、そう聞いた
ことある。」と祐二は煮物の小鉢に箸を突っ込み柔らかい大根
を頬張りながら云った。
「平岩由伎子さんに怒られるぜ。春ちゃん。」
「平岩さんに会ったの。」
「一度ね。」
「誰?」
祐二が聞いた。
「自由が丘の豪邸に住む動物研究家。今でも広大な庭がある
けど昔は実際にオオカミを数頭飼っていたんだ。亡くなった
お父さんの平岩米吉さんは日本オオカミ学界の重鎮だったの」
「その人が・・・」
と健太の説明に祐二が合いの手を入れた。
「ニホンオオカミ絶滅派の研究者よ。」
犬飼健太は、お茶を啜って説明し出した。
現在自由が丘の丘の上にいる広大な敷地の古い平岩邸は、
戦前その何倍もあって庭から真下に九品仏のお寺が見渡せた
という。平岩米吉は明治期から地元の有力者で熱心に動物の
研究をしていた人だった。昭和三十年代相次いだニホンオオ
カミの目撃談に科学博物館のオオカミ学会の定例会議室では
激しい議論が交わされ、高名心からのガセネタには平岩氏は
徹底的な非難を加えたらしい。
実際にその娘さんも動物研究家として自由が丘の地に現在も
いてニホンオオカミ論争では熱心な発言をしていることなど
を春が健太の話の区切りを待って追加補足した。
「じゃ、春ちゃんが見たのは犬なの。」
と祐二が素朴に尋ねた。
「私は、あれがニホンオオカミでなくても犬ではないという
確信があるの。」
春は、重い錨を海底の砂地に下ろすようにどっかりと言葉の
ひとつひとつに自信をこめて発言した。
「あら、おばあちゃんー」
サチがハルの方を指さした。
ハルは、箸を両手に挟んだままこっくりこっくりしていた。
「ええ?・・・年寄りは嫌ねえ。アルコールに弱くなっちゃって・・・」
閉じかけていた瞼を自力で押し上げてハルさんは目覚めた。
「ごめんなさい。私たちばかりで話してて。」
春は詫びた。
「いいえ。いいの。いいの。お構いなくー」
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「今日私にお昼を奢らせてくださいな。」
ハルが立ち上がって、まるでオリンピックの選手宣誓みたい
に片手を挙げた。
「お昼ごはんですか・・?」
春が時計を見ながら聞き返した。
「はい。お昼になったらどこか美味しいところに案内して
ください。私の写真が完成した記念に奢らせて。」
「でも・・悪いわ・・・」
「いいじゃないか。せっかく云ってるんだから・・」
健太はハルの肩に両手を乗せてゆっくりと揉みだした。
「そう。忙しいお兄さん。あなたもいらっしゃい。」
「サンキュウ!メルシー・ボク!シェイシェイ!」
「いいんですか・・」
春が困った顔でポートレート写真を箱に仕舞ってリボン飾り
をつけながら云った。
「私の気持ちですから是非。」
「はいー。」
春は、紙袋に写真の箱を入れてハルに手渡した。
「どこかいいお店ご存知?」
「私、ハンバーガー屋さんとかガスライトしか知らないんです」
「おお。いいとこあるよ。上田ユーちゃんの「キッズ・ローブ
」の近くに和食ランチの洒落た店がオープンしたばかりだ。
オバチャマにもちょうどいいと思うよ。」
と健太が目を輝かせた。
「じゃ、そこ。それまでちょっと私、熊野神社にお参りして
きます。お昼にまたここに来ます。」
「いや、それじゃ熊野神社で待ち合わせのがいいぜ。その店
神社のそばだから・・」
「キッズ・ローブの近くならそうね。」
「それでは、二時間後。神社で。」
と肖像画を丁寧に風呂敷で包んで貰った写真の紙袋に入れて
大事に胸に抱えると涼しそうに微笑んだ。
「では、後ほどー」
「ああ。それ、重いから預かっておきますよ。ランチの後で
お渡しすれば・・・お帰りの時でも。」
「そうう。そうしようかな。はい。」
ハルは紙袋を春に戻してカメラ店を出て行った。
「オレも午前中に預かり犬の散歩に行こう!」
健太がつづいていなくなると写真館HALが突然静かになった。
* * *
その熊野神社の向いの新しい和食カフェは、定年夫婦が
はじめたばかりで雑誌やタウン誌に広告も出さず魚料理が
メインで器や箸、家具に和風のデザインを凝らした小ぢんまり
とした地味な佇まいの店だった。
だからランチ時でも知る人ぞ知るお店という感じで半分も客
が入っていなかった。
春たちが窓側の席につくと、まるでどこかで見ていたように
上田祐二がサチと一緒に入って来て、あら、どうしたの?って
軽い挨拶からはじまって、じゃ、ご一緒に!とハルおばあ
ちゃんの奢りランチにしっかりと合流して、刺身定食、
煮魚ご膳、さば焼きランチと魚パーティーみたいになった。
「私は、白ワインくださいな。」
ハルは上機嫌でお酒を注文した。
健太と祐二は、とりあえずビールと言いそうになったが
じっと堪えた。
「店長、午後も仕事ありますから。」
とサチにクギをさされて、ジンジャーエールと祐二は、飲み物
を注文した。
健太も春のバイクにどうせ乗るんでしょ、という目光線でつま
んなそうにコーヒーと云い添えた。
「ごめんなさいね。私だけお酒のんで・・」
ハルは、ワイングラスを口に持って行きながらペロリと舌を
出してゴクンと飲んだ。
シワだらけのハルの喉にドイツワインが転がりながら落ちて
いくのを健太と祐二は、ごくんと喉を鳴らして見つめた。
この妙な沈黙を破って、春が煮魚をつついて話をはじめた。
「昨日アメリカのマリア・ワタナベ教授からメールで返事が
来たの。私を助けてくれた野犬の話をメールで送ったら。」
「ナニナニ、アメリカ留学で知り合った例の動物学者ー。」
上田祐二がそういうと、健太がマグロを挟んだ箸を祐二の顔
に突き出して、「オオカミ狂いのエロ教授」とかぶせかけて来た。
「ちゃんとした先生よ。マリアさん。」
春は、口を尖らせた。
「で、なんだって?あの野犬。」
「ニホンオオカミの可能性が高いって・・」
「ニホンオオカミって絶滅したんでしょ。」
サチが祐二に同意を求めるように云うと、「確か、そう聞いた
ことある。」と祐二は煮物の小鉢に箸を突っ込み柔らかい大根
を頬張りながら云った。
「平岩由伎子さんに怒られるぜ。春ちゃん。」
「平岩さんに会ったの。」
「一度ね。」
「誰?」
祐二が聞いた。
「自由が丘の豪邸に住む動物研究家。今でも広大な庭がある
けど昔は実際にオオカミを数頭飼っていたんだ。亡くなった
お父さんの平岩米吉さんは日本オオカミ学界の重鎮だったの」
「その人が・・・」
と健太の説明に祐二が合いの手を入れた。
「ニホンオオカミ絶滅派の研究者よ。」
犬飼健太は、お茶を啜って説明し出した。
現在自由が丘の丘の上にいる広大な敷地の古い平岩邸は、
戦前その何倍もあって庭から真下に九品仏のお寺が見渡せた
という。平岩米吉は明治期から地元の有力者で熱心に動物の
研究をしていた人だった。昭和三十年代相次いだニホンオオ
カミの目撃談に科学博物館のオオカミ学会の定例会議室では
激しい議論が交わされ、高名心からのガセネタには平岩氏は
徹底的な非難を加えたらしい。
実際にその娘さんも動物研究家として自由が丘の地に現在も
いてニホンオオカミ論争では熱心な発言をしていることなど
を春が健太の話の区切りを待って追加補足した。
「じゃ、春ちゃんが見たのは犬なの。」
と祐二が素朴に尋ねた。
「私は、あれがニホンオオカミでなくても犬ではないという
確信があるの。」
春は、重い錨を海底の砂地に下ろすようにどっかりと言葉の
ひとつひとつに自信をこめて発言した。
「あら、おばあちゃんー」
サチがハルの方を指さした。
ハルは、箸を両手に挟んだままこっくりこっくりしていた。
「ええ?・・・年寄りは嫌ねえ。アルコールに弱くなっちゃって・・・」
閉じかけていた瞼を自力で押し上げてハルさんは目覚めた。
「ごめんなさい。私たちばかりで話してて。」
春は詫びた。
「いいえ。いいの。いいの。お構いなくー」