まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

遠足

2023-10-26 | 受け止め方
先日扇町公園を歩いていたら、小学生の子どもたちが芝生に腰を下ろして
お弁当を食べていた。その光景を見て、腕時計の時間を確認したが
何度見ても10時40分を指している。
ええっ?朝ご飯なのか、それとも昼ご飯であろうか?
扇町公園は大阪北区にある大きな公園で、1か月前には気球を上げていた。



ここにはカンテレ扇町スクエア(関西テレビ本社)があり、キッズプラザもあって、
毎日大勢の小学生や幼稚園児が来ているが、
この時間にお弁当を食べている姿を見たことがない。
ああそうか!今日はお昼頃から雨が降る予報だっから、引率の先生が
芝生が濡れないうちにお弁当を食べるという判断をされたようだ。
しかしいくらなんでも時間が早すぎるように思え、思わず笑ってしまった。
いくら子ども相手の仕事でも馬鹿にしているように思えるし、
雨天時の無計画さが笑えてしまう。(この日雨が降ったのは、14時すぎだった)
たしかに引率の先生によって印象が異なる。
キッズプラザの入口付近に生徒を座らせて、一般の方々はその団体を大きく避けて
通行させている学校があるかと思えば、
歩道の前後で左右に分かれて小グループごとに通路を開けている学校など様々である。
引率の先生の判断によってさまざまである。
定年退職し、毎日暇を持て余している私は人々の姿を観察して歩き、
いろいろと想像してブログネタを探すことが趣味である。

そう言えば先日、天王寺動物園で檻からチンパンジーが園内に逃げ出して
臨時休園になったという二ュースを見た。
その時も入園していた客があったが追い出されている。
その中には小学生か幼稚園児もいただろうけれど、どう対応されたのかが気になる。
おそらく隣接する天王寺公園「てんしば」で遊んだと思われるが、
愉しみにしていた動物園への遠足は、授業の計画もあるから二度行くとは考えにくい。
子どもたちには残念な結果になったかもしれないがある意味、
忘れられない思い出になって、同窓会ごとに思い出されるのかと思うと、
それはそれでおもしろいことだろうと思った。

当ブログについて

2023-10-25 | 感謝
当ブログは5月29日より毎日更新を続けている。
たかがブログと言えども、毎日更新を続けていくというのは大変なことで
「産む苦しみ」という意味では作家先生の苦労に繋がる気もする。
体調が悪い日もあれば、落ち込んでいて気分が乗らない日もある。
家庭に不幸があったりしてブログどころじゃない日もある。
そういう日のためになるべく書き溜めておくようにしているが、
まだ余裕があるから・・・と、ええ気になっていたらヤバイということもあり
正直なところ、もう限界もう限界と思いながら続けている。
まあ読者のおかげもあって、日々の生活をボーッと過ごさずに
何か「気付き」はないものか?と、探しながら生きていることが、
日課でもある「幸せ探し」になっているようでもあるが
気が付けば「不幸探し」をして文句ばかり書いている日もある。

当ブログをどんな方が読んで下さっているのかが気になっている。
しかし有料の足跡検索はしていないので、
どなたが見て下さっているのかは知りようがない。
ただ過去に利用して放置していたブログを改装してやっているので
今はほとんど宣伝や公表をしていないが古いファンが居られるかもしれない。
若い頃はあえて人々が検索しそうなテーマについて書き、
毎日大勢の方の興味を惹くように心掛けていたが、
今は大々的に宣伝をして炎上しても困るから、見向きされなくても構わない。
そんなつもりで始めた地味なブログだが、一日で70名来られたかと思えば、
連休中には0人という日もあったりして本当に興味深い。
連休中には他にもすることがあって忙しいんだろうなあと勝手に解釈している。
毎日多少の凸凹はあるけれど、4~5人というところでいいと思う。
それでも日々お忙しい中、こんな私におつきあいして下さる皆様には
心より感謝しております。・・・・・何も出ませんけれど。

誤差の範囲

2023-10-24 | 受け止め方
私の友人で「誤差の範囲」という言葉をよく使う人がいる。
例えばコロナワクチン。
大半の人々には少し腕が2~3日痛む程度でさほど重篤な副反応は起こらない。
しかしこのワクチンが原因で命を落とした人もいる。
病気に罹りにくくするためのワクチンで命を落とすなど本末転倒である。
家族を失った人からすれば、そんな危険なワクチンを世に出すな!
と言うのはもっともなことだけど、このワクチンで助かった人も多く、
100%のものでなければ厚生労働者が認可すべきじゃないという意見は
正しいようでありながら、98%の性能でも認可されなければ、
多くの人の命を危険にさらすことになる。
だからといって2%の人を見殺しにすべきという考え方も間違っている。
けれども元来、人間の身体はクローンじゃないのだから個体差があり
全員に100%安全で効果があるものなんて作れるはずがない。
仮に科学が発展して作れるようになるにしても何年もの日数がかかる。
そういう時、彼が「誤差の範囲」という言葉を使う。
つまり大半にはふつうにありがたい薬であっても、命の危険をさらす
少数者がおり、それが誤差の範囲ということになる。

彼とは40年来の友人なのだが当初は「誤差の範囲」という言葉が
長い間しっくりこなかった。誤差に漏れる人のことを考えるからだ。
しかしこの発想を聞いて10年20年と日数が経過するうちに、
確かにそうだなぁと、思うようになってきた。

この発想で行けば、人間の趣味や嗜好、あらゆる価値観や身体的特徴など
さまざまなものに当てはまるように思えてきた。
LGBTもそうだし、障がいのある人もそうだし、
マイナーな趣味や嗜好の方もみんな含まれることになる。
大半を占めるレギュラーとそれ以外を含む誤差という視点でものを見ていくと
個人ひとりひとりが何らかの「誤差の範囲」を含んでいる。
いや逆にむしろ、「誤差の範囲」の含まれない人などいないような気がする。
私の場合、いくつも当てはまるように思えてくる。
主張すべきことは主張しつつ、大半がそうじゃないからと諦めていることもあり、
社会で生きていく以上、仕方のないことも少なくない。
今の時代こういう問題を扱えば、捉え方によっては切り取りをされて
炎上もするかもしれないが、こういうことってあると思う。

香害

2023-10-23 | 反省
香害ってご存じですか? 文字の通り、香りによる害を意味します。
合成洗剤や柔軟剤、化粧品類などに含まれる合成香料(化学物質)によって
さまざまな健康被害が誘発されることをいい、この香害が原因となって、
化学物質過敏症を発症する人もいます。
私の場合、柔軟剤や化粧品、香水などのほか、ローソクや線香など人工的に香りを付けた
商品が特に気になりやすく、直接的な健康被害があるという程ではないが臭いと感じて
辛かったり、咳き込んだり、息苦しくなったりすることがあり、とても不快に感じます。
とりわけ外国人がよく使っている天花粉のようなキツい香りやムスク、
ホストクラブの男性がよく使っている特有の香りが苦手で、
どうしてあんな匂いを付けて外出されるのか理解出来ないでいる。
香りのキツい人に出逢うと、元々どれだけ体臭が臭いのだろうかという想像が働いて、
たとえいい香りでもあっても悪臭のように感じてしまうのだ。

電車の車内やエレベーターにそういう人が乗ってくると、気分が一気に落ち込む。
少々であれば、マスクを付けてごまかしているけれど、どうにもならない時には
途中下車をして他の車両に移動したり、次の電車に乗るなどの対応をしている。
エレベーターの途中から乗って来られ、同じ階でそのまま交代に降りることもある。
わざわざ「ここ1階じゃありませんよ」と優しく言って下さるが、
「お前のせいなんじゃ!」と怒り心頭のまま会釈だけして降りる。
妻の利用しているシャンプーにも辛い香りのする物があり、妻に気持ちを伝えると
「これ高価だったのに・・・」と一言、文句を言われたうえで知人に差し上げてくれる。
もらった人には「これ高いから我慢していたのにいいの?」と好評らしい。
香害の分からない妻には、気に入っていた商品を手放してもらい申し訳ないが
このまま黙って我慢していたら、使い切ったらまた新しい物を買ってくるからだ。

私にすればどうしてそんな他人に危害を与えるような香水をつけているのか?
と受け止めてしまうのだが、それはパクチーみたいなもので、
好きな人には堪らない香りだが、苦手な人には堪らない臭さということになる。
その人にとっては誰もが幸せに感じる香りだと受け止めているのだろうし、
誰もが臭いと感じるのであれば、そういう柔軟剤を販売するはずがない。
この香りをいい匂いと感じる人がいるから柔軟剤を購入するのだろうから、
人間の好み、体質がひとりひとりマチマチなのがよく分かる。

自分の立場に置き換えて様々なことを想定して考えていても
中には不快に思う人もいることが分かる。
ネットを読んでいると、これが原因で失業したり精神疾患を発症したり、
化学物質過敏症を発症して辛い生活を送っておられる方もおられるようだ。
あまりキツくは人には言えないけれど、一応は言っておかなければ
誰にも気付いてもらえないから、この場から訴えている。

老害(社会性に欠けるお年寄り)

2023-10-22 | 受け止め方
先日も電車から降りようとしたら、お年寄りがドア付近に立っており、
降りる人に通路を譲らないいうことがあった。
「そこに居ては降りられないから降りて下さい」と伝えるも自分は降りたくないと
頑なにその場から動かない。これでは誰もが降りられず迷惑しているので、
背中をそっと後方から押して降りて頂いて、事なきを得たが、
高齢者にもなって社会性がないというのは、すでに老害でしかない。

いやもしかすれば若い時ならもう少し融通が付けられたが、
歳を重ねて足腰が弱くなって自己中心的になって他人のことを考えられなくなった
のかもしれない。たしかに病院に行くと、階段の上がりきった所で立ち止まったり
エレベーターを降りてすぐに立ち止まって、他人の通行を気にされない
そういう高齢者が目に着く。

今日も狭い道をゆっくりと歩いておられ、その後方から乗用車が来ているが
クラクションも鳴らさず、お年寄りの後をノロノロと付いてきている。
私は思わず指をさして、「危ないですよ」と大きな声で伝えたが
そのお年寄りは私をにらみ返したまま、後方の車には気にせず歩き続けている。
自分はあのようなお年寄りにはなりたくないと思いながら、見過ごした。