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Arabia

2019-09-15 05:08:11 | Language
アラビア文字と言語[edit source]
現在、表記にアラビア文字を使う言語は、アラビア語、ペルシア語、ダリー語、クルド語、パシュトー語、バローチ語、アゼルバイジャン語(主にイラン領で)、シンド語、ウルドゥー語、カシミール語、パンジャブ語(主にパキスタン領で)、ウイグル語、カザフ語(主に中国領で)、キルギス語(主に中国領で)、ベルベル語、マレー語(主にブルネイ、そしてマレーシアやインドネシアでは、ムスリム向けのメディアや宗教関係)、モロ語(英語版)(主にフィリピンのモロ族)、ジャウィ語、バルティー語(英語版)などである。
表記がアラビア文字からラテン文字に変更された言語は、トルコ語、マレー語、インドネシア語、スワヒリ語などがある。これらの言語で文字改革が行われた理由は、日常生活からのアラビア文字の排除による脱イスラム化・西欧化を狙うといった動機によるほか、簡略な表記体系による識字率の向上をはかり、さらに母音を表記しやすくなるという論理を掲げたこともある。しかし、アラビア文字を改良して母音表記を徹底し、簡略な表記体系を作り上げることに成功した事例もあるため、実際は言語学的な事実よりも、『ヨーロッパ=進歩的』という観念に基づいた発想によってアラビア文字が敬遠された面が大きい。これらの言語でも、ラテン文字化へとすんなり舵を切ったわけではなく、アラビア文字を改良して、自言語に完全適用した文字体系にすることで効率のよい表記を達成しようとしたグループも存在した。
 マレー・インドネシア語、スワヒリ語など、多くの言語では、政府公用の表記法がラテン文字に変わっただけで、民間や宗教関係ではアラビア文字も継続して使用されたし、私的な教授や伝承、使用については特に弾圧も受けなかった。またマレーシアでは、マレー語のアラビア文字表記もラテン文字表記に一歩譲るものの、学校で第2正書法として教授されている。しかしトルコのみはアラビア文字による出版物を禁止することで、アラビア文字の使用そのものを断ち切る形でラテン文字化を遂行した。現在でもトルコでは、この時定められたトルコ語表記用のラテン文字29文字以外の文字を用いた出版物を禁止しており、アラビア文字によるトルコ語表記のみならず、クルド語への弾圧の道具にもなっている[5]。
チェチェン語、タタール語、カザフ語、キルギス語、トルクメン語、ウイグル語、ウズベク語、タジク語、ドンガン語などの旧ソ連内のムスリム(イスラム教徒)の諸民族の言語の表記にはロシア革命直後に一時ラテン文字化が試みられたが、スターリンの粛清が始まるとロシア語にならったキリル文字に改められた。なお、当初はラテン文字ではなく、ロシア連邦内のムスリムの間では、アラビア文字を改良して用いるべきという案を唱える知識人も多かった。現在でも、公式の文字表記はラテン文字やキリル文字であっても、アラビア文字も民間や宗教関係で使用され続けている。
アゼルバイジャン語、トルクメン語、ウズベク語、タタール語などはソ連崩壊後、さらにラテン文字への再切り替えが進められている。
また中国のウイグル語等のムスリム達少数民族の言語は、かつてはソ連の影響でキリル文字化が図られ、中ソ国境紛争後はさらにソ連との違いを明らかにするためにピンイン風のラテン文字正書法が行われたが、1980年代の民族政策の転換によりアラビア文字が復活された。なお、現在のウイグル語で用いるアラビア文字はアリフ、ワーウなどに点を付加した文字を用い、8つある母音の全てを書き分ける独特なものである。
また、中国に住んでいる中国語(漢語)を話すムスリム(回民、現在の回族)は、アラビア文字で口語体の漢語を書き記すことがあった。このアラビア文字表記の漢語を小児経(小児錦とも)といい、クルアーンなどの経典の注釈に使われて印刷もされたほか、手紙や日記などの個人的用途に使われた。現在でも回族が集中的に居住する寧夏や甘粛では小児錦が部分的に使われているという。また、旧ソ連に移住した回民はドンガン人と呼ばれるようになるが、ドンガン語と呼ばれる彼らの話す漢語の一種もかつてはアラビア文字で書かれていた。また、中国国内のドンシャン族とサラール族も、アラビア文字による自言語表記を行っている。
スペイン語も、主に国内のイスラム教徒の間においてアラビア文字で書かれたことがある。
アラビア文字はもともと子音のみで語根が決まるセム系言語のために作られた文字であった、同じセム系文字を起源とするヨーロッパのアルファベットが文字の転用により母音を全て書き分ける方向に向かったのに対し、アラビア文字はそのような発展をしなかった。セム系言語に限れば、文脈で母音の読み方はほぼ決定するため、アラビア文字は合理的な文字といえる。しかしセム系言語とはまったく違った言語的特徴を有するペルシア語、ヒンドゥスターニー語、トルコ語(オスマン語)、マレー語などに導入された際はこの特徴が逆に不便と考えられることが多い。実際にはこれらの言語でもアラビア文字の改良は主として子音の追加、転用にとどまり、母音の完全な表記へと進むことは少なかった。母音の完全表記に至ったのはウイグル語やクルド語等である。

蓮實 重彥

2019-09-15 02:17:31 | 🇫🇷文学
1930~50年代[edit source]
1936年 - 東京府(現・東京都)麻布区(現・港区)六本木町(現・六本木)に生まれる。父は美術史家の蓮實重康。
1943年 - 学習院初等科へ入学。
1949年 - 学習院中等科へ進学。一年生のころに「同窓の三島由紀夫の『仮面の告白』などを読み、その運動神経のなさを軽蔑する」[1]。陸上競技部に入り、円盤投げで新宿区で優勝。東京都では5位になった。
1952年 - 学習院高等科へ進学。
1955年 - 大学受験に失敗。研数学館で浪人生活を送る。
1956年 - 東京大学教養学部文科二類(現・三類)へ入学。
1958年 - 東京大学文学部仏蘭西文学科へ進学。
1970年代[edit source]
1970年4月、東京大学教養学部講師に就任。立教大学非常勤講師を併任し映画表現論を担当。また、同年より蓮實の翻訳した『ゴダール全集』『ゴダール全シナリオ集』(柴田駿監訳)、『ゴダール全エッセイ集』(柴田駿監訳、保苅瑞穂との共訳)の刊行が開始。
1971年 - パリ第7大学に日本語教師として着任。約1年間をパリで過ごす。
1973年7月、翻訳したジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』が刊行される。
1974年、『批評あるいは仮死の祭典』刊行。
1975年 - 東京大学教養学部で映画論ゼミを開講。
1977年5月、『反=日本語論』刊行。
1978年、『反=日本語論』で第29回読売文学賞を受賞[2]。2月、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』刊行。10月、『夏目漱石論』刊行。
1979年には1月『蓮實重彦の映画の神話学』、2月『映像の詩学』、5月『シネマの記憶装置』、6月には山田宏一と共訳したフランソワ・トリュフォー『映画の夢 夢の批評』、10月『「私小説」を読む』、11月『表層批評宣言』、12月にも山田と共訳したトリュフォー著『わが人生 わが映画』を刊行。
1980年代[edit source]
1985年、『表層批評宣言』刊行。9月、『話の特集』での連載をまとめたもので、単行本全体がワンセンテンスから成る『シネマの煽動装置』を刊行。
2000年代[edit source]
2002年11月から翌年2月にかけて、仙台市青葉区のせんだいメディアテークにて連続講演「蓮實重彦 映画への不実なる誘い」を行う。第1回「映画における国籍」2002年11月23日、第2回「映画における演出」2002年11月24日、第3回のための参考上映『映画史』("HISTOIRE(S) DU CINEMA")2003年2月9日、第3回「映画における歴史」2003年2月15日。この講演に関連して、「さまざまな角度から<映画の21世紀>に光をあてるべく」、ホームページ『あなたに映画を愛しているとは言わせない』が開設された。
2004年秋より季刊『InterCommunication』にて連載開始。
2007年3月、『「赤」の誘惑 フィクション論序説』を発表[3]。秋、『InterCommunication』での連載が終了。3年におよんだ連載は翌年11月に刊行される『ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察』にまとめられる。
2008年、7年ぶりとなる批評集『映画崩壊前夜』を発表する[4]。
2010年代[edit source]
2014年、大著『「ボヴァリー夫人」論』が刊行された[5]。
2016年、小説『伯爵夫人』で第29回三島由紀夫賞を受賞した[6]。
エピソード[edit source]
立教大学非常勤講師時代の「映画表現論」の教え子として映画監督の黒沢清、青山真治[7]、周防正行、ロックミュージシャンの佐野元春[8]などがいる。
三島由紀夫賞受賞の記者会見において不機嫌であったことから、受賞を喜んでいるかと記者から問われると、「はた迷惑な話だと思っております。80歳の人間にこのような賞を与えるという機会が起こってしまったことは、日本の文化にとって非常に嘆かわしいことだと思っております」と答え、いしいしんじのような若手が受賞に相応しいとし、自分を選んだことを「暴挙」とまで言い放った。記者から、蓮實自身が80歳の黒田夏子を早稲田文学新人賞に選び、次いで黒田が芥川龍之介賞を受賞したことを問われると、年齢的な若さの話をしてるのではなく、黒田自身も作品も若々しいので一切問題ないと答えた[9]。
この蓮實の受賞会見を受け、6年前に同じ賞を受賞した東浩紀は、事前に主催者側から「もし受賞したらお受けするつもりはありますか」という念押しの電話がかかってくることを明かした上で、蓮實の態度を「何十年も繰り返されてきた『芸風』」だとして、「かっこ悪いからやめればいいのに」という意見を自身のTwitterで述べた[10]。辻仁成も、受賞者には必ず出版社から事前に確認連絡が来ることを指摘し、本当に迷惑ならばその段階で辞退するべきだったとして、蓮實が予め受賞を受け入れながら「はた迷惑」だと言うことこそ「暴挙」であり、「若手に失礼」だと自身のTwitterでコメントした[11][12]。蓮實のインタヴューを受けたこともある北野武は、『新・情報7days ニュースキャスター』で「いいねぇ、蓮實さん。切れ味鋭いねぇ」と述べて、この会見を称賛した[13]。石原千秋は『産経ニュース』の「文芸時評」において、蓮實の言葉には「私を作家として扱うな」と「質問するなら私の本ぐらい読んでおけ」という2つのメッセージが込められているのだろう、と分析した[14]。
著書[edit source]
『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房、1974
『反=日本語論』筑摩書房、1977 (読売文学賞受賞)。のちちくま文庫、ちくま学芸文庫
『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』朝日出版社、1978 のち河出文庫
『夏目漱石論』青土社、1978 のち福武文庫、講談社文芸文庫
『蓮實重彦の映画の神話学』泰流社、1979、のち『映画の神話学』ちくま学芸文庫
『映像の詩学』筑摩書房、1979 のちちくま学芸文庫
『表層批評宣言』筑摩書房、1979 のちちくま文庫
『「私小説」を読む』中央公論社、1979、のち講談社文芸文庫
『大江健三郎論』青土社、1980
『事件の現場 言葉は運動する』朝日出版社、1980
『小説論=批評論』青土社、1982(のち改題『文学批判序説 小説論=批評論』、河出文庫)
『映画 誘惑のエクリチュール』冬樹社、1983 のちちくま文庫
『監督 小津安二郎』筑摩書房、1983(仏語・韓国語訳刊)、増補版2003。のちちくま学芸文庫
『物語批判序説』中央公論社、1985 のち新版、中公文庫
『シネマの記憶装置』フィルムアート社、1985 1997年2月に新装版刊行
『マスカルチャー批評宣言 物語の時代』冬樹社、1985
『映画はいかにして死ぬか 横断的映画史の試み』フィルムアート社、1985
『シネマの煽動装置』話の特集、1985
『凡庸さについてお話させていただきます』中央公論社、1986
『陥没地帯』(小説)哲学書房、1986 のち河出文庫
『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』青土社、1988(芸術選奨文部大臣賞受賞)、のちちくま学芸文庫・講談社文芸文庫、各上下
『映画からの解放 小津安二郎『麦秋』を見る』河合ブックレット、1988
『小説から遠く離れて』日本文芸社、1989 のち河出文庫
『饗宴』1-2(対談集)日本文芸社、1990
『帝国の陰謀』日本文芸社、1991
『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』筑摩書房、1993
『映画巡礼』マガジンハウス、1993
『絶対文藝時評宣言』河出書房新社、1994 のち河出文庫
『魂の唯物論的な擁護のために』日本文芸社、1994
『オペラ・オペラシオネル』(小説)河出書房新社、1994
『映画に目が眩んで 口語篇』中央公論社、1995
『知性のために 新しい思考とそのかたち』岩波書店、1998
『齟齬の誘惑』東京大学出版会、1999
『映画狂人シリーズ』(全10巻)
映画狂人日記 河出書房新社、2000
映画狂人、神出鬼没 河出書房新社、2000
帰ってきた映画狂人 河出書房新社、2001
映画狂人、語る。 河出書房新社、2001
映画狂人、小津の余白に 河出書房新社、2001
映画狂人シネマ事典 河出書房新社、2001
映画狂人シネマの煽動装置 河出書房新社、2001
映画狂人のあの人に会いたい 河出書房新社、2002
映画狂人万事快調 河出書房新社、2003
映画狂人最後に笑う 河出書房新社、2004
『私が大学について知っている二、三の事柄』東京大学出版会、2001
『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』NTT出版、2004
『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』青土社、2004
『魅せられて 作家論集』河出書房新社、2005
『ゴダール革命』筑摩書房、2005
『表象の奈落 フィクションと思考の動体視力』青土社、2006
『「赤」の誘惑 フィクション論序説』新潮社、2007
『ゴダール・マネ・フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』NTT出版、2008
『映画崩壊前夜』青土社、2008
『映画論講義』東京大学出版会、2008
『随想』新潮社、2010
『映画時評2009-2011』講談社、2012
『「ボヴァリー夫人」論』筑摩書房、2014 
『「ボヴァリー夫人」拾遺』羽鳥書店、2014
『伯爵夫人』新潮社、2016
共編著[edit source]
『オールド・ファッション-普通の会話-(東京ステーションホテルにて)』江藤淳との対談 中央公論社、1985、中公文庫 1988
『シネマの快楽』武満徹との対談 リブロポート、1986、河出文庫、2001
『闘争のエチカ』柄谷行人との対談 河出書房新社、1988、河出文庫、1994
『映画千夜一夜』淀川長治、山田宏一との鼎談 中央公論社、1988、中公文庫(上下)、2000
小津安二郎物語 厚田雄春共著 筑摩書房、1989(リュミエール叢書)
読売巨人軍再建のための建白書 草野進・渡部直己 1989(角川文庫)
成瀬巳喜男の設計 美術監督は回想する 中古智共著 筑摩書房、1990(リュミエール叢書)
シネクラブ時代 淀川長治共編 フィルムアート社、1990
光をめぐって 映画インタビュー集 編著 筑摩書房、1991(リュミエール叢書)
ミシェル・フーコーの世紀 渡邊守章共編 筑摩書房、1993
いま、なぜ民族か 山内昌之共編 東京大学出版会〈UP選書〉、1994
誰が映画を畏れているか 山根貞男共著 講談社、1994
リュミエール元年 ガブリエル・ヴェールと映画の歴史 編著 筑摩書房、1995
文明の衝突か、共存か 山内昌之共編 東京大学出版会〈UP選書〉、1995
地中海終末論の誘惑 山内昌之共編 東京大学出版会〈UP選書〉、1996
われわれはどんな時代を生きているか 山内昌之共著 講談社現代新書、1998
20世紀との訣別 歴史を読む 山内昌之共著 岩波書店、1999
蓮實養老縦横無尽 学力低下・脳・依怙贔屓 養老孟司 哲学書房、2001
傷だらけの映画史 ウーファからハリウッドまで 山田宏一との対談 中公文庫、2001
「知」的放蕩論序説 共著 河出書房新社、2002
国際シンポジウム小津安二郎 山根貞男・吉田喜重共編 朝日選書、2004
成瀬巳喜男の世界へ リュミエール叢書 山根貞男共編 筑摩書房、2005
国際シンポジウム溝口健二 山根貞男共編著 朝日選書、2007
ユリイカ 詩と批評臨時増刊号 総特集蓮實重彦 2017年10月号、青土社
翻訳[edit source]
人生論書簡(フロオベール)世界人生論全集 第10 筑摩書房、1963
フローベール全集 第8 書簡 第1 平井照敏共訳 野を越え・磯を越えて(抄) 筑摩書房、1967
去年マリエンバートで・不滅の女 アラン・ロブ=グリエ 天沢退二郎共訳 筑摩書房、1969
ゴダール全集 1–4 柴田駿 竹内書店、1970-71
世界文学全集 フロオベエル 三つの物語 講談社、1971
『マゾッホとサド』ジル・ドゥルーズ 晶文社、1973
『フーコーそして / あるいはドゥルーズ』フーコー、ドゥルーズ 小澤書店、1975
映画の夢夢の批評 フランソワ・トリュフォー 山田宏一共訳 たざわ書房、1979
映像の修辞学 ロラン・バルト 杉本紀子共訳 朝日出版社、1980(エピステーメー叢書)
トリュフォーそして映画 山田宏一共訳 話の特集、1980
『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』山田宏一共訳、フランソワ・トリュフォー、アルフレッド・ヒッチコックなど。晶文社、1981
映画[edit source]
『ドキュメント黒澤明 A・K』クリス・マルケル、1985(ナレーションを担当)『黒澤明 創造の軌跡 黒澤明ザ・マスターワークス補完映像集』に収録
編集[edit source]
リュミエール - 1985年より1988年の廃刊(14号)まで従事。
ルプレザンタシオン - 高橋康也・渡辺守章・蓮實が編集を行った。全5号。
1991年春号(001―「特集:なぜ、いま<表象>か」高橋・渡辺・蓮實による討議。ジル・ドゥルーズ、中沢新一、山田登世子らが寄稿)
1991年秋号(002―「特集:<表象>の舞台」)
1992年春号(003―「特集:狂気/身体/表象」ミシェル・フーコー、スラヴォイ・ジジェク、香山リカ、如月小春、ブルーノ・タウトらが寄稿。荒川修作×小林康夫、古井由吉×松浦寿輝の対談。特別インタビュー:北野武=ビートたけしVS蓮實重彦「こんどは意外に真剣にやるかもわかんねえな」)
1992年秋号(004―「特集:慎み、ポルノグラフィックに」)
1993年秋号(005―「特集:政治と批判」松浦寿輝「折口信夫論」、ミシェル・フーコー「啓蒙とは何か」、ジャン=リュック・ゴダール ロングインタビュー「一九九二年十二月二日、ある水曜日のこと」。中井久夫、守中高明、石光泰夫、石井康史、入沢康夫らが寄稿。浅田彰・大澤真幸・松浦寿輝・小林康夫による討議「ポリティックスの新しい地平」)

Michel Foucault

2019-09-15 02:00:59 | Nietzsche

☆ 一次文献
◇ 単著・編著
◇ コレージュ・ド・フランス講義録
◇ ミシェル・フーコー思考集成
◇ その他
◇ 1次文献に関するウェブサイト
☆ 二次文献
◇ 邦語
◇ 邦語以外
☆ 関連雑誌
☆ 引用
☆ 関連催しもの

◇confession|告白・告解
◇discipline|規律・訓練

一次文献

単著・編著

◆は著書, ◇は編著 ※のあるものは生存学資料室にあり(以下同じ)

◆Foucault, Michel 1954 Maladie mentale et personnalité, Presses universitaires de France. =19971210 中山 元 訳 『精神疾患とパーソナリティ』,筑摩書房,265p. ISBN-10:4480083944 ISBN-13:978-4480083944 \840+税 [amazon]/[kinokuniya] *『精神疾患と心理学』との異同の指摘を含む。
◆Foucault, Michel 1961 Folie et déraison: histoire de la folie à l'âge classique, Plon →増補版 Histoire de la folie à l'âge classique: Folie et déraison, Gallimard. =197502 田村 俶 訳,『狂気の歴史――古典主義時代における』,新潮社,621p. ISBN-10: 4105067028 ISBN-13: 978-4105067021 \6300 [amazon]/[kinokuniya] p0601, c0105 ※
◆Foucault, Michel 1962 Maladie mentale et psychologie, Presses universitaires de France, 104p. =19700205 神谷 美恵子訳  『精神疾患と心理学』,みすず書房,173p. ISBN-10:4622023407 ISBN-13: 978-4622023401 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆Foucault, Michel 1963 Raymond Roussel, Gallimard. =197501,豊崎光一訳 『レーモン・ルーセル』,法政大学出版局,261p. ISBN-10: 4588000608 ISBN-13: 9784588000607 \3200+税 [amazon]/[kinokuniya] p0601, c0105 ※
◆Foucault, Michel 1963 Naissance de la clinique : une archéologie du regard médical, Presses universitarires de France. =19691230 神谷 美恵子 訳 『臨床医学の誕生』,みすず書房,322p. ISBN-10: 4622022176 ISBN-13: 9784622022176 ※→20111110 神谷 美恵子 訳 『臨床医学の誕生』,みすず書房,392p. ISBN-10: 4622083418 ISBN-13: 978-4622083412 \3800+税 [amazon]/[kinokuniya]
→(改訂版)Foucault, Michel 1971 Naissance de la clinique: une archéologie du regard médical, Presses Universitaires de France.
◆Foucault, Michel 1966 Les mots et les choses: une archéologie des sciences humaines, Gallimard. =19740605 渡辺一民・佐々木明 訳,『言葉と物――人文科学の考古学』,新潮社,413p. ISBN-10: 410506701X ISBN-13: 9784105067014 \4500 [amazon]/[kinokuniya]  ※原書・翻訳共
◆Foucault, Michel 1969 L'archéologie du Savoir, Gallimard. =2012 =20120906,慎改 康之 訳 『知の考古学』,河出書房新社,440p. ISBN-10: 4309463770 ISBN-13: 9784309463773 \1300+税 [amazon]/[kinokuniya]
cf. =1970 中村 雄二郎 訳 『知の考古学』,河出書房新社,401p. ASIN: B000J9BR22
→19810210 中村 雄二郎 訳 『知の考古学』,改訳新版,現代思想選10,河出書房新社,367p. ISBN-10:4309707106 ISBN-13:978-4309707105
→19950825 中村 雄二郎 訳 『知の考古学』,改訳新版,河出・現代の名著,河出書房新社,372p. ISBN-10:4309706118 ISBN-13:978-4309706115
→20060221 中村 雄二郎 訳 『知の考古学』,新装版,河出書房新社,372p. ISBN-10:430924369X ISBN-13:978-4309243696
◆Foucault, Michel 1966 La pensée du dehors, Montpelier: Fata Morgana. (=1978, 豊崎光一訳『外の思考――ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』朝日出版社. →=1999, 豊崎光一訳「外の思考」蓮實重彦・渡辺守章監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編『文学・言語・エピステモロジー』所収. )
◆Foucault, Michel 1970, Sept propos sur le septième ange, Montpelier: Fata Morgana.(=1999, 豊崎光一・清水正訳「第七天使をめぐる七言」蓮實重彦・渡辺守章監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編『歴史学/系譜学/考古学――1968-1970』所収. )
◆Foucault, Michel 1971 L'ordre du discours, Gallimard. (=1972, 中村雄二郎訳『言語表現の秩序』,河出書房新社. ) ※原書・翻訳共
◇Foucault, Michel ed., 1973 Moi, Pierre Rivière, ayant égorgé ma mère, ma soeur, et mon frère... : un cas de parricide au XIXe siécle, Gallimard. =197509, 岸田 秀・久米 博 訳 『ピエール・リヴィエールの犯罪――狂気と理性』,河出書房新社,291p.
→19950825 岸田 秀・久米 博 訳 『ピエール・リヴィエールの犯罪――狂気と理性』,改訂版新装,河出・現代の名著,河出書房新社,291p. ISBN-10:4309706134 品切
=20100820,慎改 康之・柵瀬 宏平・千條 真知子・八幡 恵一 訳 『ピエール・リヴィエール――殺人・狂気・エクリチュール』,河出書房新社,502p. ISBN-10: 4309463398 ISBN-13: 978-4309463391 \1300+税 [amazon]/[kinokuniya]
◆Foucault, Michel 1973 Ceci n'est pas une pipe, Montpelier: Fata Morgana. ※
=豊崎 光一・清水 正 訳 1986 『これはパイプではない』 哲学書房. ;=1999, 岩佐 鉄男 訳「これはパイプではない」蓮實重彦・渡辺守章監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編『歴史学/系譜学/考古学――1968-1970』所収. )
◆Foucault, Michel 1975, Surveiller et punir: naissance de la prison, Gallimard(=1977, 田村俶訳『監獄の誕生――監視と処罰』新潮社. ※ )(=1977, Alan Sheridan, trans. Discipline and Punish: The Birth of the Prison, New York: Pantheon Books, 1977. ※)
 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆Foucault, Michel 1976 La volonté de savoir, Gallimard. (=1986, 渡辺守章訳『知への意志――性の歴史I』新潮社. ) ※原書・翻訳共
(=1977, Robert Hurley, trans. The History of Sexuality Vol.I: An Introduction, New York: Pantheon Books, 1978.)
◇Foucault, Michel ed., 1979 Herculine Barbin dite Alexina B., Gallimard. (=1980, 蓮實重彦訳「両性具有者と性」『海』137: 322-328.;1998, 浜名恵美訳「両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記に寄せて」 バルザック ほか『書物の王国9 両性具有』国書刊行会:107-113.) ※翻訳(copy) *フーコーの序文のみ
◇Foucault, Michel ed., 1979 Les machines à guerir, aux origines de l'hôpital moderne,Bruxelles: P. Mardaga
◇Farge, Arlette, et Michel Foucault ed., 1982 Le désordre des familles : lettres de cachet des Archives de la Bastille au XVIIIe siècle, Gallimard.
◆Foucault, Michel 1984 L'usage de plaisirs, Gallimard. (=1986, 田村俶訳『性の歴史Ⅱ――快楽の活用』新潮社. ) ※原書・翻訳共
◆Foucault, Michel 1984 Le souci de soi, Gallimard. (=1986, 田村俶訳『性の歴史Ⅲ――自己への配慮』新潮社. ) ※原書・翻訳共

コレージュ・ド・フランス講義

*原著刊行済は◆、未刊行は◇

◆1970-1971 『知への意志』
Foucault, Michel 2011 Leçon sur la volonté de savoir. Suivi de Le savoir d'oedipe: cours au Collège de France (1970-1971), Gallimard/Le Seuil.
◇1971-1972 『刑罰の理論と制度』 (Théories et Institutions pénales)
◆1972-1973 『懲罰社会』
Foucault, Michel 2013 La Société punitive: cours au Collège de France (1972-1973), Gallimard/Le Seuil.
◆1973-1974 『精神医学の権力』
Foucault,Michel 2003 Le pouvoir psychiatrique: cours au Collége de France (1973-1974), Gallimard/Le Seuil
=20060210 慎改 康之訳 『精神医学の権力:コレージュ・ド・フランス講義1973-1974年度(ミシェル・フーコー講義集成4)』,筑摩書房 476p. ISBN-10: 4480790446 ISBN-13: 978-4480790446 \5800+税 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆1974-1975 『異常者たち』
Foucault, Michel 1999 Les Anormaux: cours au Collège de France (1974-1975), Gallimard/Le Seuil
=20021025 慎改 康之訳 『異常者たち:コレージュ・ド・フランス講義1974-1975年度(ミシェル・フーコー講義集成5)』,筑摩書房 414p. ISBN-10: 4480790454 ISBN-13: 978-4480790453 \5600+税 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆1975-1976 『社会は防衛しなければならない』
Foucault, Michel 1997 Il faut défendre la société: cours au Collège de France (1975-1976), Gallimard/Le Seuil,
=20070825 石田 英敬・小野 正嗣訳 『社会は防衛しなければならない:コレージュ・ド・フランス講義1975-1976年度(ミシェル・フーコー講義集成6)』,筑摩書房,304+4p ISBN-10:4480790462  ISBN-13:9784480790460  \5040[amazon][kinokuniya] s03 ※
◆1977-1978 『安全・領土・人口』
Foucault, Michel 2004 Securité, Territoire, Population: cours au Collège de France (1977-1978), Gallimard/Le Seuil
=20070625 高桑 和巳訳 『安全・領土・人口:コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度(ミシェル・フーコー講義集成7)』, 筑摩書房 541p. ISBN-10: 4480790470 ISBN-13: 978-4480790477 \5775 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆1978-1979 『生政治の誕生』
Foucault, Michel 2004 Naissance de la biopolitique: cours au Collège de France (1978-1979), Gallimard/Le Seuil
=20080825 慎改 康之 訳 『生政治の誕生:コレージュ・ド・フランス講義1978-1979年度(ミシェル・フーコー講義集成8)』,筑摩書房 421p. ISBN-10: 4480790489 ISBN-13: 978-4480790484 \5775 [amazon]/[kinokuniya] s03 ※
◆1979-1980 『生者の統治』 Foucault, Michel 2012 Du Gouvernement des vivants: cours au Collège de France (1979-1980), Gallimard/Le Seuil.
◇1980-1981 『主体性と真理』 (Subjectivité et vérité)
◆1981-1982 『主体の解釈学』
Foucault, Michel 2001 L'herméneutique du sujet: cours au Collège de France (1981-1982), Gallimard/Le Seuil.
=20040205 廣瀬 浩司・原 和之 訳 『主体の解釈学:コレージュ・ド・フランス講義 1981-1982年度(ミシェル・フーコー講義集成11)』,筑摩書房 634p. ISBN-10: 4480790519 ISBN-13: 978-4480790514 \6720 [amazon]/[kinokuniya] c0192 ※
◆1982-1983 『自己と他者の統治』
Foucault, Michel 2008 Le Gouvernement du soi et des autres: cours au Collège de France (1982-1983), Gallimard/Le Seuil
=20100424 阿部崇訳 『自己と他者の統治:コレージュ・ド・フランス講義1982-1983年度(ミシェル・フーコー講義集成12)』,筑摩書房 505p. ISBN-10: 4480790527 ISBN-13: 978-4480790521 \6400+税 [amazon]/[kinokuniya]
◆1983-1984 『真理の勇気』
Foucault, Michel 2009 Le Courage de la vérité. Le Gouvernement du soi et des autres II: cours au Collège de France (1983-1984), Gallimard/Le Seuil.
=20120220 慎改 康之 訳 『真理の勇気:コレージュ・ド・フランス講義1983-1984年度(ミシェル・フーコー講義集成13)』,筑摩書房 459p. ISBN-10: 4480790535 ISBN-13: 9784480790538 \5900+税 [amazon]/[kinokuniya]

*原著はGallimard/Le Seuilから1997年に刊行開始。日本語は筑摩書房が版元

ミシェル・フーコー思考集成

Foucault, Michel 1994 Dits et écrits, 4 tômes, Gallimard.(=1998-2002, 蓮實重彦・渡辺守章監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編『ミシェル・フーコー思考集成』全10巻, 筑摩書房. ) ※

『ミシェル・フーコー思考集成 全10巻』筑摩書房
蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編
◆Ⅰ1954-1963 『狂気・精神分析・精神医学』
◆Ⅱ1965-1967 『文学・言語・エピステモロジー』
◆Ⅲ1968-1970 『歴史学・系譜学・考古学』
◆Ⅳ1971-1973 『規範・社会』
◆Ⅴ1974-1975 『権力・処罰』
◆Ⅵ1976-1977 『セクシュアリティ・真理』
◆Ⅶ1978    『知・身体』
◆Ⅷ1979-1981 『政治・友愛』
◆Ⅸ1982-1983 『自己・統治性・快楽』
◆Ⅹ1984-1988 『倫理・道徳・啓蒙』

* 原著収録のすべてのテキストに記された番号に対応する形で日本語訳が掲載されているが, 実際には全訳でないもの(収録にあたって新たに訳出したわけではなく、既存の訳をそのまま収録している。主に来日時のインタビューや講演)も含まれる。

『フーコーコレクション』ちくま学芸文庫(全6巻+1巻)
◆フーコー・ガイドブック
◆1 狂気・理性
◆2 文学・侵犯
◆3 言説・表象
◆4 権力・監禁
◆5 性・真理
◆6 生政治・統治

* 第1巻は著作のごく簡単な要約と『思考集成Ⅰ』所収の年譜、以降は『思考集成』の選集

その他

◇英語版独自編集(インタビュー、論文、講演など)
◆Foucault, Michel Morris, Meaghan and Paul Patton, eds. 1979 Michel Foucault: Power, Truth, Strategy, Sydney: Feral Publications.
◆Foucault, Michel Gordon, Colin ed., Gordon, Colin et al, trs. 1980 Power/knowledge: selected interviews and other writings 1972-1977, New York: Pantheon. ※
◆Foucault, Michel Rabinow, Paul ed. 1984 The Foucault Reader, New York: Pantheon Books.
◆Foucault, Michel Kritzman, Lawrence D. ed. 1988 Politics, Philosophy, Culture: Interviews and Other Writings 1977-1984, New York: Routledge.
◆Martin, Luther H., Huck Gutman and Patrick H. Hutton eds. 1988 Technologies of the self: a seminar with Michel Foucault, Amherst: University of Massachusetts Press. =19900129 田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』,セレクション21,岩波書店 249p. ISBN-10: 4000040561 ISBN-13: 978-4000040563
→19900907 田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』,セレクション21,岩波書店 249p. ISBN-10: 4000264095 ISBN-13: 978-4000264099
→20040116 田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』,岩波現代文庫 278p. ISBN-10: 4006001169 ISBN-13: 978-4006001162
◆Foucault, Michel Sylvère Lotringer ed., Hochroth, Lysa and John Johnston trs. 1996 Foucault Live (Interviews 1961-1984) , New York: Semiotext(e).
◆Foucault, Michel Sylvère Lotringer ed., Hochroth, Lysa and Catherine Porter trs. 1997 The politics of Truth , New York: Semiotext(e).
◆Foucault, Michel Joseph Pearson ed., 2001 Fearless speech , New York: Semiotext(e). =200209 中山 元 訳 『真理とディスクール――パレーシア講義』,筑摩書房 274p. ISBN-10: 448084712X ISBN-13: 978-4480847126 \2800+税 [amazon]/[kinokuniya]

◇その他1次文献、資料集
◆Perrot, Michelle ed. 1980 L'Impossible prison: recherches sur le système pénitentiaire au XIXe siècle, Seuil.
◆Foucault, Michel 1990, "Qu'est-ce que la critique ? [Critique et Aufklärung] (27 mai 1978)," Bulletin de la Société française de Philosophie, 84(2): 35-63. (=2008, 中山元訳「批判と啓蒙」ミシェル・フーコー『私は花火師です』筑摩書房, 69-140. )
◆Foucault, Michel 1981 Omnes et Singulatim: Vers une Critique de la Raison Politique, the University of Utha Press. =19930225 北山 晴一・山本 哲士 『フーコーの〈全体的なものと個的なもの〉』,三交社,152p. ISBN-10: 4879191124 ISBN-13: 9784879191120 \1748 [amazon]/[kinokuniya] ※ p
◆Artières, Philippe, Laurent Quéro, et Michelle Zancarini-Fournel (édition établie et présentée par) 2003 Le Groupe d'information sur les prisons: archives d'une lutte 1970-1972, Editions de l'IMEC.
◆Foucault, Michel Saison, Maryvonne ed. 2004 La peinture de Manet, suivi de Michel Foucault, un regard, Editions du Seuil. (=2006, 阿部崇訳『マネの絵画』筑摩書房. )
◆Foucault, Michel and Roger-Pol Droit 2004 Michel Foucault: Entretiens, Odile Jabob. (=2008,中山元訳『私は花火師です』筑摩書房. )※2編のみ訳出
◆Foucault, Michel, Davidson, Arnold I., et Frédéric Gros eds. 2004 Philosophie: anthologie, Gallimard. ※フーコーの著作とDits et écritsからの抜粋集
◆ミシェル・フーコー/渡辺 守章 2007, 『哲学の舞台』(増補改訂版)朝日出版社.
◆Defert, Daniel, François Ewald, et Frédéric Gros eds. 2008 E. Kant, Anthropologie d'un point de vue pragmatique. précédé de Michel Foucault, Introduction à l'Anthropologie, Vrin. =201003 王寺 賢太 訳『カントの人間学』,新潮社,229p. ISBN-10: 4105067079 ISBN-13: 978-4105067076 2400+税 [amazon]/[kinokuniya]
※邦訳はフーコーの論文のみ
◆Philippe, Artières, Jean-François Bert, Pierre Lascoumes, Pascal Michon, Luca Paltrinieri, Ariane Revel, Judith Revel, et Jean-Claude Zancarini (textes choisis, traduits et présentés par) 2009 Les Mots et les Choses de Michel Foucault. Regards critiques 1966-1968, Caen: Presses universitaires de Caen/Saint-Germain-la-Blanche-Herbe: IMEC éditeur.
◆Philippe, Artières, Jean-François Bert, Pierre Lascoumes, Pascal Michon, Luca Paltrinieri, Ariane Revel, Judith Revel, et Jean-Claude Zancarini.(textes choisis, traduits et présentés par) 2010 Surveiller et Punir de Michel Foucault : Regards critiques 1975-1979, Caen: Presses universitaires de Caen/Saint-Germain-la-Blanche-Herbe: IMEC éditeur.

1次文献に関するウェブサイト

◆IMEC: Foucault, Michel(1926-1984) [外部リンク(ウェブページ)] http://www.imec-archives.com/fonds_archives_fiche.php?i=FCL
フーコーの一次資料と関連資料は、Institute Mémoires pour l'Éditions contemporaines (IMEC、フランス・カーン市)に所蔵されている。所蔵資料の一覧表もこのページからPDFファイルで閲覧できる。
◆Richard A. Lynch, Michel Foucault's shorter works in English Bibliography [外部リンク(PDFファイル)] http://www.michel-foucault.com/bibmf/mfbiblio.pdf
※全体は3部構成。1)本編:Dits et écrits所収論文の英訳(英語版は抄訳のため)の所在、2)Appendix I:DE原著第4巻(=Quarto版第2巻)にある追加文献表(DE未収録分)英訳の所在、3)Appendix II:上記1、2に含まれない文献(英語のみ含む)の英訳の所在。

二次文献

邦語(単著)

◆1984 桑田 禮彰・福井 憲彦・山本 哲士 編 『ミシェル・フーコー』 新評論 ※
◆19871215 山本 哲士 『ディスクールの政治学――フーコー, ブルデュー, イリイチを読む』 新曜社, 429p. 2900
◆19890520 田村 俶  『フーコーの世界』 世界書院, 240p. 杉並135-5
◆内田 隆三 19900320 『ミシェル・フーコー――主体の系譜学』,講談社,212p. ISBN-10:4061489895 ISBN-13: 978-4061489899 \756 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆金森 修 19940630 『フランス科学認識論の系譜――カンギレム・ダゴニェ・フーコー』,勁草書房,321p. ISBN-10:4326252958 \3000[amazon]/[kinokuniya] ※
◆中山 元 199606 『フーコー入門』,ちくま新書,238p. ISBN-10: 4480056718 ISBN-13: 978-4480056719 \777 [amazon]/[kinokuniya] ※ p0206
◆山田 富秋 20000630 『日常性批判――シュッツ・ガーフィンケル・フーコー』,せりか書房,209+24p.  ISBN-10: 4796702261 ISBN-13: 978-4796702263 \2625 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆関 良徳 20010405 『フーコーの権力論と自由論――その政治哲学的構成』,勁草書房,243,20p. ISBN-10: 4326351233 ISBN-13: 978-4326351237 \3465 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆重田 園江 20030915 『フーコーの穴――統計学と統治の現在』,木鐸社.281p. ISBN-10: 4833223376 ISBN-13: 978-4833223379 [amazon]※
◆檜垣 立哉 20060510 『生と権力の哲学』,筑摩書房,252p. ISBN-10:448006303X ISBN-13:978-4480063038 \777 [amazon]/[kinokuniya] bp fm05 ※
◆沢野 雅樹 20060623 『死と自由――フーコー、ドゥルーズ、そしてバロウズ』,青土社,257p. ISBN-10:4791758188 ISBN-13:978-4791758180 \2310 [amazon]/[kinokuniya] ※ l03 d01 fm05
◆小畑 清剛 20070517 ,ナカニシヤ出版,308p. ISBN-10: 4779501407 ISBN-13: 978-4779501401 2730 [amazon]/[kinokuniya] ※ b
◆芹沢 一也・高桑 和巳編 20070910 『フーコーの後で――統治・セキュリティ・闘争』 慶應義塾大学出版会,278p.  ISBN-10: 4766414047 ISBN-13: 978-4766414042 2100 [amazon] ※
◆箱田 徹 20130920 『フーコーの闘争――〈統治する主体〉の誕生』,慶應義塾大学出版会,320p. ISBN-10: 4766420667 ISBN-13: 9784766420661 \2500+税 [amazon]/[kinokuniya] ※

邦語(論文)

◆1980 杉山 光信 「権力概念の転換――社会科学にとってのフーコー」 『中央公論』1980-7→1983 杉山 光信 『思想とその装置2 現代フランス社会科学の革新』 新曜社,[1983b:1-22]
◆19841210 関 曠野  「(書評――桑田他『ミシェル・フーコー』)」 『日本読書新聞』19841210→関[1985:241-243](「フーコーとは何物なのか『ミシェル・フーコー』」)
 関 曠野 1985 『資本主義』 影書房  
◆19860520 金塚 貞文 「ポルグラフィーと身体, そしてオナニスムの仕掛け――フーコー『性の歴史』とからめて」 栗原他編[86:236-253]  
◆19861016 養老 孟司  「書評――M・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』 『週刊文春』1986-10-16→養老[198909:140-144](「フーコーの「知への意志」」)
 養老 孟司 19890925 『唯脳論』 青土社, 269p. 1600 三鷹114
◆198712 立岩 真也  「FOUCAULTの場所へ――『監視と処罰――監獄の誕生』を読む」, 『社会心理学評論』6, pp.91-108. (1987年12月) 70枚
◆19890820 野島 直子 「現代医学の「系譜学」――フーコーを読む」 中川編[89:234-243]  
◆19951231 栗栖 聡  「フーコー――権力ゲームの分析学」 藤原・飯島編[1995:355-374]
 藤原 保信・飯島 昇蔵 19951231 西洋政治思想史・Ⅱ』 新評論, 488p. 4429 ※
◆199612 米谷 園江 「ミシェル・フーコーの統治制研究」『思想』870 pp.77-105
◆19981001 酒井 隆史 「生に折り畳まれる死――フーコーの権力論を再考する」 『現代思想』26-12(1998-10):104-133 
◆19981122 堀 大幹  「身体論からみた主体の形成――精神分析を経由したフーコーの再解釈」 日本社会学会第71回大会報告 
◆200006 山田 富秋 『日常性批判─シュッツ・ガーフィンケル・フーコー』, せりか書房
◆20010515 園田 浩之  「行為としてのフーコー――構築主義/言説分析/オートポイエーシス」, 馬場靖雄編[2001:159-200]
 *馬場 靖雄 編 20010515 『反=理論のアクチュアリティー』, ナカニシヤ出版, 244p. 2500 ※
◆20010913 林田 幸広 「ポスト・フーコー的法権力の台頭――差延に感染する<否(ノン)>権力」 『九大法学』82:163-236
◆2005/05/25 立岩 真也 「死/生の本・5――『性の歴史』」(医療と社会ブックガイド・49)
 『看護教育』46-05:(医学書院)
◆2012/11/01 箱田 徹 「市民社会は抵抗しない――フーコー自由主義論に浮上する政治」、『情況』「思想理論編」1(201212別): 223-243 ※

※のあるものは生存学書庫にあり

邦語以外(単著)

☆伝記・評伝
◆Mauriac, Claude, [1988] 1976 Le Temps immobile, vol. 3: Et comme l'espérance est violente, Grasset.
◆Eribon, Didier 1989 Michel Foucault (1926-1984), Flammarion (=1991, 田村俶訳『ミシェル・フーコー伝』新潮社. )
◆Macey, David 1993 The Lives of Michel Foucault, London: Hutchinson.
◆Miller, James 1993 The Passion of Michel Foucault, New York: Simon and Schuster(=1998, 田村俶ほか訳『ミシェル・フーコー――情熱と受苦』筑摩書房. )
◆Colombel, Jeannette 1994 Michel Foucault: la clartè de la mort, Odile Jacob.
◆Eribon, Didier 1994 Michel Foucault et ses contemporains, Fayard.

☆研究書
【1970年代】
◆Guédez, Annie 1972 Foucault, Editions Universitaires. (=1975, 久重忠夫訳『ミシェル・フーコー』朝日出版社. )
◆Baudrillard, Jean 1977 Oublier Foucault, Auvers-sur-Oise: Galilée. (=1984, 塚原史訳『誘惑論序説――フーコーを忘れよう』国文社. )
◆Veyne, Paul, [1996] 1979 Comment on écrit l'histoire, suivi de Foucault révolutionne l'histoire, Seuil. (=1982, 大津真作『歴史をどう書くか――歴史認識論についての試論』法政大学出版局. )

【1980年代】
◆Dreyfus, Hubert L., and Paul Rabinow 1982 Michel Foucault: Beyond Structuralism and Hermeneutics, with an afterword by Michel Foucault, Chicago: University of Chicago Press. (=1996, 山形頼洋ほか訳『ミシェル・フーコー――構造主義と解釈学を超えて』筑摩書房. ) (=1984, Fabienne Durand-Bogaert, trans., Michel Foucault, un parcours philosophique: au-delà de l'objectivité et de la subjectivité, avec un entretien et deux essais de Michel Foucault, Gallimard. )
◆Badinter, Robert et al. eds. 1985 Michel Foucault: une histoire de la vérité, Syros. (=1986, 桜井直文訳『ミシェル・フーコー――真理の歴史』新評論. ※)
◆Kremer-Marietti, Angèle 1985 Michel Foucault: Archéologie et généalogie, Livre de Poche. (=1992, 赤羽研三ほか訳『ミシェル・フーコー――考古学と系譜学』新評論. ※) ◆Rajchman, John 1985 Michel Foucault: the Freedom of Philosophy, New York: Columbia University Press.(=1987, 田村俶訳『ミシェル・フーコー――権力と自由』岩波書店. )
◆Smart, Barry 1985 Michel Foucault =19910730 山本 学 訳 『ミシェル・フーコー入門』,新曜社,274p. ISBN: 4788503964 ISBN-13: 978-4788503960 ¥2625 [amazon]/[kinokuniya] ※ p
◆Blanchot, Maurice 1986 Michel Foucault tel que je l'imagine, Montpellier: Editions Fata Morgana. (=1986, 豊崎光一訳『ミシェル・フーコー――想いに映るまま』哲学書房. )
◆Deleuze,Gilles 1986 Foucault,Les Editions de Minuit =198710 宇野 邦一 訳 『フーコー』,河出書房新社,228p. ISBN-10:4309240976 ISBN-13:978-4309240978 \  [amazon] →199905 河出書房新社,新装版,228p. ISBN-10:4309242189 ISBN-13:978-4309242187 \  [amazon] →20070820 河出書房新社,河出文庫,263p. ISBN-10:4309462944 ISBN-13:978-4309462943 \1050 [amazon]
◆Hoy, David Couzens ed. 1986 Foucault: A Critical Reader, New York: Blackwell. (=1990, 椎名正博・椎名美智訳『フーコー――批判的読解』国文社 )
◆Merquior, José-Guilherme 1986 Foucault ou le nihilisme de la chaire, Presses Universitaires de France. (=1995, 財津理訳『フーコー――全体像と批判』河出書房新社. )
◆Certeau, Michel de 1987 Histoire et psychanalyse entre science et fiction, Gallimard. → Certeau, Michel de 2002 Histoire et psychanalyse entre science et fiction (Nouvelle édition revisée et augmentée, précédé de Luce Giard, " Un chemin non tracé "), Gallimard. (=2003, 内藤雅文訳『歴史と精神分析――科学と虚構の間で』法政大学出版局. )
◆Association pour le Centre Michel-Foucault 1989 Michel Foucault philosophe: rencontre internationale, Paris, 9, 10, 11 janvier 1988, Seuil.
◆Gary, Gutting 1989 Michel Foucault's archaeology of scientific reason, Cambridge: Cambridge University Press. (=1993, 金森 修・大谷隆昶訳『理性の考古学――フーコーと科学思想史』産業図書. ※)

【1990年代前半】
◆Bernauer, James W. 1990 Michel Foucault's Force of Flight: Towards An Ethics for Thought, New Jersey: Humanities Press International. (=1994, 中山元訳『逃走の力――フーコーと思考のアクチュアリティ』彩流社. )
◆Burchell, Graham, Colin Gordon and Peter Miller eds. 1991 The Foucault Effect: Studies in Governmentality: with Two Lectures by and an Interview with Michel Foucault, Chicago: The University of Chicago Press.
◆Rajchman, John 1991 Truth and Eros: Foucault, Lacan, and the Question of Ethics, New York: Routledge.
◆Giarded, Luce ed. 1992 Michel Foucault: Lire l'oeuvre, Grenoble: J. Millon.
◆Lazzeri, Christian, et Dominique Reynié eds. 1992 La raison d'Etat: politique et rationalité, Presse Universitaire de France.
◆Roudinesco, Elisabeth 1992 Penser la folie, Galilée.
◆Brossat, Alain ed. 1994 Michel Foucault: les jeux de la vérité et du pouvoir, Nancy: Presses universitaires de Nancy.
◆Adorno, Francesco Paolo 1996 Le Style du philosophe: Foucault et le dire-vrai, Éditions Kimé.
◆Gutting, Gary ed. 1994 The Cambridge Companion to Michel Foucault, New York: Cambridge University Press.
◆Kelly, Michael ed. 1994 Critique and Power: Recasting the Foucault/Habermas Debate, Cambridge, Mass.: MIT Press.
◆Smart, Barry ed. 1994-1995 Michel Foucault: Critical Assessments, 7 volumes, London: Routledge.
◆Halperin, David M. 1995 Saint Foucault: Towards A Gay Hagiography, New York: Oxford University Press.(=1997, 村山敏勝訳『聖フーコー――ゲイの聖人伝に向けて』太田出版. ) (=2000, Didier Eribon, trans., Saint Foucault, EPEL.)

【1990年代後半】
◆Barry, Andrew, Thomas Osborne and Nikolas Rose eds. 1996 Foucault and Political Reason: Liberalism, Neo-liberalism and Rationalities of Government, Chicago: University of Chicago Press.
◆Gros, Frédéric 1996 Michel Foucault, Presses universitaires de France. (=1998, 露崎俊和訳『ミシェル・フーコー』白水社. )
◆Davidson, Arnold I. ed. 1997 Foucault and His Interlocutors, Chicago: University of Chicago Press.
◆Fortier, Frances 1997 Les stratégies textuelles de Michel Foucault: un enjeu de véridiction, Québec, Nuit blanche.
◆Franche, Dominique ed. 1997 Au risque de Foucault, Editions du Centre Georges-Pompidou.
◆Gros, Frédéric 1997 Foucault et la folie, Presses universitaires de France. (=2002, 菊地昌実訳『フーコーと狂気』法政大学出版局. )
Monod, Jean-Claude 1997 Foucault: la police des conduites, Michalon.
◆Fimiani, Mariapaola, Nadine Le Lirzin, trans. 1998 Foucault et Kant: critique, clinique, éthique, L'Harmattan.
◆D'Alessandro, Lucio, et Adolfo Marinoed, Francesco Paolo Adorno et Nadine Le Lirzin, trans. 1998 Michel Foucault: trajectoires au coeur du présent, L'Harmattan.
◆Han, Béatrice 1998 L'ontologie manquée de Michel Foucault, Grenoble: J. Millon. (=2002. Edward Pile, trans., Foucault's Critical Project: Between the Transcendental and The Historical, Stanford, Calif.: Stanford University Press.)
◆Moss, Jeremy ed. 1998 The Later Foucault: Politics and Philosophy, London: Sage.

【2000年代前半】
◆Carrette, Jeremy 2000 Foucault and Religion: Spiritual corporality and political spirituality, London: Routledge.
◆Zancarini, Jean-Claude ed. 2000 À propos de "Il faut défendre la société": lectures de Michel Foucault 1, Lyon: ENS Editions,
◆Artières, Philipp, et Emmanuel Da Silva eds. 2001 Michel Foucault et la médecine, Editions Kimé.
◆Bonnafous-Boucher, Maria 2001 Un libéralisme sans liberté: pour une introduction du terme de "libéralisme" dans la pensée de Michel Foucault, L'Harmattan.
◆Eribon, Didier dir. 2001 L'Infréquentable Michel Foucault: renouveaux de la pensée critique, EPEL.
◆Gros, Frédéric, ed. 2002 Foucault: le courage de la vérité, Presses universitaires de France.
◆Revel, Judith 2002 Dictionnaire Foucault, Ellipses. → 2008 Dictionnaire Foucault, Ellipses.
◆Boullant, François 2003 Michel Foucault et les prisons, Presses universitaires de France.
◆Gros, Frédéric, et Carlos Lévy eds. 2003 Foucault et la philosophie antique, Editions Kimé.
◆Le Blanc, Guillaume, et Jean Terrel eds. 2003 Foucault au Collège de France: un itinéraire, Bordeaux: Presses universitaires de Bordeaux.
◆Moreau, Pierre-François ed. 2003 Sur les Dits et écrits: Lectures de Michel Foucault 3, Lyon: ENS Editions.
◆da Silva, Emanuel ed. 2003 Foucault et la philosophie: Lectures de Michel Foucault 2, Lyon: ENS Editions.
◆Artières, Philippe ed. 2004 Foucault, la littérature et les arts: actes du colloque de Cerisy, juin 2001, Editions Kimé.
◆Bernauer, James and Jeremy Carrette eds. 2004 Michel Foucault and Theology: The Politics of Religious Experience, Burlington: Ashgate.
◆Chevallier, Philippe 2004 Michel Foucault: Le pouvoir et la bataille, Nantes: Pleins Feux.
◆Le Blanc, Jocelyne 2004. L'archéologie du savoir de Michel Foucault : pour penser le corps sexué autrement, L'Harmattan.
◆Leclercq, Stéfan, ed. 2004 Abécédaire de Michel Foucault, Mons: Sils Maria.
◆Potte-Bonneville, Mathieu 2004 Michel Foucault: l'inquiétude de l'histoire, Presse Universitaire de France.
◆Beaulieu, Alan (sous la direction de) 2005 Michel Foucault et le contrôle social, Québec: Presses de l'Université Laval.
◆Cusset, François 2005 French Theory: Foucault, Derrida, Deleuze & Cie et les mutations de la vie intellectuelle aux Etats-Unis, La Découverte. (=2010, 桑田光平・鈴木哲平・畠山達・本田貴久訳『フレンチ・セオリー――アメリカにおけるフランス現代思想』NTT出版. )
◆Gutting, Gary 2005 Foucault: A Very Short Introduction, New York: Oxford University Press. (=2007, 井原健一郎訳『フーコー』岩波書店. )
◆Gutting, Gary ed. 2005 The Cambridge Companion to Michel Foucault (Second Edition), New York: Cambridge University Press.
◆Revel, Judith 2005 Foucault: expériences de la pensée, Bordas. → 2010 Foucault, une pensée du discontinu, Fayard/Mille et une nuits
◆Afary, Janet and Kevin B. Anderson 2005 Foucault and the Iranian Revolution: Gender and the Seductions of Islamism, Chicago: University of Chicago Press.
◆Granjon, Marie-Christine ed. 2005 Penser avec Michel Foucault: théorie critique et pratiques politiques, Karthala.

【2000年代後半】
◆Chartier, Roger, et Didier Eribon eds. 2006 Foucault aujourd'hui: actes des neuvièmes rencontres INA-Sorbonne, 27 novembre 2004, L'Harmattan.
◆Cusset, Yves, et Stéphane Habered eds. 2006 Habermas et Foucault: parcours croisés, confrontations critiques, CNRS.
◆Artières, Philippe, et Mathieu Potte-Bonneville 2007 D'après Foucault: gestes, luttes, programmes, Prairies ordinaires.
◆Legrand, Stéphane 2007 Les Normes chez Foucault, Presses Universitaires de France.
◆Bellahcene, Driss 2008 Michel Foucault ou l'ouverture de l'histoire à la vérité: Eloge de la discontinuité, L'Harmattan.
◆Bourdin, Jean-Claude, Frédéric Chauvaud, Vincent Estellion, Bertrand Greay, et Jean-Michel Passerault eds. 2008 Michel Foucault: savoirs, domination et sujet, Rennes: Presses Universitaires de Rennes.
◆Dillon, Michaeul, and Andrew W. Neal (ed.) 2008 Foucault on Politics, Security and War, Houndmills, Basingstoke, Hampshire : Palgrave Macmillan
◆Razac, Olivier 2008 Avec Foucault, après Foucault : Disséquer la société de contrôle, L'Harmattan.
◆Veyne, Paul 2008, Michel Foucault. Sa pensée, sa personne, Albin Michel. (=2010, 慎改康之訳『フーコー――その人その思想』筑摩書房. )
◆Binkley, Sam and Jorge Capetill (ed.) 2009 A Foucault for the 21st Century : Governmentality, Biopolitics and Discipline in the New Millennium, Newcastle : Cambridge Scholars.
◆Fimiani, Mariapaola, Nadine Le Lirzin, trans. 2009 Erotique et rhétorique: Foucault et la lutte pour la reconnaissance, L'Harmattan.
◆Cassou-Noguès, Cassou-Noguès et Pascale Gillot (Sous la direction de) 2009 Le Concept, le sujet et la science. Cavaillès, Canguilhem, Foucault, Vrin.
◆Chevallier, Philippe, et Tim Greacen eds. 2009 Folie et justice: relire Foucault, Toulouse: Erès.
◆Machery, Pierre 2009 De Canguilhem à Foucault: la force des normes, La Fabrique.
◆Potte-Bonneville, Mathieu. 2009 Foucault, Ellipses.
◆Dupont, Nicolas-Alexandre 2010 L'impatience de la liberté : Ethique et politique chez Michel Foucault, Editions Kimé.
◆Terrel, Jean 2010 Politiques de Foucault, Presses Universitaires de France.
◆Vigo de Lima, Iara 2010 Foucault's Archaeology of Political Economy, Palgrave Macmillan, 256p. ISBN-10:0230242618 ISBN-13: 9780230242616 US$100.00 [amazon]/[kinokuniya] .


☆雑誌の特集号
◆"Michel Foucault: le monde entier," Critique, 471-472, août-septembre 1986.
◆Le Débat, 41, septembre-novembre 1986.
◆"Michel Foucault et la (post)modernité," Criminologie, 1(26),1993 (http://www.erudit.org/revue/crimino/1993/v26/n1/index.html).
◆"Michel Foucault, surveiller et punir: la prison vingt ans après," Sociétés et représentations, 3, novembre 1996.
◆"Michel Foucault et la subjectivité," Archive de philosophie, 65(2), avril-juin 2002, (http://www.cairn.info/revue-archives-de-philosophie-2002-2.htm).
◆"Biopolitique et biopouvoir," Multitudes, 1, mars 2000, (http://multitudes.samizdat.net/rubrique.php3?id_rubrique=61).
◆"Michel Foucault: de la guerre des races au biopouvoir," Cités, 2, avril 2000.
◆"Marx et Foucault," Actuel Marx, 36, 2e sémestre 2004.
◆"Michel Foucault (1984-2004)," Vacarme, 29, 2004, (http://www.vacarme.org/rubrique105.html).
◆"Foucault, dix ans après," Rue Descartes, 11a, 1994.
◆"Michel Foucault: généalogie, esthétique, contrôle," Chimères, 54/55, 2004, (http://www.revue-chimeres.fr/).
◆"La biopolitique (d')après Michel Foucault," Labyrinthe, 22, 2005, (http://www.revuelabyrinthe.org/sommaire1010.html).
◆"Gilles Deleuze, Michel Foucault, Continuité et disparité," Concepts, 8, 2004.
◆"Des sociétés ingouvernables?," Esprit, Novembre 2005, (http://www.esprit.presse.fr/archive/review/detail.php?code=2005_11).
◆"Special Issue Commemorating the 20th Anniversary of Foucault's Death," Philosophy & Social Criticism, 5-6(31), September 2005, (http://psc.sagepub.com/content/vol31/issue5-6/).
◆"Présence de Foucault," Critique, 696, mai 2005.
◆"Michel Foucalt: de Kant à soi," Critique, 749, octobre 2009.
◆"Special Issue Michel Foucault," Theory, Culture & Society, 6(26), November 2009, (http://tcs.sagepub.com/content/vol26/issue6/).





 三島 亜紀子 1999 「社会福祉の学問と専門職」,大阪市立大学大学院修士論文 より


■その他
「文芸復興は、悲惨さからその神秘的な実定性*13 をうばってしまった。しかもそのことは、思考の二重の動き、つまり<貧乏>からその絶対的な意味を取り除き、<慈善>から、それが保持する<貧乏>の救済という価値を取りのぞく二重の動きによっておこなわれた。」(Foucault[1972=1975:75])


「新教徒諸国にとってと同じくカトリック教会にとって、監禁は、権力本
◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon]/[kinokuniya] ※ m.

 「「反精神医学」とひとまとめに称されたものの命脈は尽きたことになっている。そしてそのような認識は、他の国でも同じようであり、そのまとめ方(例えはShorter[1997=1999]における)がずいぶんと乱暴であることは以前述べたことがある(立岩[2002])。けれどもそうではない、そして終わっていない。
 まず輸入されたものとしての「反精神医学」と、実際にこの国で考えられ、なされたことに懸隔がある――その導入については阿部[2009b][2010]等。たしかに、一九七〇年代初頭から続けて書籍が翻訳され刊行されている。『ひき裂かれた自己』(Laing[1960a,1969=1971])、『狂気と家族』(Laing & Esterson[1964=1972])、『反精神医学』(Cooper[1967=1974])、『経験の政治学』(Laing[1967=1973])、『反-精神医学と精神分析』(Mannoni[1970=1974])、『狂気の思想――人間性を剥奪する精神医学』(Szazz[1970=1975])、『自己と他者』(Laing[1960b=1975])、『家族の政治学』(Laing[1969=1979])。加えれば、『狂気の歴史――古典主義時代における』(Foucault[1961→1972=1975])、『精神疾患と心理学』(Foucault[1962=1970])、『ピエール・リヴィエールの犯罪――狂気と理性』(Foucault[1973=1975])もこの頃に日本で翻訳が出ている(cf.廣瀬[2010])。イタリアでのバザーリア(Franco Basaglia)らの改革についてSchmid[1977=1985→2005]☆21。(バザーリア、クーパー、レイン、サスについて小俣[2013:15,41,126-127,199-200]。)」(立岩[2013:116-117])


Dits et Ecrits 1954-1967

2019-09-15 01:51:32 | Nietzsche


■目次

謝辞
編者緒言
年譜 ダニエル・ドフェール/石田英敬訳
1954
1 ビンスワンガー『夢と実存』への序論 石田英敬訳
1957
2 心理学の歴史 1850?1950 石田英敬訳
3 科学研究と心理学 石田英敬訳
1961
4 『狂気の歴史』初版への序 石田英敬訳
5 狂気は社会のなかでしか存在しない 石田英敬訳
6 アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクス、ケプラー、ボレッリ』金森修訳
1962
7 ルソーの『対話』への序文 増田真訳
8 父の〈ノン否〉 湯浅博雄・山田広昭訳
9 カエルたちの叙事詩 鈴木雅雄訳
10 ルーセルにおける言うことと見ること
11 かくも残酷な知 横張誠訳
1963
12 人間の夜を見守る者 三浦篤訳
13 侵犯への序言 西谷修訳
14 言語の無限反復 野崎歓訳
15 夜明けの光を見張って 野崎歓訳
16 水と狂気 野崎歓訳
17 距たり・アスペクト・起源 中野知律訳
18 恐怖の「ヌーヴォー・ロマン」 野崎歓訳
日本語版編者解説(石田英敬)

■内容

編者緒言
「『ミシェル・フーコー思考集成』全十巻に収録されたのは、生前に単行本として刊行されていた著作をのぞき、フランスおよび諸外国で刊行された、序文、序論、紹介文、対談、論文および記事、講演記録などからなる、ミシェル・フーコーの全テクストである」とまず初めにあり、そのあと「一 コーパスの定義」「二 テクストの配列」「三 テクストの提示の仕方」「四 テクスト校訂の規則」「五 年譜、索引、および書誌」と説明が続く。

年譜 ダニエル・ドフェール/石田英敬訳
「思考集成」を刊行する際に、「読解の道具」として作られたもの。それぞれのテクストには説明がほとんどないので、そのテクストの背景などを知るのにとても役に立つ。またフーコーがいつどういう仕事をしていたかというだけでなく、何の本を読んでいたか、誰の影響を受けていたか、などが分かるのでおもしろい。あと説明が簡潔なのもいい。

1954
1 ビンスワンガー『夢と実存』への序論 石田英敬訳
 L.ビンスワンガー『夢と実存』(J.ヴェルドー仏語訳)への序論、パリ、デスレ・ド・ブルウェール社、1954年刊、9-128頁

「現存在分析」の創始者であるL.ビンスワンガーの論文「夢と実存」のフランス語訳の単行本につけられた「序論」。
『夢と実存』は、みすず書房から荻野恒一ほか訳で1992年に単行本として出版されている(フーコーの「序論」付き)。ちなみにフーコーの「序論」の訳が「思考集成」の石田訳と結構違うが、私にはどちらが正しいか判断できない。
また中山元訳『精神疾患とパーソナリティ』(ちくま学芸文庫、1997年)に付された訳者による解説「フーコーの初期」に、この「序論」についても詳しい説明がされているので参考になる。

1957
2 心理学の歴史 1850-1950 石田英敬訳
 D.ユイスマンとA.ウェベール共編、『ヨーロッパ哲学史』、第二巻「現代哲学の諸相」、パリ、フィシュバヒェル書店、1957年、591-606頁

「序」「自然の先入見」「意味の発見」「客観的意味作用の研究」「客観的意味作用の根拠」という章立てでフーコーが心理学の一世紀を振り返る論文。
「二十世紀半ばまでの心理学の全歴史は。自らの科学としての企てとそれらの公準とのあいだの様々な矛盾の逆説的な歴史である」(本文より)とのことで、フーコーの心理学に対する立ち位置が分かる。

3 科学研究と心理学 石田英敬訳
 E.モレール編『フランスの研究者は問う、…フランスにおける科学研究の方向と組織』、トゥールーズ、プリヴァ書店、「新研究」叢書、第十三編、1957年刊行、173頁-201頁

心理学を始めようとするフーコーに対しある教師が「メルロー=ポンティ氏のように「心理学」をやりたいのか、それともビネたちのように「科学的な心理学」をやりたいのか」と尋ねるエピソードから始まり、途中に「研究の合理性、科学性、そして客観性が、研究の選択それ自体にしか根拠のないものである以上、研究の有効性の実際の保証は非心理学的な方法と概念とに求められる以外ない」とあり、「心理学は冥界への回帰によってしか救われないのである」という言葉で終わる論文。

1961
4 『狂気の歴史』初版への序 石田英敬訳
 ミシェル・フーコー『狂気と非理性-古典主義時代における狂気の歴史』(パリ、プロン書店刊、1961年)p.Ⅰ-ⅩⅠ。この序文は初版にのみ全文掲載。1972年のガリマール社版以後の3つの再版には未収録。

 田村俶訳『狂気の歴史』(新潮社、1975年)には、初版の序文を廃止した理由の書いてあるガリマール版の序文とともに全文掲載されている。
「編者解説」で石田英敬が「61年の序には文化の「構造」の概念が際立たされているのに対して72年頃にはそれが消される傾向にある(『臨床医学の誕生』の手直しに関する『年譜』の1972年の記述参照、本巻41-42頁)」と指摘している。

5 狂気は社会のなかでしか存在しない 石田英敬訳
 (J=P・ウェベールとの対話)、「ル・モンド紙」、5135号、1961年7月21日、9頁

短いインタビューで、『狂気の歴史』への当時の知識人の反応とフーコーのそれに対する応答が読みとれる。
「博士論文の審査委員会の反対質問のひとつはまさに私が『愚神〔狂気〕礼賛』を行おうとしているのではないか、というものでした。しかし、そうではないのです。私が言いたかったことは、狂気が科学の対象となったのは、狂気が古来から持っていた権力を奪われたからこそなのだということなのです…。」(本文より)

6アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクス、ケプラー、ボレッリ』金森修訳
 「新フランス評論」、九年次、一〇八号、一九六一年一二月一日号、1123-24頁(cf. A.コイレ『天文学革命』、パリ、ヘルマン社、「思想史叢書」、1961年)

科学史家アレクサンドル・コイレの著作への書評。フーコーの科学史や認識論への関心のあり方を読みとれる。
「一七世紀初頭において、真理が生まれる場所は移動したのだ。それはもはや世界の姿の側にあるのではなく、言語の内的で交差した形態の中にある」(本文より)

1962
7 ルソーの『対話』への序文 増田真訳
 J=J.ルソー『ルソー、ジャン=ジャックを裁く-対話』序文(A.コラン、1962年刊)「クリュニー叢書」、7-24頁

「ルソーの晩年の作品である『対話』は、『告白』と『孤独な散歩者の夢想』の中間に位置し、この二作品とともに「自伝三部作」を構成するが、その特異な形態からルソーの狂気の資料として扱われることが多かった。フーコーは、対話の言語活動の立体的構成を分析し、作品の側からテクストを読み解くことによって、心理学や精神医学が前提とするような狂気の実定性をつき崩し、「作品の不在」としての狂気の問題系を浮き彫りにしている」(「編者解説」より)

8 父の〈ノン否〉 湯浅博雄・山田広昭訳
 「父の〈ノン否〉」、「クリティック」誌、一七八号、一九六二年三月、195-209頁(J.ラプランシュ『ヘルダーリンと父の問題』パリ、PUF社、1961年刊について)

「ヘルダーリンを論じた「父の〈否〉」も、詩と狂気との問題を、心理学的な事実としての狂気から説明するのではなく、作品が、「作品の不在」としての狂気の経験へと開かれていく〈境界=極限〉の言語の在り方として読み解こうとする戦略に貫かれている。しかも、芸術と狂気の問題の系譜を芸術家の成立に遡ってとらえかえし、「作品」と「作品とは別のもの」(=狂気)との一体性との問いが回帰してくる契機を、西欧文化の歴史のパースペクティヴのなかにとらえている。そして、ヘルダーリンのしの言語と神の死の問題を、『狂気の歴史』において示された「狂気の分割」の構図のなかに収めてみせている。」(「編者解説」より)

9 カエルたちの叙事詩 鈴木雅雄訳
 「カエルたちの叙事詩」、「新フランス評論」一一四号、一九六二年六月、1159-1160頁。ジャン=ピエール・ブリッセの『神の学、あるいは創造』(Paris,Charmuel,1900)について。

レーモン・ルーセルの同時代人ブリッセの言語論への評。
「忘却、死、悪魔との闘い、人間の零落といったすべては語のための闘いの一つのエピソードにすぎない。それは神々とカエルたちが、立ち騒ぐ朝の葦の葉むらでかつて繰り広げていた闘いである」(本文より)

10 ルーセルにおける言うことと見ること
 「レットル・ウーヴェルト」第四号、一九六二年夏、38-51ページ。『レーモン・ルーセル』(Paris, Gallimard, coll. 《Le Chemin》,1963)第一章の異文。

1963年出版『レーモン・ルーセル』の第1章の異文で、「単行本所収に際して削除された段落を含み、より詳細な読解を提示している(「編者解説」より)」。日本語訳は、豊崎光一訳で法政大学出版局から出ている。

11 かくも残酷な知 横張誠訳
 「クリティック」誌、一八二号、一九六二年七月、597-611ページ。(C.クレビヨン『心の迷い、気の迷い』〔エティアンブル校訂、解説、パリ、A.コラン社、1961年〕と、J=A・ド〔?〕・レヴェロニ・サン=シール『ボーリスカ、あるいは現代の倒錯』〔パリ、1798年〕について)。

「サドの言説と同時代に出現する一八世紀末の恐怖小説の言説空間についてクレビオンやレヴェロニの作品を論じた」論文。「古典主義時代と「文学」を隔てている言語空間の境界に対する関心」が現れている。

1963
12 人間の夜を見守る者 三浦篤訳
 H=L・スツェッグ編『ロルフ・イタリアーンデルとの旅』所収(J.シャヴィ訳)、ハンブルク、芸術自由アカデミー刊、一九六三年、46-49頁

「一九六〇年のクリスマスに書かれた私信。一九六三年にロルフ・イタリアーンデルの五十歳の誕生日を祝う記念文集の中で公表。フリード(P.G)『ロルフ・イタリアーンデルの世界』(クリスチャン書房、一九七三年)に再録。」

「それなればこそ、昨日の夜パリで貴方がセネガル人たちに話しかけるのを見たとき、おそらく間違っているでしょうが、こういう印象を抱いたのです。貴方は自分を孤立させるものによって人間と結びついていると。結局のところ、孤独な人間のみがいつの日か互いに出会うことができるのです。」(本文より)

13 侵犯への序言 西谷修訳
 「クリティック」誌一九五-一九六号、ジョルジュ・バタイユ特集、一九六三年八-九月、751-765ページ。

「一九六三年のバタイユの追悼号に「クリティック」誌に発表された論文「侵犯への序言」(No.13)は、六〇年代のフーコーにおける〈限界=境界〉および〈侵犯〉の概念を示した中心的な論考である。私たちはそこに、サドやバタイユをとおしてフーコーが、神の死んだ現代世界における〈限界〉および〈侵犯〉の言語の経験として〈性(セクシュアリテ)〉を問題化していく姿をみてとることができる。」(「編者解説」より)

14 言語の無限反復 野崎歓訳
 「テル・ケル」誌第一五号、一九六三年秋、44-53ページ

「サド、恐怖小説、ボルヘスを論じながら、古典的「修辞学」に対置される「バベルの図書館」によって定義される断片化し無限に連なる言語空間の布置に、一八世紀末に出現した厳密な意味での「文学」の言語の場所を見いだしている」(「編者解説」より)

15 夜明けの光を見張って 野崎歓訳
 「新フランス評論」誌、第一三〇号、一九六三年十月、709-716ページ(ロジェ・ラポルト著『夜を徹して』、パリ、ガリマール、「ル・シュマン」叢書、一九六三年刊について)。

「ロジェ・ラポルトの作品のエクリチュールの時を、夜と昼との分割の手前に維持された中間状態にもとめ、非限定の三人称代名詞による発話により宙づりにされた言説空間を論じた「夜明けの光を見張って」(一九六三、No.15)にも、境界=極限の言語空間において成立する文学経験という構図はつらぬかれている」(「編者解説」より)

16 水と狂気 野崎歓訳
 「医学と衛生」誌、第二十一巻六一三号、一九六三年十月二十三日、901-906ページ。

水と狂気の結びつきを軸に、西洋世界における狂気の位置の変化を論じている。
古来、理性は大地、非理性は水と結びつけられて考えられてきた。そのため水は狂気と闘う手段としても用いられてきたのである。狂気の水治療法は17世紀に体系的に確立され、19世紀になっても精神病院で定期的に行われていたが、その間にそれまで心を鎮めるような役割を持ってきた水が、恐慌をきたすための手段へと変化したのだ。フーコーはその新しい役割を、「水は辛いものである」「水は懲らしめる」「水は自白の道具である」「水は狂気に告白を強いる」の4つにまとめた。19世紀半ばまでの狂気に起きた変化をフーコーは「狂気は水に属するものであることをやめて、煙の親類になった」と言い、これを「狂気に関する想像的空間におけるきわめて重要な変化」と述べている。そして「今日、狂気はもはや水に属するものではない。水はしばしば、また別の種類の告白を強いているのである」という文章でこのテクストを終えている。

17 距たり・アスペクト・起源 中野知律訳
 「クリティック」誌、第一九八号、一九六三年十一月号、931-945ページに初出〔後に『テル・ケル理論総括』(スイユ社、一九六八年)に所収〕。
 (J=L・ボードリ、『イマージュ』、スイユ社、一九六三年;M・プレネ、『二分された風景:散文の行線』、スイユ社、一九六三年;Ph・ソレルス、『中間層』、スイユ社、一九六三年;「テル・ケル」誌一-一四号、一九六〇-一九六三年、について論じたもの)

「シミュラークルの言語・記号空間における言語作用の、同形性(イゾモルフィスム)から、ロブ=グリエと「テル=ケル」派の作家たちの作品を論じた「距たり・アスペクト・起源」は、同時代の文学との関係をあかす、代表的な論文である」(「編者解説」より)

18 恐怖の「ヌーヴォー・ロマン」 野崎歓訳
 「フランス=オプセルヴァトゥール」誌、第十四号、七一〇号、一九六三年十二月十二日、14ページ(J=E・アリエ著『若い娘の冒険』、パリ、スイユ社、一九六三年について)。

「この当時まだ「テル=ケル」派の一角を占めていたアリエの前衛的小説を評する」文章。この文章の背景には、「かくも残酷な知」と同じように、フーコーの「古典主義時代と「文学」を隔てている言語空間の境界に関する関心」があった。

■引用

■書評・紹介

■言及



*作成:橋口 昌治 
UP:20031114 REV:
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『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』

Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p.

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■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p. ISBN-10:4480790225 ISBN-13:978-4480790224 \5800 [amazon]/[kinokuniya] ※

■目次

1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
20 幻想の図書館 工藤庸子訳
21 アクタイオーンの散文 豊崎光一訳
22 小説をめぐる討論 堀江敏幸訳
23 詩をめぐる討論 堀江敏幸訳
24 空間の言語 清水徹訳
25 狂気、作品の不在 石田英敬訳
26 なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 鈴木雅雄訳
27 血を流す言葉 兼子正勝訳
28 J=P・リシャールのマラルメ 兼子正勝訳
29 書くことの義務 兼子正勝訳
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
31 哲学と真理 慎改康之訳
32 侍女たち 松浦寿輝訳
33 世界の散文 宮下志朗訳
34 ミシェル・フーコー『言葉と物』 廣瀬浩司訳
35 失われた現在を求めて 兼子正勝訳
36 物語の背後にあるもの 竹内信夫訳
37 マドレーヌ・シャプサルとの対談 根本美作子訳
38 外の思考 豊崎光一訳
39 人間は死んだのか 根本美作子訳
40 無言の歴史 増田真訳
41 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズはニーチェにその本当の顔を返したがっている 金森修訳
42 哲学者とは何か 金森修訳
43 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった 松浦寿輝訳
44 メッセージあるいは雑音? 金森修訳
1967
45 概括的序論 大西雅一郎訳
46 ニーチェ・フロイト・マルクス 大西雅一郎訳
47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
48 歴史の書き方について 石田英敬訳
49 ポール・ロワイヤルの文法 
50 フーコー教授、あなたは何者ですか 慎改康之訳
51 言葉と図像 阿部崇・近藤学訳
日本語版編者解説(小林康夫)

■内容
1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
 E.カント『人間学』(M.フーコー仏語訳)所収、パリ、ジャン・ヴラン書店、一九六四年刊、7-10ページ。
 一九六一年、ミシェル・フーコーは、文学博士号取得のための副論文として、イマヌエル・カントの『実用的見地における人間学』の注解つきの翻訳三四七ページを、一二八ページに及ぶ序文とともに提出する。この翻訳および序文は、ソルボンヌ大学図書館にタイプ原稿のかたちで保管されている。フーコーは、ここにある「書誌略述」の添えられた翻訳のみを公刊した。

 内容はカントの『人間学』が完成に至る過程とその時期についての分析である。

「『人間学』のなかのひとつの註は、この著作が、それが執筆される以前「およそ三十年間」にわたって行われた講義の内容であるということを示している。その三十年の間、冬学期の授業が人間学に、夏学期の授業が自然地理学にあてられていたということだが、しかし実際は、上の数字は正確なものではない。」(本文より)

20 幻想の図書館 工藤庸子訳
 G.フローベール『聖アントワーヌの誘惑』ドイツ語版のために書き下ろした「あとがき」(フランクフルト、インゼル書店刊、一九六四年。217-251ページ)。同じテクストの仏訳は、本書所収の図版とともに「図書館の《幻想》」(Un "fantastique" de bibkiotheque)というタイトルで、Cahiers de la compagnie Madeleine Renaud-Jean-Louis Barrault,No 59,一九六七年三月刊、7-30ページに掲載された。M.フーコーはこの評論の新しいヴァージョンを、「幻想の図書館」(La Bibliotheque fantastique)というタイトルで、一九七〇年に発表した。本稿では〔 〕内に入れた文章は、一九七〇年版にはにないものである。両テクストの異同は、註によって示した。

「『誘惑』とは、フローベールにとって、おのがエクリチュールの夢なのだという感じがする。つまり、エクリチュールがそうあってほしいと思われる何か〔-柔らかで、艶(つや)があって、自然な感じで、しっくりと文章の陶酔のなかに解けこんで、美しい-〕しかもついに白日の形式(フォルム)にめざめるためには、エクリチュールがそれであることをやめなければならぬ何か。」(本文より)

21 アクタイオーンの散文 豊崎光一訳
 「新フランス評論」誌、一三五号、一九六四年三月号、444-459ページ。

「クロソフスキーの言語、それはアクタイオーンの散文-侵犯の言葉なのである。あらゆる言語は、それが沈黙を相手どるとき、そのようなものではないだろうか?」(本文より)

22 小説をめぐる討論 堀江敏幸訳
 (司会ミシェル・フーコー、参加者、G.アミィ、J=L・ボードリ、M=J・デュリー、J=P・ファイユ、M・ド・ガンディヤック、C・オリエ、M・プレネ、E・サングイネッティ、P・ソレルス、J・チボードー、J・トルテル)、初出「テル・ケル」誌、第十七号、一九六四年春号、12-54ページ(於スリジー・ラ・サール、一九六三年九月。《新しい文学?》のテーマのもとに、テル・ケル派のグループによって企画された討論会である)。

「バタイユが「テル・ケル」一派にとってこれほど重要な人物でありえたのは、シュールレアリスムの心理的次元から、彼が《限界》、《侵犯》、《笑い》、《狂気》と呼んだ何かを浮上させ、それを思考の経験に仕立てあげたからではないでしょうか?そこで、以下のような問題が提起されると思います。すなわち、思考するとはどういうことなのか、思考するというこの驚くべき体験は、いったいどういうことなのか?そして文学は、現在のところ、この問題を再発見しつつある。」(本文より)

23 詩をめぐる討論 堀江敏幸訳
 (参加者:M=J・デュリー、J=P・ファイユ、M・プレネ、E・サングイネッティ、P・ソレルス、J・トルテル)、初出「テル・ケル」誌、第十七号、一九六四年九月、69-82ページ(スリジー・ラ・サール、一九六三年九月)
「No.22、No.23の拙訳にあたっては、岩崎力氏による優れた訳業(『新しい小説・新しい詩』、竹内書店、一九六九年)を参照させていただいた。竹内書店版には、「テル・ケル」誌第十七号掲載のふたつの討論に加えて、ジャン=ピエール・ファイユ「新しいアナロジー」、およびマルスラン・プレネ「逆の思考」も併せて紹介されている。」

「ところで、文化によっては、もっと厳しい限界があり、より明瞭な稜線辺がある。したがってそれらに背く人、他の人よりも限度を超えやすい人々がいて、限界の、異議申し立ての、違反のゲームが、とりわけ激しく、明白な分野ないし領域があるものなのです。古典時代における理性-狂気の問題とは、そういうことだと私は考えています。」(本文より)

24 空間の言語 清水徹訳
 「クリティック」誌、二〇三号、一九六四年四月、378-382ページ。

ロジェ・ラポルトやクロード・オリエの作品について論じた文章。

「ロジェ・ラポルトの『夜を徹して』は、この薄明のしかも恐るべき「領域」のもっとも近くに位置する。」
「クロード・オリエの作品は、その全体が言語と事物とに共通する空間の模索である。」(本文より)

25 狂気、作品の不在 石田英敬訳
 「ターブル・ロンド」誌、一九六号、一九六四年五月「精神医学の状況」、11-21ページ

「第Ⅰ巻に収められた諸論文は、この幻の一冊、つまり〈狂気・文学・言語〉の問題圏の前半の第一部を形作っていた。この第Ⅱ巻、とりわけ六四年と六六年のいくつかの論文はその後半の第二部と考えることができよう。とするなら、この〈第二部〉全体のマニュフェストの位置を占めるのが、「狂気、作品の不在」(No.25)ということになろうか。そこでは、狂気と文学とがともにある本質的な「空虚」あるいは「不在」の経験であること、そしてその「謎」においてこそ、「言語活動」が「死」と本質的な結びつきを持つことが断言されている」(「編者解説」より)

26 なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 鈴木雅雄訳
 「なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 我らが現代文学の先駆者」、「ル・モンド」紙、一九六四年八月二十二日、9ページ。

「レーモン・ルーセルの作品は、随分と以前から私たちの言語の底流となって作動していたのだが、私たちはほとんどそれに気づくことはなかった。」(本文より)

27 血を流す言葉 兼子正勝訳
 「エクスプレス」誌、六八八号、一九六四年八月二十九日、21-22ページ(ウェルギリウス著『アエネーイス』のクロソフスキーによる翻訳-パリ、ガリマール社、一九六四年刊-について)。

「クロソフスキーは危険をおかして逆をおこなう。というよりも、彼はかつて誰もおこなわなかったことをおこなおうとする。つまり場所の詩的な配置を目に見えるように維持すること。統辞法の必要な網目組織を、わすかに後退させつつ、ただしけっして破壊せずに保ちながら、そうすること。」(本文より)

28 J=P・リシャールのマラルメ 兼子正勝訳
 「アナール-経済、社会、文明」誌、五号、一九六四年九-十号、996-1004ページ(J=P・リシャール著『マラルメの創造的宇宙』-パリ、スイユ社一九六二年刊-について)。

「わたしは、リシャールを批判した者たちを批判するつもりはない。わたしは単に、彼のテクストの周囲に描きだされた隔たりに注意を向けたいと思う。つまり、一見したところ論争の記号の数々に覆われているように見えながら、じつは沈黙のうちにテクストが占める場所の空白の輪郭を定めているようなあの余白、それに注意を向けたいのである。」(本文より)

29 書くことの義務 兼子正勝訳
 「ネルヴァルは一九世紀で最も偉大な詩人か?」の一部、「アール」誌、九八〇号、一九六四年十一-十七日、7ページ(ネルヴァル諸作品の再版に際して、何人かの著作家に対しておこなわれたアンケートの断片)。

「ネルヴァルのテクストは、われわれに作品の断片を残したのではない。そうではなくて、書かなければならないということの、人は書くことによってのみ生きそして死ぬということの、繰り返される確認を残したのだ。」(本文より)

1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
 (アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもとに教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテクストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。

31 哲学と真理 慎改康之訳
 (アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールとの対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。

「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。

「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただなかにいるのです。」(本文より)

32 侍女たち 松浦寿輝訳
 「メルキュール・ド・フランス」誌、一二二一-一二二二号、一九六五年七-八月、368-384ページ。
ベラスケスの絵は「ラス・メニーナス」という題で世界中に知られている。これは「お付の女官たち」の意味である。このタイトルがプラド美術館のカタログに現れるのはようやく一八四三年になってからのことで、マドリッドの宮廷の財産目録にはずっと「家族の情景(エル・クワドロ・デ・ラ・ファミーリア)」ないし「国王の家族」の題で記載されていた。ミシェル・フーコーはこのエッセーを『言葉と物』(ガリマール社刊、一九六六年)に収めることを躊躇していたようだ。最初のうち彼は同書第九章でこれを簡潔に要約していた。次いで、この論考からいくつかの段落を削除し、表現を手直ししたうえで、そのまま『言葉と物』の第一章としたが、校正刷の段階でさらに刈り込んでいる。

33 世界の散文 宮下志朗訳
 「ディオゲネス」誌、五十三号、一九六六年一-三月号、20-41ページ。ロジェ・カイヨワの依頼により、『言葉と物』の第二章となるべき部分を、事前に発表したものであるが、テクストには若干の差異が見られる。本集成第Ⅷ巻所収、No.292を参照のこと。

「四種の相似」「署名=外徴」「世界の境界」という構成になっている。

「われわれの文化において、類似(ルサンブランス)なるものが、充分かつ安定した、自律的な表徴(フィギュール)を知の内部で形成することをやめてから、二世紀以上がたっている。」(本文より)

34 ミシェル・フーコー『言葉と物』 廣瀬浩司訳
 (R.ベルールとの対談)、「レットル・フランセーズ」誌、一一二五号、一九六六年三月三十一日-四月六日号、3-4ページ。

「大雑把に言えば、『狂気の歴史』は分割の歴史であり、とくに、すべての社会がどうしても打ち立てざるをえない、ある種の切断の歴史でした。それに対して今度の本では、秩序の歴史を書こうと思ったのです。」(本文より)

35 失われた現在を求めて 兼子正勝訳
 「エクスプレス」誌、七七五号、一九六六年四月二十五日-五月一日、114-115ページ(ジャン・チボードー『序曲』-パリ、スイユ社、一九六六年刊-について)

「チボードーは『序曲』を、『王室儀式』の六年あとに書いた。この二つの日付のあいだでは、文学体験のある種の部分が変化してしまっている。」(本文より)

36 物語の背後にあるもの 竹内信夫訳
 「アルク」誌、二十九号、「ジュール・ヴェルヌ特集」、一九六六年五月、5-12ページ。

「ジュール・ヴェルヌの物語作品は、驚くばかりに、今述べたようなフィクシオンの非連続性に満ちている。」(本文より)

37 マドレーヌ・シャプサルとの対談 根本美作子訳
 「カンゼーヌ・リテレール」誌、五号、一九六六年五月十六日、14-15ページ。

「-いつ「意味」を信じなくなったのですか。
-社会に関してはレヴィ=ストロースが、そして無意識に関してはラカンが、意味というものがおそらく、ある種の表層的な作用、きらめきか泡沫のようなものにすぎないこと、そして、われわれを深層において横断し、われわれ以前にあって、時と空間のなかでわれわれを支えているのがシステムであるのを明かしてくれたとき、決定的な断絶の契機が訪れたのです」(本文より)

38 外の思考 豊崎光一訳
 「クリティック」誌、二二九号、一九六六年六月、523-546ページ(モーリス・ブランショ特集)。

「ギリシア的真理は、かつて、「私は嘘つきだ」という、このただ一つの明言のうちに震撼された。「私は話す」という明言は、現代のあらゆる虚構作品(フィクシオン)に試練を課す。」(本文より)

39 人間は死んだのか 根本美作子訳
 (C・ボヌフォワとの対談)、「芸術と余暇」誌、第三十八号、一九六六年六月十五-二十一日、8-9ページ。

「十八世紀の終わりと十九世紀のはじまりにおいて、どのような要素を使って人間が組み立てられたかを、『言葉と物』のなかでわたしは語ろうとしました。」(本文より)

40 無言の歴史 増田真訳
  -カッシーラー『啓蒙主義の哲学』の仏訳に寄せて-
 「カンゼーヌ・リテレール」誌、八号、一九六六年七月一-十五日、3-4ページ(E・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』-P・キエ仏語訳、パリ、ファイヤール社、「国境のない歴史」双書、一九六六年刊-について)。

「カッシーラーは「新カント派」である。この用語によって指し示されるものは、ある「運動」や哲学上の「流派」である以上に、カントによって打ち立てられた断絶を、西洋思想が乗り越えることができなかったということである。新カント派は、その断絶を復活させるという絶えず繰り返される命令であり、それはその断絶の必然性を再確認するとともにその規模を測り尽くすためである。(その意味ではわれわれはみな新カント派である。)」(本文より)

41 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズはニーチェにその本当の顔を返したがっている 金森修訳
 C・ジャヌーとの対話、「フィガロ・リテレール」誌、一〇六五号、一九六六年九月十五日、7ページ。

ドゥルーズとともに、フーコーは『ニーチェ全集』のフランス語版の編集責任者となる。そのことについてのインタビュー。

「ところがニーチェの代わりに〈私〉ということはできません。その意味で彼は現代のすべての西洋思想の上に突出しているのです。」(本文より)

42 哲学者とは何か 金森修訳
 (M.G・フォワとの対話)、「人間の認識」誌、二十二号、一九九六年秋、9ページ。(説明の日本語訳では「一九九六年秋」とあるが、フランス語ではautomne 1996 とあるので「一九六六年秋」の間違いだと思われる)

「哲学者は社会のなかに役割などもっていません。」(本文より)

43 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった 松浦寿輝訳
 (C・ボヌフォワとの対話)、「芸術と余暇」誌、五十四号、一九六六年十月五-十一日号、8-9ページ。

「シュルレアリスムのリーダーだったアンドレ・ブルトンは一九六六年九月二十八日に逝去した。この対話はその直後に行われている。」(文末の註〔1〕より)

44 メッセージあるいは雑音? 金森修訳
 「医学共進会」第88年次、一九六六年十月二十二日号、6285-6286ページ(医学的思考の性質に関する研究会より)。

「私たちはこう自問することができる、医学的実践の理論はもはや実証主義の用語ではない用語によって、それも、言語分析や情報処理の実践のなかで現在錬磨されている用語によって考え直されうるのではないかと。/言語の理論家、そしてその領域に関係するすべての科学の理論家たちと、医者たちとが一堂に会する「セミナー」が開かれるのは、一体いつのことなのだろうか。」(本文より)

1967
45 概括的序論 大西雅一郎訳
 F・ニーチェ『哲学全集』第五巻、『華やぐ智慧、遺された断想(一八八一-一八八二)』への「概括的序論」(G・ドゥルーズとの共同執筆になる)、一九六七年、パリ、ガリマール社、端書き、Ⅰ-Ⅳページ。

「我々は、新たな観点が未刊文書によってもたらされ、それがニーチェへの回帰という観点であることを願っている。我々が希望するのは、彼が遺すことのできたメモ、およびそれらの多様な構想が、諸君の目に対して、組合せと置き換えのすべての可能性を解き放つことである。これらの可能性は、ニーチェに関して「来たるべき書物」という未完の状態をいまや永久に含み持っているのである。」(本文より)

46 ニーチェ・フロイト・マルクス 大西雅一郎訳
 「カイエ・ドゥ・ロワイヨーモン」第六巻『ニーチェ』、ミニュイ社、パリ、一九六七年、183-200ページ(ロワイヨーモンの討論会、一九六四年七月)。

「マルクス、ニーチェ、フロイトにおける解釈の技術」に関するフーコーの文章のあとに、フーコー、ベーム、トーブ、ヴァッティモ、ヴァール、バロニ、ラムヌー嬢、ドゥモンビーヌ、ケルケルによる討論が続く。

「解釈の複数性、解釈間の戦争の問題は、思うに、解釈の定義そのものによって構造上可能になっているのです。というのも、解釈は無限になされ、解釈自身が自らを判断し決定する際に基点となる絶対的な地点は存在しないのです。その結果、このこと、つまりわれわれは解釈するまさにその瞬間に解釈されるべく委ねられているという事実を、あらゆる解釈者は知っておかねばなりません。この解釈の過剰性は、現在西洋文化を奥深いところで性格づけているひとつの特徴に相違ないのです。」(本文より)

47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
 (G・フェルーとの対談)、「ラ・プレス・ド・チュニジー」紙、一九六七年四月十二日付、3ページ。

インタヴューに「ミシェル・フーコー、自身を語る」「ミシェル・フーコー、チュニジアの感想」という囲み記事がついたもの。

「私が、構造主義に対して距離を取りながらも同時に構造主義をなぞって二重化するような関係をもっているのは、このためなのです。距離を取っているというのは、構造主義を直接に実践する代わりにそれについて語っているからですし、なぞって二重化しているというのは、構造主義の言語を語らずして構造主義について語れないからです。」(本文より)

48 歴史の書き方について 石田英敬訳
 (R・ベルールとの対談)、「レットル・フランセーズ」紙、一一八七号、一九六七年六月十五-二十一日号、6-9ページ。

「書く者にとって重要なのは、かつては、万人の匿名性から身を引き離すことだったのですが、私たちの時代にあっては、固有名を消し去って、語られる言説のこの巨大な匿名のつぶやきのなかに自らの声を住まわせる、ということなのです。」(本文より)

49 ポール・ロワイヤルの文法 
 「ランガージュ」誌、七号「フランス言語学、文法理論」特集、一九六七年九月、7-15ページ。
 このテクストをさらに発展させたものが、一九六九年に『ポール・ロワイヤルの文法』の再版に序文として収録された(本集成第Ⅲ巻所収、No.60)。

50 フーコー教授、あなたは何者ですか 慎改康之訳
 (P・カルーゾとの対話。仏訳、C・ラッツェリ)、「ラ・フィエラ・リッテラリア」誌、第四十二年度、三十九号、一九六七年九月二十八日、11-15ページ。
 [ ]のなかのテクストは一九六七年に出版された対談には見られず、P・カルーゾ『クロード・レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカンとの対話』-ミラノ、ムルシア社、一九六九年刊-91-131ページにこの対談が再掲載された際付け加えられたものである。

「我々は一見ヒューマニズムの問題について議論しているようですが、実はもっと単純な問題、すなわち幸福という問題にかかわっているのではないだろうかと思われます。私は、少なくとも政治的な面において、ヒューマニズムを、幸福を作り出すことを政治の目的とみなす態度そのものとして定義することができるのではないかと考えます。ところで、私には、幸福という観念が本当に思考可能であるものだとは思えないのです。幸福などというものは存在しません。人間の幸福についてはなおさらのことです。」
「「現在何が起こっているのか」を言うことが哲学者の役割であるとすれば、今日の哲学者にとってはおそらく、人間は自らが神話なしに機能し得るということを発見し始めているということを明らかに示すことが、その役割であると言えるでしょう。諸々の哲学や諸々の宗教の消滅は、おそらく何かそうした種類の事態に呼応しているのかもしれません。」(本文より)

51 言葉と図像 阿部崇・近藤学訳
 「ヌーベル・オプセルヴァトゥール」誌、第一五四号、一九六七年十月二十五日、49-50ページ(エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』ガリマール社、一九六七年〔邦訳:浅野徹他訳、美術出版社、一九八七年〕、および『ゴシック建築とスコラ学』ミニュイ社、一九六七年〔邦訳:前川道郎訳、平凡社、一九八七年〕について)。

「これらの翻訳は、われわれから遠く隔たった見慣れないものであったイコノロジーをハビトゥスに変える、という作用をわれわれに及ぼすだろう。つまり新たに歴史を学ぼうとする者たちにとっては、これらの概念や方法はもはや学ぶべきものたることを止め、むしろ人がそこから出発して見、読み、解読し、知るべきものとなるだろう。」(本文より)

■引用

■書評・紹介

■言及



*作成:橋口 昌治 

Saussure

2019-09-15 01:22:26 | Language
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Saussure, Ferdinand de

フェルディナン・ド・ソシュール


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■略歴
1857年11月26日、ジュネーヴに生まれる。
1872年 14才で、処女論文「ギリシア語ラテン語およびドイツ語の諸単位を少数の根源に還元するための試論」を「インド・ヨーロッパ諸語の起源」の著者ピクテに捧げる。
1873年 高校に進学し、ボップの文法でサンスクリット語の勉強を始める。
1875年 ジュネーヴ大学に入学。家の方針で科学と物理を専攻。
1876年 創立直後のパリ言語学会に18歳で入会。ライプチヒに留学し、青年文法派と交流する。
1878年 ベルリンに留学。「インド・ヨーロッパ諸語における元書の母音体系についての覚え書」を出版。
1880年 ライプチヒ大学の学位論文(哲学)は「サンスクリットにおける絶対属格の用法」。
1881年 パリに出て、高等研究院の講師。
1891年 スイスへの帰国に際し、10年間の功労を讃え、フランス政府よりレジヨン・ドヌール勲章が授与される。
1892年 34歳で結婚。
1896年 ジュネーヴ大学専任講師。
1907年 第1回目の一般言語学講義。音声学の原理と異変言語学。
1908年 第2回目の一般言語学講義。序説と印欧言語学の概観。
1910年 第3回目の一般言語学講義。フランス学士院特別会員に推される。
1913年。2月22日、死去。
(小松英輔 編 相原 奈津江・秋津 伶 訳 2003 『一般言語学第三回講義 エミール・コンスタンタンによる講義記録』, エディット・パルク. 後袖より)

■主な単著
◆Bally, Charles et Sechehaye, Albert 1949 Cours de Linguistique Generale.
=小林 英夫 訳 19400301 『一般言語学講義』, 岩波書店, 495p.
=198601 ISBN-10: 4000000896 ISBN-13: 978-4000000895 \4515 [amazon]/[kinokuniya]

◆Saussure, Ferdinand de 1908-1909 Cours de Linguistique Generale.
=山内 貴美夫 訳 19710425 『ソシュール 言語学序説』, 勁草書房, 252p.
=1984 272p. ISBN-10: 4326150165 ISBN-13: 978-4326150168 \2625 [amazon]/[kinokuniya]

◆Riedlinger, d'Albert 1907 Premier Cours de Linguistique General.
=小松 英輔 編相原 奈津江・秋津 伶 訳 20080327 『一般言語学第一回講義 リードランジェによる講義記録』, エディット・パルク, 317p. ISBN-10: 4901188062 ISBN-13: 978-4901188067 \3675 [amazon]/[kinokuniya]

◆Riedlinger, d'Albert et Patois, Charles 1908-1909, Deuxieme Cours de Linguistique General.
=小松 英輔 編 相原 奈津江・秋津 伶 訳 20061101 『一般言語学第二回講義 リードランジェ/パトワによる講義記録』, エディット・パルク, 317p. ISBN-10: 4901188054 ISBN-13: 978-4901188050 \3675 [amazon]/[kinokuniya]

◆Constantin, d'Emile  1910-1911, Troisieme Cours de Linguistique General.
=小松英輔 編 相原 奈津江・秋津 伶 訳 20030222 『一般言語学第三回講義 エミール・コンスタンタンによる講義記録』, エディット・パルク, 311p. ISBN-10: 4901188038 ISBN-13: 978-4901188036 \3570 [amazon]/[kinokuniya]

◆Saussure, Ferdinand de 1993 Trisieme cours de linguistique generale(1910-1911) (d'apres les cahiers d'Emile Constantin),Pergamon Press.
= 編:小松 英輔 訳:相原 奈津江・秋津 玲,20090306 『一般言語学第三回講義〈増補改訂版〉――コンスタンタンによる講義記録+ソシュールの自筆講義メモ』,エディット・パルク,335p. ISBN-10: 4901188070 ISBN-13:978-4901188074 \3675 [amazon]/[kinokuniya] ※

◆―――― 1910, 3 eme Cours de Linguistique Generale.
=影浦 峡・田中 久美子 訳 20070327 『ソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』, 東京大学出版会, 210p. ISBN-10: 413080250X ISBN-13: 978-4130802505 \3150 [amazon]/[kinokuniya]

■関連書・研究書
◆丸山 圭三郎 19810715 『ソシュールの思想』, 岩波書店, 384p. ISBN: 4000012207 ISBN-13: 978-4000012201 \4200 [amazon]/[kinokuniya] ※

◆丸山 圭三郎 1983 『ソシュールを読む』, 岩波書店, 340p. ISBN-10: 4000048724 ISBN-13: 978-4000048729 \2520 [amazon]/[kinokuniya]

◆丸山 圭三郎 1985 『ソシュール小事典』, 大修館書店. ISBN-10: 4469042439 ISBN-13: 978-4469042436 \2940 [amazon]/[kinokuniya]

◆Starobinski, Jean 1980, Words upon Words: Anagrams of Ferdinand de Saussure, Yale Univ Pr, 160p.
=金澤 忠信 訳 2006 『ソシュールのアナグラム――語の下に潜む語(叢書 記号学的実践)』, 水声社, 311p. ISBN-10: 4891765801 ISBN-13: 978-4891765804 \2625 [amazon]/[kinokuniya]

◆前田 英樹 訳 1991 『ソシュール講義録注解(叢書・ウニベルシタス)』, 法政大学出版局, 193p. ISBN-10: 4588003453 ISBN-13: 978-4588003455 \2835 [amazon]/[kinokuniya]




*作成:岡田 清鷹



『ソシュールの思想』

丸山 圭三郎 19810715 岩波書店,384p.

last update: 20171027

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■丸山 圭三郎 19810715 『ソシュールの思想』,岩波書店,384p. ISBN:4000012207 ISBN-13: 978-4000012201 4200 [amazon]/[kinokuniya] ※

■内容(本書のカバー折込部分より)

近代言語学の父、ソシュール。だが広く流布したその像をこえて、彼の仕事は何処に全体像を結ぶのか。言語機能と人間精神の関係への多様な思索は、人間諸科学の方法論と認識に実体概念から関係概念へというパラダイム変換を促し、構造主義以降現代まで、20世紀後半の思想の共通基盤を造った。本書は「一般言語学講義」原資料に拠って、原初の記号理論と思想の本質を明らかにする。精密な実証的裏付けと、神話やアナグラム研究の初の紹介とは、ソシュール研究の決定版として今後の眺望を拓くことになろう。

■目次

まえがき
Ⅰ ソシュールの全体像
第1章 ソシュールの生涯とその謎
 1 家族と幼年時代(1857―1869)
 2 処女作「諸言語に関する試論」と《鳴鼻音》の発見 ――中等学校時代(1869―1875)
 3 『覚え書』と学位論文――大学時代(1875―1880)
 4 パリ時代(1880―1891)
 5 ジュネーヴ時代(1891―1913)
第2章 『一般言語学講義』と原資料
 1 ソシュール批判
 2 『講義』の成立事情と、原資料
第3章 ソシュール理論とその基本概念
 1 言語能力と社会制度と個人
   ランガージュとラング ラングとパロール
 2 体系の概念
   価値体系としてのラング 連辞関係と連合関係 共時態と通時態
 3 記号理論
   言語名称目録観の否定 シニフィアンとシニフィエ 形相と実質
   言語記号の恣意性 記号学と神話・アナグラム研究


Ⅱ ソシュールと現代思想
第1章 ソシュールとメルロ=ポンティ ――語る主体への帰還――
 1 ムーナンのメルロ=ポンティ批判
 2 コトバの非記号性
 3 経験主義批判
 4 主知主義
 5 真の命名作用
第2章 ソシュールとテル・ケル派 ――貨幣と言語記号のアナロジー――
 1 ソシュールの用いた比喩
 2 テル・ケル派の解釈と批判
 3 ラングの価値とパロールの価値創造
第3章 ソシュールとバルト ――記号学と言語学の問題をめぐって――
 1 バルト批判
 2 ソシュールの記号学
 3 《原理論》としての記号学と、《構成された構造》の記号学
第4章 ソシュールとサルトル ――言語の非記号性と意味創造――
 1 非記号の記号化と、記号の非記号化
 2 言語の内在する意味
 3 外示(デノテーション)と共示(コノテーション)


Ⅲ ソシュール学説の諸問題
第1章 ラングとパロールと実践
 1 ラング概念の多様性
 2 パロール概念の多様性
 3 《構成された構造》と《構成する構造=主体》
 4 《構成原理》の次元
 5 個人的実践とパロール
第2章 シーニュの恣意性
 1 パンヴェニストのソシュール批判
 2 外的必然性と記号学的恣意性
 3 分節言語の自立性と恣意性
第3章 言語における《意味》と《価値》の概念
 1 二重のソシュール現象
 2 『講義』自体に見出される疑問点
 3 ピュルジェの仮説
 4 二つの実現
 5 価値と意義(シニフイカシオン)と意味(サンス)

 参考文献
 ソシュール手稿目録
 ソシュール著作目録
 事項索引
 人名索引

■引用

P. 27
言語記号そのものより記号間の差異であり、それが対立的価値の働きを構成する
P. 44
その一つは、ソシュール思想の根柢をなす《ラング》と《パロール》の概念規定に関わるものである。たとえばラングのもつ社会制度というアスペクトと示差的価値体系というアスペクトとは矛盾しないであろうか。言語はそのあらゆるレヴェルにおいて変異体(ヴァリアント)をもっているが、変異体というのは示差的機能を有していないので、社会的制約もまた蒙らないのが原則である。ところがこの拘束を受ける《結合変異体variante combinatoire》は、ラングによって義務づけられ、個人の自由にならないという意味では制度的である一方、音素とは違って弁別機能を持たないため示差的ではない。それでは結合変異体は強制されたものとしてラングに属するべきか、非示差的なものとしてパロールに属するべきか。また社会制度に対立する個人の言行為として捉えられる活動としてのパロールと、形相(フォルム)に対する実質、本質的(p. 44)構造に対する物理的顕在現象でしかないパロールとを、同一概念として扱ってよいかどうか。
いや一言にしていえば、ソシュールにおいてすべてが両義的なのは何故か。言語記号(シーニュ)の不分離性(=言語表現と意味の一体化)とその二重性(シーニュはシニフィエ、シニフィアンからなる)、言語記号の必然性とその恣意性、言語の不易性と可易性、ラングの現実性と抽象性、さらにはパロールの創造性と没意味的物質性、等々の逆説的真理はどこから生まれるのか。(p. 45)
P. 46
周知のごとく、この書が外国語に翻訳されたのは、日本における小林英夫氏のものがはじめてである。出版の十二年後である一九二八年に、『講義』は『言語学原論』という題名のもとに岡書院から訳出され、のちにその版権が岩波書店に移って一九四〇年にはその改訳新版が登場し、さらに一九七二年にその題名を『一般言語学講義』と変えた改版が出された。今でこそ現代言語学の元祖であるとともに、ひろく人間科学一般にわたる方法論とエピルテモロジーにコペルニクス的転回をもらたしたソシュールの評価は高まる一方であるが、当時はお膝元のヨーロッパにおいてさえごく一部の専門家の間でしか話題とならなかった。日本語訳についてドイツ語訳がなされ(一九三(p. 46)一年)、ロシア語訳が続き(一九三三年)、さらにスペイン語(一九四五年)に訳されたものの、アングロ=サクソン系の最初の翻訳は、一九五九年まで出されなかったのである。これに続いて、ポーランド語(一九六一)、ハンガリア語(一九六七年)、イタリア語(一九六七年)、スウェーデン語(一九七〇年)とさまざまの国語に訳される(p. 47)
P. 79
ソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化の能力およびその諸活動をランガージュlangageとよび、個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングlangueとよんで、この二つを峻別した。前者はいわば《ヒトのコトバ》もしくは《言語能力》(p. 79)と訳せる術語で、これこそ人間文化の根柢に見出される、生得的な普遍的潜在能力である。まことに、ヒトがhomo faberでありhomo sapiensであるためには、まずhomo loquensである必要があったし、ランガージュの所有は、その間接性、代替性、象徴性、抽象性によて人間の一切の文化的営為を可能にせしめた。レヴィ=ストロースLevi-Straussは、自然と文化の境界線を《道具》の存在の中に見る従来の定説をくつがえし、《コトバ》の所有のうちにこそ、人間の真の飛躍があると言っているが、この考え方はソシュールの次の発言に照応している。
 ランガージュは、人類を他の動物から弁別するしるしであり、人類学的な、あるいは社会学的といってもよい性格をもつ能力と見做される。
これに対して、ラングは一応《言語》という訳があてられる概念で、ランガージュがそれぞれの個別の社会において顕現されたものであり、その社会固有の独自の構造をもった制度である。この普遍性と個別性・特殊性とはいささかも矛盾しない。たとえば、家族制度というものはどんな人間集団にも共通して認められる普遍的な特徴となっているが、民族や時代の違いでさまざまな形をとって現われるように、ヒトのコトバも、その機能に関しては同一でありながら、別の言語共同体に属する人々(たとえばスワヒリ語を話す人々と日本語を話す人々)がお互いに伝達しあうことは不可能に近い事実を想起しよう。換言すれば、ランガージュは自然に対置された人間文化la cultureの源であり、ラングは社会との関係においれ歴史的、地理的に多様化している個別文化les culturesにあたるのである。(p. 80)
P. 88
第一のパロールは、全く物理的・偶然的な現象に過ぎず、厳密な意味では科学の対象にはなり得ないもので、データとしての意味しかもたない副次的行為である。ソシュールがベートーヴェンのソナタやシンフォニーをラングに譬え、その演奏をパロールに譬えた時のパロールがそれで、まさに「一つのシンフォニーはその演奏なしにも存在する現実である。同じように、ラングの中に与えられているもののパロールによる実行は、非本質的」であると言えよう。もし、パロールがこの現象だけであったら、《二つの言語学》の必然性は失われ、言語学はラングの言語学の同義語にならざるを得ない。事実、「生理的音声は言語学に属さず、……言語学の補助的な学である」と断言しているソシュールは、第二のパロールの重要性を知っていればこそ、パロールの言語学に言及したのであった。
第二のパロールは、ひとり類推的創造の源となるばかりでなく、個人の言行為が、あらゆる瞬間に世界の再布置化であり新しい価値の創造である点において第一のそれとは比較にならない重要性をもち、第Ⅱ部で詳しく見るように、メルロ=ポンティの言う言語の創造的使用とコノテーションの問題に深く関わっているのである。
さて、この項を終える前に、もう一つだけ押さえておかねばならないのは、ラングという概念も多義的であるという事実である。先に、「一応」と断ってラングを「言語」と訳したのもそのためで、私見によれば、ラングは次の三つの概念に分けられよう。第一は、ソシュールがles kanguesと複数形で用いたラングであり、これが「諸言語」、「諸国語体」と訳される、現実の自然言語の謂である。第二は、ソシュールがla langueと単数形で用いたラングで、これは前者の一般化から帰納される普遍的事象をさす。もちろん、ソシュールも注意深く断っているように、これとランガージュを混同してはならない。ランガージュは普遍的存在とはいっても、あくまでも生得的な構造化能力であり、構造でないことはすでに見た通りだからである。
P. 89
第三のラングは、この章の後半でも再びとりあげる記号学的原理であって、ソシュール的なラング、パロールの分岐をもつ方法論およびエピステモロジークな重要性(p. 89)は、ここに至ってはじめて見出されるのである。すなわち、ラングが社会制度の一つではなく、社会が、そして文化総体が、一つのラングとして捉えられる記号学的認識であって、ホイットニーからソシュールへの矢印を、ソシュールから(ヤーコブソンを介して)レヴィ=ストロースの方向へ逆転せしめたものとも言えるであろう。(p. 90)
P. 98
さて、以上に見てきたような言語、ひいてはこれを根柢とする文化の構造(=体系)を研究するにあたっては、即自的な実体ではなく、言語主体の視点から生ずる関係の網を対象とせねばならないことは当然であろう。ソシュールはこの関係が二つの異なった次元に見出されることに気づいていた。彼によれば、「ある語が隣接し、配列され、近づけられ、他の語と接触する様式は二つあり、これを語の二つの存在の場、もしくは語同士の間の関係の二つの領域と呼ぶことができる」のである。
第一の関係は、《顕在的》な連辞関係rapport syntagmatiqueと呼ばれるものである。話された(または書かれた)言葉は、時間的(または空間的)に線状の性質をもっており、その発話内に現われた個々の要素は、他の要素との対比関係におかれてはじめて差異化され意味をもつ。英語に具体例を求めるならば、I saw a boy. という文中で、sawがseeの過去形であることがわかるのは、Iに先立たれa boyが後続しているからこそであり、もしその前にtheとかmyといったような限定辞が来ればsawは名詞の「のこぎり」という意味になってしまう。……このように個々の語のもつ意味と機能を決定する第一の関係は、与えられた一定にコンテクスト内で直接観察されるものであり、ソシュールはこの結合グループを連辞suntagmeと呼んだ。この連辞は従来の句や節および文といった統辞論上の単位のみならず、語の下位要素の結合をも含めるもので、形態論と統辞論の壁をとりはらった画期的発想である。
第二の関係は、各要素と体系全体との関係で、その場に現われる資格は持ちながらもたまたま話者が別の要素をす/でに選択してしまったためそのコンテクストから排除される要素群との《潜在的》な関係である。先に挙げた例を使うならば、I saw a boy. のsawの位置を占め得たであろうmet, hit, lovedなどという同系列要素群との関係とも言えよう。文法的にはsawの位置を占める資格がなくても、その形の上の類似からpawやlawなどを連想したり、「のこぎり」という意味のsawから、carpenter, chisel, planeなどを想起する場合がそうである。これらは現実の文には現われず、同一コンテクスト内では相互排除、対立の関係にある。ソシュールはこれを連合関係rapport associatifと呼び、のちにイェルムスレウが範列関係rapport paradigmatiqueという術語に言いかえた。この新しい術語によって、ソシュールの考えていた「イメージの帯」という豊かな発想が幾分とも損なわれたのは残念なことと言わねばならない。確かに範列も、連合関係におかれる一つの関係ではあるが、連合関係には、まだほかにいくつもの意識的、無意識的連合の絆が存在するからである。
P. 102
ソシュールの言う連辞の型とは、換言すれば諸要素の連辞結合の規則にほかならず、のちの生成文法学派が唱える《回帰的規則recursive rule》や、テニエール用語の《結合価valance》をも含めた携帯、統辞の両領域をカヴァーする規則である。
P. 110
このように、ソシュールの提起した方法によれば、時代の移り変わるさまざまな段階で、まず共時的断面に目を据え、その俯瞰図と俯瞰図とを検討することによって体系総体の変化をたどるのが通時言語学であるということになる。
P. 113
通時的一連の事実の変化のなかには、共時的体系に結果的に影響を与える関与的変化と、共時的構造に何等の影響を及ぼさない非関与的な変化があるのは何故であろうか。自然界においては、すべての変化が、たとえ個別現象の連続であっても、その体系に影響を与えずにはおかない。個の価値は、その絶対的特性によって与えられ、個の集積と運動が、全体を形成しているからである。自然の次元においては、要素の同一性と差異は、その積極的(ポジテイヴ)な辞項間に樹立される。実質が変化すれば関係が変化するのであり、差異は客観的な差異でしかない。ところが、コトバを根柢におく文化の世界においては、差異を対立化するのは人間の視点であり、主体の意識である。共時態における同一性と差異の基準は、その体系内の他の共存辞項との対立であり、この対立を現象として生み出すのは言語主体の意識以外の何ものでもない。先にも述べたように、言語体系内の単位とは、この差異を対立化する現象の同義語なのである。
P. 114
これに対して、通時的同一性なるものは、言語主体の意識を逃れている。その基準は、形相(フォルム)(=体系内の関係)ではなく、実質(シュプスタンス)の次元にある。上古時代の「つま(妻・夫)」と現代の「つま(妻)」を同一の語と考えるとすれば、これは意味の実質が変ったにも拘らず音的実質の同一性が保たれているという事実からであり、平安時代の「いたつき」と現代の「病気」を同一の語と考えるとすれば、これは音的実質が変ったにも拘らず意味の実質が同一という事実からである。いずれの場合にも、シニフィアンとシニフィエが分離された抽象の実質(シュプスタンス)における同一性であり、言語学の対象とはならない。しかも、言語とはその話し手によって史的事実である以前に意識事実である。「つま」の意味的変遷も、「いたつき」と「病気」の意味的絆も、一般に言語主体には国語学者から知らされるまでは意識されないものなのである。これはちょうど、ある音素のさまざまな変異体が、言語主体にとっては意識されず、意識されるのは音素間の対立のみであるという事情と同じであろう。ソシュールが《具体的なもの》と呼んだのは、語る主体に感じられるもののことであり、これが唯一の表意的事実、言語現実であって、触知可能な物理的・客観的事象を《具体的なもの》と考えていたのでは全くなかった事実を忘れてはならない。「言語において具体的なものは、語る主体の意識にあるものすべてのことである。」
P. 119
我々の常識は、記号(シーニュ)とは「自分とは別の現象を告知したり指示したりするもの」と考え、日常的な経験から、たとえば黒雲が嵐を予告するシーニュ、煙が火のシーニュ、三十九度の熱が病気のシーニュであるのと同じように、コトバは事物や概念のシーニュであると思いこんでいる。ところが、こうした一般常識に反して、「コトバは《記号》ではない」という認識がソシュール思想の根底にあることを忘れてはならない。もちろん、コトバは結果的には《構成された構造》内で記号の様相を呈する。しかし、コトバ以前には、コトバが指さすべき事物も概念も存在しないのである。先に見たように、言語が名称目録でないという事実は、コトバが、既に区切られた言語外現実を指し示すものではなく、一次的には、自らのうちに意味を担っているという理論を導き出す。換言すれば、言語記号signe linguistiqueは、記号と呼ばれていても他の一切の記号と異なって、自らの外にア・プリオリに存在する意味を指し示すものでは決し(p. 119)てなく、いわば表現と意味とを同時に備えた二重の存在であるということである。(p. 120)
P. 124
ソシュールは、こうしてコトバに意味を奪回した。言語記号は、自らに外在する意味を指し示す《表現》の道具であることをやめた。しかし、ソシュールはさらにこれをとことんまで追求する。この取り戻した意味の源泉は何か。これこそラングという体系に依存する価値にほかならない。そしてその価値は、一つには言語主体が樹立する差異の対立化活動から生まれ、二つにはこの実践が獲得する社会性に裏づけられて確立される。
P. 136
そもそも、ラングに内在しラングなる価値体系を支えている二つの関係、すなわち連合・連辞関係は、それぞれの領域における差異化活動の原理であると言えるであろう。連合関係は潜在的かつ同時的意識の次元、連辞関係は顕在的かつ線状的空間(時間)の次元において。言語主体の意識は、辞項の差異と関係しか知覚せず、したがって、別々に分けられたシニフィアン、シニフィエとか、個々の辞項といった、他の辞項との関係を捨象した個別抽象体は意識の領域に達しない。つまりそんなものは、もともと存在していないのである。
P. 137
先にも述べたように、形相と実質の対立はシーニュの内容面にも見られることは言うまでもない。自然言語に限って言えば、実質は音的実質と意味的実質の二つに分けられよう。そのいずれも、言語の網(形相)を投影させない限り、どこに区切りを入れようもない連続体であって、それ自体は体系と無関係な存在である。音的実質が、人間によって発声可能なすべての物質音であるとすれば、意味的実質は、人間によって体験可能なすべての非言語的現実である。ラングは、形相を通してその両面に区切りを入れ、一方では物質音を対立関係におき、他方では非言語的現実を概念化する。この対立音のイメージと概念の一体化したものが言語記号であり、言語主体はその一方だけを切り離して意識することはできない。
P. 142
言語の中には差異しかない。それでは、意味はどこに求めたらよいのであろうか。ソシュールによれば、コトバの意味は、綴織と同じように差異と差異のモザイクから生まれるのである。「言語は音のイメージと、心的対立の上に成り立つ体系である。綴織に譬えてみよう。重要なことは、一連の視覚印象なのであり、色調の組合わせが織物の意味を形成するのであって、糸がどのように染められたかというようなことではない。」……綴織の材料である糸の物質性や、その製造法、色の染め方は実質に属し、非関与的なパロールであっても、言語主体がそれらの差異を用いて対立化させ、差異のモザイクを創り出す行為は形相化活動であって、第二のパロール活動にあたる。《実質》の対置概念は《関係》であると同時に結果として関係の網を生み出す《関係づくりの活動》でもあるのだ。……ドレミファソラシドという音階は純粋な関係に過ぎず、ドはそれ自体では何の意味も担っていない。しかし示差的である。ドはレでなく、レはミではない。この音階を用いて作曲家が一つのメロディを生み出した場合に、はじめて作曲家の意味志向が分節されて一つの意味が生れる。あらかじめ分節された即自的(アン・ソワ)な意味が存在し、人がそれを発見し、《実質》を用いてそれを表現するのではない。内容面における《実質》というものは、それがイェルムスレウのパーポートという意味である限り、我々の生きられる世界、生体験、意味志向なのであって、この意味志向には、志向性はってもまだ分節されない連続体であるそこに言語の網をかける時に、この網が投影さ(p. 142)れて影が映ることも、その時に切り取られる形、影によって縁どられたパーポートが、もう一つの実質すなわちイェルムレウの言うシュプスタンスであることも先に述べた。ソシュールの《実質》の対置概念は、言語の網《形相》であると同時にこの網を投影させる活動、さらには網自体を創り出す活動をも意味していることを再度強調しておこう。ここにこそ、網状組織としてのラングと、網を裁ち直すパロールの相互依存の接点が見出され、コトバとは「関係」と「動き」であるというソシュールの命題の正当な位置づけが、《形相(フォルム)》と《形相化》という概念を通してなされるのである。(p. 143)
P. 144
ソシュールの述べた恣意性は、実は次の二つの意味を持っているのだが、そのいずれもが言語内の問題であることを忘れてはなるまい。
第一の恣意性は、記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエとの関係において見出されるものである。つまり、シーニュの担っている概念xと、それを表現する聴覚映像yとの間には、いささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であ……る。
P. 145
これに対して、第二の恣意性は、一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(?)に見出されるもので、個々の辞項のもつ価値が、その体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。具体的に言えば、英語のmuttonの価値がフランス語のmooutonの価値とは異なる、その異なり方の問題で、その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという、その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。すでに見てきたように、ラングは一つの自立的体系であって、その辞項の価値は、言語内現実の中に潜在する価値が反映しているのではない。その区切り方の尺度は、あくまでもその言語社会で恣意的に定められたものであり、自然法則にはのっとっていないのである。ソシュールはこの第二の恣意性を《価値valeur》の概念とともに導入している。
P. 147
第二の恣意性すなわち価値の恣意性は、価値を生ぜしめる二つの関係に見出される。まず潜在的な連合関係に見られる恣意性は、その体系内における概念の配分と大きさの恣意性である。……「等価性を持つと見做される単語のそれぞれは、意味内容の微妙な差異を持ち、その単語が属している言語の外では、これに対応するものはないことが明らかになる。ある言語を所有することによって観念の練り上げが条件づけられる限り、また言語がすべて独自の、他とは混同されない歴史的特性を持っている限り、観念と人間の知識は何か時間の外にあるというものではなく、時間の中に浸りきった、人間共同体の経験の結実」であり、同一共同体内の個人ですら自らの語る意味内容を正確に他人に伝えられるとは言えないのであるまいか。
P. 161
《二重分節》というのは、言表ないしは信号がそれより小さい記号に分析され(=第一次分節)、さらにその記号表現面(=シニフィアン)が、その内容面に対応因子をもたない《形成素figure》へと分析される(=第二次分析)ことの謂である。換言すれば、内容面の最小単位は必ず表現面にその対応物を有するが、表現面の最小単位は内容面にその対応物を見出さない。
P. 200
ソシュール言語学の見地に立てば、分布主義にはいくつかの根本的誤謬が見出されるが、中でも最も大きいものは単位(ユニテ)の決定に関する問題である。分布主義はその定義からして、言語の諸単位があらかじめ存在していることを前提としており、その単位を発見し分布を知って全体の構造に至ろうとするタクシノミーにほからならないが、ソシュールの考えでは、コトバの要素は決してア・プリオリに与えられているものではなく、その要素が属する体系とともにしか見出されない。これはラングなる体系が、自然の潜在構造の反映ないしは敷写しではなく、人間の参加、社会的実践によってのみ決定される価値体系であるからにほかならない。確かにラングはそれが体系である限り、不連続な単位の存在を想定する。しかしその単位(ユニテ)は、自然の中に見出される実体ではないのである。
P. 201
   確かに書こうと決意する人間は、過去に対して彼だけが持っているような何らかの態度をとるものだ。文化というものはすべて、過去を継承する。……言語活動は、過去を超えるだけに満足せず、過去を要約し、回復し、実体として保持しようとする。
人間的事実=文化の構造は、正確には客観的でない。自然が法則の宇宙であるとすれば、文化はまさに尺度の宇宙である。まず存在するのは視点であり、その視点をどう選びとり主体的に事件を構成していくかが問題なのである。人間はモノをコトに仕立てあげ、過去の事実を歴史に変える。人は世界に意味を与えると同時に世界から意味を与えられ、すべての個人は世界を全体化する。
P. 224
パロールにおけるラングの現働化は、それ自体が二重であるという事実である。パロールは、一、形相の実質化(物質的表現)と、その正反対の、二、実質の形相化(生産活動)という逆説的二面性を有している。すなわち、
一、ソシュールが《音声作用phonation》と呼ぶパロールがそれで、これはシニフィアンをラングの規範と慣用の拘束下で物質化する行為である。文字通りラングの形相を実質化する無意識的作業であって、語る主体の意志はほとんど反映されない。メルロ=ポンティの言う、言葉の経験的使用がこれにあたり、ラングを曲に譬えれば、この種のパロールは既成の曲の機械的演奏である(芸術活動の一と考えられる真の演奏については別に考えたい)。
二、ソシュールが《結合combinason》と呼んだ言語行為がそれで、のちにヤーコブソンが《選択selection》という概念で補ったパロールの活動である。これは語る主体がラングのシーニュを範列軸のなかから選びとり、それを連辞軸において、言述(ディスクール)、さらにはテクストとしてつくりあげる活動である。これはその主体が《生きられる世界》である意/味の実質を《コトバの宇宙》に変える働きであり、意味志向の状態にある《沈黙》に表現を与え、それを分節化し意味化する――すなわち形相化する行為にほかならない。メルロ=ポンティの言う、言葉の創造的使用がこれにあたり、ラングを曲に譬えれば、この種のパロールは作曲活動である。
P. 232
確かに指標indiceと信号signalをあたまから同一視することはできない。だが、指標には自然的指標(たとえば、空の呈する色と天候、三十九度の熱と病気の関係など)と人工的指標(信号やパントマイム、身振り、祭儀、さらには文学作品、造形美術作品、音楽、映画など)があるのであって、後者は必ずしもコミュニケーションの意図をもつ指標とのみは断定できず、むしろ潜在的・無意識的表意作用をもつ指標の方がわれわれの行動をより大きく左右していることを忘れてはなるまい。別のいい方をすれば、一方にコードを照らし合わせて解読decoderされる人工的指標(=信号)があり、他方にはコードのメカニスムとは無関係に解釈interpreterされる人工的指標がある。文学作品が解読されるべきものではなく解釈されるべきものであることは常識であろう。これはデノテーションとコノテーションの対立であり、ルポルタージュ言語と詩的言語、さらには、透明な《道具としてのコトバlangage-instrument》と不透明な《対象としてのコトバlangage-objet》の対立でもある。いずれも同等の資格で《文化のコトバ》である。
P. 237
著者がすでにくりかえし述べたように、言語の本質はその《非記号性》にある。すなわち、ア・プリオリに切り取られ秩序づけられている《モノ》を指さすのではなく、連続体としての意味のマグマに働きかけてこれを非連続化し、概念化し、カテゴリー化するのが言語の本来の働きである。しかし同時に、言語記号が、自らの内に含むシニフィエを通して言語外現実を指さすということもまた、記号行為を成立させるための必須条件である。この逆説的真理の解明は、ソシュールの思想を解く大きな鍵の一つであって、これこそ、「コトバはすでに区切られた事物を指さしはしないが、自らが切り取ったものを、二次的に指さす」事実の指摘にほかならず、二次的に指さされている指向対照referentは、言語によってしか生れない《コト》である点を忘れてはならない。すなわちここで言う《コト》とは、言語の網formeが意味と音のカオスpurportに投影された結果はじめて生ずる実質substanceであり、これが社会の言語外現実、すなわち《構成された構造》の実質を形成しているのである。
P. 247
ソシュールの指摘をまつまでもなく、言語とは一つの社会制度であり、いくつかの位相を持つ集団的言語活動が、そこからそれぞれの集団における主体的な価値意識が捨象され対象化されたものとしての姿を呈している。それは一言語共同体に属する個人が否応なしにくりこまれてしまう規制の構造であり、一切の生体験がそのラングのシュマによって分節され条件づけられる。そこでは《意味》はもはや人間的意識が産出するものではなく、あらかじめラングによって決定されラングに内在しているものとして人間はそれに支配される。コトバは人間の産物であり、その意味は生産し得るものであるはずなのに、我々は生れ落ちてから一度も意味生産に参加したという自覚を持たない。類としての人間の創造物であるはずのコトバが、個としての人間にとっては既成の支配物となって現われ、我々はまさに自分と無縁な意味にとりかこまれる存在となる。
P. 254
ソシュールの、そしてその記号(シーニュ)理論をさらに発展した形で継承したメルロ=ポンティの理論におけるコトバは、実はこの第二次言語であった。しかし、最後に述べておかねばならぬ最も重要なこととして、ソシュールたちの主張は、いわば一時的な日常的な言語を止揚した文学言語が第二次言語であるというのではさらさらなく、第二次言語と呼ばれているものこそ本質的なコトバの姿であり、それが惰性化したものがいわゆる第一次言語であるという認識の定立化にほかならない。コトバは本質的には非記号的なものであるため、自らの誕生と同時に意味をもつ。言語外現実に働きかけてそれを切り取った瞬間瞬間にコトバの表現が完了し、それまでは存在しなかった意味が生れるのである。この行為の過程こそ本来のパロール活動であって、ラングはその結果に過ぎないにもかかわらず、実践的惰性態と化したラングの現実は巨大なシメールとなって個人の上にのしかかっている。いわゆる第一次言語はコトバの本質を隠(p. 254)蔽しながら我々の日常の生活を支配し、規制する。コトバが記号の姿を呈し、我々はその指さす先になる既成の意味世界を追いながら一つ一つ名を覚えさせられていく。これは虚像の意味世界であるが、それが虚像であることは一般には意識されない。一見そこに見出される必然は、自然的動物である人間を支配する自然の法則であるかのようにさえ思われる。生れ落ちたときから制度化された言語現実の中に身を置き、ラングによって外から規制されながら主体的価値意識を抑圧されている我々は、その拘束が《自然的必然》と同質のものと考えてしまい、そう錯覚することによって自らの内なる自然をも蝕んでいく。(p. 255)
P. 268
ラングの多様性の中でも、さらに問題をしぼってみると、社会制度としてのラングと記号学的価値体系としてのラングという二つのアスペクトが浮かび上ってくる。
まずラングとは、ホイットニー的な意味での社会制度である。個々の言行為であるパロールに対してラングとはこの社会的条件装置であり、人間のもつ潜在的言語能力の社会的産物である。それは集団の同意によって認められてはじめて成立し、個人は社会生活を通していわばこれを受動的に蒙るものである。ラングとは、ランガージュ能力の行使を個人を許すべく社会が採り入れた、必要な契約の総体である。したがって、社会制度としてのラングのもつ本質は、個人への規制の中にこそ最も顕著に見出される。パロールが個人的な意志と知能の働きであるのに反し、ラングの方は社会の制約という形を呈している。個人はひとりでこれを創ることも変えることもできない。このことは、……「原語の恣意性」という問題とも当然関わるが、この意味のラングにおいては、言語ほど必然(p. 268)なものではないと言えるであろう。(p. 269)
P. 269
第二のアスペクトは、一つの価値体系として捉えられたラングであって、ソシュールによればこれは社会制度としてのラングが同時に有するもう一つの特性である。この価値は、自然的事物のもつ絶対的特性によって定義される即自的価値ではなく、体系内の他の辞項との共存と対立から生れる相対的・否定的価値にほかならない。体系を離れてア・プリオリに存在する積極的意味も音のイメージもないのであり、あるものは相互間の差異だけである。
……
この差異という概念は、ソシュールにおいて記号の恣意性の原理と切り離すことができない。恣意性と示差性は相関的特性なのである。恣意的な記号は差異の上にのみ成立する。ある観念に対してある音のイメージを結びつけるのが恣意的なのではなく、無定形な意味と音を同時に切り取る、その切り取り方が恣意的なのであって、もしそうでないとしたら、価値の概念は自然の中に見出される絶対的要素を含むことになり、非社会的特質に裏づけられるものとなってしまうであろう。
P. 280
著者が、《構成された構造》であるラングに対置して《構成する構造=主体》と呼んだパロールのもつ社会性がこれであって、くり返すまでもなくこのパロールは単なる生理的発声現象や物理音といったシュプスタンスとは違い、一つの構造を有するものである。これは、イディオレクトの概念にも近い、個人の価値観やイデオロギーを支える言語・意識構造にほかならないが、これまた当然のこととして既成のラングという大きな構造の中にくりこまれ、否応なしに規制されている構造でもある。一方においてラングはパロールの産物として成立し、他方においてパロールはラングに規制されるように、この二つはつくり作られる永続的な相互依存関係におかれている。このパロールこそは、物質的なものに働きかけて、それをのり超え、しかもそれを保有しながら、具体的実践を行なう個人の社会行動の本質であり、歴史や社会の中にあってそれを動的なものにする《否定の契機、反構造的契機》である。またこの意味でのパロ(p. 280)ールとそれをくりこむラングとは、いわば同心円的であり、二つの逆の矢印が示すように、ラングによって規制されるとパロールと、逆にパロールによって変革されるラングの間に烈しい緊張関係が生ずると言うことができよう。(p. 281)
P. 306
「しかしコトバとエクリチュールは、事物の自然な関係に基盤を置いてはいない。」人間は他の動物と同じく生物学的に存在しながら、同時に記号学的世界に生きている。人間はしたがって、他の一切の動物とは異なり、環境に自分を適合させるというよりは、むしろこの表象的次元を介して環境の方を自分に適合するように《恣意的に》これを変形する。人間の周囲には、自然音とそれが言語の形相を通して変形された文化音がある、と言ってもよい。《語聾症surdie? verbale》という病気が知られているが、これは耳そのものの生理的故障とは全く関係なく、言語音のみに局限される症状で、話された語の意味が理解できない一種の失語症である。つまり、この(1)のシーニュの不分離性とあいまって、言語命名論と主知主義の否定の根拠でもあり、(2)の価値体系の概念が意味する言語の自立性とともに、経験主義否定の根拠/でもある。ア・プリオリに秩序をもち、カテゴリー化され、分類化された世界の潜在構造を、人間が言語を通して発見していくのではない。また言語が、その彼方にある思考とか知性のもつ《意味》をただ指さすものではなく、自らのうちに意味を担っているということは、のちにメルロ=ポンティの言葉を借りれば「コトバは意味を持つ」という認識であり、条件反射の道具や意味の転轍手に成り下がろうとしていた人間に、《語る主体》と《語る意味》を回復せしめたとも言えるであろう。コトバは観念の表現ではなく、観念の方がコトバの産物なのである。
P. 329
ビュルジェによれば、ラングは価値の体系であり、この《価値》は純粋に潜在的な実体で、これが具体的言述の中におけるさまざまな《意義》の現前を可能にせしめている。「意義を生み出す源が価値である」という考えは、まさにこの抽象的条件が、具体的・個別的実体を生み出す要因であるという意味に外ならない。また、フランス語のmoutonと英語のsheepは、その体系内の《価値》が異なりながらも、具体的連辞においては全く同じ《意義》をもつこともあり得るし、ここにこそ、価値体系を異にする言語からもう一つの言語への翻訳が可能である理由が見出されるのだ。《価値》はラングに属する形相であり、《意義》はパロールに属する実質(シュプスタンス)ということになろう。
P. 330
ビュルジェは、ラング自体がもつ潜在性と顕在性、抽象性と具体性という二重の性格を見落としている。潜在的なものはすべてラングに、それが現前され実行されたものはすべてパロールに属せしめることは、一見明快な区別であり、ソシュールの根底的区別である形相と実質に対応しているかのごとく思われぬこともない。潜在的実体である《価値》をラングに、それが条件となり源となって《意義群》をパロールに属せしめたのは、おそらく右のような論理に基づいているだろう。ところが、事実はそれほど単純ではないのである。
P. 333
本章で特に照射したい問題は、ラング自体のもつ《潜在性》、《抽象性》と《具体性》という二重の性格である。最も端的な例として言えることは、人間のもつ生得の普遍的な言語能力、抽象化・カテゴリー化・概念化の能力(p. 333)であるところのランガージュとの関係で考察されたラングは、前者があくまでも《潜在能力》であるのに対し、後者はそれが社会的に実現された《顕在物》であるという事実である。一方、この顕在的ラングも現実の言表に現われる個々の言行為であるパロールとの対比においては、《潜在的・抽象的条件装置》であって、決して具体的・物理的実体ではない。したがって、このラングとパロールの区別という視点に立つと、今度は前者が《潜在構造》であり後者はこれを顕在化し具体化したものと言えるであろう。このパロールの行為を《個人的実現realisation individuelle》と呼べば、先のラングの《社会的実現realisation sociale》との間に見られる。同じ実現のもつ位相の差が明確になってくるのである。(p. 334)
P. 335
以上から判明することは、ソシュールのラングには、①《形相》としてのラングと、②社会的に実現された《規範》としてのラングがあるという事実である。後者の具体性は、もちろんパロールの実質(シュプスタンス)とは異質のものであるが、純粋な関係の網である形相が社会的に実現された結果、一つには音的性格を持ち(原理的には、視覚・嗅覚・味覚・触覚といういかなる実現形式をとることも可能である)、二つには、その社会慣習が許容する変異体のみが強いられる(原理的には、いかなる差異でも対立化されさえすればよい)という意味で、一種の有形性を具えているラングなのだ。①の《形相としてのラングlangue-forme》は、イェルムスレウの《図式schema》と全く一致するのに対し、②の《規範としてのラングlangue-norme》は、イェルムスレルの《規範norme》と《慣用usage》の概念をあわせもったものであって、②は①が社会的に実現された実態である。ちなみに、イェルムスレウはソシュールのラング概念を次のように三分した。
   まずラングを考察することにしよう。それは次の三点から考察される。
  a その社会的実現と物質的顕現とは無関係に定義される、純粋な形相として(=図式)。
  b 特定の社会的実現によって定義されるが、なお顕現の細部には依存しない、物質的形態として(=規範)。
  c 特定社会において採用され、観察される顕現によって定義される、慣習の総体として(=慣用)。
P. 338
連辞関係と連合関係の問題を再び取り上げてみると、《形相としてのラング》に属する連辞関係は、連合関係と同じ資格で潜在的である。……組合せを可能にする結合規則そのものが、《形相としてのラング》の属する連辞関係であり、その規則によって実現される言表は、《規範としてのラング》に属する連辞である。連辞化された結果、確かに言表は一つの具体的コンテクストをもつが、これはあくまで言語的コンテ/クストに過ぎず、「文脈」と訳されるべきものであって、他の一切の状況と比べると、かなり抽象的なものにとどまっている。……いかなる現実の場で、誰によって、どのようあイントネーション、どのような声音で語られ、その対話者が誰であり、発話者といかなる関係にあるか、といったコンテクストや、さらにひろく、マリノフスキーB. Malinowski的な意味での《文化的現実のコンテクスト》、《状況のコンテクスト》といったコンテクストのもつ具体性と比較するだけで、連辞のもつ抽象性は明白であろう。右のような、文脈を除くすべての状況こそ、パロール次元における実現の場にほかならず、《規範としてのラング》の実現環境とは峻別されねばならない。
P. 345
この《意義》が絶対的自然の特性によって即自的に存在する実体でないことも忘れてはならないだろう。この歴史的・社会的産物は、《形相としてのラング》に属する恣意的《価値》に依存しているのである。

■書評・紹介

■言及


*作成:岡田 清鷹
UP: 20080605 REV: 20081115, 20090507,0730, 20171027
◇Saussure, Ferdinand de/フェルディナン・ド・ソシュール  ◇哲学/政治哲学/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
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