高野山は、816年、嵯峨天皇から空海に下賜された、日本仏教の聖地です。
空海が唐から帰国する際に、密教の法具である三鈷杵を投げたところ日本まで飛んでいったとされます。
この三鈷杵が高野山の松にひっかかっているのを発見し、ここ高野山の地を真言密教の修行の場所とすることを決め寺院を建設しはじめたとされます。この三鈷杵は「飛行三鈷杵」と呼ばれ高野山開山の伝説となっています。三鈷杵のあった松も葉が三本あることから「三鈷の松」と呼ばれています。地元、和歌山にありますので、毎年のように訪れてはいます。
弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖空海。万能の天才ともいわれ空海さん自身が信仰の対象ともなっています。空海さんは謎が多い人物です。
最初に、「空海さんごめんなさい」・・・ってまず謝っておいてから空海の謎について書いていきます。空海さんのことなんて書くつもりはなかったですし、少し批判することになるかなって思っていたのですが・・・それが書いていると、少しのつもりが沢山批判することになりました。あまり詳しく調べてもいないのに、もしかしたらこれ程空海さんを批判している人はいないかもしれませんm(__)m
空海さんは優秀な人物でしょうが、数々の奇跡を起こした超人的な天才ではないです。
そして奇跡なんて起こしていません。あまりにも万能の天才すぎて、かえって私には信用できません。真言宗の開祖となったことで、神格化する事は理解できますが程があるように思います。
これまで記述してきましたが、桓武天皇の平安京は渡来人の都であり、倭国内の百済国です。平安と奈良、政治的な対立もありますが、仏教に関しても奈良仏教と争っていたとされます。平安仏教といえば、最澄と空海。空海さん実はこの時代の、平安京と奈良京の争いに関係します。だから、空海さんに登場してもらいます。
空海さんを調べ始めたのは、母方が渡来人と関係するらしいというところです。それで、少し調べたのですが、最澄は応神天皇の時代に渡来したと称する渡来人とされます。仏教関係は渡来人が多く関係しますが、空海さんも、母方は渡来人系だといわれているようなのですが?
空海さんの奇跡は、この出自に関する謎から紐解けるように思います。
ウイッキペディア・・・
桓武天皇による平安遷都(794年)の背景の一つには、奈良仏教(南都六宗)の専横の問題があった。孝謙女帝が僧・道鏡を寵愛し、あわよくば道鏡が天皇にまでなろうとして和気清麻呂に阻止された経緯があり、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することが長岡京、平安京への遷都の一つの動機である。
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桓武天皇は、南都六宗と呼ばれた、それまでの奈良仏教に対しては封戸の没収などをして対立したとされます。奈良仏教の影響を排除することではなく、本来は政治的な面で対立していたのです。
これまで、書いてきましたが、特にこの桓武天皇の時代は、渡来人である秦氏、藤原氏と王家との対立がありました。
前々回に書きましたが、早良大王など多くの王家の人物を暗殺しています。この殺害された人々は怨霊となりました。
桓武天皇は、この怨霊を酷くおびえていたこともあり、これら怨霊に打ち勝つための新しい仏教を取り入れたかったのです。
この奈良仏教に対して有利な立場に立つための新しい仏教、怨霊を退治することのできる新しい仏教をとりいれることです。
桓武天皇が、この時代の最先端の仏教である天台宗や密教を学ばせるために唐に送ったのが最澄、霊仙、 そして空海ですが、・・・空海さんはそうではなかったのではないのかな?
桓武天皇と空海は、実は非常に近い関係にあったのです。桓武天皇は天智系天皇です。この天智天皇は、秦氏に関係する人物です。そして空海もまたこの秦氏に関係する人物なのでは?秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人と称し、百済経由で日本に入った渡来人である。
この秦氏も応神天皇に時代に渡来したとされます。朝鮮半島は大陸と繋がっていることにより常に大国である中国の侵略による戦乱がおきました。渡来人が日本に渡る大きな理由は、この戦乱を逃れるためと考えられます。
この古代からの渡来人は、日本の豪族と関係を持つことになり、さらに新たに来た渡来人を含め、この時代には大きな勢力となっていました。
まず、空海さんの生誕地についての謎から・・・
ウイッキペディア・・・空海
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。
父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)、幼名は真魚。
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空海さん、幼名は佐伯真魚です。生誕地は、この佐伯氏の本拠地である今の香川県善通寺市にある、善通寺付近とされます。四国霊場八十八ヶ所・第75番札所であり、真言宗善通寺派の総本山です。しかし、空海さんはどこで生まれたか定かな資料はありません。
この善通寺は、父方の佐伯一族の氏寺として創建されたものであり、佐伯氏の本拠地であるのですが、空海の生誕地ではない。空海さんは、渡来人である秦氏と関係するため本来の生誕地を明かすことができなかったのでは? ・・・と推測するのですが?
そして渡来人と関係するというのなら、この渡来人とは秦氏以外はない。
空海のお父さんは佐伯氏、佐伯直田公であり、お母さんは阿刀氏、阿刀大足の娘とされます。佐伯氏は大伴氏、阿刀氏は物部氏と同祖伝承を有する、古代からの豪族で渡来人系ではありません。しかし、空海の母方は渡来人と関係するといわれます。
つまり、これは母方の阿刀氏が渡来人と関係を持ったということです。この渡来人とは秦氏である。空海のお母さんである阿刀大足の娘というのは、阿刀大足と渡来人である秦氏の女性との娘であるのです。母方の祖母が渡来人である秦氏の女性である。
どうして秦氏の娘だと推測できるかというと、阿刀氏の中で秦氏の本拠地である太秦近く山背国に移住していた人達がいたのです。
そして、父方の佐伯氏の本拠地は讃岐でしょうが、父の佐伯直田公の時代には、既にこの讃岐の地を離れて中央、畿内に出ている。
つまり、どういうことかというと、空海は讃岐で生まれるはずはないということです。阿刀大足と秦氏の女性との娘が空海のお母さんである。祖母が秦氏の女性である。つまりお母さんも秦氏が関係する女性であり、空海はお母さんの実家、秦氏の本拠地である、太秦の生まれである。
太秦に住んでいる空海のお母さんのもとに、佐伯直田公が出向き、ここ太秦で真魚を生んでいるはずです。
この母方の阿刀氏は、もとは物部系の氏族とされます。この氏族名の阿刀は、阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づく とされます。この阿刀氏の居住地から秦氏との関係が推測できます。
ウイッキペディア・・・阿刀氏
居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。
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この阿刀氏のなかで、秦氏が開拓したともいえる領地である山背国に移住したものがいて、秦氏と関係をもったということです。讃岐には阿刀氏の居住地はありません。讃岐に移った形跡がないのです。
つまり、佐伯氏が讃岐にいたのなら、阿刀氏との接点がない。
阿刀氏の氏神とされる阿刀神社は、秦氏の居住地であった太秦にあることからも、秦氏と阿刀氏の関係を推測できます。
阿刀大足は、桓武天皇の皇子である伊予親王の家庭教師でした。この阿刀大足と秦氏の娘との子が空海のお母さんである。空海は母方が秦氏と関係する。空海はこの母方の地で生まれているはずです。佐伯氏は讃岐と関係しますが、空海のお父さんである、佐伯直田公は播磨国の郡司である。
佐伯氏は畿内に出ている痕跡はあるのですが、阿刀氏は讃岐とは関係しない。つまり空海が讃岐で生まれるはずはない。
この阿刀神社(京都市右京区嵯峨広沢南野町)付近、秦氏の本拠地である太秦が空海の生誕地である。
しかし、空海さんは秦氏と関係するということがこの後有利に働きます。それは桓武天皇は秦氏の王ともいえるからです。そして秦氏は藤原氏とも深く関係します。桓武天皇に関してはもう既に書いてきましたが、天智系天皇である桓武天皇は秦氏と関係します。
天智天皇は秦氏の関係する王であるといえるからです。桓武天皇が天台宗の開祖となった最澄を用いたのも、この最澄も秦氏に関わる人物だからです。そして空海もまた渡来人である秦氏が関係する人物である。
空海さんの母方の秦氏の実家である太秦で育ったため、渡来人と接する機会が多く幼い時から語学を学べる環境にいたのでは。
そうすると、空海さんに関係する、いくつかの奇跡についても謎解けるように思います。
空海さん、活躍するのは遣唐使船で唐に渡ってからです。それ以前は仏教の厳しい修行をしていただろうと考えられていますが、実は何をしていたのかは不明です。
空海さんも人間ですからね、司馬遼太郎さんも「空海の風景」において述べていますが、空海は大山師である。自身を売り出すことにかけては天才だと・・・司馬遼太郎さんも調べているとそう感じたのでしょうか?
この「空海の風景」はもう随分前に読みました。その時はそう疑問には思わなかったところも、いま桓武天皇の時代を考えてみると、空海さんの伝承の謎も解けるように思います。
仏教の祖であるお釈迦様は、お母さんである摩耶夫人の右脇から生まれ、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という伝説があります。真言宗の開祖となったということで、空海にも奇跡をおこした話が多数語られています。宗教の開祖にはこういう奇跡が必要なのでしょうか?
「空海の風景」をもう一度読み直しながら空海さんのことについて考えてみます。
成功するためには才能と運が必要ですかね?空海さんはこの運にも恵まれていたのかな?
空海は天才とされているので、不思議な話も、空海ならありえるかなって思ってしまいますよね。でも空海は多才な人物でしょうが、数々の奇跡をおこした天才ではない。空海さんは真実を語っていない。空海の書?である「御遺告」、これは空海が弟子たちに語ったということをまとめた真言宗の戒律本です。この御遺告は後の時代に、真言宗開祖としての空海の経歴の不都合な部分を改竄するため書である。
空海さんは数々の奇跡を起こしています。流水に龍という文字を書くと本当に龍になって飛んで行ったというような、ありえない奇跡の話ではなく、実際に起きた奇跡について考えてみます。
空海の奇跡が始まるのは唐に渡ってからです。信じられないことが起きます。空海の師匠は、密教の第七祖恵果和尚です。恵果和尚は弟子が千人以上もあったのにもかかわらず、初対面の日本からきた、いわば、どこの誰ともわからないような僧に全てを伝授するといったとされます。なんと初対面で、密教の奥義の伝授を開始ししはじめました。
こんなのありえるわけないでしょう?これは奇跡ですよね。
この奇跡は実際に起きた奇跡です。この奇跡どうして起きたのか考えてみます。これはこの時代の平安と奈良との争いが関係するからです。
これまで記述してきましたが桓武天皇の平安京は渡来人の都であり、倭国内の百済国です。平安と奈良、政治的な対立もありますが、仏教に関しても奈良仏教と争っていたとされます。
ウイッキペディア・・・
桓武天皇による平安遷都(794年)の背景の一つには、奈良仏教(南都六宗)の専横の問題があった。孝謙女帝が僧・道鏡を寵愛し、あわよくば道鏡が天皇にまでなろうとして和気清麻呂に阻止された経緯があり、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することが長岡京、平安京への遷都の一つの動機である。
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桓武天皇は、南都六宗と呼ばれた、それまでの奈良仏教に対しては封戸の没収などをして対立しています。これまで、書いてきましたが、特にこの桓武天皇の時代は、渡来人である秦氏、藤原氏と大王家との対立によって、多くの大王家の人物が殺害されました。
前々回に書きましたが、本来の大王であった早良大王など多くの大王家の人物を暗殺しています。この殺害された人々は怨霊となりました。これは、後に空海がこの早良大王が幽閉され亡くなった乙訓寺の別当になったことからも推測できます。桓武天皇は、この怨霊を酷く怯えていたこともあり、これら怨霊に打ち勝つための新しい仏教を取り入れたかったのです。
この奈良仏教に対して有利な立場に立つための新しい仏教、怨霊を退治することのできる新しい仏教をとりいれることです。
桓武天皇が、この時代の最先端の仏教である天台宗や密教を学ばせるために唐に送ったのが最澄、霊仙、 そして空海ですが、・・・空海さんはそうではなかったのではないのかな?
ウイッキペディア・・・
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。
灌頂を受けた後・・・空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
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空海は唐に渡ってから活躍を始めます。唐に渡ってからの大きな謎は、上記した密教の奥儀を伝授されたことと、この金銭面に関してです。
最澄に関しては、既に比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を創建していて、桓武天皇からも信任厚い仏教界のエリートであり、全面的に国からの援助があったとされます。しかし、無名の一沙門である空海は、これら唐へ渡る費用、滞在費、灌頂を受ける費用、経典や法具の購入費など、信じられないような莫大な費用をどう工面したかが大きな謎だとされます。
これ誰しも疑問に思うところです。
しかし、この奇跡については簡単に説明できます。空海も国から援助があったのです。空海は秦氏と関係し、秦氏の王である桓武天皇と関係するからです。本来は、空海は桓武政権下の官僚であるのでは?
これは王家を滅ぼし権力を得ていた桓武天皇が支出したのです。つまり桓武天皇の命令で、新しい仏教を入れるための遣唐使でもあるからです。
桓武天皇の時代に、蝦夷討伐を行っています。空海さんとは何ら関係ないように思えますが、そうではない。
この時期、桓武天皇は沢山お金を持っていたのです。これはゴールドの方のお金です。つまり金で新しい仏教を購入したといっていいと思います。空海の役目は唐に渡り、この経典や法具の購入する仕事を桓武天皇から命令されていたのではないのか?
選ばれたのは秀でた語学力でした。「御遺告」にある入唐の動機は真実を語っていない。
桓武天皇の時代に、4度にわたる東北の蝦夷征討をおこなっています。これが空海さんと大きな関わりを持つことになります。
坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、802年3度目の遠征でアテルイとモレが降伏し、東北の蝦夷をほぼ平定したとされます。
どうして、桓武天皇は蝦夷討伐を敢行したのかというと、それは、そう金です。749年、東北地方で大量の金が発見されていたからです。東北遠征の目的はこの金を奪うことです。蝦夷を討伐することにより、多量の金を入手することが出来たのです。
仏像は本来、基本金色であり、東大寺の大きな大仏さんも金メッキされていました。大仏さんの開眼式は752年に行われました。大仏さんはこの東北で発見された金を使用して造られました。大仏さんを鍍金する目的で金を探していて、そして東北において多量の金が発掘されていたのです。東北地方の国々が中央の朝廷と対立していたのは、これら金山を守るためというのが大きな理由です。
803年には東北の蝦夷を平定したことにより、桓武天皇は多量の金を得ることが出来ました。
この年の遣唐使は中止になりましたが、翌年(804年)です、遣唐使船で最澄や空海が唐に渡ったのは。
遣唐使を送り出す費用や滞在費はこの砂金が使われました。日本が、黄金の国、ジパングともいわれたのは、この遣唐使として唐に渡り滞在費を砂金で支払っていたことも大きく影響しているといわれます。
ウイッキペディア・・・遣唐使の目的
中国の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏教の経典等の収集が目的とされた。
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ウイッキペディアを参照するまでもないですが、中国の文物、仏教の経典ももちろん購入するにはお金が必要ですが、そのお金とは、金ゴールド以外ない。
桓武天皇は突然に多量の金を得ることが出来たので、唐の文化や文物を購入しに遣唐使を派遣したということです。もちろん、新しい仏教を取り入れることも大きな目的でした。言葉がよくないかもしれませんが、金で新しい仏教を手に入れることに成功したのです。
桓武天皇の命令は、怨霊に打ち勝つ新しい仏教の入手です。
さすがに最澄さんに、金で仏教を入手しろとはいえませんので選ばれたのが語学力に秀でていた空海さんです。
空海さんは、唐に滞在して新しい文物や仏教の経典などを購入し、日本に送る役割の仕事を与えられていたのではないのかな?
そうすると空海さんの奇跡の謎は解けます。
空海さんの問題点です。真言宗の開祖となった空海さん、そして後の真言宗教団にとっても不都合なところは、実は僧となったのが遣唐使で唐に渡る直前であり、それまでは仏教とは関係しなかった点なのではないのかな?
空海さんは、遣唐使として唐に渡ってから大活躍を始めますが、実はそれ以前については詳しくはわかっていません。
空海は15歳で母方の叔父である阿刀大足について上京し勉学をはじめたとされます。その後18歳で大学にはいりました。。
この頃、一人の沙門から「虚空蔵求聞持法」を授かったとされます。その後、24歳にて 「聾瞽指帰」、後の「三教指帰」を著しました。以上が遣唐使以前の確実な空海さんの事績とされます。
24歳の出家宣言書とされるこの「聾瞽指帰」以降、唐に渡るまで、何をしていたかは不明です。
空海さんの「空白の7年間」といわれます。
しかし「聾瞽指帰」以前の事績についても、本当に確かなことなのだろうか?確実な事績とされるのは、「三教指帰」の序文に空海さん自身が書いているからです。だから誰も疑いません。空海さんは神聖な存在でもあるので疑えないのでしょうか。
わたしは空海さんは真実を語っていないように思います。
空海の問題点です。
*空海は15歳で母方の叔父である阿刀大足について上京し勉学をはじめたとされます。その後18歳で大学に入ったとされます。
三教指帰に記されていて、空海さんが自身が語ったことであり間違いないこととされます。
しかし、これがおかしいという指摘もされています。この時代、大学寮に入学する年齢としては非常に遅いのです。
それは、学令で定められている、大学の入学資格は13歳以上、16歳以下であるのです。15歳から18歳まで何をしていたのかも何も語っていません。18歳で大学寮に入学というのは学令違反であり、本来はありえません。
つまり本来は13歳で大学に入学しようとするはずです。それが、なぜに18歳になって大学に入学したのでしょうか?そして何故に2年間ほどで大学を辞めるということになるのでしょうか?理由があります。
佐伯真魚は13歳で大学寮に入学できない理由があります。秦氏が関係するということで、もともと入学は難しかったのです。大王家と渡来人である秦氏は対立していたからです。これが大きな理由です。
それと、遷都したばかりの長岡京での事件が関係します。
空海の叔父である阿刀大足は、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であったとされます。これまで書いてきましたが、この伊予親王は早良大王の王子です。空海は774年生まれであり、長岡京遷都は784年です。
藤原氏はこの早良大王を、聖武天皇と同様に藤原の操る王としようとしていました。長岡京に遷都しようとした理由は、奈良京には秦氏藤原氏と対立する豪族が多くいたからです。しかし、長岡京に遷都したばかりで、おそらく空海が学ぼうとしていた大学寮は、長岡京ではなく、いまだ奈良京(平城京)にあったのだろうと考えられます。
このいまだ建設中であった長岡京で大事件が起きたのです。
それは空海が、12歳の時、延暦4年(785年)に、藤原種継の暗殺事件がおきました。これは秦氏、藤原氏と対立する反藤原氏の豪族、大伴氏などとの争いががおきているのです。この時、785年11月、本来の大王であった早良大王が殺さるという政変が起きたからです。事件というようなものではなく渡来人秦氏、藤原氏による国家転覆のクーデタ、戦争です。
早良大王が殺されたということでこのあと戦乱になります。この戦乱の地は、大伴氏など反秦氏、藤原氏勢力が多くいる奈良京においてです。
この戦いは、残念ながら秦氏、藤原氏側の勝利となり、秦氏が関係する桓武天皇が即位するということになります。
桓武天皇の本来の即位は、この早良大王が崩御したあとの786年である。
空海さんは15歳から18歳まで阿刀大足について学んでいたとされます。それは、秦氏と関係する空海は、この戦乱の影響もあり奈良の大学寮に進むことは難しかったからです。
秦氏の王といえる桓武天皇が即位したことで、秦氏と関係する空海は大学寮に入学することが出来たのです。そしてこの大学寮は長岡京に新設されたからです。学令に反する18歳で大学入学という不思議な謎は、この791年に長岡京において大学が完成したからです。
この長岡京は秦氏、藤原氏の都である。
空海は、この大学寮でおよそ二年間学んだとされ、その後、大学を辞め793年頃には山林での修行にはいったとされます。しかしそうではない。大学を辞めたのではなく大学が閉鎖されたからです。桓武天皇は早良大王の怨霊に怯え、長岡京から平安京に移転を始めたのです。
平安京遷都は794年です。
この大学寮を出た後、何をしていたかが、真言宗開祖としての問題点です。
これ以降、唐に渡るまでの期間が改竄されているように思う。
18歳で大学に入学し学ぶべきことは全て学んだ?後、生きることは何かということを求め19歳をすぎた頃には既に修行をしていたといわれます。しかし、阿刀大足から仏教については学んでいません。大学でも仏教思想を学んでいません。本来、僧としての修行はもっと若い時から行うものです。
私は大学を卒業し、仏教に道には進まず、平安京における桓武政権の官僚だったと思います。医学の道に進もうとしていたのではないのかな?真言宗の開祖として、空海さんの経歴の不都合なところです。
仏教について学ぶのが遣唐使船で唐に渡る直前だったのです。
*空海の24歳の時の著書とされる「聾瞽指帰」は出家宣言の書とされます。のちに序文等を改め「三教指帰」としたとされます。
この改められたとされる「三教指帰」の序文が信用できないのですが、これは後に弟子たちによって改竄されたものである。
ウイッキペディア・・・
「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという・・・。
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この後、19歳をすぎた頃?だともされますが、一沙門から「虚空蔵求聞持法」授かったとされます。これは三教指帰の序文に書かれています。土佐の室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできて悟りを開いたとされる有名な話です。
初期の密教は、空海以前は雑密といわれる体系化していないものが伝わっていたとされます。この「虚空蔵求聞持法」は「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」という経にある法だとされます。虚空蔵菩薩は、密教においても重要な菩薩であるのですが、「虚空蔵求聞持法」というのは、密教的な修法であるとされます。
空海がこの「虚空蔵求聞持法」授かったとされる一沙門とは誰なのかについても何も語っていないのですが、推測されています。
大安寺の勤操であるのでは?とも推測されています。この勤操も実は秦氏の人物であるので、このことからも、仏教について学んだのはこの勤操であろうと思います。しかし、この「虚空蔵求聞持法」を学んでいたとしても、19歳の頃ではなく、実際にこの時期には修行は行ってはいないように思います。
空海さんは僧になったのが、「続日本後紀」においては、「年三十一にて得度」と明記されていて、太政官符においては延暦二十二年(803年)とされます。この時の得度の師はこの勤操である。
この仏教について学んだ時期が問題であるように思います。私は空海さんが仏教について学ぶのは、この僧になった時期、803年の遣唐使から804年に遣唐使船で唐に渡るまでの期間であるように推測しています。
実際に大安寺において勤操から「虚空蔵求聞持法」を学んでいたとしてもこの時期であるように思います。
803年の遣唐使船では、医薬生として乗船するはずが中止になりました。この遣唐使が中止になったことが、空海さんの運命を大きく変えることになります。本来は唐の進んだ医学を学ぼうとしていたのだと思います。
しかし空海さんが唐語に堪能なことが判明し、通約と経典や法具を入手する仕事を桓武天皇から賜ったように思います。特に新しい仏教を入手することが大きな目的であったのです。
そのためには、僧である方が有利なため得度したのではないのかな?
桓武天皇から密教の経典などを購入するように命令があったため、大安寺において密教について学んだのがこの勤操であり、この「虚空蔵求聞持法」を学んだのが真実なら空海が遣唐使として渡唐する直前である。大日経について学ぶのもこの時期である。
この勤操は南都六宗側の人物です。最澄さんはこの南都六宗と激しく対立していたとされますが、空海さんは融和的だったとされるのもこれが理由なのでしょうか?
空海は日本における仏教の師を明らかにしていません。この勤操は後に、空海から灌頂を受けることになり空海の弟子ということになりました。しかし本来は空海さんの仏教の師である。空海さんが仏教の師を明らかにできない理由です。
「虚空蔵求聞持法」授かったのは誰であるのかも明らかにできない理由です。
密教の奥義を伝授されたことにより立場が変わってしまい、仏教の師が弟子になったからです。
この「虚空蔵求聞持法」授かったとされる話は、「三教指帰」にあるのですがですが、重要な話なのに「聾瞽指帰」にはないということからも真実かどうか疑問が残る。「聾瞽指帰」において記述されるべき話のようにも思うのですが?
今に残る「三教指帰」は後に改竄されたものである。
土佐の室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできて悟りを開いたとされます。
19歳頃に既に悟りを開いているのなら、24歳の時の出家宣言書である「聾瞽指帰」自体がおかしいとも感じます。これから仏教の道を歩もうとしているわけですから。
「聾瞽指帰」は空海さんの著書で間違いないわけですから、この後に厳しい修行を行って悟りを開いたとすればいいのに・・・?
仏教において悟りを開くということは、いわば目標地点に到達しているということです。既に悟りを開いているのなら、これから仏教の道を志そうという出家宣言書であるとされる「聾瞽指帰」とは何なのか?
こういう矛盾する記述も真実のこととして語るのは、空海さんにとってもよくないことのように思います。
実際に虚空蔵求聞持法」を授かり悟りを開いたというのは、この「聾瞽指帰」に記述されている24歳以降でないとおかしい。「三教指帰」の序文は真実を語っていないように思います。
*そして上記したところです。空海は天才だからそうは思われないかもしれませんが、ありえない話です。
空海さんの奇跡とされるところです。
密教の師匠である青龍寺の恵果和尚は、初対面のそれも日本から来た僧に密教の奥義を伝授しはじめます。恵果和尚には千人もの中国人やアジア各地からの弟子あったといわれます。それが、何故に初対面の空海に伝えようとしたのでしょうか?
恵果和尚は空海を見るなり笑みを含んで喜んだとされます。請来目録にあるのですが、・・・「今日相みる見る、大好し大好し」
初対面の空海に何の試問も行わず、密教の奥義を伝授するといったとされます。こんなのありえません。空海が厳しい修行をしていたのを、恵果和尚は見抜いて奥義を伝授しようとしたのだろうと推測されていますが、不思議な話であり、ありえませんよね。
空海さんは真実を語っていません。
これ、事前工作をして多額の金を渡していたからです。金はどの国でも共通の価値があるものです。密教の奥義を伝授してもらうことを条件にして青龍寺に多額の寄付をしていたからです。この時代の長安の各寺院は、理財の点においてはとても厳しいものだったようです。青龍寺も例外ではなかったはずです。
日本に新しい仏教を伝える必要があるので、密教の奥儀を伝授してほしいとの交渉をしていたのです。
交渉の条件は金、ゴールドです。
これ以外ないように思います。
*「請来目録」において、空海は恵果和尚に偶然に遇ったとされています。司馬遼太郎さんは、空海に風景の中で、密一乗を求めた者が密一乗の最高権威である恵果和尚にたまたま遇ったということはあまり正直であるとはいえないという感想を述べられています。
これは、本来は簡単には会うことが出来なかったからでもあると思います。
805年2月に長安にある西明寺が空海の長安での住居となりました。5月になると青龍寺の恵果和尚のもとを訪れます。この西明寺を通して、青龍寺との交渉を行っていたのではないのかな?すぐに会いに行かなかったのではなく、交渉期間だったのでは?
青龍寺に多額の寄付をすることを約束することにより、恵果和尚にあうことが出来たのだと思います。そして空海の幸運はこの恵果和尚から、本当に密教の奥義を伝授してもらえたことです。もちろん密教の奥義伝授に関しても交渉条件だったはずです。
ですので、初対面の空海さんが奥義伝授されたことも奇跡なんかではないのです。
それほど多額の寄付だったのだと思います。
恵果和尚は自身の寿命が尽きようとしていたのを知り、空海に伝授したといわれますが、そうではないように思う。
誰も奥義を伝授する人物がいなかったわけでもない。ただ、恵果和尚は六人の高弟がいましたが、胎蔵法と、金剛界法の両部の法を授かったのは空海さんと青龍寺の義明の二人のみとされます。義明は既に亡くなっていて結局空海さんにだけ両部の法を授かるということになります。
結果的には、師匠である恵果和尚は急死することになり、密教の奥儀は空海にだけ伝わるということになります。これが幸運といえば幸運であるかな?
*本当に奥儀を伝授してもらったのかどうか・・・そこまで疑いませんが、あまりにも伝授してもらう期間が短くはないのでしょうか?
唐から帰国後の話ですが、・・・最澄さんは高雄山寺において空海から密教の灌頂を受けました。最澄であるならば当然密教の正式な「伝法灌頂」を受けるべきであろうはずが「結縁灌頂」でした。後に決別する大きな理由です。「結縁灌頂」はこれから密教を学ぼうとする者に対して行う灌頂です。
伝法灌頂とは、阿闍梨という指導者の位を授ける儀式です。最澄は、この伝法灌頂を受けたいと願い出ました、しかし空海の返事は、伝法灌頂を受けるのは3年間の修行が必要だといったとされます。
あれ?でも空海さんは、恵果和尚から二か月程でこの伝法灌頂を受けていますよね。空海さんは二か月で、最澄さんは三年というのはおかしな話ですよね。伝授してもらう修行期間があまりにも短すぎる。
少し厳しい言い方になりますが、金で購入した灌頂であり、本来の伝法灌頂ではないからです。
*空海さんの結縁灌頂の時の話はどうなのでしょうか?
有名な投華得仏の儀式の話です。縁を結ぶ仏を決めるとき、曼荼羅に樒?を投げると不思議なことにことごとく密教の中心仏である大日如来の上に落ちたとされます。恵果和尚は、「不可思議、不可思議」といったとされます。
この大日如来との縁により、空海は恵果和尚から、大日如来の密号である「遍照金剛」という号をあたえられたとされます。
司馬遼太郎さんも空海の風景において、「大日如来の密号を生身の僧にあたえるなどおそれげもないように見られる・・・」という記述をしながら、・・・しかしながら、伝法灌頂を受けるということは大日如来になることを意味し、恵果和尚が空海に過分な呼称をあたえたとはいえない・・・ということを書いています。
しかし私は、これもありえることではないように思う。大日如来の名を、異国のしかも弟子ではなかった僧にあたえられることなんてありえないように感じるのですが?これらも空海さん自身が語ったこと?であり、真実は誰もわかりません。これも真言宗教団による空海さん神格化のひとつである。
*日本からやってきて、まだ弟子でもない空海に密教の奥義を授けたことに関して恵果和尚の門人たちから、珍賀という人物が恵果和尚に苦情を言いにいった夜、夢に仏法の外護神である四天王があらわれ、珍賀をぶったり蹴ったりしたため、珍賀は空海に詫びたという、これも良く知られている御遺告にある話です。
「空海の風景」において司馬遼太郎さんは、空海はうそを言う人物ではなかったからこれは真実だろうとしていますが、私はそうは思わない。これも嘘話です。人は誰しも嘘をつきます。嘘をつくから人間です。しかし、これは空海さんが語ったことではない。
「御遺告」は後に空海さんを神格化するために弟子が書いた著作である。
まだあるのだけど、しかしあまりにも伝説が多いのはどうかと思う。
*空海の師である恵果和尚が亡くなり埋葬された時に、碑が建てられたそうです。恵果和尚の門人から空海が選ばれ碑に記される文章を作成したようです。しかし、この碑文は、「性霊集」にあるのですが、この碑自体が行方不明であるのは事実です。本当に存在していたのでしょうか?
*空海は当初、叔父の阿刀大足に学び、その後大学に入り官僚を目指していたとされます。その大学を抜け、仏教の修行をしていたとされますが本当なのでしょうか?この地で政変が起き平安京に移ることになるのですが、やはり官僚だったのだと思います。
才能豊かな空海は、初めは医薬生として唐に渡る予定だったともされるように、唐の医学を学ぶための渡唐を望んでいたのでは?
つまり僧ではなかったのですが、・・・僧となって唐に行くことになります。それは、この時の遣唐使の大きな目的は、奈良仏教に勝るための新しい仏教を入手するためです。それで空海が選ばれたのは、有能な官僚ということと、秦氏と関係し特に唐語が堪能だったからだと思います。
*仏教の経典や仏具を入手するには、もちろん僧である方が有利であるので、遣唐使で渡る直前に僧として得度したのではないのかな?
803年に医薬生として渡る予定が、この時は中止になり、804年の遣唐使に乗船することになったとされます。つまり僧となったのは、この804年の遣唐使直前である。
仏教を入手する仕事を賜ったので、この時期、つまり803年の遣唐使が中止になったので翌年の遣唐使まで、仏教に関しての知識を学んでいる。短期間でも十分な知識を得る才能があったのです。ただし山野での修行は行っていない。遣唐使が一年延びたので仏教、特に密教を学ぶの期間があった。空海さんにはこれで十分の知識を得ることが出来たのだと思います。久米寺で大日経と出会ったというのが事実であるならこの時である。
これが、真言宗開祖としての空海さんの不都合な箇所である。
*空海は24歳の時の著書とされる「聾瞽指帰」、これは仏教をめざす出家宣言の書とされます。この「聾瞽指帰」は、のちに序文等を改め「三教指帰」としたとされます。三教とは儒教・道教・仏教の三つの教えを指しています。流麗な四六駢儷体で書かれていて、
仏教が優れていることを戯曲の形式で書かれています。
空海さんは天才ですから、24歳の時の著書として問題ないように思われていますが、仏教はもちろん、漢詩漢文の文学作品、儒教、道教、老荘思想など多岐にわたります。仏教に関しても、私はこれから仏教を学ぼうとしている人物の著書ではありえないように思う。
この仏教を志そうとしていた時期から、遣唐使船で渡唐するまでの7年間、空海は何をしていたのかは全く分かっていません。空白の7年間といわれます。空海さんは何も語っていません。これは事実です。それは語れなかったからです。
しかも、空海が僧として得度したのが、なんと、この入唐直前である31歳、東大寺戒壇院で受戒したという説が有力とされます。 僧侶として出家得度してなければ遣唐使船に乗れなかったからとされます。「聾瞽指帰」は、本当に24歳の時の著書なのだろうか?
「聾瞽指帰」の中にある、仏教の知識は、これから仏教を目指そうとしている人物の知識ではないように思う?
50代になった空海が、24歳の出家宣言書ともいえる「聾瞽指帰」を改訂した「三教指帰」を朝廷に献上するのでしょうか?
しかも空海はこの「三教指帰」の序文においては、「自分の心にある本当の気持ちを表現しただけで他人に読んでもらうつもりではない」と記しておきながら何故に朝廷に献上したのでしょうか?
この「三教指帰」の序文が大いに問題ある。
おかしいですよね?私は凄く不思議に思うところです。真言宗の開祖となった今、なぜにいまだ僧となっていない時代の出家宣言書といえる著書を献上するのでしょうか?おかしいように思います。
この「三教指帰」はもとは「聾瞽指帰」であるというのです。これおかしいでしょう?ほとんど同じなのです。「聾瞽指帰」がまず存在していたとするために、いかにも後にこれを訂正してるようにしていますが、そうではない。ほぼ同じ時期に作られたものです。
「聾瞽指帰」は24歳の時に書かれたものではない。
*高野山霊宝館に伝わる、国宝「聾瞽指帰」は、空海の自筆本とされます。ブラタモリの高野山編において映っていました。この「聾瞽指帰」は、空海24歳の時の筆とされ出家宣言の書とされます。
すると問題があります。
自筆本であると問題があるというのは、おかしな表現ですが、・・・それは使用されている料紙が、24歳の無名の学生が入手できる用紙ではないのです。この「聾瞽指帰」の料紙は白麻紙という高級用紙が使われていて、この料紙はについては既に問題があると指摘されてます。嵯峨天皇の書作品として延暦寺にある「光定戒牒」など、主に天皇やその関係者が使用している高級用紙だからです。
中国から輸入しただろうと思われる特別な用紙であり、24歳の時の空海(この時はまだ佐伯真魚かな?)が入手し使用できる用紙ではないのです。
聾瞽指帰は上巻、下巻あわせると20mにもなりますが、24歳の空海(何をしていたかは不明)がこの高級用紙をこんなに使用できるはずがない。ですので、空海さんの自筆であると問題があるのです。空海が真言宗の開祖として地位を築き、嵯峨天皇との交友を深めた時代にならないと無理です。「聾瞽指帰」は24歳の空海さんの書ではありえません。
ですので、空海さんの真筆ではなく後に写された転写本ではないのかという見解もされています。
私は空海さんの自筆本であるように思います。
しかし、この「聾瞽指帰」は空海さんの自筆の著作本であるのですが、24歳の時のものではない。「聾瞽指帰」は真言宗の開祖として地位を築いた空海50歳代の著書である。今に残る「三教指帰」は、「聾瞽指帰」を基に後に別人が書いたもです。
この「聾瞽指帰」の中に「二兄重ねて逝いて」という記述があるそうです。ですので、空海さんは三男だったのではともいわれます。長男は佐伯 鈴伎麻呂で、次男は酒麻呂ではないのかと・・・。問題は24歳の時に既に二人の兄が亡くなっている?という記述です。
佐伯鈴伎麻呂は827年に外正六位上から外従五位下に叙されるとされます。おそらくこの時に亡くなっているのではないのか?つまり、24歳の時の書といわれる「聾瞽指帰」はこの827年以降に書かれたものである。それで、空海さんは774年の生まれです。つまり、聾瞽指帰」は空海50歳代の著作本である。
朝廷に献上するとき「聾瞽指帰」の序文を変更して、清書して「三教指帰」として献上したものとされます。今に残る「三教指帰」が朝廷に献上されたものと同様の内容であるなら問題がある。つまり、「三教指帰」の序文を書いたのは空海さん自身となるからです。
しかしそうはなく、献上された「三教指帰」は「聾瞽指帰」と同じものだったと思う。この「聾瞽指帰」も「三教指帰」も序文において、延暦十六年十二月一日との日付が書かれています。この日付が特に空海さんには重要だったからです。誰にも見せるつもりはなかった著作であると記述しておきながら、献上しています。
この「三教指帰」の序文がおかしい、序文は後に改竄されたものである。
真言宗の開祖となった空海の経歴においての不都合な部分です。それは、空海さんは、僧になるのが遅すぎたのです。「三教指帰」の序文が空海さん、そして真言宗の教団にも重要だったのです。僧として得度したのは31歳の時ですが、一般的には20歳位までに得度しますので、この頃から仏教を学び、厳しい修行をしていたとの事実が必要なのです。
そう、空海さんは、出家宣言書ともいえる「聾瞽指帰」が存在していたとする、証拠がほしいわけです。僧になるための厳しい修行をしていたとする証拠です。本来は、この7年間は何をしていたかは全く不明です。これは事実です。厳しい山岳修行をしていたというのは想像でしかありません。「聾瞽指帰」という出家宣言書があるので、修行していただろうと考えられているわけです。
つまり、この「聾瞽指帰」は、後に朝廷に献上した際に書名を「三教指帰」にあらためたとされます。しかしそうではなく、「聾瞽指帰」も「三教指帰」も、恵果和尚から密教を伝授され、僧として成功を治めた空海が、さすがに僧になったのは唐に渡る直前であり、修行なんかしていなというのは都合が悪いため後に改竄しているのです。
また恵果和尚から厳しい修行したものとして認められ、密教の奥義を伝授されたというように改竄したので、24歳で出家宣言し、唐に渡るまで仏教の修行をしていたという証拠を作るための序文である。
24歳の時に「聾瞽指帰」を作成して、後のこの「聾瞽指帰」を基に「三教指帰」を作ったのではない。「聾瞽指帰」の中にある、仏教の知識は、これから仏教を目指そうとしている人物の知識ではない。唐に渡って以降の書であるように思います。
それは31歳の時に僧となった事実は消せませんので、大学以降は僧になるための修行をしていたと、後になって作成したのがこの出家宣言書といえる「聾瞽指帰」です。「聾瞽指帰」という出家宣言書が実在したという証拠がほしいのです。それは事実でないからです。
出家宣言をして、僧となるまでの間の7年間なにをしていたかは不明です。諸国を放浪し、山林修行をしていたのだろうと想像されていますが、本人は何も語っていません。それがおかしい。語れない理由があるからです。それは僧ではなかったからです。
空海の僧としての経歴においての問題点は僧となったのが31歳の時でありそれまでは仏教とは何ら関係なかったからです。
じゃー空海さんは何をしていたのか?もちろん想像でしかないのですが、医学を学んでいたのか、あるいは当初の目的通り官僚になっていたかです。
*「三教指帰」の序文には、空海がまだ山野で修行をしていた頃、一人の僧と出会い、虚空蔵求聞持法を教えられました。 これはこの呪文を百日で百万遍唱えれば、全ての仏教経典を理解し暗記できるというものでした。室戸岬の洞窟でこの呪文を唱えていたところ、海の彼方から明星が空海の口から身体の中に飛び込んできて悟りをひらいたともされます。
良く知られている空海さんの逸話ですが、これも真実ではない。「御遺告」にもあるのですがこの「御遺告」は、後の時代に空海を神格化するために弟子たちにより書かれた書物である。
同様に「三教指帰」の序文も信用できない。「三教指帰」は「聾瞽指帰」の序文を変更したものとされますがこの変更した部分が問題ある。
つまり、今に残る「三教指帰」が問題である。高野山霊宝館に伝わる「聾瞽指帰」は空海さんの自筆本であるのですが、三教指帰は空海さんの自筆本ではありません。三教指帰の最古の写本は空海さん没後300年のものとされこれがおかしいとの指摘があります。
その通りのように思います。これに関しては、私は空海さんを信じることにします。高野山霊宝館に伝わる「聾瞽指帰」は空海さんの自筆本であるのですが、この「聾瞽指帰」の序文を変更して「三教指帰」としたのは後の真言宗教団である。
*「御遺告」は、空海が入定する前に記したとされる遺言書ともいえる文章です。この「御遺告」の内容により、和泉国槇尾山寺で、二十歳で得度し二十二歳で受戒とされます。しかし、すでに得度、受戒しているのなら、「聾瞽指帰」においての二十四歳の時に仏教を志すとの宣言と矛盾します。この「御遺告」は後の時代のもであり、信用できないとされ、今は得度したのは遣唐使直前の31歳の時が有力とされます。「御遺告」の記述の仕方は曖昧な書き方なのですが、こんなの改竄するのしても、24歳の時の出家宣言書といえる「聾瞽指帰」が存在するとしているわけですから、25歳位で得度したとすればいいのに、このためこの「御遺告」自体が信用できない。
もうすでに指摘されているところではあるのですが、空海さん自身が語ったとは思えない。しかし空海さん自身も気になっていたところでもあったと思います。ですので、50歳代で「聾瞽指帰」を書き朝廷に献上したように思います。
朝廷に献上するときに、「聾瞽指帰」の著書名を「三教指帰」と変更して献上したように思います。
著書名だけ変更したように思うのですが・・・?それは、この「聾瞽」といのは、ツンボとメクラという意味であり朝廷に献上するには、言葉として相応しくなかったからです。
ですので、この「三教指帰」の序文を変更したのは空海さんではない。
「三教指帰」の序文を変更したのは真言宗の教団である。
槇尾山寺での得度の話は「聾瞽指帰」の存在を知らなかったのではないのかと思うくらいの杜撰な記述である。これにはもちろん理由があって、普通はこの二十歳位までに得度して僧になるからです。ライバルともいえる天台宗の開祖である最澄さんは、12歳位で出家し18歳で得度、20歳で受戒しています。
真言宗開祖である空海が、31歳の時に得度したという事実は真言宗教団にとっても都合が悪いのです。
これは空海さんが語ったことを、弟子が記述したのではなく、空海を神格化するために後に書かれたものである。真言宗の開祖としての空海さんの不都合なところです。僧として得度した時期が遅いことに関係している。
しかしこんなのかえって空海さんとってみれば迷惑な話かな?
空海は数々の奇跡話が語られますが、それはやはり、最澄との対立が関係しているように思う。
真言宗教団にとっては、開祖空海は、最澄より優れた人物にする必要があったのです。
*これも「御遺告」にあるのですが、空海の乗船した船は南方に流され福州に到着することになります。その時様々な嫌疑をかけられ、上陸することができませんでした。この時、大使の葛野麻呂の嘆願書は悪筆であり、代わって語学に堪能であり名文家である空海が代筆をしたとされます。
このときの空海の書簡は「性霊集」に遺っているのですが、かなりの長文であり名文中の名文として有名です。
語学に堪能な空海が代筆をすると、事が上手く運ぶようになったようであり、これは事実であるように思うのですが、その時の文章が「性霊集」にある「大使福州の観察使に與ふるが為の書」です。
名文とされますが、「性霊集」だけにしか残っておらず、後に、つまり「性霊集」を作成するときに文章を多少なりとも改竄しているのではとの疑問があるのですが・・・。
疑いだすときりがないのですが、・・・名文すぎてかえって私は信用できません(^^;)
中国にこの書が残っているはずもなく、「性霊集」にある書は、空海さん代筆の嘆願書そのままであるとは確かめようがないのは事実です。この「性霊集」は、弟子の真済が編者とされていますが、空海自身が関わっているとの指摘があります。
緊急事態の時の、この嘆願書は、相手に渡しているわけですから、性霊集編纂時に存在しているということは、後の時代に新たに作成したものであるわけです。
「越州節度使に請ふて内外の経書を求むる啓」や「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」も同様である。
「性霊集」編纂に空海が関わっているのなら、この時に作成されたものであり文章をより良いものに、そして内容も変更している・・・ように私は思います。
事が上手く運ぶようになったのは、多少の袖の下が効いたようにも思うのですが・・・・?
*「弘法も筆の誤り」といわれるように、書の達人とされます。そして、唐でも「五筆和尚」と称されたとされます。これは「楷書・行書・草書・隷書・篆書」の5種類の書体に通じていたからの称号ともいわれます。これもよく知られた話です。
この「五筆和尚」唐の順宗皇帝によって付けられたとされます。これも「御遺告」にありますので信用できません。唐の宮廷に長らく仕えたというのならまだしも空海が唐の皇帝に会えるはずはない。
本来の話は、空海さんは皇帝の命により、宮殿の二間の壁を修理ることになり、両手両足と口に5本の筆で持って、王羲之の五行の詩を一度に同時に書いたとされます。そして残る一間には、墨をたらいにいれて壁に注ぐと「樹」という文字が壁に出来たという記述です。
それで、皇帝は称賛し「五筆和尚」との称号を贈られたということです。
さすがに無理ですので、5種類の書体に通じていたからの称号と解釈されています。 解釈は自由ですが、本来の記述されている話はありえない話です。
空海が唐を去るときに、皇帝は、「朕は、この僧をとどめて自分の師にしようと思っていた。しかしひきとどめるわけにはゆくまい。この念珠をもって朕の形見であるとおもえ 」・・・こう述べたとされます。
唐の皇帝が空海に会うなんてことはありえません。「五筆和尚」のありえない逸話からも真実ではないと推測できます。これも全くの嘘話である。 空海さんを神格化するための後の作り話である。
こんなの極々常識的に考えても、事実ではないとの判断できそうなものなのに・・・。
ですので、後の円珍の話も信用できない。この円珍は弘法大師空海の姪の子であり身内である。
*20年の滞在予定を2年で帰ったとされます。空海さん、本来は唐に滞在し仏教の経典や仏具、文物を購入して日本に送るのが仕事だったからです。唐で滞在をして、経典や法具、文物を購入するだけの金を預かっていたのです。
本来は仏教の修行のための渡唐ではない。ですので、空海さんの滞在予定は20年ではない。2年で帰国は少し早かったかもしれませんが、当初の予定通りのように思います。
これには理由があります。早期に帰国したのは空海さんの方の理由ではなく、桓武天皇の方の都合によるものです。
新しい仏教を入手することに関しては上手く事が運び、さらに短期間で密教の奥儀まで伝授されることになったのです。これが空海さんの幸運です。請来目録では、恵果和尚は、早く国に帰って密教の教えを国に奉り広めるように言ったとされますが、そうではない。桓武天皇の病状が良くなかったからです。
*この空海が帰国した遣唐使船は、何故か急に遣わされることになったのです。最澄が帰国したのは805年7月です。この後、突然に次の遣唐使船が派遣することになったのです。どういう目的での遣唐使なのかは不明ですが、これは空海を迎えるための遣唐使である。
それは、新しい仏教を入手できたことが伝えられたからです。
空海が密教の奥義を伝授され、多くの経典や仏具を得ることが出来たことが、おそらく最澄が帰国した時の使節である、藤原葛野麻呂から桓武天皇に伝わったからです。
急遽遣唐使が決まったのは、桓武天皇の体調面が良くなかったのです。桓武天皇は自身の体調不良は、怨霊のせいだと思っていたのです。この怨霊に打ち勝つ新しい仏教を早く手に入れたかったからです。空海が、怨霊を退治する方を会得したということが伝わったのです。
桓武天皇は自身が王になるために、多くの暗殺をおこない、暗殺された人々は怨霊となりました。この怨霊を直接退治する技術をもつ仏教こそが密教だと考えられていたのです。
*唐の都である長安は内陸部にあるということもあり、空海さんが帰国した、806年10月には、既に桓武天皇は崩御していました。
空海さんは、帰国してから809年まで入京することが出来ず、大宰府に滞在していました。これは、20年の滞在予定を2年で帰国したからだとされますが、これに関してはそうではない。
桓武天皇、渡来人と王家の争いを書きたかったのですが、空海が関係するのがここです。
空海さんに登場してもらったのがここです。
桓武天皇が806年4月に亡くなり、次期王位をめぐって争いが起きている。奈良側が復活し、これに藤原間の勢力争いも起きます。藤原式家と北家のとの権力争いです。それは、平城天皇はこの奈良側の大王であり、本来の王家に人物であるのです。早良大王の王子である。「長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎」において記述してきましたが、平城天皇、淳和天皇は、早良大王の王子たちであり、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子です。早良大王と桓武天皇は兄弟ではありません。
嵯峨天皇に時代になって空海は入京することが出来たのです。
平城天皇、淳和天皇は本来の王家、奈良側の王であり、新しい仏教を入手した空海が入京できなったのは南都六宗による入京阻止のためです。
薬子の変が起きた時は嵯峨天皇側に付き、高雄山寺で鎮護国家の大祈祷をしました。これはもちろん、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子なのですが、平城天皇は早良大王の皇子であることが関係します。桓武天皇は秦氏と関係する天皇であり、空海もまた秦氏と関係するからです。
桓武天皇が生きていたら、空海はこんなに活躍できたのだろうか?
結果的には二人の恩人ともいえる恵果和尚と桓武天皇が亡くなったことが空海に幸運をもたらすという不思議な結末でもある。
最後に、空海さんが今も生きているとの入定信仰について。
空海さんの御廟がある奥之院は、高野山で最も神聖な霊域とされます。空海さんはここで入定したとされます。つまりいまだ生きているとされ、毎日食事が運ばれています。今昔物語においても、空海がいきたまま永遠の禅定に入ったと記されています。この弘法大師入定信仰も後の時代に形成されたものだとされます。
今もこの地に生きているというのなら矛盾しますが、空海さんは兜卒天(弥勒菩薩の浄土)に生まれて、56億7000万年後の末法時代に弥勒菩薩とともに下生して、一切の衆生を救済するともされます。もともと弥勒菩薩とはあまり関係しないと思うのですが・・・空海さんへの信仰が未来において結びついたのでしょうか?
ウイッキペディア・・・
歴史学的文献には『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、火葬されたことが示唆されている。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。
*************************
空海は荼毘に付されたとされます。荼毘とは火葬されたということです。
火葬についてはお釈迦様以来の仏教の伝統でもあります。
空海さんが生きていた時代には、いまだ金剛峯寺は完成したという状態とは程遠いものでした。高野山の中心地である場所から、奥の院は離れすぎている。空海さんが在世中に、いまの奥の院の場所に建物があったはずがありません。おそらく、鬱蒼とした森の中だったはずです。
それで、上記したウイッキペディアの記述が真実なら気になる箇所があります・・・遺骸が埋葬されたとされます。
以下はもちろん想像ですが・・・
これどこに埋葬されたのでしょうか?奥の院ではないはずです。高野山壇上伽藍が諸堂の集まる場所とされます。金堂や根本大塔、御影堂などがあり空海さんの時代から存在していた中心地であります。おそらく、この周辺にしか建物はなかったはずですし、空海さんの住居もここでした。ですので、この近くに埋葬されたと思うのですが?
御影堂は、空海の持仏堂だったのですが、空海入定後に弟子である実恵が、埋葬に立ち会ったとされる高岳親王、法名真如の描いた弘法大師御影像を安置したため御影堂と呼ばれるようになったとされます。
空海さんは奥の院にて入定しているということになっていますが、この御影堂は、高野山でも奥の院とともに最も重要な聖域とされます。それは、この御影堂の場所は、もとは僧房であり空海さんの住まいでもあり、最期を迎えた場所ともいわれます。
後に持仏堂になり御影を飾っていたので御影堂と呼ばれるようになりました。
この御影堂の近くこそ本来の空海さんの埋葬の地であるのでは?
実際に埋葬されたということなら、空海さんの在世中の規模を考えると、壇上伽藍の周辺に埋葬されていたはずです。
御影堂自体が埋葬地に建てられているのか、あるいは建物は南側を正面にして建てられていますので、御影像を安置し空海さんを拝む形になるのは、御影堂の北部に埋葬されていたはずのように推測するのですが?
下の写真の御影堂に接する北側の建物が気になるのですが・・・これ何だろう・・・埋葬地かな?
今も御影堂では毎日修法がおこなわれています。
しかし後の時代に、入定したということになっているので、奥の院が完成し移葬された可能性はあるように思います。
空海さんはあまりにも奇跡の話や伝説が多くありすぎる。
上の写真は1枚目は高野山壇上伽藍にある根本大塔、2枚目は御影堂、3枚目は中門、4枚目も御影堂です。
下の最初の写真1枚目はは、太秦にある秦氏の氏寺とされる広隆寺です。この太秦周辺は秦氏の本拠地です。この広隆寺は、聖徳太子が関わるとされます。
ウイッキペディア・・・
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。
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広隆寺の有名な弥勒菩薩半跏像は、聖徳太子から譲り受けた仏像であるのか、あるいは日本書紀にある、推古天皇31年に新羅からの渡来仏であるのか?。いまは日本で造られた可能性も語られています。
聖徳太子はふたりいます。押坂彦人大兄皇子と竹田皇子です。
仏教に関係するという聖徳太子は、推古の息子である竹田皇子の方です。秦氏、藤原氏と、蘇我氏の対立は良く知られますが、しかしここに祀られている聖徳太子とは大王だった押坂彦人大兄皇子、日十大王のように思います。
これまで記述してきましたが、この押坂彦人大兄皇子の後胤と対立し、何人もの王家の人物を殺害してきたのが、秦氏や藤原氏です。大怨霊ともいえる長屋大王や早良大王もこの押坂彦人大兄大王の後胤です。
秦氏や藤原氏は、この聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子を酷く恐れています。
聖徳太子から譲り受けた仏像を祀ったという話は、真実かどうか疑わしいよに思います。後付けの言い訳のように思います。
それは秦氏が聖徳太子を祀るのが不自然でもあるからです。祀る理由がないからです。祀る理由を、聖徳太子から譲り受けた仏像であるので聖徳太子を祀っているとしているのです。本来はこの押坂彦人大兄皇子の怨霊が怖いのです。
怨霊の祟りを鎮める最良の方法は神として祀ることです。広隆寺は、秦氏、藤原氏による御霊を鎮める聖徳太子の鎮魂のお寺である。
この広隆寺の近く、秦氏の本拠地に空海さん母方である阿刀氏の氏神とされる阿刀神社があります。この地に阿刀氏の氏神があるのは、秦氏と関係していたからです。広隆寺から、阿刀神社に車でむかったのですが、あれれれ?たどり着けない((+_+))ナビあるし、スマホもあるのに・・・もちろん事前に地図でも調べていたのに、・・・ナビは到着したと言っているにのに神社に行けない。
周囲が建物に囲まれていて、行く道がないのです?こんなの初めてです。車を近くに止めて、徒歩で探してやっとたどり着けました。小さな祠がのこっているだけでした。
この地に阿刀氏の氏神があるとういことは、阿刀氏、阿刀大足はこの秦氏の本拠地である太秦近くに居住していたということです。妻問婚といわれ、夫が妻の下に通う婚姻の形態のことです。つまり、空海さんのおかあさんはこの太秦生まれであるのです。
同様に考えると、お父さんの佐伯田公が讃岐にいるとは考えずらく、近くに居住していたと思われます。空海さんの生誕地は、母方の実家があるこの秦氏の本拠地である太秦である
この秦氏の本拠地である太秦周辺には大覚寺や仁和寺、神護寺、泉涌寺、西明寺、高山寺など真言宗のお寺が沢山あります。
3枚目の写真は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院である大覚寺です。時代劇の映画がよく撮影されることでも有名です。今に残る問題の三教指帰の写本はここにありました。
高雄山寺(神護寺)は空海さんが唐から帰国したのちに住まいしていたお寺です。それは空海さんの故郷だったからです。帰国して故郷の地に帰ったのです。
空海さんの生誕地はここ太秦です。空海さんも最澄さんもともに秦氏に関わる人物である。
そして桓武天皇も秦氏の王です。
1枚目、広隆寺 上宮王院太子殿、2枚目、仁和寺 二王門、3枚目大覚寺、4枚目泉涌寺 仏殿、5、6,7枚目阿刀神社です。