聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

桓武天皇と空海伝説の謎

2019年02月15日 | 日本書紀の謎


高野山は、816年、嵯峨天皇から空海に下賜された、日本仏教の聖地です。
空海が唐から帰国する際に、密教の法具である三鈷杵を投げたところ日本まで飛んでいったとされます。
この三鈷杵が高野山の松にひっかかっているのを発見し、ここ高野山の地を真言密教の修行の場所とすることを決め寺院を建設しはじめたとされます。この三鈷杵は「飛行三鈷杵」と呼ばれ高野山開山の伝説となっています。三鈷杵のあった松も葉が三本あることから「三鈷の松」と呼ばれています。地元、和歌山にありますので、毎年のように訪れてはいます。

弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖空海。万能の天才ともいわれ空海さん自身が信仰の対象ともなっています。空海さんは謎が多い人物です。

最初に、「空海さんごめんなさい」・・・ってまず謝っておいてから空海の謎について書いていきます。空海さんのことなんて書くつもりはなかったですし、少し批判することになるかなって思っていたのですが・・・それが書いていると、少しのつもりが沢山批判することになりました。あまり詳しく調べてもいないのに、もしかしたらこれ程空海さんを批判している人はいないかもしれませんm(__)m

空海さんは優秀な人物でしょうが、数々の奇跡を起こした超人的な天才ではないです。
そして奇跡なんて起こしていません。あまりにも万能の天才すぎて、かえって私には信用できません。真言宗の開祖となったことで、神格化する事は理解できますが程があるように思います。


これまで記述してきましたが、桓武天皇の平安京は渡来人の都であり、倭国内の百済国です。平安と奈良、政治的な対立もありますが、仏教に関しても奈良仏教と争っていたとされます。平安仏教といえば、最澄と空海。空海さん実はこの時代の、平安京と奈良京の争いに関係します。だから、空海さんに登場してもらいます。

空海さんを調べ始めたのは、母方が渡来人と関係するらしいというところです。それで、少し調べたのですが、最澄は応神天皇の時代に渡来したと称する渡来人とされます。仏教関係は渡来人が多く関係しますが、空海さんも、母方は渡来人系だといわれているようなのですが?

空海さんの奇跡は、この出自に関する謎から紐解けるように思います。

ウイッキペディア・・・
桓武天皇による平安遷都(794年)の背景の一つには、奈良仏教(南都六宗)の専横の問題があった。孝謙女帝が僧・道鏡を寵愛し、あわよくば道鏡が天皇にまでなろうとして和気清麻呂に阻止された経緯があり、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することが長岡京、平安京への遷都の一つの動機である。
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桓武天皇は、南都六宗と呼ばれた、それまでの奈良仏教に対しては封戸の没収などをして対立したとされます。奈良仏教の影響を排除することではなく、本来は政治的な面で対立していたのです。

これまで、書いてきましたが、特にこの桓武天皇の時代は、渡来人である秦氏、藤原氏と王家との対立がありました。
前々回に書きましたが、早良大王など多くの王家の人物を暗殺しています。この殺害された人々は怨霊となりました。
桓武天皇は、この怨霊を酷くおびえていたこともあり、これら怨霊に打ち勝つための新しい仏教を取り入れたかったのです。

この奈良仏教に対して有利な立場に立つための新しい仏教、怨霊を退治することのできる新しい仏教をとりいれることです。
桓武天皇が、この時代の最先端の仏教である天台宗や密教を学ばせるために唐に送ったのが最澄、霊仙、 そして空海ですが、・・・空海さんはそうではなかったのではないのかな?


桓武天皇と空海は、実は非常に近い関係にあったのです。桓武天皇は天智系天皇です。この天智天皇は、秦氏に関係する人物です。そして空海もまたこの秦氏に関係する人物なのでは?秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人と称し、百済経由で日本に入った渡来人である。

この秦氏も応神天皇に時代に渡来したとされます。朝鮮半島は大陸と繋がっていることにより常に大国である中国の侵略による戦乱がおきました。渡来人が日本に渡る大きな理由は、この戦乱を逃れるためと考えられます。
この古代からの渡来人は、日本の豪族と関係を持つことになり、さらに新たに来た渡来人を含め、この時代には大きな勢力となっていました。


まず、空海さんの生誕地についての謎から・・・

ウイッキペディア・・・空海
宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。
父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)、幼名は真魚。
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空海さん、幼名は佐伯真魚です。生誕地は、この佐伯氏の本拠地である今の香川県善通寺市にある、善通寺付近とされます。四国霊場八十八ヶ所・第75番札所であり、真言宗善通寺派の総本山です。しかし、空海さんはどこで生まれたか定かな資料はありません。

この善通寺は、父方の佐伯一族の氏寺として創建されたものであり、佐伯氏の本拠地であるのですが、空海の生誕地ではない。空海さんは、渡来人である秦氏と関係するため本来の生誕地を明かすことができなかったのでは? ・・・と推測するのですが?
そして渡来人と関係するというのなら、この渡来人とは秦氏以外はない。

空海のお父さんは佐伯氏、佐伯直田公であり、お母さんは阿刀氏、阿刀大足の娘とされます。佐伯氏は大伴氏、阿刀氏は物部氏と同祖伝承を有する、古代からの豪族で渡来人系ではありません。しかし、空海の母方は渡来人と関係するといわれます。
つまり、これは母方の阿刀氏が渡来人と関係を持ったということです。この渡来人とは秦氏である。空海のお母さんである阿刀大足の娘というのは、阿刀大足と渡来人である秦氏の女性との娘であるのです。母方の祖母が渡来人である秦氏の女性である。

どうして秦氏の娘だと推測できるかというと、阿刀氏の中で秦氏の本拠地である太秦近く山背国に移住していた人達がいたのです。
そして、父方の佐伯氏の本拠地は讃岐でしょうが、父の佐伯直田公の時代には、既にこの讃岐の地を離れて中央、畿内に出ている。

つまり、どういうことかというと、空海は讃岐で生まれるはずはないということです。阿刀大足と秦氏の女性との娘が空海のお母さんである。祖母が秦氏の女性である。つまりお母さんも秦氏が関係する女性であり、空海はお母さんの実家、秦氏の本拠地である、太秦の生まれである。
太秦に住んでいる空海のお母さんのもとに、佐伯直田公が出向き、ここ太秦で真魚を生んでいるはずです。

この母方の阿刀氏は、もとは物部系の氏族とされます。この氏族名の阿刀は、阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づく とされます。この阿刀氏の居住地から秦氏との関係が推測できます。

ウイッキペディア・・・阿刀氏
居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。
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この阿刀氏のなかで、秦氏が開拓したともいえる領地である山背国に移住したものがいて、秦氏と関係をもったということです。讃岐には阿刀氏の居住地はありません。讃岐に移った形跡がないのです。
つまり、佐伯氏が讃岐にいたのなら、阿刀氏との接点がない。

阿刀氏の氏神とされる阿刀神社は、秦氏の居住地であった太秦にあることからも、秦氏と阿刀氏の関係を推測できます。
阿刀大足は、桓武天皇の皇子である伊予親王の家庭教師でした。この阿刀大足と秦氏の娘との子が空海のお母さんである。空海は母方が秦氏と関係する。空海はこの母方の地で生まれているはずです。佐伯氏は讃岐と関係しますが、空海のお父さんである、佐伯直田公は播磨国の郡司である。
佐伯氏は畿内に出ている痕跡はあるのですが、阿刀氏は讃岐とは関係しない。つまり空海が讃岐で生まれるはずはない。
この阿刀神社(京都市右京区嵯峨広沢南野町)付近、秦氏の本拠地である太秦が空海の生誕地である。

しかし、空海さんは秦氏と関係するということがこの後有利に働きます。それは桓武天皇は秦氏の王ともいえるからです。そして秦氏は藤原氏とも深く関係します。桓武天皇に関してはもう既に書いてきましたが、天智系天皇である桓武天皇は秦氏と関係します。
天智天皇は秦氏の関係する王であるといえるからです。桓武天皇が天台宗の開祖となった最澄を用いたのも、この最澄も秦氏に関わる人物だからです。そして空海もまた渡来人である秦氏が関係する人物である。
空海さんの母方の秦氏の実家である太秦で育ったため、渡来人と接する機会が多く幼い時から語学を学べる環境にいたのでは。

そうすると、空海さんに関係する、いくつかの奇跡についても謎解けるように思います。


空海さん、活躍するのは遣唐使船で唐に渡ってからです。それ以前は仏教の厳しい修行をしていただろうと考えられていますが、実は何をしていたのかは不明です。

空海さんも人間ですからね、司馬遼太郎さんも「空海の風景」において述べていますが、空海は大山師である。自身を売り出すことにかけては天才だと・・・司馬遼太郎さんも調べているとそう感じたのでしょうか?

この「空海の風景」はもう随分前に読みました。その時はそう疑問には思わなかったところも、いま桓武天皇の時代を考えてみると、空海さんの伝承の謎も解けるように思います。

仏教の祖であるお釈迦様は、お母さんである摩耶夫人の右脇から生まれ、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という伝説があります。真言宗の開祖となったということで、空海にも奇跡をおこした話が多数語られています。宗教の開祖にはこういう奇跡が必要なのでしょうか?

「空海の風景」をもう一度読み直しながら空海さんのことについて考えてみます。
成功するためには才能と運が必要ですかね?空海さんはこの運にも恵まれていたのかな?


空海は天才とされているので、不思議な話も、空海ならありえるかなって思ってしまいますよね。でも空海は多才な人物でしょうが、数々の奇跡をおこした天才ではない。空海さんは真実を語っていない。空海の書?である「御遺告」、これは空海が弟子たちに語ったということをまとめた真言宗の戒律本です。この御遺告は後の時代に、真言宗開祖としての空海の経歴の不都合な部分を改竄するため書である。

空海さんは数々の奇跡を起こしています。流水に龍という文字を書くと本当に龍になって飛んで行ったというような、ありえない奇跡の話ではなく、実際に起きた奇跡について考えてみます。


空海の奇跡が始まるのは唐に渡ってからです。信じられないことが起きます。空海の師匠は、密教の第七祖恵果和尚です。恵果和尚は弟子が千人以上もあったのにもかかわらず、初対面の日本からきた、いわば、どこの誰ともわからないような僧に全てを伝授するといったとされます。なんと初対面で、密教の奥義の伝授を開始ししはじめました。
こんなのありえるわけないでしょう?これは奇跡ですよね。

この奇跡は実際に起きた奇跡です。この奇跡どうして起きたのか考えてみます。これはこの時代の平安と奈良との争いが関係するからです。

これまで記述してきましたが桓武天皇の平安京は渡来人の都であり、倭国内の百済国です。平安と奈良、政治的な対立もありますが、仏教に関しても奈良仏教と争っていたとされます。

ウイッキペディア・・・
桓武天皇による平安遷都(794年)の背景の一つには、奈良仏教(南都六宗)の専横の問題があった。孝謙女帝が僧・道鏡を寵愛し、あわよくば道鏡が天皇にまでなろうとして和気清麻呂に阻止された経緯があり、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することが長岡京、平安京への遷都の一つの動機である。
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桓武天皇は、南都六宗と呼ばれた、それまでの奈良仏教に対しては封戸の没収などをして対立しています。これまで、書いてきましたが、特にこの桓武天皇の時代は、渡来人である秦氏、藤原氏と大王家との対立によって、多くの大王家の人物が殺害されました。

前々回に書きましたが、本来の大王であった早良大王など多くの大王家の人物を暗殺しています。この殺害された人々は怨霊となりました。これは、後に空海がこの早良大王が幽閉され亡くなった乙訓寺の別当になったことからも推測できます。桓武天皇は、この怨霊を酷く怯えていたこともあり、これら怨霊に打ち勝つための新しい仏教を取り入れたかったのです。


この奈良仏教に対して有利な立場に立つための新しい仏教、怨霊を退治することのできる新しい仏教をとりいれることです。
桓武天皇が、この時代の最先端の仏教である天台宗や密教を学ばせるために唐に送ったのが最澄、霊仙、 そして空海ですが、・・・空海さんはそうではなかったのではないのかな?

ウイッキペディア・・・
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。

灌頂を受けた後・・・空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
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空海は唐に渡ってから活躍を始めます。唐に渡ってからの大きな謎は、上記した密教の奥儀を伝授されたことと、この金銭面に関してです。

最澄に関しては、既に比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を創建していて、桓武天皇からも信任厚い仏教界のエリートであり、全面的に国からの援助があったとされます。しかし、無名の一沙門である空海は、これら唐へ渡る費用、滞在費、灌頂を受ける費用、経典や法具の購入費など、信じられないような莫大な費用をどう工面したかが大きな謎だとされます。
                                         
これ誰しも疑問に思うところです。

しかし、この奇跡については簡単に説明できます。空海も国から援助があったのです。空海は秦氏と関係し、秦氏の王である桓武天皇と関係するからです。本来は、空海は桓武政権下の官僚であるのでは?

これは王家を滅ぼし権力を得ていた桓武天皇が支出したのです。つまり桓武天皇の命令で、新しい仏教を入れるための遣唐使でもあるからです。


桓武天皇の時代に、蝦夷討伐を行っています。空海さんとは何ら関係ないように思えますが、そうではない。
この時期、桓武天皇は沢山お金を持っていたのです。これはゴールドの方のお金です。つまり金で新しい仏教を購入したといっていいと思います。空海の役目は唐に渡り、この経典や法具の購入する仕事を桓武天皇から命令されていたのではないのか?
選ばれたのは秀でた語学力でした。「御遺告」にある入唐の動機は真実を語っていない。


桓武天皇の時代に、4度にわたる東北の蝦夷征討をおこなっています。これが空海さんと大きな関わりを持つことになります。
坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、802年3度目の遠征でアテルイとモレが降伏し、東北の蝦夷をほぼ平定したとされます。
どうして、桓武天皇は蝦夷討伐を敢行したのかというと、それは、そう金です。749年、東北地方で大量の金が発見されていたからです。東北遠征の目的はこの金を奪うことです。蝦夷を討伐することにより、多量の金を入手することが出来たのです。

仏像は本来、基本金色であり、東大寺の大きな大仏さんも金メッキされていました。大仏さんの開眼式は752年に行われました。大仏さんはこの東北で発見された金を使用して造られました。大仏さんを鍍金する目的で金を探していて、そして東北において多量の金が発掘されていたのです。東北地方の国々が中央の朝廷と対立していたのは、これら金山を守るためというのが大きな理由です。

803年には東北の蝦夷を平定したことにより、桓武天皇は多量の金を得ることが出来ました。
この年の遣唐使は中止になりましたが、翌年(804年)です、遣唐使船で最澄や空海が唐に渡ったのは。
遣唐使を送り出す費用や滞在費はこの砂金が使われました。日本が、黄金の国、ジパングともいわれたのは、この遣唐使として唐に渡り滞在費を砂金で支払っていたことも大きく影響しているといわれます。

ウイッキペディア・・・遣唐使の目的
中国の先進的な技術や政治制度や文化、ならびに仏教の経典等の収集が目的とされた。
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ウイッキペディアを参照するまでもないですが、中国の文物、仏教の経典ももちろん購入するにはお金が必要ですが、そのお金とは、金ゴールド以外ない。

桓武天皇は突然に多量の金を得ることが出来たので、唐の文化や文物を購入しに遣唐使を派遣したということです。もちろん、新しい仏教を取り入れることも大きな目的でした。言葉がよくないかもしれませんが、金で新しい仏教を手に入れることに成功したのです。
桓武天皇の命令は、怨霊に打ち勝つ新しい仏教の入手です。

さすがに最澄さんに、金で仏教を入手しろとはいえませんので選ばれたのが語学力に秀でていた空海さんです。
空海さんは、唐に滞在して新しい文物や仏教の経典などを購入し、日本に送る役割の仕事を与えられていたのではないのかな?

そうすると空海さんの奇跡の謎は解けます。

空海さんの問題点です。真言宗の開祖となった空海さん、そして後の真言宗教団にとっても不都合なところは、実は僧となったのが遣唐使で唐に渡る直前であり、それまでは仏教とは関係しなかった点なのではないのかな?

空海さんは、遣唐使として唐に渡ってから大活躍を始めますが、実はそれ以前については詳しくはわかっていません。

空海は15歳で母方の叔父である阿刀大足について上京し勉学をはじめたとされます。その後18歳で大学にはいりました。。
この頃、一人の沙門から「虚空蔵求聞持法」を授かったとされます。その後、24歳にて 「聾瞽指帰」、後の「三教指帰」を著しました。以上が遣唐使以前の確実な空海さんの事績とされます。

24歳の出家宣言書とされるこの「聾瞽指帰」以降、唐に渡るまで、何をしていたかは不明です。
空海さんの「空白の7年間」といわれます。

しかし「聾瞽指帰」以前の事績についても、本当に確かなことなのだろうか?確実な事績とされるのは、「三教指帰」の序文に空海さん自身が書いているからです。だから誰も疑いません。空海さんは神聖な存在でもあるので疑えないのでしょうか。
わたしは空海さんは真実を語っていないように思います。




空海の問題点です。
*空海は15歳で母方の叔父である阿刀大足について上京し勉学をはじめたとされます。その後18歳で大学に入ったとされます。
三教指帰に記されていて、空海さんが自身が語ったことであり間違いないこととされます。

しかし、これがおかしいという指摘もされています。この時代、大学寮に入学する年齢としては非常に遅いのです。
それは、学令で定められている、大学の入学資格は13歳以上、16歳以下であるのです。15歳から18歳まで何をしていたのかも何も語っていません。18歳で大学寮に入学というのは学令違反であり、本来はありえません。

つまり本来は13歳で大学に入学しようとするはずです。それが、なぜに18歳になって大学に入学したのでしょうか?そして何故に2年間ほどで大学を辞めるということになるのでしょうか?理由があります。

佐伯真魚は13歳で大学寮に入学できない理由があります。秦氏が関係するということで、もともと入学は難しかったのです。大王家と渡来人である秦氏は対立していたからです。これが大きな理由です。

それと、遷都したばかりの長岡京での事件が関係します。

空海の叔父である阿刀大足は、桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であったとされます。これまで書いてきましたが、この伊予親王は早良大王の王子です。空海は774年生まれであり、長岡京遷都は784年です。

藤原氏はこの早良大王を、聖武天皇と同様に藤原の操る王としようとしていました。長岡京に遷都しようとした理由は、奈良京には秦氏藤原氏と対立する豪族が多くいたからです。しかし、長岡京に遷都したばかりで、おそらく空海が学ぼうとしていた大学寮は、長岡京ではなく、いまだ奈良京(平城京)にあったのだろうと考えられます。

このいまだ建設中であった長岡京で大事件が起きたのです。
それは空海が、12歳の時、延暦4年(785年)に、藤原種継の暗殺事件がおきました。これは秦氏、藤原氏と対立する反藤原氏の豪族、大伴氏などとの争いががおきているのです。この時、785年11月、本来の大王であった早良大王が殺さるという政変が起きたからです。事件というようなものではなく渡来人秦氏、藤原氏による国家転覆のクーデタ、戦争です。
早良大王が殺されたということでこのあと戦乱になります。この戦乱の地は、大伴氏など反秦氏、藤原氏勢力が多くいる奈良京においてです。

この戦いは、残念ながら秦氏、藤原氏側の勝利となり、秦氏が関係する桓武天皇が即位するということになります。
桓武天皇の本来の即位は、この早良大王が崩御したあとの786年である。

空海さんは15歳から18歳まで阿刀大足について学んでいたとされます。それは、秦氏と関係する空海は、この戦乱の影響もあり奈良の大学寮に進むことは難しかったからです。

秦氏の王といえる桓武天皇が即位したことで、秦氏と関係する空海は大学寮に入学することが出来たのです。そしてこの大学寮は長岡京に新設されたからです。学令に反する18歳で大学入学という不思議な謎は、この791年に長岡京において大学が完成したからです。
この長岡京は秦氏、藤原氏の都である。

空海は、この大学寮でおよそ二年間学んだとされ、その後、大学を辞め793年頃には山林での修行にはいったとされます。しかしそうではない。大学を辞めたのではなく大学が閉鎖されたからです。桓武天皇は早良大王の怨霊に怯え、長岡京から平安京に移転を始めたのです。
平安京遷都は794年です。

この大学寮を出た後、何をしていたかが、真言宗開祖としての問題点です。
これ以降、唐に渡るまでの期間が改竄されているように思う。

18歳で大学に入学し学ぶべきことは全て学んだ?後、生きることは何かということを求め19歳をすぎた頃には既に修行をしていたといわれます。しかし、阿刀大足から仏教については学んでいません。大学でも仏教思想を学んでいません。本来、僧としての修行はもっと若い時から行うものです。

私は大学を卒業し、仏教に道には進まず、平安京における桓武政権の官僚だったと思います。医学の道に進もうとしていたのではないのかな?真言宗の開祖として、空海さんの経歴の不都合なところです。
仏教について学ぶのが遣唐使船で唐に渡る直前だったのです。

*空海の24歳の時の著書とされる「聾瞽指帰」は出家宣言の書とされます。のちに序文等を改め「三教指帰」としたとされます。
この改められたとされる「三教指帰」の序文が信用できないのですが、これは後に弟子たちによって改竄されたものである。

ウイッキペディア・・・
「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという・・・。
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この後、19歳をすぎた頃?だともされますが、一沙門から「虚空蔵求聞持法」授かったとされます。これは三教指帰の序文に書かれています。土佐の室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできて悟りを開いたとされる有名な話です。

初期の密教は、空海以前は雑密といわれる体系化していないものが伝わっていたとされます。この「虚空蔵求聞持法」は「虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法」という経にある法だとされます。虚空蔵菩薩は、密教においても重要な菩薩であるのですが、「虚空蔵求聞持法」というのは、密教的な修法であるとされます。

空海がこの「虚空蔵求聞持法」授かったとされる一沙門とは誰なのかについても何も語っていないのですが、推測されています。

大安寺の勤操であるのでは?とも推測されています。この勤操も実は秦氏の人物であるので、このことからも、仏教について学んだのはこの勤操であろうと思います。しかし、この「虚空蔵求聞持法」を学んでいたとしても、19歳の頃ではなく、実際にこの時期には修行は行ってはいないように思います。

空海さんは僧になったのが、「続日本後紀」においては、「年三十一にて得度」と明記されていて、太政官符においては延暦二十二年(803年)とされます。この時の得度の師はこの勤操である。

この仏教について学んだ時期が問題であるように思います。私は空海さんが仏教について学ぶのは、この僧になった時期、803年の遣唐使から804年に遣唐使船で唐に渡るまでの期間であるように推測しています。
実際に大安寺において勤操から「虚空蔵求聞持法」を学んでいたとしてもこの時期であるように思います。

803年の遣唐使船では、医薬生として乗船するはずが中止になりました。この遣唐使が中止になったことが、空海さんの運命を大きく変えることになります。本来は唐の進んだ医学を学ぼうとしていたのだと思います。
しかし空海さんが唐語に堪能なことが判明し、通約と経典や法具を入手する仕事を桓武天皇から賜ったように思います。特に新しい仏教を入手することが大きな目的であったのです。
そのためには、僧である方が有利なため得度したのではないのかな?

桓武天皇から密教の経典などを購入するように命令があったため、大安寺において密教について学んだのがこの勤操であり、この「虚空蔵求聞持法」を学んだのが真実なら空海が遣唐使として渡唐する直前である。大日経について学ぶのもこの時期である。

この勤操は南都六宗側の人物です。最澄さんはこの南都六宗と激しく対立していたとされますが、空海さんは融和的だったとされるのもこれが理由なのでしょうか?

空海は日本における仏教の師を明らかにしていません。この勤操は後に、空海から灌頂を受けることになり空海の弟子ということになりました。しかし本来は空海さんの仏教の師である。空海さんが仏教の師を明らかにできない理由です。
「虚空蔵求聞持法」授かったのは誰であるのかも明らかにできない理由です。
密教の奥義を伝授されたことにより立場が変わってしまい、仏教の師が弟子になったからです。

この「虚空蔵求聞持法」授かったとされる話は、「三教指帰」にあるのですがですが、重要な話なのに「聾瞽指帰」にはないということからも真実かどうか疑問が残る。「聾瞽指帰」において記述されるべき話のようにも思うのですが?
今に残る「三教指帰」は後に改竄されたものである。

土佐の室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできて悟りを開いたとされます。
19歳頃に既に悟りを開いているのなら、24歳の時の出家宣言書である「聾瞽指帰」自体がおかしいとも感じます。これから仏教の道を歩もうとしているわけですから。
「聾瞽指帰」は空海さんの著書で間違いないわけですから、この後に厳しい修行を行って悟りを開いたとすればいいのに・・・?

仏教において悟りを開くということは、いわば目標地点に到達しているということです。既に悟りを開いているのなら、これから仏教の道を志そうという出家宣言書であるとされる「聾瞽指帰」とは何なのか?
こういう矛盾する記述も真実のこととして語るのは、空海さんにとってもよくないことのように思います。

実際に虚空蔵求聞持法」を授かり悟りを開いたというのは、この「聾瞽指帰」に記述されている24歳以降でないとおかしい。「三教指帰」の序文は真実を語っていないように思います。

*そして上記したところです。空海は天才だからそうは思われないかもしれませんが、ありえない話です。
空海さんの奇跡とされるところです。

密教の師匠である青龍寺の恵果和尚は、初対面のそれも日本から来た僧に密教の奥義を伝授しはじめます。恵果和尚には千人もの中国人やアジア各地からの弟子あったといわれます。それが、何故に初対面の空海に伝えようとしたのでしょうか?

恵果和尚は空海を見るなり笑みを含んで喜んだとされます。請来目録にあるのですが、・・・「今日相みる見る、大好し大好し」
初対面の空海に何の試問も行わず、密教の奥義を伝授するといったとされます。こんなのありえません。空海が厳しい修行をしていたのを、恵果和尚は見抜いて奥義を伝授しようとしたのだろうと推測されていますが、不思議な話であり、ありえませんよね。
空海さんは真実を語っていません。

これ、事前工作をして多額の金を渡していたからです。金はどの国でも共通の価値があるものです。密教の奥義を伝授してもらうことを条件にして青龍寺に多額の寄付をしていたからです。この時代の長安の各寺院は、理財の点においてはとても厳しいものだったようです。青龍寺も例外ではなかったはずです。

日本に新しい仏教を伝える必要があるので、密教の奥儀を伝授してほしいとの交渉をしていたのです。
交渉の条件は金、ゴールドです。

これ以外ないように思います。


*「請来目録」において、空海は恵果和尚に偶然に遇ったとされています。司馬遼太郎さんは、空海に風景の中で、密一乗を求めた者が密一乗の最高権威である恵果和尚にたまたま遇ったということはあまり正直であるとはいえないという感想を述べられています。
これは、本来は簡単には会うことが出来なかったからでもあると思います。

805年2月に長安にある西明寺が空海の長安での住居となりました。5月になると青龍寺の恵果和尚のもとを訪れます。この西明寺を通して、青龍寺との交渉を行っていたのではないのかな?すぐに会いに行かなかったのではなく、交渉期間だったのでは?

青龍寺に多額の寄付をすることを約束することにより、恵果和尚にあうことが出来たのだと思います。そして空海の幸運はこの恵果和尚から、本当に密教の奥義を伝授してもらえたことです。もちろん密教の奥義伝授に関しても交渉条件だったはずです。
ですので、初対面の空海さんが奥義伝授されたことも奇跡なんかではないのです。
それほど多額の寄付だったのだと思います。

恵果和尚は自身の寿命が尽きようとしていたのを知り、空海に伝授したといわれますが、そうではないように思う。
誰も奥義を伝授する人物がいなかったわけでもない。ただ、恵果和尚は六人の高弟がいましたが、胎蔵法と、金剛界法の両部の法を授かったのは空海さんと青龍寺の義明の二人のみとされます。義明は既に亡くなっていて結局空海さんにだけ両部の法を授かるということになります。

結果的には、師匠である恵果和尚は急死することになり、密教の奥儀は空海にだけ伝わるということになります。これが幸運といえば幸運であるかな?


*本当に奥儀を伝授してもらったのかどうか・・・そこまで疑いませんが、あまりにも伝授してもらう期間が短くはないのでしょうか?

唐から帰国後の話ですが、・・・最澄さんは高雄山寺において空海から密教の灌頂を受けました。最澄であるならば当然密教の正式な「伝法灌頂」を受けるべきであろうはずが「結縁灌頂」でした。後に決別する大きな理由です。「結縁灌頂」はこれから密教を学ぼうとする者に対して行う灌頂です。
伝法灌頂とは、阿闍梨という指導者の位を授ける儀式です。最澄は、この伝法灌頂を受けたいと願い出ました、しかし空海の返事は、伝法灌頂を受けるのは3年間の修行が必要だといったとされます。

あれ?でも空海さんは、恵果和尚から二か月程でこの伝法灌頂を受けていますよね。空海さんは二か月で、最澄さんは三年というのはおかしな話ですよね。伝授してもらう修行期間があまりにも短すぎる。
少し厳しい言い方になりますが、金で購入した灌頂であり、本来の伝法灌頂ではないからです。


*空海さんの結縁灌頂の時の話はどうなのでしょうか?
有名な投華得仏の儀式の話です。縁を結ぶ仏を決めるとき、曼荼羅に樒?を投げると不思議なことにことごとく密教の中心仏である大日如来の上に落ちたとされます。恵果和尚は、「不可思議、不可思議」といったとされます。

この大日如来との縁により、空海は恵果和尚から、大日如来の密号である「遍照金剛」という号をあたえられたとされます。
司馬遼太郎さんも空海の風景において、「大日如来の密号を生身の僧にあたえるなどおそれげもないように見られる・・・」という記述をしながら、・・・しかしながら、伝法灌頂を受けるということは大日如来になることを意味し、恵果和尚が空海に過分な呼称をあたえたとはいえない・・・ということを書いています。

しかし私は、これもありえることではないように思う。大日如来の名を、異国のしかも弟子ではなかった僧にあたえられることなんてありえないように感じるのですが?これらも空海さん自身が語ったこと?であり、真実は誰もわかりません。これも真言宗教団による空海さん神格化のひとつである。

*日本からやってきて、まだ弟子でもない空海に密教の奥義を授けたことに関して恵果和尚の門人たちから、珍賀という人物が恵果和尚に苦情を言いにいった夜、夢に仏法の外護神である四天王があらわれ、珍賀をぶったり蹴ったりしたため、珍賀は空海に詫びたという、これも良く知られている御遺告にある話です。

「空海の風景」において司馬遼太郎さんは、空海はうそを言う人物ではなかったからこれは真実だろうとしていますが、私はそうは思わない。これも嘘話です。人は誰しも嘘をつきます。嘘をつくから人間です。しかし、これは空海さんが語ったことではない。
「御遺告」は後に空海さんを神格化するために弟子が書いた著作である。
まだあるのだけど、しかしあまりにも伝説が多いのはどうかと思う。

*空海の師である恵果和尚が亡くなり埋葬された時に、碑が建てられたそうです。恵果和尚の門人から空海が選ばれ碑に記される文章を作成したようです。しかし、この碑文は、「性霊集」にあるのですが、この碑自体が行方不明であるのは事実です。本当に存在していたのでしょうか?

*空海は当初、叔父の阿刀大足に学び、その後大学に入り官僚を目指していたとされます。その大学を抜け、仏教の修行をしていたとされますが本当なのでしょうか?この地で政変が起き平安京に移ることになるのですが、やはり官僚だったのだと思います。
才能豊かな空海は、初めは医薬生として唐に渡る予定だったともされるように、唐の医学を学ぶための渡唐を望んでいたのでは?

つまり僧ではなかったのですが、・・・僧となって唐に行くことになります。それは、この時の遣唐使の大きな目的は、奈良仏教に勝るための新しい仏教を入手するためです。それで空海が選ばれたのは、有能な官僚ということと、秦氏と関係し特に唐語が堪能だったからだと思います。

*仏教の経典や仏具を入手するには、もちろん僧である方が有利であるので、遣唐使で渡る直前に僧として得度したのではないのかな?
803年に医薬生として渡る予定が、この時は中止になり、804年の遣唐使に乗船することになったとされます。つまり僧となったのは、この804年の遣唐使直前である。

仏教を入手する仕事を賜ったので、この時期、つまり803年の遣唐使が中止になったので翌年の遣唐使まで、仏教に関しての知識を学んでいる。短期間でも十分な知識を得る才能があったのです。ただし山野での修行は行っていない。遣唐使が一年延びたので仏教、特に密教を学ぶの期間があった。空海さんにはこれで十分の知識を得ることが出来たのだと思います。久米寺で大日経と出会ったというのが事実であるならこの時である。

これが、真言宗開祖としての空海さんの不都合な箇所である。

*空海は24歳の時の著書とされる「聾瞽指帰」、これは仏教をめざす出家宣言の書とされます。この「聾瞽指帰」は、のちに序文等を改め「三教指帰」としたとされます。三教とは儒教・道教・仏教の三つの教えを指しています。流麗な四六駢儷体で書かれていて、
仏教が優れていることを戯曲の形式で書かれています。

空海さんは天才ですから、24歳の時の著書として問題ないように思われていますが、仏教はもちろん、漢詩漢文の文学作品、儒教、道教、老荘思想など多岐にわたります。仏教に関しても、私はこれから仏教を学ぼうとしている人物の著書ではありえないように思う。

この仏教を志そうとしていた時期から、遣唐使船で渡唐するまでの7年間、空海は何をしていたのかは全く分かっていません。空白の7年間といわれます。空海さんは何も語っていません。これは事実です。それは語れなかったからです。
しかも、空海が僧として得度したのが、なんと、この入唐直前である31歳、東大寺戒壇院で受戒したという説が有力とされます。 僧侶として出家得度してなければ遣唐使船に乗れなかったからとされます。「聾瞽指帰」は、本当に24歳の時の著書なのだろうか?
「聾瞽指帰」の中にある、仏教の知識は、これから仏教を目指そうとしている人物の知識ではないように思う?

50代になった空海が、24歳の出家宣言書ともいえる「聾瞽指帰」を改訂した「三教指帰」を朝廷に献上するのでしょうか?
しかも空海はこの「三教指帰」の序文においては、「自分の心にある本当の気持ちを表現しただけで他人に読んでもらうつもりではない」と記しておきながら何故に朝廷に献上したのでしょうか?
この「三教指帰」の序文が大いに問題ある。

おかしいですよね?私は凄く不思議に思うところです。真言宗の開祖となった今、なぜにいまだ僧となっていない時代の出家宣言書といえる著書を献上するのでしょうか?おかしいように思います。

この「三教指帰」はもとは「聾瞽指帰」であるというのです。これおかしいでしょう?ほとんど同じなのです。「聾瞽指帰」がまず存在していたとするために、いかにも後にこれを訂正してるようにしていますが、そうではない。ほぼ同じ時期に作られたものです。
「聾瞽指帰」は24歳の時に書かれたものではない。

*高野山霊宝館に伝わる、国宝「聾瞽指帰」は、空海の自筆本とされます。ブラタモリの高野山編において映っていました。この「聾瞽指帰」は、空海24歳の時の筆とされ出家宣言の書とされます。
すると問題があります。

自筆本であると問題があるというのは、おかしな表現ですが、・・・それは使用されている料紙が、24歳の無名の学生が入手できる用紙ではないのです。この「聾瞽指帰」の料紙は白麻紙という高級用紙が使われていて、この料紙はについては既に問題があると指摘されてます。嵯峨天皇の書作品として延暦寺にある「光定戒牒」など、主に天皇やその関係者が使用している高級用紙だからです。
中国から輸入しただろうと思われる特別な用紙であり、24歳の時の空海(この時はまだ佐伯真魚かな?)が入手し使用できる用紙ではないのです。

聾瞽指帰は上巻、下巻あわせると20mにもなりますが、24歳の空海(何をしていたかは不明)がこの高級用紙をこんなに使用できるはずがない。ですので、空海さんの自筆であると問題があるのです。空海が真言宗の開祖として地位を築き、嵯峨天皇との交友を深めた時代にならないと無理です。「聾瞽指帰」は24歳の空海さんの書ではありえません。
ですので、空海さんの真筆ではなく後に写された転写本ではないのかという見解もされています。

私は空海さんの自筆本であるように思います。
しかし、この「聾瞽指帰」は空海さんの自筆の著作本であるのですが、24歳の時のものではない。「聾瞽指帰」は真言宗の開祖として地位を築いた空海50歳代の著書である。今に残る「三教指帰」は、「聾瞽指帰」を基に後に別人が書いたもです。

この「聾瞽指帰」の中に「二兄重ねて逝いて」という記述があるそうです。ですので、空海さんは三男だったのではともいわれます。長男は佐伯 鈴伎麻呂で、次男は酒麻呂ではないのかと・・・。問題は24歳の時に既に二人の兄が亡くなっている?という記述です。
佐伯鈴伎麻呂は827年に外正六位上から外従五位下に叙されるとされます。おそらくこの時に亡くなっているのではないのか?つまり、24歳の時の書といわれる「聾瞽指帰」はこの827年以降に書かれたものである。それで、空海さんは774年の生まれです。つまり、聾瞽指帰」は空海50歳代の著作本である。

朝廷に献上するとき「聾瞽指帰」の序文を変更して、清書して「三教指帰」として献上したものとされます。今に残る「三教指帰」が朝廷に献上されたものと同様の内容であるなら問題がある。つまり、「三教指帰」の序文を書いたのは空海さん自身となるからです。
しかしそうはなく、献上された「三教指帰」は「聾瞽指帰」と同じものだったと思う。この「聾瞽指帰」も「三教指帰」も序文において、延暦十六年十二月一日との日付が書かれています。この日付が特に空海さんには重要だったからです。誰にも見せるつもりはなかった著作であると記述しておきながら、献上しています。
この「三教指帰」の序文がおかしい、序文は後に改竄されたものである。


真言宗の開祖となった空海の経歴においての不都合な部分です。それは、空海さんは、僧になるのが遅すぎたのです。「三教指帰」の序文が空海さん、そして真言宗の教団にも重要だったのです。僧として得度したのは31歳の時ですが、一般的には20歳位までに得度しますので、この頃から仏教を学び、厳しい修行をしていたとの事実が必要なのです。

そう、空海さんは、出家宣言書ともいえる「聾瞽指帰」が存在していたとする、証拠がほしいわけです。僧になるための厳しい修行をしていたとする証拠です。本来は、この7年間は何をしていたかは全く不明です。これは事実です。厳しい山岳修行をしていたというのは想像でしかありません。「聾瞽指帰」という出家宣言書があるので、修行していただろうと考えられているわけです。

つまり、この「聾瞽指帰」は、後に朝廷に献上した際に書名を「三教指帰」にあらためたとされます。しかしそうではなく、「聾瞽指帰」も「三教指帰」も、恵果和尚から密教を伝授され、僧として成功を治めた空海が、さすがに僧になったのは唐に渡る直前であり、修行なんかしていなというのは都合が悪いため後に改竄しているのです。
また恵果和尚から厳しい修行したものとして認められ、密教の奥義を伝授されたというように改竄したので、24歳で出家宣言し、唐に渡るまで仏教の修行をしていたという証拠を作るための序文である。

24歳の時に「聾瞽指帰」を作成して、後のこの「聾瞽指帰」を基に「三教指帰」を作ったのではない。「聾瞽指帰」の中にある、仏教の知識は、これから仏教を目指そうとしている人物の知識ではない。唐に渡って以降の書であるように思います。

それは31歳の時に僧となった事実は消せませんので、大学以降は僧になるための修行をしていたと、後になって作成したのがこの出家宣言書といえる「聾瞽指帰」です。「聾瞽指帰」という出家宣言書が実在したという証拠がほしいのです。それは事実でないからです。

出家宣言をして、僧となるまでの間の7年間なにをしていたかは不明です。諸国を放浪し、山林修行をしていたのだろうと想像されていますが、本人は何も語っていません。それがおかしい。語れない理由があるからです。それは僧ではなかったからです。
空海の僧としての経歴においての問題点は僧となったのが31歳の時でありそれまでは仏教とは何ら関係なかったからです。
じゃー空海さんは何をしていたのか?もちろん想像でしかないのですが、医学を学んでいたのか、あるいは当初の目的通り官僚になっていたかです。

*「三教指帰」の序文には、空海がまだ山野で修行をしていた頃、一人の僧と出会い、虚空蔵求聞持法を教えられました。 これはこの呪文を百日で百万遍唱えれば、全ての仏教経典を理解し暗記できるというものでした。室戸岬の洞窟でこの呪文を唱えていたところ、海の彼方から明星が空海の口から身体の中に飛び込んできて悟りをひらいたともされます。

良く知られている空海さんの逸話ですが、これも真実ではない。「御遺告」にもあるのですがこの「御遺告」は、後の時代に空海を神格化するために弟子たちにより書かれた書物である。
同様に「三教指帰」の序文も信用できない。「三教指帰」は「聾瞽指帰」の序文を変更したものとされますがこの変更した部分が問題ある。

つまり、今に残る「三教指帰」が問題である。高野山霊宝館に伝わる「聾瞽指帰」は空海さんの自筆本であるのですが、三教指帰は空海さんの自筆本ではありません。三教指帰の最古の写本は空海さん没後300年のものとされこれがおかしいとの指摘があります。
その通りのように思います。これに関しては、私は空海さんを信じることにします。高野山霊宝館に伝わる「聾瞽指帰」は空海さんの自筆本であるのですが、この「聾瞽指帰」の序文を変更して「三教指帰」としたのは後の真言宗教団である。

*「御遺告」は、空海が入定する前に記したとされる遺言書ともいえる文章です。この「御遺告」の内容により、和泉国槇尾山寺で、二十歳で得度し二十二歳で受戒とされます。しかし、すでに得度、受戒しているのなら、「聾瞽指帰」においての二十四歳の時に仏教を志すとの宣言と矛盾します。この「御遺告」は後の時代のもであり、信用できないとされ、今は得度したのは遣唐使直前の31歳の時が有力とされます。「御遺告」の記述の仕方は曖昧な書き方なのですが、こんなの改竄するのしても、24歳の時の出家宣言書といえる「聾瞽指帰」が存在するとしているわけですから、25歳位で得度したとすればいいのに、このためこの「御遺告」自体が信用できない。

もうすでに指摘されているところではあるのですが、空海さん自身が語ったとは思えない。しかし空海さん自身も気になっていたところでもあったと思います。ですので、50歳代で「聾瞽指帰」を書き朝廷に献上したように思います。

朝廷に献上するときに、「聾瞽指帰」の著書名を「三教指帰」と変更して献上したように思います。
著書名だけ変更したように思うのですが・・・?それは、この「聾瞽」といのは、ツンボとメクラという意味であり朝廷に献上するには、言葉として相応しくなかったからです。

ですので、この「三教指帰」の序文を変更したのは空海さんではない。
「三教指帰」の序文を変更したのは真言宗の教団である。

槇尾山寺での得度の話は「聾瞽指帰」の存在を知らなかったのではないのかと思うくらいの杜撰な記述である。これにはもちろん理由があって、普通はこの二十歳位までに得度して僧になるからです。ライバルともいえる天台宗の開祖である最澄さんは、12歳位で出家し18歳で得度、20歳で受戒しています。
真言宗開祖である空海が、31歳の時に得度したという事実は真言宗教団にとっても都合が悪いのです。

これは空海さんが語ったことを、弟子が記述したのではなく、空海を神格化するために後に書かれたものである。真言宗の開祖としての空海さんの不都合なところです。僧として得度した時期が遅いことに関係している。
しかしこんなのかえって空海さんとってみれば迷惑な話かな?

空海は数々の奇跡話が語られますが、それはやはり、最澄との対立が関係しているように思う。
真言宗教団にとっては、開祖空海は、最澄より優れた人物にする必要があったのです。

*これも「御遺告」にあるのですが、空海の乗船した船は南方に流され福州に到着することになります。その時様々な嫌疑をかけられ、上陸することができませんでした。この時、大使の葛野麻呂の嘆願書は悪筆であり、代わって語学に堪能であり名文家である空海が代筆をしたとされます。
このときの空海の書簡は「性霊集」に遺っているのですが、かなりの長文であり名文中の名文として有名です。
語学に堪能な空海が代筆をすると、事が上手く運ぶようになったようであり、これは事実であるように思うのですが、その時の文章が「性霊集」にある「大使福州の観察使に與ふるが為の書」です。
名文とされますが、「性霊集」だけにしか残っておらず、後に、つまり「性霊集」を作成するときに文章を多少なりとも改竄しているのではとの疑問があるのですが・・・。

疑いだすときりがないのですが、・・・名文すぎてかえって私は信用できません(^^;)

中国にこの書が残っているはずもなく、「性霊集」にある書は、空海さん代筆の嘆願書そのままであるとは確かめようがないのは事実です。この「性霊集」は、弟子の真済が編者とされていますが、空海自身が関わっているとの指摘があります。
緊急事態の時の、この嘆願書は、相手に渡しているわけですから、性霊集編纂時に存在しているということは、後の時代に新たに作成したものであるわけです。
「越州節度使に請ふて内外の経書を求むる啓」や「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」も同様である。
「性霊集」編纂に空海が関わっているのなら、この時に作成されたものであり文章をより良いものに、そして内容も変更している・・・ように私は思います。

事が上手く運ぶようになったのは、多少の袖の下が効いたようにも思うのですが・・・・?

*「弘法も筆の誤り」といわれるように、書の達人とされます。そして、唐でも「五筆和尚」と称されたとされます。これは「楷書・行書・草書・隷書・篆書」の5種類の書体に通じていたからの称号ともいわれます。これもよく知られた話です。

この「五筆和尚」唐の順宗皇帝によって付けられたとされます。これも「御遺告」にありますので信用できません。唐の宮廷に長らく仕えたというのならまだしも空海が唐の皇帝に会えるはずはない。

本来の話は、空海さんは皇帝の命により、宮殿の二間の壁を修理ることになり、両手両足と口に5本の筆で持って、王羲之の五行の詩を一度に同時に書いたとされます。そして残る一間には、墨をたらいにいれて壁に注ぐと「樹」という文字が壁に出来たという記述です。
それで、皇帝は称賛し「五筆和尚」との称号を贈られたということです。
さすがに無理ですので、5種類の書体に通じていたからの称号と解釈されています。 解釈は自由ですが、本来の記述されている話はありえない話です。

空海が唐を去るときに、皇帝は、「朕は、この僧をとどめて自分の師にしようと思っていた。しかしひきとどめるわけにはゆくまい。この念珠をもって朕の形見であるとおもえ 」・・・こう述べたとされます。
唐の皇帝が空海に会うなんてことはありえません。「五筆和尚」のありえない逸話からも真実ではないと推測できます。これも全くの嘘話である。 空海さんを神格化するための後の作り話である。
こんなの極々常識的に考えても、事実ではないとの判断できそうなものなのに・・・。
ですので、後の円珍の話も信用できない。この円珍は弘法大師空海の姪の子であり身内である。

*20年の滞在予定を2年で帰ったとされます。空海さん、本来は唐に滞在し仏教の経典や仏具、文物を購入して日本に送るのが仕事だったからです。唐で滞在をして、経典や法具、文物を購入するだけの金を預かっていたのです。
本来は仏教の修行のための渡唐ではない。ですので、空海さんの滞在予定は20年ではない。2年で帰国は少し早かったかもしれませんが、当初の予定通りのように思います。

これには理由があります。早期に帰国したのは空海さんの方の理由ではなく、桓武天皇の方の都合によるものです。
新しい仏教を入手することに関しては上手く事が運び、さらに短期間で密教の奥儀まで伝授されることになったのです。これが空海さんの幸運です。請来目録では、恵果和尚は、早く国に帰って密教の教えを国に奉り広めるように言ったとされますが、そうではない。桓武天皇の病状が良くなかったからです。

*この空海が帰国した遣唐使船は、何故か急に遣わされることになったのです。最澄が帰国したのは805年7月です。この後、突然に次の遣唐使船が派遣することになったのです。どういう目的での遣唐使なのかは不明ですが、これは空海を迎えるための遣唐使である。
それは、新しい仏教を入手できたことが伝えられたからです。
空海が密教の奥義を伝授され、多くの経典や仏具を得ることが出来たことが、おそらく最澄が帰国した時の使節である、藤原葛野麻呂から桓武天皇に伝わったからです。

急遽遣唐使が決まったのは、桓武天皇の体調面が良くなかったのです。桓武天皇は自身の体調不良は、怨霊のせいだと思っていたのです。この怨霊に打ち勝つ新しい仏教を早く手に入れたかったからです。空海が、怨霊を退治する方を会得したということが伝わったのです。
桓武天皇は自身が王になるために、多くの暗殺をおこない、暗殺された人々は怨霊となりました。この怨霊を直接退治する技術をもつ仏教こそが密教だと考えられていたのです。

*唐の都である長安は内陸部にあるということもあり、空海さんが帰国した、806年10月には、既に桓武天皇は崩御していました。
空海さんは、帰国してから809年まで入京することが出来ず、大宰府に滞在していました。これは、20年の滞在予定を2年で帰国したからだとされますが、これに関してはそうではない。

桓武天皇、渡来人と王家の争いを書きたかったのですが、空海が関係するのがここです。
空海さんに登場してもらったのがここです。

桓武天皇が806年4月に亡くなり、次期王位をめぐって争いが起きている。奈良側が復活し、これに藤原間の勢力争いも起きます。藤原式家と北家のとの権力争いです。それは、平城天皇はこの奈良側の大王であり、本来の王家に人物であるのです。早良大王の王子である。「長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎」において記述してきましたが、平城天皇、淳和天皇は、早良大王の王子たちであり、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子です。早良大王と桓武天皇は兄弟ではありません。
嵯峨天皇に時代になって空海は入京することが出来たのです。
平城天皇、淳和天皇は本来の王家、奈良側の王であり、新しい仏教を入手した空海が入京できなったのは南都六宗による入京阻止のためです。

薬子の変が起きた時は嵯峨天皇側に付き、高雄山寺で鎮護国家の大祈祷をしました。これはもちろん、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子なのですが、平城天皇は早良大王の皇子であることが関係します。桓武天皇は秦氏と関係する天皇であり、空海もまた秦氏と関係するからです。

桓武天皇が生きていたら、空海はこんなに活躍できたのだろうか?
結果的には二人の恩人ともいえる恵果和尚と桓武天皇が亡くなったことが空海に幸運をもたらすという不思議な結末でもある。



最後に、空海さんが今も生きているとの入定信仰について。

空海さんの御廟がある奥之院は、高野山で最も神聖な霊域とされます。空海さんはここで入定したとされます。つまりいまだ生きているとされ、毎日食事が運ばれています。今昔物語においても、空海がいきたまま永遠の禅定に入ったと記されています。この弘法大師入定信仰も後の時代に形成されたものだとされます。

今もこの地に生きているというのなら矛盾しますが、空海さんは兜卒天(弥勒菩薩の浄土)に生まれて、56億7000万年後の末法時代に弥勒菩薩とともに下生して、一切の衆生を救済するともされます。もともと弥勒菩薩とはあまり関係しないと思うのですが・・・空海さんへの信仰が未来において結びついたのでしょうか?

ウイッキペディア・・・
歴史学的文献には『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、火葬されたことが示唆されている。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。
     *************************
空海は荼毘に付されたとされます。荼毘とは火葬されたということです。
火葬についてはお釈迦様以来の仏教の伝統でもあります。
空海さんが生きていた時代には、いまだ金剛峯寺は完成したという状態とは程遠いものでした。高野山の中心地である場所から、奥の院は離れすぎている。空海さんが在世中に、いまの奥の院の場所に建物があったはずがありません。おそらく、鬱蒼とした森の中だったはずです。

それで、上記したウイッキペディアの記述が真実なら気になる箇所があります・・・遺骸が埋葬されたとされます。
以下はもちろん想像ですが・・・
これどこに埋葬されたのでしょうか?奥の院ではないはずです。高野山壇上伽藍が諸堂の集まる場所とされます。金堂や根本大塔、御影堂などがあり空海さんの時代から存在していた中心地であります。おそらく、この周辺にしか建物はなかったはずですし、空海さんの住居もここでした。ですので、この近くに埋葬されたと思うのですが?

御影堂は、空海の持仏堂だったのですが、空海入定後に弟子である実恵が、埋葬に立ち会ったとされる高岳親王、法名真如の描いた弘法大師御影像を安置したため御影堂と呼ばれるようになったとされます。
空海さんは奥の院にて入定しているということになっていますが、この御影堂は、高野山でも奥の院とともに最も重要な聖域とされます。それは、この御影堂の場所は、もとは僧房であり空海さんの住まいでもあり、最期を迎えた場所ともいわれます。
後に持仏堂になり御影を飾っていたので御影堂と呼ばれるようになりました。

この御影堂の近くこそ本来の空海さんの埋葬の地であるのでは?
実際に埋葬されたということなら、空海さんの在世中の規模を考えると、壇上伽藍の周辺に埋葬されていたはずです。

御影堂自体が埋葬地に建てられているのか、あるいは建物は南側を正面にして建てられていますので、御影像を安置し空海さんを拝む形になるのは、御影堂の北部に埋葬されていたはずのように推測するのですが?
下の写真の御影堂に接する北側の建物が気になるのですが・・・これ何だろう・・・埋葬地かな?
今も御影堂では毎日修法がおこなわれています。
しかし後の時代に、入定したということになっているので、奥の院が完成し移葬された可能性はあるように思います。

空海さんはあまりにも奇跡の話や伝説が多くありすぎる。



上の写真は1枚目は高野山壇上伽藍にある根本大塔、2枚目は御影堂、3枚目は中門、4枚目も御影堂です。

下の最初の写真1枚目はは、太秦にある秦氏の氏寺とされる広隆寺です。この太秦周辺は秦氏の本拠地です。この広隆寺は、聖徳太子が関わるとされます。
ウイッキペディア・・・
『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。
  *************************
広隆寺の有名な弥勒菩薩半跏像は、聖徳太子から譲り受けた仏像であるのか、あるいは日本書紀にある、推古天皇31年に新羅からの渡来仏であるのか?。いまは日本で造られた可能性も語られています。

聖徳太子はふたりいます。押坂彦人大兄皇子と竹田皇子です。
仏教に関係するという聖徳太子は、推古の息子である竹田皇子の方です。秦氏、藤原氏と、蘇我氏の対立は良く知られますが、しかしここに祀られている聖徳太子とは大王だった押坂彦人大兄皇子、日十大王のように思います。
これまで記述してきましたが、この押坂彦人大兄皇子の後胤と対立し、何人もの王家の人物を殺害してきたのが、秦氏や藤原氏です。大怨霊ともいえる長屋大王や早良大王もこの押坂彦人大兄大王の後胤です。
秦氏や藤原氏は、この聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子を酷く恐れています。

聖徳太子から譲り受けた仏像を祀ったという話は、真実かどうか疑わしいよに思います。後付けの言い訳のように思います。
それは秦氏が聖徳太子を祀るのが不自然でもあるからです。祀る理由がないからです。祀る理由を、聖徳太子から譲り受けた仏像であるので聖徳太子を祀っているとしているのです。本来はこの押坂彦人大兄皇子の怨霊が怖いのです。
怨霊の祟りを鎮める最良の方法は神として祀ることです。広隆寺は、秦氏、藤原氏による御霊を鎮める聖徳太子の鎮魂のお寺である。

この広隆寺の近く、秦氏の本拠地に空海さん母方である阿刀氏の氏神とされる阿刀神社があります。この地に阿刀氏の氏神があるのは、秦氏と関係していたからです。広隆寺から、阿刀神社に車でむかったのですが、あれれれ?たどり着けない((+_+))ナビあるし、スマホもあるのに・・・もちろん事前に地図でも調べていたのに、・・・ナビは到着したと言っているにのに神社に行けない。
周囲が建物に囲まれていて、行く道がないのです?こんなの初めてです。車を近くに止めて、徒歩で探してやっとたどり着けました。小さな祠がのこっているだけでした。

この地に阿刀氏の氏神があるとういことは、阿刀氏、阿刀大足はこの秦氏の本拠地である太秦近くに居住していたということです。妻問婚といわれ、夫が妻の下に通う婚姻の形態のことです。つまり、空海さんのおかあさんはこの太秦生まれであるのです。
同様に考えると、お父さんの佐伯田公が讃岐にいるとは考えずらく、近くに居住していたと思われます。空海さんの生誕地は、母方の実家があるこの秦氏の本拠地である太秦である

この秦氏の本拠地である太秦周辺には大覚寺や仁和寺、神護寺、泉涌寺、西明寺、高山寺など真言宗のお寺が沢山あります。

3枚目の写真は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院である大覚寺です。時代劇の映画がよく撮影されることでも有名です。今に残る問題の三教指帰の写本はここにありました。

高雄山寺(神護寺)は空海さんが唐から帰国したのちに住まいしていたお寺です。それは空海さんの故郷だったからです。帰国して故郷の地に帰ったのです。

空海さんの生誕地はここ太秦です。空海さんも最澄さんもともに秦氏に関わる人物である。
そして桓武天皇も秦氏の王です。

1枚目、広隆寺 上宮王院太子殿、2枚目、仁和寺 二王門、3枚目大覚寺、4枚目泉涌寺 仏殿、5、6,7枚目阿刀神社です。











 




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中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎

2019年01月11日 | 日本書紀の謎



今回は、百済救援を画策していた、百済からの渡来人であろうと推測できる天智や
藤原鎌足と王家との争いを考えてみます。
桓武天皇から書き始めたため長文になってしまいましたが、やっと書きたい
ところまでたどり着きました。おそらく誰も指摘していないところかな?

660年百済は滅亡します。その後、倭国(日本)は唐を敵に回し朝鮮に軍を三度派遣します。
百済の役です。第一波は661年、第二波は662年。そして、天智2年(663年)に
白村江の戦いで敗れます。

しかし、これは百済復興を目指す渡来人が行ったことです。この時代、戦乱を逃れるために、
百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。

本来は、倭国、唐、新羅の三国同盟だったのです。
この時代の唐との国力の差を考えれば、唐と敵対する選択をするはずがありません。
倭国は、唐、新羅と結び百済を討とうとしていたのです。

その百済討伐のための朝鮮出兵が、渡来人によるクーデターにより百済救援の出兵
に代わってしまったのです。
その中心人物が、百済復興を画策していた渡来人である天智と後の藤原鎌足である。
661年から、天智が白村江に兵を派遣する663年まで渡来人と王家の争いが起きている。

古代の王家を滅ぼし、歴史を改竄した藤原氏の悪逆をここに暴いてやる凸(~_~メ)

乙巳の変では蘇我入鹿、蝦夷を暗殺し蘇我氏を滅ぼし、その後も、明らかなだけ
でも古人大兄皇子、蘇我倉石川麻呂、有間皇子暗殺している。
さらに孝徳天皇や押坂彦人大兄皇子の王子の山代王子(山背大兄王)
など本来の大王や、多数の王家の人物を殺している。

天皇家を凌ぐ権力を得て専横甚だしかった蘇我氏は悪であり、その蘇我氏を討ち大化の改新と呼ばれる
改革を断行した中大兄皇子、中臣鎌足らは英雄である。そういう記述ですよね。

正史である日本書紀に記述があるから真実であるといつまでもこういう姿勢では真の歴史はみえない。
彼らを謀反の疑いで静粛し、百済復興のために朝鮮に出兵した天智や藤原鎌足は渡来人である。
渡来人である天智は王であるはずがない。天智は天皇に即位していたと改竄したのは桓武天皇である。
その天智から繋がる桓武は渡来人の王である。


百済救援を画策していた、百済からの渡来人であろうと推測できる藤原鎌足と王家との争いを
考えてみます。古代の王家は藤原に乗っ取られている。

まず、百済渡来人と関係するであろう藤原氏の謎についてです・・・
上の写真は、興福寺の中金堂が実に300年ぶりに再建されました。夜間のライトアップの写真です。
この興福寺は鎌足ゆかりのお寺であり藤原氏の氏寺。とされます。東大寺もまた藤原氏により建設
されたお寺といえます。

藤原氏の祖とされる、中臣鎌足は、後に藤原姓を賜り藤原鎌足を名乗ったとされます。
もとは中臣氏ということですが、・・・これおかしいでしょう?

不思議に感じますよね?藤原氏は明らかに仏教推進派であるのですが、・・・中臣氏は神事や祭祀を
つかさどった神道側の氏族ですよね?
中臣鎌足のお父さんの中臣御食子は、神祇官の長官に就いていたともされます。
このあとも、中臣氏は 、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲しました。
中臣氏は、神事・祭祀をつかさどった中央豪族であり、物部氏とともに仏教受容には反対の立場だったとされます。
だから、矛盾しますよね。おかしいですよね?

平安京は倭国内の百済国であり、桓武天皇は秦氏が関わる天智天皇から繋がる渡来人の王です。
平安京は、百済からの渡来人であろう、この秦氏が開拓した土地です。
平安時代は仏教が興隆します。この桓武天皇や、その子供である嵯峨天皇が保護したのは、
最澄の天台宗、空海の真言宗です。
それは、この仏教に関しても奈良対平安の対立、つまり王家と渡来人の争いが起きていたからです。
最澄は応神天皇の時代に渡来したと称する渡来人です。空海も仏教を学ぶためには渡来人や秦氏と
関係していただろうと想像できます。

渡来人である秦氏や藤原氏は、日本の宗教である神道に対抗する仏教推進派である。
その藤原氏がもと中臣氏だというのは信じられません。


ウイッキペデア・・・
扶余 豊璋
百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。 ・・・『日本書紀』にも登場する
百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある 。

皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が
島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したとされており、翹岐=豊璋同一人物説に
おいては当然、この時に倭国に渡来したとされている。 

孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。 

662年5月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5000と軍船170艘を添えて
百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。 豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、
豊璋は百済王に推戴された 
  ***********************

この中臣鎌足は百済からの渡来人である。642年に倭国に来朝したとされる、百済最後の王である
義慈王の王子の翹岐ではないのだろうか?
豊璋だろうという説が以前からありますが、百済王ともされるこの弟の翹岐のほうではないのかな?
同一人物説もあるようですが・・・?
日本書紀、皇極条にはこの翹岐の名が頻繁に現れますが、その後どうなったのかは不明です。
それは、後の藤原鎌足だからではないのか?
一方兄の豊璋は、後に百済に渡り百済王となり、唐、新羅と戦い、その後高麗に亡命したとされます。
まぁどちらでもいいですが、秦氏と関わる天智と関係し百済復興のために朝鮮出兵を画策した、
百済王家に関係する渡来人であるのは間違いないように思います。

百済復興のために来日した、この翹岐が協力を求めたのが、同じく百済からの渡来人であり、
この山背国で地盤を築いていた秦氏である。

そして天智天皇は、この秦氏の人物だからです。詳しくは書きませんが、天智天皇は、百済からの渡来人であり
秦氏の族長である、漢王こと秦河勝の甥の子供である。漢皇子とされるのが天智天皇である。
天智と天武は兄弟ではありません。桓武天皇は自身の皇位継承の正統性を述べるために、天智を本来の王家の
天武に繋げたのです。

藤原氏は、近江にも関係します。その近江には多数の百済から亡命してきた王族などの人物の居住地
だということが日本書紀などにも記述されています。
桓武天皇のお母さんである高野 新笠は、百済からの渡来人である和乙継の娘であり、この和氏は百済武寧王の
子孫を称しています。本当に武寧王の子孫かどうかはともかく、本来は言いたくはないところでもあるので、
渡来人であるのは事実だと思われます。

そして、この百済からの渡来人が中臣氏と繋がりを持つのは、この中臣氏の本拠地は山科だからなのではないのか?
秦氏の山背国と近江に挟まれた位置にあるのが山科です。

ウイッキペディア 中臣意美麻呂
叔父・藤原鎌足の娘を娶って婿養子となり、鎌足の実子である藤原不比等が成人するまで藤原氏の
氏上であったといわれている。
      *********************
本来は、もちろん中臣氏ではなかったのですが、・・・
この時に、つまり中臣 意美麻呂が、藤原鎌足の娘を娶ったときに初めて中臣氏と関係ができたのではないか?
そして中臣 意美麻呂は不比等が成人するまでの育ての親ともいわれます。
というか、・・・中臣氏は渡来人の勢力下にいたといえます。

不比等にとってもお父さんが百済の王家の人物であっても、倭国内では渡来人であるのでは自身の栄達には
都合が悪いため、関係が出来た中臣氏の系譜の中に、お父さんである翹岐?を組み入れ改竄したのではないのか?

だから遡って、藤原不比等により父である藤原鎌足は元は中臣氏だったと改竄したのでは?
それは渡来人だったからです。そして百済からの渡来人である藤原氏は仏教推進派です。

孝徳天皇と対立していたのは、この中臣鎌足(翹岐?)と天智天皇である。
ですので孝徳政権下において、内大臣であるはずはない。渡来人であるのならなおさらありえません。

つまり、孝徳政権下で内大臣だったとされる中臣鎌足は中臣鎌足(藤原鎌足)ではないのです。別人です((+_+))
これは、後に藤原朝臣姓を鎌足の子である不比等のみに継承させていることから判断できる。

では何故に中臣鎌足が選ばれたのかというと、この中臣鎌足は、孝徳政権において、内大臣という
高い地位にあったからだともいえます。
そしてもちろん渡来人だったことを隠蔽するためです。
不比等にとっても、渡来人では都合が悪いため実在の人物に変更したともいえます。
選ばれたのが後に関係を結んだ中臣氏です。

この中臣鎌足には二人の子供、兄弟がいたとされます。真人と不比等です。
長男である真人は、何故か仏門に入り定恵と改名し、遣唐使とともに唐に渡ったとされます。
不思議な話ですが、この謎も解けるように思うのですが・・・?

王家と渡来人の争いに関しての重要人物の一人がこの中臣真人です。

この長男である真人は643年の生まれとされ、僧となり唐に渡ったとされる遣唐使は653年のことです。
なんと11歳の時に唐に渡ったということになります。しかもこの時には不比等はまだ生まれていませんでした。

中臣鎌足は616年の生まれとされますので、この時代ではもうそう若くはないですよね。
それがどうして長男を唐に送らなければならなかったのでしょうか?
どうして神事を司る職にいた中臣氏、中臣鎌足が子供を僧にして唐に留学させるのでしょうか?
おかしい話ですよね。

この二人、実は中臣鎌足の子供ではないとの話が語られています。
真人は孝徳天皇の落胤であり、不比等は天智天皇の落胤であるととの伝説です。
孝徳天皇は、子供が男の子であれば、臣の子とし、女の子なら朕の子とすると云ったといわれます。
孝徳天皇は、後継ぎとしての子供は有間皇子しかいなく、男の子を手放すというのもおかしな話です。
また孝徳天皇の落胤であればなおさら、僧にして唐に送るというのもおかしい話です。
つまり、すべて作り話です。

後の藤原鎌足である中臣鎌足は中臣鎌足ではないということです。
中臣鎌足と、渡来人である後の藤原鎌足は別人である。

この定恵は、本来の孝徳大王の側近である中臣鎌足の子供ですが、不比等はもちろん百済からの渡来人
である翹岐の子供である。このふたりは、もちろん本当の兄弟ではありません。

遣唐使とともに唐へ渡った中臣真人こそ、本当の中臣鎌足の子供なのです。
孝徳大王時代に内大臣だったのは、後の藤原鎌足ではなく本来の中臣氏、中臣鎌足である。
孝徳大王と対立していたわけですから、藤原鎌足が孝徳政権の内大臣であるはずがない。

孝徳政権下で内大臣だった、本来の中臣鎌足の子供である中臣真人は、唐との交渉を行った外交使節である。
もちろん、僧ではなく、名前の定恵も年齢も改竄されている。本来は天智、藤原と対立していた孝徳大王側、
本当の中臣鎌足の子供である。

中臣真人は孝徳政権下の唐との外交使節であるすると、その行動は推測できます。
唐が朝鮮の内乱に加入しようとしていた時期です。
この時代は頻繁に遣唐使が行われています。
中臣真人は僧となり、653年の遣唐使で唐に渡り、665年に帰国したとされますがそうではない。
外交使節なら滞在せずに何度か往復しているはずです。
最終的には、659年の遣唐使で唐に渡り、660年の百済滅亡の翌年661年の帰国の便で帰っているはずです。
661年の4月に帰国し、百済復興を模索していた渡来人である天智や翹岐(藤原鎌足)に暗殺されている。
帰国後に暗殺をしたのは、孝徳政権と対立し朝鮮出兵を画策していた天智や鎌足である。

この暗殺した時が孝徳大王暗殺の時でもある。百済滅亡後、倭国内で百済渡来人が百済復興の兵をあげたのです。
661年から662年まで、王家と百済渡来人の争いが起きている。

それは、孝徳政権は唐との同盟を結ぼうとしていたからです。唐、倭国、新羅の三国同盟です。
ですので倭国内では百済渡来人との争いが勃発したのです。
この時代は、朝鮮半島の戦乱と、唐という巨大な統一王国がこの戦乱に関わろうとしていたことが
大きな影響を受けることになります。
唐は朝鮮半島を支配下におくために、この朝鮮半島の動乱に介入することになります。
まず、戦乱下にある、新羅と手を組み難敵であった高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一させたのちに
新羅を滅ぼし支配下にしようとしていました。

唐も日本が朝鮮の内乱に加担、特に百済側に加担することを恐れ、何度か使節を送っています。
もともと百済とは友好的な関係でしたが、唐が新羅に加担することになり孝徳政権としては、
百済側に付くことができなかったのです。
というか、・・・この時代の国力の差を考えると、唐を敵に回すという選択をするはずがありません。

つまり、この孝徳政権は百済と同盟関係を結ぶことに関しては反対の立場であったので、
百済渡来人とは対立していたのです。

中臣真人は、この唐との交渉のために唐に赴いていた孝徳政権の内大臣だった、本来の中臣鎌足の子供である。

帰国後に暗殺をしたのは、孝徳政権と対立し朝鮮出兵を画策していた百済からの渡来人である天智や鎌足である。
この暗殺した時期が、まさに倭国が百済討伐に出兵しようとしていた時期であり、王家と百済渡来人との
戦の時期であり、孝徳大王暗殺の時である。そして有間皇子も暗殺されたのはこの時である。

それは657年に新羅の使節である金春秋(後の武烈王)が来倭し、孝徳政権はこの新羅と同盟関係を
結んだのではなかろうか?
さらに、この翌年には新羅と唐が同盟を結んだことが影響している。
そう同盟関係を結んだのは大王である孝徳である。孝徳天皇崩御年は654年ではない。
そして百済と同盟関係になんてない。

日本(倭国)は唐、新羅と三国同盟を結んだのである。ですので、朝鮮出兵は百済救援のための出兵ではない。
百済討伐の軍である。
この事実と孝徳大王の暗殺である大逆罪を隠している。

それは、孝徳政権は唐との同盟により百済討伐の兵を派遣しようとしていたからである。
百済救援ではなく、百済滅亡後、百済で起こった鬼室福信による反乱を抑えるための出兵である。

660年、百済は滅びたとされますが、唐、新羅による三国統一はまでできていません。
そう高句麗との戦いがまでのこっていました。
661年、新羅は唐とともに高句麗遠征をします。金春秋も戦いに参加しましたが病に倒れることになりました。

百済滅亡後も、百済王族の鬼室福信の反乱軍による抵抗が続いていました。
本来は、百済はいまだ滅亡とは言える状態にはありませんでした。
この時(661年)、倭国は唐、新羅と連携し、この百済の反乱軍を抑えるため朝鮮に向かおうとしていたのです。
唐、新羅は高句麗と戦い、倭国は百済と戦おうとしていたのです。

倭国(日本)は百済と手を結ぼうとしていたのではない。孝徳政権は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。

661年一月、斉明天皇が百済出兵のために築紫に出征し朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えたとされる
この出兵は、本来は孝徳政権による百済討伐軍である。百済復興のための救援軍ではない。

ですので、倭国内で百済討伐のための朝鮮出兵を阻止しようとして、百済や高句麗からの渡来人による
反乱が起きたのです。
百済討伐のため軍を九州に送ったため、畿内の都が手薄となり、百済渡来人よるクーデターがおきたのです。
これが王家と渡来人の争いである。

万葉集 巻一の八
熟田津に船ふな乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

有名な額田王の歌です。朝鮮出兵の様子を詠ったものともいわれます。
女性が出兵するはずもないので、おそらく額田王の歌ではないと思うのですが?
斉明天皇も九州の朝倉宮で崩じたとされますがそうではなく暗殺された。

この時、661年に、孝徳大王、斉明天皇そして王子である有間皇子、建王子は翌年の662年に暗殺されたのです。
この事実、大逆罪を隠蔽している。側近の唐との外交使節だった中臣真人が暗殺されたのもこの年です。
孝徳の側近たちもこの時暗殺されている。

ウイッキベディア・・・
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、
皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、
皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、
翌年病気になって崩御した。
     *************************
孝徳天皇は何故に奈良盆地内に宮を造らずに難波の地に宮を造営したのでしょうか?
これは孝徳大王と対立していた天智側の主張です。孝徳は、天智に殺されたのです。
理由は山背大兄王一族の暗殺事件、乙巳の変と同様です。有間皇子の事件もそうです。
出兵に反対だった人物を暗殺し、この後天智は朝鮮に出兵しています。
百済からの渡来人である秦氏に関係する天智、そして百済からの渡来人である、中臣鎌足は朝鮮出兵を画策し
執拗に暗殺を繰り返します。孝徳大王との不和ももちろんそうです。彼らを暗殺してから、朝鮮に出兵しています。

孝徳大王は654年に崩御したとされますが、そうではない。654年に亡くなったのは、孝徳大王の皇后である
遠智娘、遠智天皇です。遠智娘は天智の后ではなく孝徳大王の皇后です。
子供の建皇子や大田皇女そして鸕野讃良皇女こと持統天皇もまた孝徳大王の子供たちです。
妹とされる姪娘もまた孝徳大王に嫁ぎ、子供の御名部皇女と阿閇皇女(元明天皇)も
また本来の王家の大王である、孝徳大王の子供たちです・・・ここはいずれ書きます。

661年、百済出兵のための軍を九州に送り出したため、都では百済渡来人によるクーデターがおきたのです。
クーデターは成功し、倭国内で百済政権を樹立することになり、百済討伐軍が百済援軍となったのです。
このクーデター後、百済王子とされる豊璋は5000の兵と共に百済に赴き百済軍に合流し百済王になっととされます。

百済救援のための朝鮮出兵に反対する多くに人物を暗殺してきた中心人物は天智や藤原鎌足です。
百済救援軍を送り出すことに成功しましたが、最終的には663年の白村江の戦いで大敗をし、
結局は百済再興はなりませんでした。

この百済復興のための戦いである白村江の戦いには、多くの渡来人が参戦しただろうと考えられ、
倭国内の渡来人勢力は弱体化しました。

この機会をとらえ、王家、天武は戦いを挑んだのです。これが壬申の乱です。
戦場は渡来人が多く居住していた近江です。多くの豪族は天武に味方しました。

壬申の乱は、皇位継承をめぐっての争いではない。
王家対百済渡来人(高句麗からの亡命渡来人も含まれていた)との争いです。



大化の改新なんてなかったといわれます。この元号の「大化」もなかったのでは?
日本初(本当は初ではない)とされる孝徳の元号は、大化ではなく「大和」ではないのかな?
国名を「大和」にし年号も大和だったんじゃないのか?

この「大化」は最初の元号とされますがそうではない。法隆寺の釈迦三尊光背銘にある、押坂彦人大兄皇子が
大王に即位した(摂政になったとされる)593年から624年までの「法興」が最初の元号である。


ウイッキベディア・・・高向 玄理
大化元年(645年)の大化の改新後、旻とともに新政府の国博士に任じられる。
大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、
新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って
帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった
     ************************
百済を助けるための朝鮮出兵に反対していた、蘇我氏を暗殺したのが、百済渡来人たちによるクーデター、
これが乙巳の変です。

大化元年(645年)、高句麗・百済・新羅の使者が朝貢しました。しかし任那の調を代行した百済の使者に対し、
調の不足を叱責したとされます。

この時です。乙巳の変が起こったのは。この変は蘇我氏の専横が理由とされますが、そうではない。
この時の王家、孝徳政権や蘇我氏は、親新羅であったのです。孝徳が大王に即位したのは644年である。

そして孝徳大王は、この乙巳の変の後、新羅に使いをしています。これは、倭国内の百済渡来人による
勢力に危機感を感じ、同盟関係を結んだともいえます。新羅もまた百済、高句麗との戦乱の中にいて、
唐との協力はえられていませんでした。
ですので、新羅の金春秋、後の武烈王が人質として日本に留まるということはありません。
金春秋の目的は、もちろん倭国を味方につけるためです。

それは新羅派である蘇我氏暗殺によるクーデターが起こったためです。
これは倭国側、つまり孝徳大王の要請による来倭ともいえます。この時に新羅とは軍事同盟が締結されたのです。
ですので、この647年に新羅の年号は、倭国の年号のである「大和」を使用したのです。
孝徳大王の年号は「大化」ではなく「大和」です。大化の改新というのは嘘話です。

金春秋は倭国と同名を結ぶことに成功し、翌年には、まさかの唐との軍事同盟を結ぶことに成功します。
唐は新羅を冊封国として支援することになります。ですので同様にこの時に唐の年号を使用し始めます。
つまり唐、倭国、新羅の三国同盟が締結されていたのです。

新羅と結んだことにより、倭国内の戦乱は激化したともいえます。
王家、新羅、蘇我氏対百済系渡来人(天智系天皇、藤原氏)の対立です。

ウイッキペディア・・・巨勢 徳多
斉明天皇4年(658年)1月13日左大臣在任中に病没した。冠位が大繍であったことが子孫の薨伝で知られる。
『公卿補任』では没年齢を66歳としているが、大化5年(649年)時には50歳としており、矛盾している
   ***********************
この巨勢 徳多 は孝徳の側近なので、死亡した年齢の矛盾点から改竄した箇所を推測してみます。
この巨勢 徳多も王家と百済渡来人の争いの中亡くなっている。

大化の改新・・・この「大化」は日本最初の元号であとされますが、そうではない。
大化なんて年号はありませんでした。
最初の元号でもないし、「大化」ではなく「大和」だったのではないのか?孝徳大王の元号は
この「大和」である。国名を大和にし、年号も大和にしている。

この大化は645年から650年とされますがこれもそうではない。もう何度も云いますが斉明(皇極)天皇は
天皇であるのですが、本来の王である大王ではない。つまり、もとの日本書紀には、皇極・斉明条なんてありませんでした。

押坂彦人大兄皇子ー茅渟王ー山代大王ー孝徳大王

皇極天皇が即位したという、642年です。本来は孝徳天皇が即位した年、644年が大和元年です。
これは押坂彦人大兄皇子の王子であり大王に即位していた、山代大王が暗殺された翌年です。
聖徳太子の王子である山背大兄王一族の暗殺事件の翌年である。

ですが、この年齢の矛盾に関しては、皇極元年から数えている。元年が642年なら5年というのは、
この646年である。この年50歳であるなら、没年66歳というのは、662年のことになります。

そして、日本書紀においては、この巨勢 徳多が亡くなるという記事は、斉明天皇条4年正月にあり、
5月には建王が八歳でなくなり、そのあとに有間皇子の事件が続きます。亡くなったのは同じ年、
斉明4年のことであるとされます。それはこの時に王家と渡来人による戦いが起きたからである。

つまり巨勢 徳多の没年が662年であるのなら、建王、有間皇子の没年も同年である662年である。
渡来人と王家との戦乱の期間である。
百済討伐のため軍を九州に集めたため都で百済渡来人によるクーデターがおきたのです。

有間皇子暗殺事件は、662年である。これは百済渡来人と王家とが争っていた時期である。
有間皇子の謀反というのは、あくまで天智側の主張である。本来は孝徳天皇の後、正統な大王に
即位すべき第一王子である。
王家と天智、藤原との対立であり、これもまた、陰謀である。

つまりこの時に、孝徳大王も殺されたのではないのか?あるいは有間皇子は大王に即位していたかです。
この巨勢徳多は孝徳政権で左大臣だった側近である。

有間皇子は、都から離れ、阿部氏とかかわりがあった紀南の豪族である塩屋鯯魚の地に避難したのです。
紀伊国日高郡の塩屋がこの塩屋鯯魚の拠点であり、有間皇子はここで暗殺されたのです。
そして建王もこの地で殺されている。

この建王は天智の皇子であり、持統天皇の同母弟とされますが、そうではない。持統もそうなのですが、
天智の子供たちではなく、孝徳大王の子供たちである。有間皇子も建王も次の大王である。

ウイッキペディア・・・金春秋
648年、唐に派遣された金春秋は太宗の厚遇を受け、「特進」(正二品 )の地位を与えられ、
新羅の支援を得ることに成功する。(唐・新羅の同盟)翌年、金春秋は息子の金文王を唐に残して帰国し、
唐の恭順を示すため、高宗の永黴元年(650年)からは、新羅独自の年号を廃止し、唐の元号を使用するようにした。
   *************************
唐の年号を使用したことと同じことが、 金春秋が来倭した時にも言える。
それは、唐の年号を使用する以前の新羅の年号が「大和」であるのです。647年、金春秋が来倭し、
倭国と同盟を結んだ時に倭国の使用していた元号である「大和」を使用したのではないのだろうか?
新羅は真徳女王の年号を「大和」に変更していたのではないのか?

唐との同盟関係が成立する以前、百済の攻撃により新羅は窮地に陥っていました。
まず最初に高句麗に協力を求めますがうまくいかず、その後倭国に協力を求めます。
金春秋が倭国に来倭したのは唐の協力を得る以前、647年であり、立場的には倭国にお願いし助けて
もらう立場であり、恭順を示すためにかどうかはわかりませんが同盟の証に年号を倭国の使用する「大和」に
変更したのではないのか?
つまり、後に唐の元号を使用するようになったのと同じ理由で、倭国の年号「大和」を使用するようになったの
ではないのか?644年が大和元年であり、そしてこの年号を国名にもしたのではないのか?

これ逆で新羅の使用していた「大和」を倭国の国名にしたともいわれますが、この時の倭国と、
新羅の立場的なことを考えると、そうではないように思う。

この対立していた孝徳天皇の年号である「大和」を「大化」に変更している。大化の改新なんてありません。
大化という年号も木簡などの資料からも確認できていません。

逆に木簡などの資料からは、大化の改新なんんてなかったとの指摘がされています。
「白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎」のところで書きましたが、・・・
天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
そして、日本書紀に記述されている大化の改新は、およそ60年後に完成した大宝律令と
一致する文が存在するのです。
どうしてこんなことをしたかというと、この時大王だったのが長屋王だからです。
つまり、大宝律令は長屋大王が作った律令だということになります。大化の改新ではなく、
本来は、長屋大王や忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。
その功績を天智天皇の功績として取り込んでいる。それは、桓武天皇は天智系天皇だからです。
日本書紀は編纂後に改竄された偽書である。















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長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎

2018年11月19日 | 日本書紀の謎


桓武天皇は、平城京を離れ、784年に長岡京を造営し始めます、しかしわずか10年足らずの794年には平安京に遷都したとされます。しかし遷都なんてしていません。これは聖武天皇と同様に、この桓武天皇も秦氏、藤原氏が関係する秦氏の王であるのです。

「聖武天皇の謎」のところで書きましたが、同様に桓武天皇は天皇であり、遷都したというのは秦氏、藤原氏の主張に他ならない。桓武天皇は王ではない。その王ではない人物の都は本来の都ではない。
平城京(奈良京)には本来の正統な大王がいました。

この桓武天皇の時代には多くの怨霊が発生しました。系譜の改竄箇所を怨霊による祟りのという側面から考えてみます(^o^)丿

怨霊というとまず思い浮かぶのは、今は天神さんとして祀られている菅原道真ですよね。
この道真と対立していたのも藤原氏です。それは道真の母親が藤原氏と長年対立してきた大伴氏、伴真成の娘だからです。
桓武天皇の時代の多くの怨霊もまた、藤原氏の対抗勢力の人物たちである。この時代は藤原氏の間でも権力争いがあったようですが、怨霊の多くは王家に関わる人物である。

古代の歴史は何度か変更されている。蘇我氏や藤原氏は自らを王家に繫ぐ改竄をしている。
そして天智系天皇もまた系譜を改竄する必要がありました。それは天智は渡来人と関係し本来の王ではないからです。これら系譜の改竄とは、天智天皇を王家に繫ぐ改竄であり、王家の人物を天智の系譜に取り込む改竄である。

この天智系天皇とは桓武天皇である。天武系天皇が断裂し天智系天皇に移りました。
これが事実なら大問題である。桓武天皇は、お母さんが渡来人ということで問題視されることがありますが、天智天皇から繋がる父系に関しても問題がある。
本来の大王家である天武の後胤を暗殺し、大王家を滅ぼしたのは渡来人である天智と藤原である(~_~メ)凸

天武系天皇と天智系天皇の争いにより、天智系天皇が勝利したということになっていますが、そうではないように思います。
王家とは天武から繋がる天武系以外はありません。そして天武と天智は兄弟ではありません。天智と天武を兄弟にしたのは天智系天皇である桓武天皇です。天智を天武に繋げて自らの即位の正統性を述べる必要があったのです。

つまり天智系天皇なんて本当は存在しません。それは、天智が天皇に即位していたとされるのは、この桓武天皇による改竄だからです。
桓武天皇は自らの即位を正当化するため、歴史を変える必要があり新たに歴史書を作成しました。
この歴史書というのが「日本書紀」や「続日本紀」です。王家の系譜に秦氏、藤原の王を組み入れたのです。

この桓武天皇の大きな問題は、百済からの渡来人である秦氏と関係する天智系の人物であり、お母さんは百済からの渡来人である、高野 新笠ということは、古代の王家とは非常に繋がりが薄く、百済渡来人と深くつながる秦氏、藤原氏の王である。本来は王に即位できる身分ではなかったのです。

天智天皇が定めたとされる「不改常典」は、天智が作ったものではなく、この桓武天皇により作られ、続日本記に記述されたものである。これ、天智が定めたという記述がなされているのは、つまり天智の皇統の方が正統だと主張しているような法です。

桓武天皇が、この「不改常典」を作らなければならない理由は、天智は天皇ではなかったからです。天智が天皇に即位していなければ、この桓武は全く王になれる人物ではないのです。天智は天皇に即位していたとし、桓武は自身の皇位継承が正統なものだとする必要があったのです。


聖武天皇と同様に、この桓武天皇もまた秦氏、藤原氏側の王である。つまり、本来の大王は他にいる。
平安京は権力を握った藤原の都である。
「聖武天皇の謎」において述べてきましたが、聖武天皇が恭仁京や紫香楽宮に遷都したということと同様に、平安京の方が本来の都であるというのは藤原の主張に他ならない。この時代、奈良の都も存在していました。そして本来の大王もいました。しかし権力を握っていたのは王家ではなく秦氏、藤原氏であるのです。

桓武天皇の都である平安京は、三方を山に囲まれ四神相応の地とされますが、もとは秦氏が関わる土地である。
これはもちろん、天智天皇はこの秦氏と関わるからです。そして藤原氏もまた秦氏と関わります。ですので天智系天皇である桓武天皇は、本来の王家の都である奈良の都を離れ秦氏の支配地に移ったのです。大きな権力を持つ藤原の王は、平安京に遷都したのです。そしてこの平安京の方が本来の都であると改竄したのです。没落した本来の王家より、秦氏の王の方が優位に立ったわけです。


あまり言いたくはないところであるので詳しくは書いてきませんでしたが、朝鮮半島では新羅が統一し、百済復興はならなかったのですが、日本において百済の関係する王が誕生したということです。つまり平安京は日本における百済国であり、秦氏の都である。
これは、この桓武天皇の妃たちを見ればわかります。百済に関係する藤原氏の女性たちや、百済王の娘など多くの渡来人関係の女性で占められています。

そして、平安京側の天智天皇の大津京もまた百済国でした。もちろん大津に都を移していたというのも、この桓武天皇による改竄です。天智天皇は王ではありません。つまり大津京なんて存在しません。秦氏の支配地に移っただけです。
これはもちろん、白村江の戦いに敗れ奈良の都にいることが出来なくなったからです。天智は天皇であり、大津に遷都したというのはこの桓武天皇による改竄です。
大津京もまた渡来人である秦氏の都でもあり、近江地方は藤原氏が関係する土地である。

日本書紀にも記述があるように、朝鮮半島が戦乱の時期、特に百済滅亡時に多くの亡命渡来人が移り住んだのがこの近江地方です。そしてこの亡命渡来人が、百済復興の協力を求めたのが、すでに倭国内で地盤を築き、大きな勢力となっていた、もとは百済からの渡来人である秦氏です。天智天皇はこの秦氏の王子です。

壬申の乱のおいて、本来の王家、天武系の大王たちが王座を得ていました。この壬申の乱とは、大王家と百済渡来人の争いです。
しかし残念ながら最終的には、王座は渡来人である天智系天皇の手に落ちました。
最後に歴史を改竄したのは、この桓武天皇である。それは天智は天皇でく本来の王ではなかったからです。天智系天皇である桓武天皇は百済からの渡来人である秦氏の王である。


今回は天智系天皇である桓武天皇に繋がる、そして桓武天皇から繋がる系譜の改竄箇所を考えてみます。
秦氏の王である桓武天皇は、自身の即位の正統性を主張するため、天智を天皇に即位していたとする必要があったのです。そして本来の王家と繫げるため天智と天武を兄弟にしたのです。桓武天皇は本来の王ではない。王家の系譜を利用して桓武自信を系譜の中に組み入れている。


桓武天皇の時代には多くの怨霊が発生しました。系譜の改竄箇所を怨霊による祟りのという側面から考えてみます。

ウイッキペディア、御霊信仰・・・
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。
怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。
こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。最初の御霊会で、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣) の六人が祭られた。
後に、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、火雷天神(下御霊神社では6つの霊の荒魂であると解釈している

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ここにある井上内親王、他戸親王、早良親王、伊予親王、藤原大夫人 、橘大夫は桓武天皇に関係する怨霊であり、藤原氏の対抗勢力だった人物たちです。しかしこの怨霊の中に藤原氏の人物がふくまれるのが桓武に関する謎を解く鍵になるように思います。
藤原氏間でも権力争いが起きたのです。

まず秦氏の王である桓武天皇の後胤が後につながるということについての改竄について・・・本来の大王たちを秦氏、藤原の王である桓武の子供たちだとしている。桓武天皇の系譜入れている、・・・というか桓武天皇を王家の系譜に組み入れている。

藤原氏や渡来人が多く関わる桓武天皇の后たち、なんかおかしいように思います。本来の大王の后を、桓武天皇の后として改竄している。藤原乙牟漏、酒人内親王、藤原旅子 、藤原吉子の系譜に関して・・・。


桓武天皇の皇后について・・・
桓武の后のひとりの酒人内親王に関してですが、お父さんの光仁天皇と皇后である井上内親王の娘であるこの酒人内親王は、桓武天皇とは異母兄妹ということになります。すると、本来は、天皇と皇后の娘であり王家の女性ということで、桓武の后の中では最も位が高く桓武天皇の皇后になるはずですよね?

ところが何故か藤原の娘、藤原乙牟漏が桓武の皇后になっています。この藤原乙牟漏は、お父さんは藤原式家の藤原良継であり、お母さんは阿倍粳蟲の娘の阿倍古美奈とされます。すると王家の娘ではなく、彼女が皇后になるのは本来はおかしいですよね。

これは、乙牟漏の子供たちが天皇に即位したからともいえますが、長男の安殿親王(平城天皇)が立太子される以前から皇后になっているのでやはりおかしい。この藤原乙牟漏に関しても問題ある。藤原宮子や光明子と同様に、藤原氏の力により本来は皇后になれない藤原の娘が皇后になっているともいうのでしょうか?本当に、後に続く天皇は、藤原の娘の子供達なのだろうか?

この奇妙な名を持つ乙牟漏の祖父の阿倍粳蟲は(本当はぬかむしなんて名じゃなかったと思います)、阿部氏、阿倍広庭かその子の阿倍嶋麻呂の子供ではないのかとされます。その娘が乙牟漏の母の阿倍古美奈です。

桓武の皇后である藤原乙牟漏は、藤原式家の藤原良継の娘であることからも判断できますが、この式家が藤原氏の中でも優位な立場にいて王家と関わっていました。そして式家の藤原種継のお母さんは秦氏の娘なのです。

これが真実なら藤原乙牟漏は、嵯峨天皇のお母さんであるのですが、平城天皇は、この藤原乙牟漏と桓武天皇の子供ではない。桓武天皇を王家の系譜に入れるための改変である。

もう、これまでに何度も記述してきましたが、阿倍広庭は孝徳大王の時に右大臣だった阿倍御主人の子です。阿部氏は藤原氏のライバルであり、娘が対立していた藤原氏に嫁ぐのはおかしい。お母さんは阿部氏の娘なのに、本当にに藤原氏の娘である藤原乙牟漏なのだろうか?藤原氏はこの阿部氏が関係する王もまたを消し去っている。それは長屋親王が阿部氏の関わる大王だからです。

つまり、この藤原乙牟漏のお母さんは、阿倍氏の女性である阿倍古美奈ではない。この平城天皇のお母さんである阿部の女性の名が消されている。あるいは、藤原乙牟漏は阿部乙牟漏だとすると、 阿倍古美奈は藤原良継の妻ではなく、この阿倍古美奈の夫の名が消されている。こちらの方が真実であるかな?藤原乙牟漏は、本来は阿部氏の関わる阿部乙牟漏である。

藤原乙牟漏であるなら桓武の后であり、皇子は嵯峨天皇である。阿部乙牟漏だとすると、皇子は平城天皇であるのですが、桓武の后ではない。これは平城天皇の王子である阿保親王の名からも推測できます。キトラ古墳のある阿部氏の領土ともいえる阿部山は元は阿保山だったといわれます。

万葉集 巻十 1867
阿保山の 桜の花は 今日もかも 散り乱ふらむ 見る人なしに
                          作者未詳
この万葉集にある、阿保山は通説では、奈良市法蓮東垣内町にある不退寺近くの丘陵なのではとされます。ですが、ここは阿保山なんて呼ばれていたということはないようです。おそらく間違っているように思うのですが?万葉集にある阿保山は、いまの阿部山のことであり、阿保親王の名の阿保はこの地名由来である・・・かな?


本来の大王である平城天皇は 、阿部氏の関わる王であり、桓武天皇は秦氏、藤原氏の王である。桓武天皇を王家の系譜に組み入れたため、王家の人物が桓武の後胤となっている。藤原の王である桓武天皇と藤原氏の後胤が後に繋がるとして系譜を改変している。この平城天皇と、淳和天皇のお父さんは誰なのかということに関しても消されている。

この消された本来の王家の大王とは誰なのか推測してみます。

そして、桓武天皇の夫人とされる二人の藤原の娘たち、藤原旅子と藤原吉子に関してもおかしい?藤原旅子のお母さんもまた、藤原氏、藤原百川の娘とされますがそうではないのでは?

この藤原旅子の系譜の改竄については、容易に推測できます。それは、息子であり、天皇に即位したとされる淳和天皇の諱が大伴だからです。つまり大伴氏が関係する名である。藤原旅子は大伴旅子であるはずです。系譜を改変しているのですが、名前を変更していない。

この大伴氏こそ藤原と対立していた古くから王家と関わる名門氏族である。

これも名前からの推測になります、・・・でも単純な推測ではない。
大伴旅人の息子であり、万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持の娘が旅子であると思うのですが・・・?
そうでないと、息子の名が「大伴」だという説明がつかない。藤原の娘の子供が対立する大伴氏の名を付けるとは考えられない。
この大伴家持は、橘奈良麻呂の乱や氷上川継の乱へに関与した反藤原の人物である。大伴氏の娘だとすると、この大伴家持の娘としか考えられない。

この大伴家持は、後に起きる藤原種継暗殺事件において、既に亡くなっていたにも拘らず、本来の首謀者とされ官位を剥奪されています。それは、この大伴旅子は大伴家持の娘であり、早良親王の后であるからでもあります。この早良親王は大王に即位していました。消された大王とはこの早良大王である。この藤原種継暗殺事件とは、藤原氏と対立する大伴氏など反藤原の豪族との争いに王家、早良大王を巻き込む事件である。藤原旅子は大伴旅子であり、早良大王の后である。そしてこの事件は大伴家持を暗殺したために起きた事件でもある。

阿部氏と大伴氏の娘たちは対立する藤原の王である桓武天皇の后であるはずはない。桓武天皇の皇子たちとされる、後の平城天皇、そして淳和天皇は桓武天皇の子供たちではない。それはこの平城天皇、淳和天皇の後胤が後に続かないことからも推測できる。藤原の王である桓武天皇を、王家の系譜に組み入れるため、そして後の天皇を桓武の後胤とするための改変である。

さらに、藤原是公の娘とされる藤原吉子に関しても、息子の伊予親王とともに謀反の疑いをかけられ殺されていて怨霊となっています。伊予親王の子供たちもまた流罪となっています。藤原の王であるといえる桓武天皇が藤原の娘、そして自分の子供を殺すはずはない。藤原吉子も藤原ではなく、桓武の后ではない。

これも今までと同様に、藤原氏の対抗勢力である王家の人物なのでは?
彼らもまた怨霊となり上御霊神社や下御霊神社などに祀られ、この藤原吉子は藤原大夫人と尊称されるとされます。

この尊称はもちろん後に付けられたものであり、本当に、藤原の女性なのだろうか?この上御霊神社や下御霊神社など祀られていいる人々は、藤原氏に対抗して殺された人物ばかりである。その中に藤原の女性がいるのは奇妙に感じるのですが・・・?

桓武の后とされる、藤原旅子そして藤原吉子は藤原の娘ではなく、王家の女性である。しかも桓武の后ではない。皇后とされる藤原乙牟漏も阿部氏の娘、阿部乙牟漏であり早良大王の皇后である。藤原吉子に関しては、改竄の一番わかりやすい箇所です。殺害した王家の人物を自らの系譜に取り込んでいる。
怨霊となっているのは藤原氏と対立して殺された人物である。

酒人内親王も、同様に光仁天皇の娘ではなく、桓武の后ではない。酒人内親王は、お母さんの井上内親王や弟の他戸親王を殺したともいえる桓武天皇に嫁いでいるとされるのはおかしい。そして酒人内親王や、藤原旅子そして藤原吉子は藤原の娘でなく桓武の后でもない。

彼女たち、阿部乙牟漏、大伴旅子、藤原?吉子、酒人内親もまた本来の王家の后たち、怨霊と恐れられた早良大王の后だったのでは?王家の系譜の中に桓武天皇を組み入れている。





この桓武天皇の即位に関する謎、そして上御霊神社や下御霊神社などで御霊 として祀られている人々について・・・

781年に即位した桓武天皇は、3年後に長岡京に遷都したとされます。その10年後の794年に平安京に遷都しました。

どうして、桓武天皇は平城京を離れ、長岡京や平安京に都を移したのでしょうか?これは聖武天皇の不思議な遷都と同様です。平安京に都を移したというのは藤原氏の主張に他ならない。都は平城京のままであり、平城京には本来の王がいたのです。

天武天皇ー刑部親王ー山前王ー葦原王
天武天皇ー新田部親王ー塩焼王ー川継

この天武から繋がる、葦原王、氷上川継二人の人物が本来の王位継承者である。
氷上川継の乱
平城京には藤原氏と対立する本来の大王候補がいたのです。天武天皇の曾孫のである葦原王、やこの氷上川継である。
これまで同様に謀反の疑いをかけられ流罪となっています。氷上川継の乱とされます。

この氷上川継のお父さんは氷上塩焼王であり、お母さんの不破内親王は、聖武天皇と県犬養広刀自とされますが、そうではなくこの県犬養広刀自は阿部広刀自である。藤原氏と対立する阿部氏の女性であり、井上内親王の同母の妹になります。そして、阿部広刀自は聖武天皇の后ではなく鈴鹿王の妃であるのでは?


これまで何度も書いてきましたが、桓武天皇は本来の王家の人物ではない天智天皇の後胤であり、お母さんが渡来人であるということは、あたりまえだけど本来は王には即位できるはずもない身分です。

ところが、桓武天皇が即位に至るまでの経緯において、実に桓武に都合のよい事件が起きています。それが、光仁天皇の皇后である井上内親王による呪詛事件と早良親王が関係したとされる藤原種継暗殺事件です。

これらの事件については、もちろん桓武天皇、藤原側の主張であるわけです。

桓武天皇のお父さんである、白壁王こと光仁天皇は天智系天皇です。この光仁天皇の時に、天武系天皇から天智系天皇に王座は戻ったとされますが、そうではない。この光仁天皇は、本当に天皇に即位していたのでしょうか?天智は天皇に即位していた、そして王家の人物であるというのは桓武天皇による後の改竄です。天智天皇は秦氏の王子です。

お父さんの白壁王が天皇に即位していたということに関しても同様、天智系天皇である桓武による改竄です。つまり、桓武天皇は最初の天智系天皇である。桓武天皇は天皇に即位する正統性を述べるためには、天智が天皇に即位している必要があったのです。お父さんの光仁天皇も同様です。

桓武天皇以前の天智系天皇は、本来の王ではない。天智に繫ぐ系譜の改竄が桓武天皇によってなされている。

つまり、天智天皇以降、桓武天皇までの天智系天皇とされる天皇は、天智の後胤ではない。天智の血を大王家に入れる操作がなされている。

それでは、どのようにして天智の後胤として改竄したのでしょうか?それは天智の娘たちを王系に繫ぐ操作、そう天智の4人娘たちを本来の王家の王である天武の后にしたという不思議な話です。

本来の王家の人物を天智の後胤として改変している。最後に系譜を改竄したのは桓武天皇、藤原氏である。
この桓武天皇による系譜の改竄を推測してみます。

古事記、日本書紀は原本は存在しません。それは何度も書き換えているからです。今残っている日本書紀の写本はこの平安時代のものです。それは桓武天皇や藤原氏によって書き換えられたために以前のものとは内容が異なるためです。写本ではなく改竄本であるわけです。つまり偽書である。


山部親王(桓武天皇)が皇太子の座に就いたとされる、772年に起きた井上内親王の廃后と他戸親王廃太子という不思議な事件について・・・

光仁天皇の皇后は井上内親王とされます。本来はこの皇后の子である、他戸親王が、渡来人の母に持つ山部親王(桓武)より皇位継承においては上位です。しかし、夫である光仁天皇を何故か呪詛したとして皇后を廃され、子供の他戸親王もまた皇太子を廃され、山部親王が立太子されたということになっています。何の理由があって呪詛したかは不明です。別に呪詛なんかしなくても王位はこの他戸親王のはずですよね。

そして、この結果により本来は王に即位できないはずの渡来人の母に持つこの山部親王が天皇に即位したとされます。桓武天皇です。

桓武天皇にとっては全く都合の良い事件ばかりであり、不思議な話ですよね。こんなの私には信じられません。

いままで何度も何度も述べてきましたが、殺した人物が王家の人物であるとできないので系譜の改竄をしている。
それは真実を書けば大王殺しの大逆罪となるからです。

殺された井上内親王は、光仁天皇の皇后ではない。他戸親王は本来の王家、つまり天武から繋がる王位継承者である。だから殺されてのです。そして、井上内親王と他戸親王は怨霊となりました。

それでは、この他戸親王は本当は誰の子供だったのでしょうか?本当の王は誰だったのでしょうか?難しい推測ですが、推測はできます。なぜなら藤原氏によって天武系の王たちは何人も殺されているからです。

それは本来の王家である天武の後胤を何人も殺してきているからです。ですので残っている王位継承者はそう多くはないのです。
天武ー高市ー刑部ー長屋王ー鈴鹿王
刑部ー山前ー葦原王
長屋王の王子たち膳夫王、桑田王、葛木王、 鉤取王。、安宿王、 黄文王など沢山の王家の人物を殺害しています。
ですので弟の鈴鹿王が大王に即位していました。

井上内親王は、天武の次男である刑部大王の後胤であり、葦原王の皇后だったのではないのか?

これも名前からも推測できます。
他戸親王は、(おさべしんのう)です。で、・・・「おさべ」ではなく「おさかべ」だったのではないのか?
この他戸親王は刑部神として祀られていたのではないのかという伝説もあります。

天武の王子である、刑部親王の後胤ではないのか?つまり、刑部大王の王子である山前王の子供の葦原王と井上内親王と子供が他戸親王だったのでは?

他戸親王の母さんである、井上内親王は聖武天皇と、県犬養広刀自との娘とされます。この系譜もまた改竄されているように思います。
この広刀自は、藤原氏が関わる県犬養の娘とされますがそうではない。広刀自は阿倍広庭の娘、阿部広刀自である。
そして阿部広刀自は、本来の大王である長屋王の弟である鈴鹿王の后であるのでは?鈴鹿王は、聖武天皇時本来の大王だった人物です。

鈴鹿大王と阿部広刀自の娘が井上内親王である。王家の女性が、天智の後胤の白壁王(光仁天皇)の皇后であるわけない。

井上内親王と不破内親王は、長屋親王の弟である鈴鹿王と阿部広刀自の娘たちであり、王家の女性たちである。そしてこの井上内親王は、刑部大王の後胤の葦原王の妃である。つまり、他戸親王は本来の王家の人物である。

この天武天皇の曾孫である葦原王もまた続日本記などでは悪く書かれている。
悪く書かれているのは、つまり藤原と対立していた人物である。

葦原王は761年に種子島に配流(おそらく暗殺されている)となったとされます。この年に他戸親王が生まれたとされます。これが実にあやしい。他戸親王の生年はこの761年とされますが、お母さんの井上内親王の45歳の時の子供となり不自然だとされます。
つまり、本来は他戸親王の生年は761年以前であるのですが、葦原王の王子であるとしたくないために、配流したとされる761年まで生年を伸ばしている。そのために、この時代ではありえないような井上内親王の高齢出産となっている。系譜の改変により年齢など矛盾する箇所がでてきている。


井上内親王は鈴鹿王と、阿倍広庭の娘である阿部広刀自との娘であり、葦原王の妃である。彼女もまた藤原氏と対立する阿部氏が関わる女性である、その子供である他戸親王は本来の王家の人物でありこの時代の王位継承において筆頭である。だから殺している。
「白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎」のところで書きましたが、天武の息子であり、高市大王の弟である刑部皇子もまた大王に即位している。

天武ー高市大王ー刑部大王ー長屋王ー鈴鹿王、阿部広刀自ー葦原王、井上内親王ー長男が早良親王、次男が他戸親王

この早良親王は、奈良の都で大王に即位していたのではないのか?
桓武天皇の時代の消された本来の大王とはこの早良大王である。

藤原種継暗殺事件・・・
早良親王は桓武天皇の同母弟になります。後に追称され崇道天皇とされます。しかし、皇位継承の事実がないために歴代の天皇には数えられていません。でもそうなのだろうか?本当に大王ではなかったのか?

怨霊として最も恐れられたということは、長屋王と同様にこの早良親王も大王だったのではないだろうか?身分的に高い人物、そして藤原氏の敵対勢力、つまり本来の王家(天武系天皇)の人物、大王だったのでは?

この藤原種継暗殺事件も実に不思議な事件です。何故に実の弟が桓武の反対勢力側にいたと思われたのでしょうか?藤原種継を暗殺する理由なんて何もない。今までと同様の捏造事件です。

藤原種継暗殺事件というのも、藤原氏とこれに対立する勢力、つまりこれまでと同様に藤原氏と王家との争いではないのか?そして複雑になっているのはこの藤原氏間での権力争いが加わったからです。藤原不比等の4人の息子達が興した藤原氏の四つの家、藤原南家、北家、式家、京家が後に権力闘争をおこします。これは王家の誰を担ぐかによって争いは起きました。藤原種継は式家の人物であり、この時代は式家が優位な立場にあったと推測できます。そして秦氏と関りがあるのがこの式家の藤原種継である。

しかし後に藤原氏間で権力闘争が起きました。それはこの式家の祖とされる藤原広嗣が怨霊とされていることかも推測できます。

早良親王というのは、桓武天皇の同母弟ではなく、本来の王家の人物であり、皇位継承の最上位にありました。平城京(奈良京)にいた本来の大王とはこの早良親王である。

権力を握っていた、式家の藤原種継はこの早良大王を、いまだ反藤原勢力が多く残る奈良の都から離して本拠地近くの長岡京において藤原の操る王とするつもりでした。それは本来の大王だったからです。しかしこれは、反藤原の豪族との争いに発展し失敗することになります。これが、藤原種継暗殺事件の真相です。
その後藤原氏は、天智の後胤であり、藤原良継の娘の藤原?乙牟漏の夫である桓武を王にしたのです。この藤原種継のお母さんは秦氏、秦朝元の娘であり、天智も秦氏に関係する人物である。

桓武天皇は、藤原と秦氏の力により王になった秦氏、藤原氏の王ともいえます。
長岡京を造ろうとしていたのは式家の藤原種継です。桓武を担ぎ長岡京、平安京に遷都したのはこの藤原種継が秦氏と関わるからです。
そして山背国は、秦氏が切り開いた支配地だったからです。

ですので、この早良親王もまた光仁天皇の子供ではなく、葦原王と井上内親王との子供である。長男が早良親王、次男が他戸親王である。桓武を王家の系譜に入れる操作をして、桓武の弟としているのです。早良親王も他戸親王も正統な大王候補の人物である。

葦原王と子供の早良親王も大王に即位していました。この早良大王の都はもとの平城京(奈良京)でした。しかし、藤原氏は当初この早良大王を藤原の王として藤原側に取り込もうとしていました。それが長岡京です。奈良の都から大王を移したため、反藤原の豪族との争いがおこったのです。


早良親王は、殺されたのちに怨霊として祟り、祟り神として御霊神社に祀られています。何故に祟るのでしょうか?何故に祟ったのは早良親王だと思われたのでしょうか?桓武天皇は何故に実の弟を恐れたのでしょうか?そうそれは無実の罪で殺したからです。こんなの怨霊だと思って恐れるのは、自らが犯人だって言っているようなものです。犯人は権力を握っていた秦氏、藤原氏である。

もちろん早良親王は実の弟なんかではありませんし、桓武天皇は藤原氏の力で天皇に即位した秦氏の王である。長らく藤原氏に協力していたのは、この地で基盤を築いていた秦氏である。今の天皇家は、この秦氏の王であるといえます。

この藤原氏が対立していたのは本来の王家であり、早良親王はこの王家の人物であり実際に奈良の都で大王に即位していました。

怨霊となっているのは、藤原氏に対抗してきた人物であり、桓武天皇の兄弟、そして藤原の娘の人物ではない。

桓武天皇は、平安京に遷都する前には長岡京に遷都していました。しかし、短期間で長岡京を離れ、平安京に
遷都しました。早良親王の怨霊により長岡京を離れたとされます。

早良親王は、藤原種継暗殺事件に関与していたとされますが事実かどうかは不明とされます。これまでの手口、つまり長屋王や有間皇子の暗殺と同じです。つまり反乱を起こそうとした悪者としての話に書き換えられている。
実際は逆であり、この早良親王が王であり、王家と藤原氏の争いです。反乱を起こそうとしたのは藤原氏の方です。虚偽の事実によって反乱の筋書きを捏造しているのです。

つまり早良親王は、本来は桓武天皇の実弟ではなく、藤原氏の対抗勢力であった王家の人物だったのでは?この早良親王もまた怨霊となり桓武天皇を苦しめたとされ、追称して崇道天皇としたとされます。それは本来の大王だったからです。

早良親王、他戸親王そして井上内親王もまた怨霊として恐れられ祀られています。怨霊だと思われていたということは、彼らを無実の罪で殺したのは私たちだと言ってているようなものです。そして怨霊となるには身分の高いものが不幸な死に方をした場合に怨霊となるわけです。

この時代は藤原間でも争いがありました。対立の構図は、桓武天皇以降は権力を握った藤原氏間の争いに王家を巻き込むことになります。平安京と平城京の対立である。藤原の都には桓武天皇、そして平城京(奈良京)にも本来の大王がいたのです。
桓武天皇以降もまた、この争いが続きます。

平城天皇と、嵯峨天皇の争いです。つまりこの二人は兄弟ではありません。そうすると大問題なのですが、・・・。嵯峨天皇は桓武天皇の子供であるのですが、平城天皇は王家の人物である。

これは、この桓武天皇の後の不思議な皇位継承に関するところからも推測できます。桓武天皇の3人の息子で天皇に即位したのは、長男の安殿親王(平城天皇)。次男の神野親王(嵯峨天皇)、三男は大伴親王(淳和天皇)です。

しかし、長男の平城天皇には、阿保親王や高岳親王など4人の皇太子がいます。本来はこの阿保親王や高岳親王が平城天皇の次の天皇候補なわけですが、何故か桓武天皇以降は兄弟相続になっています。
本来はこれはおかしいわけです。
嵯峨天皇の血統だけこの後に繋がっているという、不思議な話からも分かるように、桓武天皇の息子はこの神野親王(嵯峨天皇)だけであり、安殿親王(平城天皇)、大伴親王(淳和天皇)は桓武の息子ではないのかも?そう推測できるように思うのですが・・・?どうなのだろう?

安殿親王(平城天皇)と大伴親王(淳和天皇)は本来の大王、早良大王と阿部乙牟漏、大伴旅子との子供たちである。
それじゃー、藤原乙牟漏が阿部乙牟漏であるなら、この神野親王(嵯峨天皇)のお母さんは誰なのでしょうか?おそらく彼女こそ藤原の娘であるはずです。すると候補は一人しかいない。桓武の后でもう一人夫人とされる、藤原小屎ではないのだろうか?長男が嵯峨天皇こと、この安殿親王であり、二歳違いの次男が万多親王であるのでは?

それは、この藤原小屎は藤原北家の藤原鷲取の娘だからです。嵯峨天皇の即位後、藤原北家の藤原冬嗣が台頭しはじめることからも推測できます。藤原による王家乗っ取りを隠蔽している(~_~メ)凸

そするとこの後起こった戦乱についても容易に説明できる。藤原氏間の権力争い、それが、薬子の変です。これは天皇家内の皇位継承の問題ではなく、藤原と本来の王家との争いです。そして複雑なのはこれに藤原氏間の権力争いも絡んできているからです。

藤原種継の長男である、藤原 仲成や妹である薬子は藤原式家の人物です。この薬子の変 (平城太上天皇の変)以降、式家は没落し北家は隆盛を極めます。そして彼らは怨霊となります。そして式家の祖である藤原広嗣もまた怨霊となり祀られることになります。それはこの式家の祖とされる藤原広嗣が怨霊とされていることかも推測できます。
藤原氏間の権力争いでは、この北家が勝利し、その後この北家嫡流が藤原氏の氏長者となり、最高職とされる摂政関白職も藤原北家が独占します。嵯峨天皇の後胤が後に繋がるということになるのも、藤原北家が関係するからです。それはこの嵯峨天皇のお母さんは藤原北家の藤原鷲取の娘、藤原小屎だからです。

桓武天皇は秦氏の王です。その桓武天皇と藤原の娘の後胤が後に繋がるということは、今の天皇家は古代から繋がるとされる本来の王家とはほぼ繋がりがありません。書きたくはないところですが仕方ありません(ノД`)・゜・。



平城天皇は発病し譲位したとされます。皇太子には平城天皇の三男である高岳親王が立てられました。平城上皇は旧都である平城京へ移るることになり、二所朝廷といわれる対立が起こるったとされます。

しかしそうではない、もともと平城天皇は奈良の都にいました。この奈良の都こそ本来の都であり、平安京に都が移ったとされるのは藤原氏の主張に他ならない。

平城天皇、そして 淳和天皇は、本来の王家の人物であり、嵯峨天皇から繋がるのが藤原の王である。藤原と王家の戦いにより、この嵯峨天皇の系譜が後に繋がることになります。嵯峨天皇は、息子の正良親王(仁明天皇)ではなく、弟の大伴親王に王位を譲ったの云うのは、桓武の系統を王家の系譜に組み入れているからです。
嵯峨天皇、息子の仁明天皇、その息子の文徳天皇に繋がるのが桓武天皇系の藤原氏の天皇である。

早良親王と、大伴旅子との子供が大伴親王こと淳和天皇であり、本来は、この淳和天皇の息子の、恒貞親王が本来の正統な後継者である。しかし、この後起こった承和の変 により、恒貞親王は皇太子の座を廃されたとされます。この事件も藤原と王家との争いであり、これに藤原氏間の権力争いが加わり複雑になります。橘氏、橘 逸勢が怨霊となったのもこの事件です。もちろんこの承和の変というのも捏造事件である。

古代から王家と関わってきたこの大伴氏もまたは、この後起こった応天門の変で没落していきます。
これも藤原にとっての大きな対抗勢力だった大伴氏追い落としの陰謀である。

次回に続きます・・・今回は前回から続き藤原宮子と有間皇子に関することを書くつもりが、桓武天皇から書き始めたため、長文になってしまいました。



写真は、ならまち、奈良市西紀寺町にある、早良親王を祀っている崇道天皇社。すぐそばにある井上神社。そして、井上内親王と早良親王、他戸親王を祀る奈良県五條市霊安寺町にある、御霊神社です。この地名の「五條」もまた条坊制のおける五条とは関係がなく、「御霊」からの転訛であろうと推測されています。

この地で、井上内親王と他戸親王は幽閉され亡くなったとされます。
これはもちろん暗殺されということに他ならない。
この暗殺された地に、早良親王も共に祀られていることからも推測できますが、早良親王もまた井上内親王の子供であり大王に即位していました。もともとは、井上内親王と他戸親王が祀られていたのですが、後に早良親王が暗殺された時に共に祀られるようになったのです。
本殿に井上内親王、そして子供たち、南脇社殿に他戸親王 、北脇社殿に早良親王が祀られています。

早良親王は、光仁天皇の第二皇子で、生母は百済帰化人系の高野新笠とされます。つまり山部親王、後に即位したとされる桓武天皇の同母兄弟ということになります。しかしそうではなく、大王である早良親王を桓武の系譜に取り込み改竄している。

お父さんの、白壁王は、なんと六十二歳で皇位に就き光仁天皇となりました。しかし、これも真実ではありません。桓武天皇は、自らの皇位継承の正統性を述べるために、お父さんの白壁王を光仁天皇として即位したと変更したのです。本来は天皇に即位なんてしていません。お父さんの白壁王もそして桓武自身も、本来は秦氏の王です。

早良親王は、十一歳で出家し僧侶となる道に進みます。大安寺や東大寺に住持し、父の白壁王の即位により、親王禅師と呼ばれたとされます。

桓武天皇即位後は、僧の身分から還俗し、皇太子となりました。僧だったので、后はなく子供もいなかったとされますがそうではない。
本来の大王である早良親王の後胤を消すために、僧だったとしているのです。僧だったとすると、早良親王に后がなく子供がいないという理由が説明できます。

桓武天皇は、后27人に、実に16人の皇子と19人の皇女があるとされますが、これは早良大王の后を桓武の后として取り込んでいるからです。
上記した藤原旅子、藤原吉子、酒人内親王の他にも、たとえば、夫人とされる多治比真宗も早良大王の后かな?これは、藤原種継暗殺事件において、多治比氏、多治比浜人が処罰されていることからも推測できる。多治比氏は大伴氏などとともに反藤原の豪族である。その多治比氏の娘が桓武天皇の后であるはずはない。
多治比真宗は、本来の大王である早良大王の后である。

長男である葛原親王は、桓武平氏の祖とされています。つまりこれは、この葛原親王の後胤が臣籍降下しているということであり、このことからも推測できるように思うのですが?

つまり、桓武平氏ではなく、本当は早良平氏である。本来の王家の血が繋がるのは天皇家ではなく、この平氏の方である。

同様に后の藤原河子もまた藤原氏の娘ではない。これもまた子供の名、紀内親王から推測できる。藤原河子は紀氏の娘、紀河子である。紀氏もまた、藤原種継暗殺事件に関しては反藤原氏の豪族であり、紀白麻呂が処罰されています。酒人内親王が河子の娘である、安勅内親王と交流があり養子にしようとしていたことからも推測できる。酒人内親王や紀河子はともに早良大王の后である。

本来の王家の早良親王の後胤を桓武の後胤として変更しているのです。桓武の後胤が後に続き、桓武は王家の人物だったと系譜を変えたからです。早良親王は光仁天皇の子供ではなく、葦原王と井上内親王との子供である。長男が早良親王、次男が他戸親王である。

本来の大王、そう、消された王とはこの早良親王である。聖武天皇と県犬養広刀自との娘が井上内親王とされますが、そうではなく、鈴鹿大王と、阿部広刀自の娘が井上内親王であり、刑部大王後胤の葦原王の后がこの井上内親王である。
長男が早良親王、次男が他戸親王であり共に王家の人物である。この系譜を改竄している。


それで、どうして短期間で長岡京から平安京に移ったのでしょうか?長岡京は何故に、この早良親王の怨霊の都として考えらえるようになったのか?

それは、もとはこの長岡京は藤原氏が王家を取り込むための都、そう早良大王の都であったからです。

藤原氏は権力を握りますが、奈良の都には、藤原氏に対抗する勢力がまだ存在していました。藤原氏は聖武天皇と同様にこの早良大王を、担いで藤原の王とするつもりでした。それは、もちろん本来の王家の人物、大王だったからです。

奈良の都を離れ、新たに長岡に都を造り、聖武天皇と同様に早良大王を藤原の操る大王にしようとしたのです。長岡京は、本拠地に近く地理的にも好条件でした。藤原氏は、この長岡に都をつくり、早良大王を奈良の都から移し新たな都としたのです。

これに、大伴氏など反藤原の豪族が反発し対立が起きたのです。
藤原種継暗殺事件というのは、藤原氏と、王家、大伴氏など反藤原の勢力との戦争でした。残念ながら藤原の勝利になり、反藤原側についた早良大王も暗殺されることになりました。結局、藤原氏は王家とは関係が薄い人物、山部親王を担ぐことになります。桓武天皇です。
つまり、桓武天皇が王に即位したのは、早良大王崩御後の、786年以降であるともいえます。早良大王は大王であり、桓武天皇は、本来は蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を使用して歴史を改竄している。本来の呼称は、もちろん「大王 おおきみ」です。

そして、怨霊の都として恐れられた長岡京を離れ、短期間で平安京に都を造ることになります。長岡京が、早良親王の怨霊の都として恐れられたということは、この長岡京はもとは早良親王の都であり、早良親王は大王に即位していたということ以外考えられません。

桓武天皇が遷都した平安京、この平安の地である山城は、秦氏が開拓した領地であり本拠地です。
桓武天皇は、藤原氏によって王座に据えられた秦氏の王です。

                         










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蘇我氏と藤原氏による系譜改竄の謎

2018年09月09日 | 日本書紀の謎


蘇我氏は、何故か蘇我馬子のお父さんである蘇我稲目の時代に、明日香を拠点とし
突然大和盆地に現れたとされる豪族です。この稲目以前の蘇我氏の歴史は、今一つ
明らかではありません。それは、藤原氏が系譜を改竄したからです。
蘇我氏はもとは息長氏のことです。つまり息長氏なんて存在してはなく、本来は
蘇我氏だったということです。
近つ飛鳥に遠つ飛鳥、磯長の近くの飛鳥が近くとされているように本来は蘇我氏の
本拠地はこの磯長だったのではないのか?

今回は、この蘇我氏と藤原氏によって変更させられた歴史について考えてみます。
今までの通説とされていた歴史が変わってしまいますが、真実だからしかたない。
もう何度も云いますが、長屋王邸とされる所から見つかった木簡には「長屋親王」との
書かれた木簡が出土しています。この木簡は衝撃的だとされますが、そうではない。
「親王」とはお父さんか、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。

つまり高市皇子は大王でした。長屋王も、もちろん大王に即位していました。
この高市大王や長屋大王と対立していて死に追いやったのは藤原氏です。
ですので歴史書を作ったのです。彼らは大王に即位していたとはできないのです。
高市大王や長屋大王が大王だとすると、その時代に天皇だったとされる持統、元明、元正、
そして聖武は、本来の王ではないのです。
これに関しては凄く容易な推測でしょう?歴史というのは権力者の都合で変えられる
ものであるわけです。

古代の歴史を変えたのは、権力を握った蘇我氏と藤原氏である。

天皇とは本来は蘇我の王のことで、実際の初代天皇は推古天皇です。天皇と大王とは異なる。
これ古代の歴史が変わりますが真実です。
この時から「大王」と「天皇」とが存在したのです。蘇我氏や藤原氏は、
この「天皇」の呼称を使用して本来の王家の系譜を改竄したのです。

推古は天皇だけど大王ではない。これは日本書紀にも矛盾する箇所があります。
藤原氏がおこなった杜撰な改竄箇所です・・・というか改竄しなければいけない
ところですが忘れている箇所ともいえます。

蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」「国記」に記述されていた
歌をそのまま写して変えていない箇所です。
大王の呼称が天皇になったのではなく、大王と天皇がいた証拠です。

日本書紀にあるため良く知られている歌です。
推古20年、正月七日、群卿に酒を振舞う宴が催された時、
大臣馬子の歌・・・
やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十陰 出で立たす 御空を見れば 
万代に かくしもがも 千代にも かくしもがも 畏みて 仕へ奉らむ 拝みて 
仕奉らむ 歌献きまつる

これにこたえて推古の歌・・・
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 
蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
   ************************
問題は推古の歌ですよね。まず、推古も馬子も大王(おおきみ)といっていますよね。
天皇じゃないですよね。それはこの時代には、まだ天皇の呼称はなく大王と呼ばれて
いたとされるからです。
ですが、推古が大王ということなら、この歌はおかしいですよね。
これおかしいのはすぐにわかりますよね。問題個所だとも指摘されている箇所です。

大王が有能な蘇我の子を使うのはもっともだってことを言っているのだけど・・・
まるで他人事で、これ私は大王ではないといっているようなものですよね。

そう天皇とは別に、本来の王である「大王」存在していたのですよ。
これ隋書でもバレていますよね。推古天皇時に隋の使者が王に謁見しています。
その倭王は「おおきみ」と呼ばれ、男の王だという記述ですよね。天皇で女性ではないですよね。
さらに万葉集や木簡、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文でもね(^o^)丿

これはもう何度も云っていますが、推古が天皇時、大王だった、押坂彦人大兄皇子が
大王に即位していた事実や系譜を改竄したからです。それは藤原氏は彼の子孫と
対立し暗殺してきたからです。聖徳太子が謎になっているのもこのためです。
押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子であるわけですから、この時に大王に即位
していたと考えるのは簡単な推測でしょう。でも記紀に登場しなくなるので早くに
亡くなったとされます。推古の息子の竹田皇子も同様です。

この時から「大王」と蘇我の王である「天皇」が存在していたということです。
つまり初代天皇は、本来はこの推古天皇であり、「天皇」は古代から繋がる王ではないのです。
馬子は蘇我氏を古代の王家に繫いだのです。
蘇我馬子と皇太子(竹田皇子)が編纂した、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書です。
この歴史書により古代の歴史は改竄されました。


古事記、日本書紀は編纂後に藤原氏によって変更されている。続日本紀は全く藤原氏の書物である。

「長屋親王」との記述がある木簡が出土した以上、いままでの通説を変更しなければいけません。
呼称だけの問題ではなく、大王と天皇がいる時代があったのです。万葉集にも、天武や高市皇子
のことを、大王と呼んでいます。天皇なんて呼んでいません。
長屋王が長屋親王と呼ばれるのは、お父さんの高市皇子が大王に即位していたこと以外は
ありえません。

今回は藤原氏によって変更された、聖徳太子から繋がる、本来の王家の系譜がどう
変えられたかを考えてみます。

うーーーーん((+_+))でも、どう系譜を変更したかは凄く難しい推測です。
どう改竄したのだろろう・・・なんらかの手掛かりがあるのだろうか・・・?(-"-)

蘇我氏や藤原氏は、自らを古代の王家に繫ぐ操作をしている。
難しいのは、蘇我氏によって変更された系譜を利用して、藤原氏も変更している。
ですので複雑になっているように思います。利用したのは蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)
が編纂したとされる蘇我氏の歴史書ともいえる天皇記・国記である。

藤原氏は、いわばこの蘇我氏を乗っ取っている。蘇我氏の歴史を利用して系譜を改竄している。

ウイッキベディア・・・中臣氏
元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた
(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足
(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。
      ******************
この藤原鎌足は、もとは中臣 鎌子と名乗っていたとされます。物部尾輿と共に排仏を
行った中臣鎌子とは同姓同名ですがもちろん別人です。
本来は中臣氏とは全く関係しない。この中臣氏の系譜を利用している。
というか藤原鎌足は中臣氏になろうとしていたのです。
つまり、・・・中臣鎌足は中臣鎌足ではないということです((+_+))

それは百済復興のために渡来した百済からの渡来人であるからです。
この鎌足が対立していたのは、朝鮮出兵に反対の立場であった王家や蘇我氏、阿部氏などです。
そして、これも百済からの渡来人の秦氏の族長の秦河勝と関係する天智と結び、暗殺を繰り返しました。


白村江の戦で敗れたため百済復興はならなかったのですが、王家と深くかかわる
ことになり、後に王家と対立するようになりました。
藤原不比等はこのお父さんである鎌足の出自を変更する必要、つまり系譜を改竄する
必要があったのです。
権力を握るには、いずれかの実在した古代の氏族に繋げる必要があったのです。
始祖の鎌足が渡来人では都合が悪いのです。

蘇我氏と藤原氏による系譜の改竄があるように思いますが、まずはこの藤原氏による
系譜の改竄を推測してみます。

藤原氏の祖と言えるのが藤原鎌足と不比等です。藤原氏の系譜に関しては少し不思議で
あると感じられる箇所があります。それは藤原氏繁栄の基礎を築いたとされる不比等の妻に関してです。

藤原不比等の妻は、何人かあるのですが、問題なのは蘇我娼子です。
武智麻呂、 房前、 宇合と藤原四兄弟のうち三人は、不比等とこの娼子との息子たちで
あるわけで、不比等の本妻ともいえますよね。

あれ???でも蘇我本家を滅ぼしたのは、お父さんである中臣鎌足や天智ですよね?
藤原氏は蘇我氏とは対立していたのではないのか?
だから何故に蘇我の女性を妻としたのでしょうか?少しおかしいようにも思いますが?
これは事実のなのか?渡来人を統括していたとも思われる蘇我氏は秦氏とも深い関係に
あったと考えられます。

これは、成立したばかりの藤原という氏の権威付けのために、不比等はの古代からの
由緒ある氏族に繫ぐ必要があったのではないのか?選ばれたのが本家が滅んでしまっ
ている蘇我氏である。中臣氏も同様である。没落していた氏族であるので、取り込んで
繋げることができたわけで、蘇我氏の権威を取り込むことができるわけです。


ですので系譜の改竄個所なのか?蘇我娼子は蘇我氏の女性ではないのでは?
渡来人、秦氏はもとは、この蘇我氏の傘下にあったとされます。
蘇我氏はこれら渡来系移住民を利用して有力豪族に成長していったからです。
後に対立するようになったのですが、蘇我氏と秦氏はもとは緊密な関係にあったと思われます。
この蘇我氏の系譜を利用している。

ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
               —『日本書紀』推古28年是歳条 
蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、
即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る
               — 『日本書紀』皇極4年6月条 
   ****************************
蘇我馬子と皇太子(竹田皇子)が編纂した、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書です。
この歴史書において、蘇我馬子は蘇我氏を王家に繋げていたのです。
そして蘇我氏は元は息長氏だからです。この蘇我氏の本貫地は、磯長です・・・ここはいずれ書きます。
蘇我氏の歴史書である「天皇記」「国記」を利用して、藤原氏を古代の王家に
繋げる改竄がなされている。それは蘇我氏により蘇我氏を古代の王家に繫ぐ改竄が
なされていたからです。

この息長氏の有名人は息長帯比売命こと神功皇后です。つまりこの神功皇后とは
蘇我の女帝ということになります。この神功皇后を、倭人伝で有名な卑弥呼だと
して改竄し、王家(後の物部氏)の歴史を消し去り、蘇我氏を古代の王家に繫いだのです。
これが蘇我氏による系譜の改竄箇所です。

そして蘇我氏の祖とされるのは、武内宿禰です。蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」に
おいては、この武内宿禰は神武天皇として描かれ、神功皇后との子供が応神天皇であるとして、
蘇我氏をこの応神天皇に繋げていたのです。

そして継体天皇は、この応神天皇の五世の孫としているのです。
継体天皇は、欽明天皇のお父さんであり、この欽明は推古のお父さんです。
つまり蘇我の天皇たちは古代から繋がる正統な王だとして系譜を改竄したのです。

古代の大王家、邪馬台国の卑弥呼を蘇我氏の人物だとして取り込んでいます。
この蘇我の女帝である神功皇后を卑弥呼だと蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」に
おいて記述されていたのです。しかし後に、藤原氏によって変更されている。
藤原氏は、この蘇我氏の系譜を利用し、蘇我の王である「天皇」の呼称を利用して歴史を改竄している。

蘇我氏の祖とされるのは、この武内宿禰の子の蘇我石川宿禰とされますが、この蘇我石川宿祢は、
蘇我宿祢と石川宿祢を足した名であり、本来は蘇我氏は蘇我宿祢が祖であり、石川宿祢は後に
石川氏に蘇我氏を繋げたの時に付けられた名である。

つまり、武内宿禰の子には蘇我宿禰と石川宿禰の二人の人物がいたということなのではないのか?

これは藤原氏が系譜を改竄したときに、石川氏を蘇我氏に繋げたのです。
それは、藤原不比等の妻が、この石川氏の娘だったからです。

蘇我馬子ー蝦夷ー入鹿の蘇我本家は滅び、蘇我氏は傍系の蘇我馬子の子である蘇我 倉麻呂から
繋がる蘇我倉氏が後に石川氏を名乗った後に主張した名がこの蘇我石川宿禰だろうとされますが、
そうではないのでは?


蘇我宿禰と石川宿禰、この石川宿禰というのはもちろん石川氏の祖であり、
蘇我の呼称は藤原氏によって系譜改竄時に付けられたものなのでは?
祖先の名に、「石川」を付けたのではなく「蘇我」の方を付けたのでは?
有力氏族の蘇我の名を、弱小氏族の石川に付けたのでは?
それは本拠地が近く本来は同一部族だったからでもあるかもしれません。

武内宿禰の子の蘇我宿禰は蘇我氏の祖、そして石川宿禰は石川氏の祖だったのではないのか?
多くの氏族が祖先を武内宿禰としているのは、本来この武内宿禰は神武天皇として描かれて
いたからです。古代の王家と対立していた葛城系の始祖王ともいえます。
武内宿禰ではなく、八代天皇の孝元天皇に祖を求めたらいいのにそうなっていないのはこのためです。

この石川氏の系図を利用して、藤原氏は系譜を改竄している。
それは、藤原不比等の妻の、蘇我娼子は、本当は石川娼子だからです。

本来は蘇我氏の本地は河内国磯長であり、後に稲目の時代に奈良盆地に移住し、
そこで「蘇我」を名乗ったのではないのだろうか?
葛城氏や渡来人と関わり大きな勢力となり氏族名を変更したと考えられます。

この蘇我は地名から名付けられたとされ、今の橿原市曽我町周辺だとされます。
蘇我氏の枝氏の多くはこの稲目から枝分かれしています。本来は蘇我氏の始祖は
この稲目ということになるのでは?

そして、稲目以前は蘇我ではなく息長氏である。つまり、蘇我氏と息長氏を結びつけると
本来の蘇我氏になるのではないのか?
蘇我の王である推古のお父さんの欽明天皇。そのお父さんである継体天皇を、
息長氏の王(蘇我の王)ともいえる応神天皇に繫いでいる
武内宿禰(神武天皇)と息長帯比売命こと神功皇后との子供が応神天皇である。


蘇我氏の祖とされる蘇我石川宿祢は、蘇我宿祢と石川宿祢を足した名であり、
本来は蘇我宿祢と石川宿祢ではなかったのか?

蘇我倉山田石川麻呂は、お父さんの蘇我倉麻呂を蘇我馬子に繋げているのですが、
本来は石川であり、苗字が二つ付いたような蘇我石川宿禰の名の、蘇我は後に付けられたものであり、
本来は蘇我と石川、二人の人物だったのでは?
蘇我倉麻呂は、蘇我馬子の子であり、蝦夷の弟だとされますが、そうではないのでは?
本来は石川麻呂のことであり、蘇我馬子の子供ではないのではないか。

それは蘇我氏を古代の王家に繋げていた系譜が存在していたからでもあります。
藤原氏はこの蘇我氏によって改竄された系譜を利用してその後の歴史を変えている。
本来は石川宿禰から繋がるのが、石川山田麻呂であり、石川氏である。

不比等の長男の武智麻呂、次男の房前、そして少し年齢が離れているため疑問とされますが、
三男の宇合は、この蘇我 娼子の子供たちとされます。
成立したばかりの藤原氏もまた権威付のために蘇我氏に繫ぐ必要があったのです。
ですので、本来は石川氏なのですが、蘇我馬子に繫ぐ必要があったのです。
それは蘇我氏は、渡来人を束ねるこの時代の最有力豪族でもあったからです。
藤原不比等の妻は、蘇我 娼子は、本当は石川倉麻呂の子の、石川連子の娘の石川娼子なのではないのかな?

つまり蘇我倉麻呂は蘇我馬子の子とされますが、本来はそうではなく、石川倉麻呂であり、
藤原氏を蘇我氏に繋げるために蘇我馬子の子として系譜の改竄がなされているのでは?
馬子ー蝦夷ー入鹿が本流ではなく、蘇我倉麻呂から繋がる石川氏が本流とななるように改竄されている。
それは、藤原不比等の息子たちのお母さんが石川氏の娘だったからです。
石川氏を蘇我氏に繫いで、王家に繫いでいる。

また藤原氏を王家、そして天皇に繫ぐための改竄だと思うのですが?
天皇記・国記にある系図を利用して、そして天皇の呼称を利用して藤原氏を王家に
繋げたのではないのか?

そして藤原氏と対立していた本来の王家の人物の系譜も改竄している。
天武が皇祖と仰ぐのが祖父である、 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこ ひと のおおえのみこ)です。
この押坂彦人大兄皇子こと、日十大王以降の系譜に関してです。

重要なので何度も云いますが、押坂彦人大兄皇子の子孫と対立していたのが藤原氏です。
天武の王子は高市王子であり、その子供は長屋王です。本来は大王に即位していたのですが、
対立していた藤原氏は、彼らが大王に即位していたとは出来ないのです。ですので系譜を改竄しています。

日本書紀の下巻の天皇はすべてこの 押坂彦人大兄皇子から繋がります。
推古が天皇時に大王だったのが、厩戸王子ことこの押坂彦人大兄皇子です。
本来はこの押坂彦人大兄皇子が大王だったとして、日本書紀の下巻には記述されていたのです。
それを後に改竄している。
押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と息長真手王の娘の広姫だとしますがそうではない。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子のお母さんは物部姫である穴穂部間人皇女です。

藤原氏による改竄は、蘇我氏が行った改竄と同様に、藤原に関係する天皇を、
本来王家に繋ぐ操作がなされている。そして対立する本来の王家の人物より、
藤原氏が関わる天皇の方が正統であるという改竄がなされているように思います。
藤原氏が関係するのが天智系の天皇であり、この天智に繫ぐ操作がなされている。

本来の王家の人物を系譜を改竄して、天智系天皇や藤原氏の関係する天皇に繫ぐ
操作がなされている(~_~メ)凸

藤原摂関政治、藤原氏は天皇の外戚として、政治の実権を独占し続けました。
藤原氏は権力を握りますが王になることはできません。それはもちろん王家の血が流れていないからです。
ですので藤原の娘を天皇の后とし、藤原の血が流れる子供を次の天皇として擁立し外戚となりました。

系譜の改竄に関しては不比等の娘たちに関しても大きな、問題がある。

藤原氏の地盤を築いたといわれる、藤原不比等には5人の娘がいたとされます。長女の宮子、次女の長娥子、
三女の光明子、四女の多比能、五女?の殿刀自です。

藤原不比等は、自身の娘の宮子や光明子を天皇の后として宮内に入れ外戚となりました。
そして藤原不比等にはもう一人、本来の大王の后になった娘がいました。
それが、長屋王の后となった次女の長娥子です。長女の宮子には不比等の娘ではないとの伝説もあり、
おそらく彼女が不比等の次女ではなく、長女なのでは?

長屋王との間に安宿王・黄文王・山背王・教勝の三男一女をもうけたとされます。
いままで記述してきましたが、この長屋王は大王でした。この王家の血が流れる長娥子の子供たちは、
本来は藤原氏にとっては、非常に重要な王子たちのはずです。

長屋王の変の時には、 安宿王・黄文王・山背王の3人の王子たちは、不比等の娘の長娥子の子供たち
だったので罪を免れたと推測されています。
この三男の山背王は、後に藤原姓を名乗っていて長娥子の子供でしょうけど、長男の 安宿王、
次男の黄文王はこの長娥子の子供ではないのでは?

それは、橘奈良麻呂の乱においては罪を問われ、 安宿王は新潟へ流罪、黄文王は獄死しています。
これがおかしいように思います。怨霊としての長屋王の血を嫌ったのでしょうか?
本来は藤原仲麻呂は、藤原の血が流れる、この安宿王や黄文王を王に擁立すべきはずなのにおかしい。
系譜が改竄されているのではないか?

この系譜の改竄に関しては、簡単に見つけられます。長屋王の后の誰かなのですが、・・・
安宿王と黄文王は、阿倍広庭の娘の安倍大刀自の王子たちです。
この阿倍広庭は藤原氏と対立していた阿部氏、阿倍御主人の子であるからです。だから罪に問われたのです。
この時代の実力者であり藤原氏のライバルであり王家と深く関わりがあったのが阿部氏です。

藤原氏の最大の敵対勢力であった阿部氏の女性たちの系譜もまた改竄されている。

有力豪族大伴氏、大伴古慈斐の妻は不比等の娘であるとされます。藤原不比等の五女とされる殿刀自だと
されますが確かではありません。
この殿刀自は、長屋王の后である安倍大刀自の妹であるのでは?阿部氏の姫である安倍殿刀自ではないのか?
ここもまた阿部氏の系譜を改竄し、有力豪族である大伴氏を取り込む操作がなされている・・・?

同様に聖武天皇の后とされる県犬養広刀自も、阿部広刀自である。この広刀自の子供たちもまた、
阿部氏の対抗勢力であった藤原氏により悲劇的な運命をたどることになります。

それは、大刀自、広刀自、殿刀自は阿倍広庭の娘たち、三姉妹であり、大刀自は長屋王妃、そして広刀自は
長屋王の弟の鈴鹿王の妃であるからだと思うのですが?
続日本紀は全く信用できない。

系譜の改竄が行われたのですが、名前は変更していない。本来はもっと徹底的にすべきだったかな、・・・
どう系譜が改竄されたかの手掛かりになっているように思います!(^^)!

この僅かな手掛かりともいえる名前から、聖武天皇の謎など藤原氏による改竄された系譜を推測して
みます・・・でもこれも難しい推測であります・・・((+_+))

この聖武天皇の謎に関してはまだありますよね。不比等の娘、長女とされるお母さんである
藤原宮子に関する謎です。

聖武天皇は藤原の天皇ではない。それはお母さんは藤原不比等の娘の宮子ではないからです。
聖武天皇は藤原の血が流れていない。この宮子の謎は次回に書きます。

藤原氏の都合により天武と天智の系譜が改竄されている。


孝謙天皇、重祚して 称徳天皇は、聖武天皇と、お母さんはは藤原氏出身で史上初めて人臣
から皇后となった光明皇后です。

この聖武天皇と、藤原光明子との娘とされる孝謙天皇から系譜の改竄個所を推測していきます。

孝謙天皇、重祚して称徳天皇、即位前の名は「阿倍内親王」です。
聖武天皇と光明皇后の娘とされるのに、どうして「阿倍内親王」なのでしょうか?
なぜに「藤原内親王」ではないのでしょうか?これ不思議ですよね?

聖武天皇のお母さんは不比等の娘の宮子です。皇后の光明皇后も不比等の娘
ですから、その娘が何故に「阿倍内親王」なのでしょうか?おかしいですよね?
あれ?これおかしいと感じるのは私だけなのでしょうか?

阿部の名が付くということは、系譜のどこかで阿部氏が関わるのではないのだろうかと
考えられますよね?
藤原氏は、この阿部氏と対立していました。これは明らかな事実であり、孝徳政権の時に
左大臣に就任していたのが阿倍 内麻呂であり、この孝徳天皇と対立していたのが、
天智と藤原鎌足である。
ですので、不比等の娘である、光明皇后の娘の名が「阿倍内親王」というのは本来おかしいわけです。
藤原の娘が阿部の名を持つのはおかしい。
藤原氏は、王家と関わっていたこの阿部氏の痕跡を消し去っている。

この、称徳天皇の名の「阿倍内親王」は、系図をたどれば、・・・そう曾祖母の名から
名付けられたと考えられると思います。その曾祖母とは元明天皇です。
草壁皇子と元明の皇子が文武天皇であり、孝謙天皇のお父さんである聖武天皇はこの文武天皇と宮子の息子です。

そう、この元明天皇もまた阿閇皇女 、阿部皇女ともされます。これ諱であり本名です。
では何故に元明天皇は「阿部」の名を持つのでしょうか?

問題なのはこの元明天皇です。系譜が改竄されています。元明天皇は、天智と蘇我倉山田石川麻呂の
娘とされる、 姪娘との娘なのに何故なのでしょうか?蘇我の娘であるのなら蘇我皇女で
あるはずなのに、なぜに阿部皇女なのでしょうか?姪娘の系図をもっと遡るとどこかで
阿部氏が関わるのでしょうか?
でもそんなことはないように思う。なぜなら阿部氏が権力を持ったのは、阿倍内麻呂が最高官で
ある左大臣に就任した孝徳天皇の時代であると思われるからです。
ですので阿部氏が王家と関わるのはこの時以降だと推測できるからです。

蘇我倉山田石川麻呂の娘とされる、 姪娘はこの蘇我倉山田石川麻呂の娘ではない。
元明天皇のお母さんである姪娘は阿倍内麻呂の娘です。
だから元明天皇は「阿部皇女」なのです。

藤原氏はこの蘇我倉山田石川麻呂、つまり石川氏の系譜を利用して系譜を改竄している。

そう彼女たちは阿部氏が関わる女性なのではないのか?この時代阿部氏は王家と深い
かかわりを持ち権力を得ていました。そう、阿部氏の娘を大王に嫁がせ、王家との姻戚と
しての地位を確立していました。後に藤原氏が行う摂関政治と同様です。

藤原氏にとっては、この阿部氏はライバルでもあり、大きな対抗勢力でした。
この阿部氏から繋がる系譜を改竄している。それは長屋王が大王であり、この阿部氏の姫王で
ある明日香皇女の王子であるからでもあります。
この阿部氏と繋がる大王を殺害してきたのが藤原氏です。
ですので系譜を改竄する必要があったのです。

押坂彦人大兄皇子の王子である、茅渟王の王子が孝徳天皇です。
押坂彦人大兄皇子の皇子の山代王の王子が天武です。この本来の王たちの系譜が改竄されている。


孝徳天皇時に左大臣として、孝徳に仕えていたのが、この阿倍内麻呂であり、
娘たちはこの孝徳天皇や天武天皇に嫁いだのです。
元明天皇のお父さんは天智ではない。孝徳天皇と、阿倍内麻呂の娘の姪娘との娘であり、
本来の王家の女性である。

そしてもう一人の阿倍内麻呂の子供の橘娘もまた孝徳の后である。娘たち、明日香皇女と
新田部皇女は天智天皇との娘だとされますがそうではない。
明日香皇女と 新田部皇女は孝徳大王の娘たちであり、そして高市大王、刑部大王の后たちです。

そして、この 新田部皇女の名前ですが、これは、橘娘のお母さんからの由来ではないのか?
つまり、祖母の名なのでは?
阿倍内麻呂と 新田部氏の女性との子供が橘娘ではないのか?阿部氏はこの新田部氏と関係する。
有間皇子の謀反の事件の時に連座した4名のうち、有間皇子とともに処刑されたのが、
塩屋鯯魚と新田部米麻呂とされます。


この 塩屋鯯魚と新田部米麻呂が有間皇子に味方をした阿部氏に関わる豪族である。
この塩屋鯯魚に関しては紀南の豪族と考えられ、天智や藤原氏と対立していた孝徳天皇の
王子である有間皇子はこの紀南に避難していたのではないのか?
紀伊国日高郡の塩屋がこの塩屋鯯魚の拠点であり、有間皇子はここで暗殺されたのです。
この有間皇子の謎は次回に書きます。

阿倍内麻呂には、小足媛 、橘娘の二人の娘がいたとされますが、もう一人この元明天皇の
お母さんである姪娘もまた内麻呂の娘なのでは?
つまり、阿倍内麻呂には3人の娘がいたのでは?ですので、元明天皇は阿閇、阿部皇女なのです。
そして、この元明天皇は孝徳大王の娘なのでは?孝徳天皇時に左大臣として、孝徳に仕えていたのが
この阿倍内麻呂であり、対立していた天智の后だとは考えづらい。
藤原氏や天智系天皇により天智に繫ぐ系譜の改竄が行われている。

天智の后とされている蘇我倉山田石川麻呂娘たちは、阿倍内麻呂の娘たちであり、
この蘇我倉山田石川麻呂の系譜を利用して改竄している。
持統のお母さんである、遠智娘もまた蘇我倉山田石川麻呂娘に変更されている。

阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・

長女、阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子

次女、阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)元明天皇

三女、阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (刑部大王妃)

「額田王の謎と推古天皇」のところで書きましたが、・・・
孝徳の長男である有間皇子は、640年の生まれだとされます。そして、孝徳天皇は596年の
生まれだとされますが、これおかしいでしょう?長男と思われる有間皇子が45歳の時の子供となります。
この時代を考えるとありえません。
そして孝徳には、有間皇子以外には子供がいません?そんなはずはありません。

斉明天皇の年齢に関して書きましたが、同様に弟の孝徳の生年に関してもおかしい。
それは祖父の厩戸王子こと押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。
つまり、押坂彦人大兄皇子の子供である、お父さんの茅渟王が、592年頃の生まれと考えられるからです。

ですので斉明天皇 や、2歳違いの弟の孝徳天皇は615年頃の生まれです。
斉明が613年位で、孝徳は615年位かな?そうすると、長男の有間皇子の生年に関して、
そして斉明天皇として即位した年齢に関しても問題ないでしょう。

天智と天武は兄弟ではない。天武のお母さんは斉明天皇ですが、天智のお母さんは斉明天皇ではない。
天武の生年は不明とされますがそうではなく、天智の生年を変更している。
5歳年下とされる天武は631年でいいように思いますが、天智の生年は626年ではなくもう
少し前である。天智を王家に繫ぐため斉明の子供としたため、斉明天皇の年齢を変更している。

そして孝徳天皇の崩御年は654年とされますが、そうではないのでは?

孝徳天皇ではなく孝徳大王です。大王と天皇は異なる。孝徳大王は危険を感じ都を離れていたのです。
斉明は天皇ですが、孝徳は大王です。
この斉明も、孝徳も暗殺されているように思うのですが・・・?

次回に続きます・・・。



写真は吉野宮滝遺跡です。吉野宮があったとされるところで、この場所は川が蛇行する
河岸段丘上にあり岩盤が浸食されることにより両岸に奇岩でき、古代から神様が座ます
ところとして、祭られていただろうと想像できます。
神様の座す神仙の地とされ、宮を造るには絶好の場所ともいえる素晴らしい景色です。
飛鳥時代ころから造営され、斉明天皇2年(656年)に吉野宮造営の記述があるように、
この時から本格的な宮が建設されたのだろうと考えられます。

持統天皇は頻繁にこの吉野宮に行幸したとされます。
この持統天皇のお母さんである遠智娘もまた蘇我倉山田石川麻呂の娘とされますがそうではない。
遠智娘は大王である茅渟王の娘であり、この斉明天皇とは、おそらくお母さんが異なる姉妹です。
遠智娘は王家の女性です。
ですので、天智の皇后とされる倭姫王をさしおいて、遠智娘は天皇に即位している。
「天皇」は女帝の呼称である。持統の系譜もまた改竄されている。

天智は本来の王ではないのですが、持統は王家の血を引く女性です。
この遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘の造媛と混同されている。持統天皇の同母姉とされている、
大田皇女こそこの造媛の娘である。蘇我氏ではなく石川造媛ということです。
大田皇女は異母姉であり、王家の血をひかない女性である。ともに天智の后であるのですが、
持統は王家の女性の娘であり、
大田皇女は、石川氏の娘である。

大田皇女の息子である、大津皇子はこのお母さんが王家と関係しない女性にため、
持統の息子の草壁より、本来は王に即位するには遠い身分だったのでは?
藤原氏はこの滅ぼしたともいえる、この没落した石川氏の系譜を利用している。蘇我氏も同様である。

万葉集 巻2-107
大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首
あしひきの山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしづくに
石川女郎、こたへ奉る歌 巻2-108
吾を待つと君が濡れけむあしひきの 山のしづくにならましものを

この石川氏の娘だろうと思われる石川郎女は、この大津皇子と草壁皇子との
三角関係が語られています。恋愛関係にあったかはわかりませんが、石川女郎も
大津皇子も石川氏の人物石川麻呂の娘の石川造媛の孫にあたる。

天智を王家に繫ぐ操作、そして藤原氏が関係した聖武天皇の系譜を改竄している。

持統天皇は、天武の遺志を受け継いで藤原京を造ったとされますが、そうではない。
持統天皇が天皇に即位したという藤原宮とは、藤原不比等の邸宅です。
天武と高市大王があらたに造った都は、香久山宮であり、香久山京です。
持統が天皇時、大王だったのが高市大王です。天武の後実際に政治を行ったのはこの高市大王です。

持統天皇は、天武の遺志を受け継ぎ政務を行ったとされるのは間違いです。
大王に即位したことを消し去っているために、高市大王の実績を持統の実績として取り込んでいるのです。
藤原氏は、この持統天皇を利用したのです。持統天皇は、本当は天智の娘ではありません。



持統天皇は、頻繁に吉野に行幸したとされます。天皇時に、実に31回もの行幸の記録があり、
異常な回数ともいえます。

これは即位したとされる、藤原宮と関係します。そうこの藤原宮とは不比等の邸宅だったからです。
「扶桑略記」にも持統は藤原不比等の邸宅で即位したとの伝説が語られています。
この時代の本来の宮は、万葉集にあるように高市大王の「香久山宮」です。
この宮の名称、そして都の名称に関しては変更しなければなりません。
臣下に藤原という氏族名がある限り、王の宮を「藤原宮」なんて名付けるはずはありません。

この度々の吉野行幸は謎だともされますが、そうではない。藤原宮は藤原氏の家であり、
持統の家ではないのです。
いわば、この吉野宮こそ、持統の宮と言えると思います。

では、何故に持統天皇は何度も吉野に行幸したのでしょうか?
それは、この吉野宮こそ病弱な息子の草壁皇子の宮であり、孫の珂瑠(後の文武天皇)
いる宮だったからです。
頻繁な吉野への行幸は、別に謎でもなく、息子と孫に会いに行っただけです。それだけです。
いわば、この吉野宮こそ、持統の宮であり、草壁の宮だと言えると思います。
彼女が王ではなかった証拠ともいえます。

天皇と大王はことなる。この時の王は、高市大王であり実際に政務をおこなったのは
この高市大王です。天武の后ということと藤原氏の力により、何らかの影響力はあった
でしょうが、持統は天皇ですが本来の王ではありません。

この吉野宮はもとは天武の宮でした。それは乙巳の変以降、都は渡来人勢力に抑えられ
ている状態?にありました。壬申の乱以前に天武が隠遁したとされるところです。
万葉集にはこの天武も高市もともに「大王」と表現されている。
「王」ではなく「大王」とされているのは本当は非常に重要なことなのです。

万葉集 柿本人麻呂
やすみしし わご大君の 聞こし食す 天の下に 国はしも
多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ
秋津の野辺に宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船並めて
朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく
この山の いや高知らす 水激つ瀧の都は 見れど飽かぬかも

これは高市大王が吉野行幸時に柿本人麻呂が詠んだ歌です。
飛鳥から吉野、山越えになりますがそう遠い距離ではありません。

                    











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聖武天皇の謎

2018年05月12日 | 日本書紀の謎


「青丹よし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」

この歌は大宰府に赴任した小野老朝臣が奈良の京を懐かしんで詠んだ歌とされ、
この当時の奈良の都の繁栄が想像できます。

しかし、奈良朝は、華やかで活気に満ちた貴族社会を想像しますが、
この時代は多くの政変、戦乱が起きました。
王家と藤原氏、そして藤原氏同士での権力争いがおきたのです。

今回は、この聖武天皇の謎についてです。藤原氏によって改竄されていた
真実の歴史・・・藤原氏は、高市王子や長屋王、その子供たちなど多くの
王家の人物を殺害し、王座を簒奪しました。

藤原氏は天下をとりました。権力を握るということは、それまで権力を保持して
いた勢力に対抗して倒したわけです。
その藤原氏の対抗勢力というのは、本来の王家ということです。

王家を滅ぼした憎き藤原氏、その悪逆をここに暴いてやる凸(~_~メ)

古事記、日本書紀、そして続日本記。もう千年以上も、藤原氏によって改竄された
歴史書によって騙され続けている。
我々は王家と対立していて、その王家の大王や王子たちを何人も殺害し王座を
簒奪しました・・・ってそんなこと書けないわけです。だからこれら書物によって歴史を
改竄していている。でも私は騙されないよ(^o^)丿


聖武天皇は、お母さんが藤原不比等の娘の宮子であり、皇后も不比等の
娘の光明子の ということもあり、藤原の天皇というべき人物です。
この聖武天皇も本来の王ではなかったのです。
聖武天皇が王だっとする主張は藤原氏のものである。
そして聖武天皇のお父さんである文武天皇も王ではありませんでした。

元明天皇や聖武天皇の立太子、即位を保証したという「不改常典」。
この天智天皇の「不改常典」というのは、天智朝に作られたものではなく、
続日本記の作成時に藤原氏によって
作られたものです。
本当に直系の子孫であれば、わざわざこういうものを持ち出す、あるいは
作る必要はありません。
つまり、聖武天皇は本来は王に即位するには少し遠い存在だったのです。
そう、聖武天皇は男系では繋がらず女系の王だったのです。

それは王位継承権を持つ天武の子孫が多く残っているからです。
天武から繋がるのが、本来の王家です。
聖武天皇は、王位継承において、本来の大王だった高市大王、長屋大王の王子たち
と比べると王位継承権の
順序おいては劣るのです。ですので、藤原氏は、彼らを抹殺する必要があったのです。

残念ながら勝ち残ったのは天智系天皇や藤原氏です。

天智系天皇は天武系天皇と同等にするために、系譜を改竄する必要があったのです。
天智と天武は兄弟ではありません。

藤原氏は、持統の孫の文部天皇に藤原宮子、その子の聖武天皇(首皇)に藤原光明子
を嫁がせ天皇の外戚となって権力を保持したとされます。
聖武天皇の後宮には藤原氏の関係者の女性で占められていて、聖武天皇は藤原氏の天皇
であり、傍系の天皇です。そして藤原氏に利用された人物であるともいえます。


この聖武天皇は多くの謎があります、何故か平城京を離れ何度か遷都を繰り返した
とされることが大きな謎とされます。
「朕、思うところによりしばらく関東に赴く」・・・およそ五年間、平城京から
離れ恭仁京、難波京、紫香楽京に遷都したとされ、謎の行動ともされます。

何故こういう不可解な行動をしたかについて考えてみます。
それは、もう何度も記述してきましたが、天皇は本来大王でなかったことに関係します。

つまり、遷都したというのは藤原の主張に他ならないとうことです。
遷都なんてしていません。都は奈良京のままでした。そして奈良宮には本来の大王が
いました。天皇は王だという主張も藤原氏のものです。本来は大王です。

聖武天皇は本来は王座に就ける人物ではなかったのです。その系譜を改竄して
歴史を変えたのが藤原氏です。王家と対立していたのは藤原氏です。歴史とは勝者の記録です。

これらの聖武天皇の遷都の謎も、高市皇子や長屋王は大王だったとすると、
謎でもなんでもない。
今まで記述してきましたが、天武の後、持統天皇が藤原京に遷都、その後、
元明天皇が平城京に遷都したということと同様で、聖武天皇の遷都の謎も藤原氏の
主張でしかない。本来は遷都なんかしていません。都は奈良京のままです。

一級資料といえる木簡から、「長屋親王」との記述がある木簡が発見されました。
親王とはお父さんか、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。
つまり高市皇子は大王でした。長屋王も大王に即位していました。
この高市大王や、長屋大王と対立していたのは藤原氏です。しかし、藤原氏は
対立していていて死に追いやった長屋王を大王であるとできないために系譜を改竄して
、歴史書を作成したのです。
作成した大きな理由は王家と対立し、何人も王たちを殺してきたからです。

歴史書なんかよりこの木簡の方が史料価値があるわけです。記紀の記述と
矛盾することが、これら木簡や、また他の資料などからもうかがえる。
正史であるから間違いはないという姿勢ではとんでもないことになる。
藤原の時代の歴史書なんて信用できない。

聖武天皇は平城京を離れ遷都を繰り返したとされるのは、政権を握っていた
藤原四兄弟が亡くなり、藤原氏が弱体化したからに他ならないように思うのですが?

不比等の四人の息子たちは、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、
宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となり藤原氏は隆盛を極めます。
しかし、737年の天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死することになり、
藤原氏は弱体化しふたたび王家との権力争いが勃発したのです。


今まで述べてきましたが、本来、奈良京は長屋王の都でした。
藤原の王ともいえる聖武天皇は、この奈良京を離れ難波京に宮を建設して移る予定でした。
難波京は都の場所としてはふさわしい場所です。

ところが、この難波宮が既に完成していただろう時期に何故か恭仁京や紫香楽京
などの周囲が山に囲まれていて平野部が少ないような場所に遷都することになります。
おかしいですよね。紫香楽京なんて山奥ですよ。
ここに大仏を造立するということなら解りますが、都の中心地となるような場所ではない。

そして、どちらも宮殿と思われる建物以外の施設は建設していないでしょう。
周辺には政治を行うための施設や貴族の住居などはなく、また奈良盆地からは遠く
離れているため政治を行えるような場所ではない。
どうしてこんな不便な場所に遷都したのでしょうか?

聖武天皇が遷都したわけではない、そして遷都なんかしていません。

奈良京(平城京)と比べてみてください。この時代にそんなところに遷都なんか
するはずはないでしょうに。
あきらかにおかしいでしょう。これら遷都したとする主張は藤原氏であり、遷都なんかではない。


唐の国家体制を目指したもの、壮大な国家体制・・・らしいそうですが、まったく
意味不明のトンデモ説です。もうずっと騙され続けている。
記紀や続日本記は藤原氏によって手を加えられた偽書です。


藤原四兄弟が亡くなり、再び王家と藤原氏との争いが勃発したのです。
それで、奈良京を離れただけです。聖武天皇が遷都したのではない。
簡単な話です。弱体化した藤原氏、聖武天皇は奈良の都を追い出されたのです。
恭仁京や紫香楽京などに遷都したとするのは、藤原氏の主張です。


ですので、長屋王の奈良京は、長屋王の変以降も存在しています。
そして大王も存在しています。聖武天皇は大王ではありません。遷都したとされるのは藤原氏の主張です。

長屋王や王子たちを死に追いやり、藤原の天下になっていたのですが、ふたたび本来の王家の人物が王に
即位したのです。
大王候補はまだいました。舎人親王や新田部親王、そして長屋王の実弟である鈴鹿王です。

本来の正統な王家の人物である高市大王の次男であり、長屋王の実弟である鈴鹿王が
この時代の大王です。
藤原系の王ではなく、本来の王家が再び権力を握ったのです。この鈴鹿王は、知太政官事
という最高職の地位にあったとされますが、長屋王没時、王位継承者である長屋王の王子たち、
そして舎人親王や新田部親王、多くの大王候補が殺されたために、彼が大王に即位していました。

もちろん続日本記には彼が大王に即位していたとは記述されていません。
聖武天皇が、恭仁京や紫香楽京に遷都したときに都の留守役だったとされますが、
もちろんそうではなく奈良京の大王でした。
残念ながら、この鈴鹿大王崩御(745年)後に、王座はふたたび藤原系の王のものになったのです。
つまり745年以降に藤原の時代になったともいえます。

聖武天皇は、この時に天皇、本来の王になったともいえます。745年に再び平城京に
遷都されとされますが、そうではなく、はじめて平城京に遷都されたのが745年です。
それまでは、長屋王とこの鈴鹿大王の都である奈良京でした。平城京は奈良京を造り変えたものです。


藤原四兄弟が亡くなり、藤原氏は弱体化し、対立は激化し聖武天皇は、不比等の娘である
光明皇后の異父兄弟にあたる橘諸兄の勢力地に逃げただけです。ですので、この橘諸兄の
本拠地である、恭仁京に遷都ということになったのです。聖武天皇が遷都したわけではないし、
本来の遷都ではない。

さらに、戦いが激化し奥地ともいえる紫香楽に避難していただけです。
聖武天皇が滞在していたからそこが宮であり遷都したという主張は藤原氏の主張である。

いままで、紫香楽宮跡地とされていたところは、甲賀寺の跡地だということになり、
北部にある宮町遺跡が有力とされています。
もうどちらでもいいですが、宮が完成していただろうと思われる難波宮を都とするという
のならわかりますが、こんな山奥に都を造るはずはありません。

難波宮に移る予定だったのが、大王である鈴鹿王が崩御し、元の奈良京に移ったのです、
その後この奈良京を平城京に造りかえている。
この745年というのが平城京遷都年です。この時、聖武天皇は王に即位したともいえます。

この橘諸兄は、母は橘三千代で、聖武天皇の皇后である光明子(光明皇后)は異父妹に
あたり、あきらかに藤原側の人物といえます。
それは、このお母さんの橘三千代こと県犬養 三千代は、元は敏達天皇の後裔の美努王に嫁ぎ、葛城王(後の橘諸兄)
を生み、その後、藤原不比等の妻となって光明子を生みました。


ウイッキベディア・・・藤原広嗣の乱
藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は、奈良時代に起きた内乱。藤原広嗣が政権への不満から九州の
大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された。
   
天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、
藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、
大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
        ****************************
737年、藤原四兄弟が亡くなり、藤原氏は弱体化しました。この後、代って政治を担ったのが
この橘諸兄とされますが、そうではありません。
高市大王や忍壁大王、そして長屋王の王子たちがまだ健在でした。
本来の王家の人物、長屋王の実弟である鈴鹿王が大王に即位していたのです。
聖武天皇が放浪している期間に留守役だったとされる、この鈴鹿王が本来の大王であり、
吉備真備や玄昉を重用し側近に置いたのは、この鈴鹿王です。奈良京は存在していました。

そして、藤原宇合の長男である藤原広嗣は、この橘諸兄に対して不満を持って反乱を
おこしたとされます。吉備真備や玄昉を除こうとしたとされます。これは通説ですが
間違っているように思います。

藤原広嗣と橘諸兄は対立していたとされます。たしかに藤原氏間でも権力争いはあったでしょうが、
藤原四兄弟が亡くなり弱体化しているときに、どうして藤原同士で争うのでしょうか?おかしいですよね?
矛盾するように思うのですが・・・?
この時期に藤原同士で争うのはおかしい。この乱に関しては違うように思うのですが?

そうではなく、藤原広嗣を、九州大宰府においやったのは、この大王である鈴鹿王です。
ですので、藤原広嗣は不満を持って反乱をおこしたのです。
奈良京にて大王に即位していたのは、この高市大王の王子であり長屋王の弟の鈴鹿王です。

そして、この乱の最中に、聖武天皇は突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め
平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行うという謎の行動をすることになります。
ですが、これらの行動も謎でも何でもないですよね。わかりやすくいえば、藤原氏、
藤原広嗣が九州で反乱をおこしたため、争いが激化し、藤原の天皇である聖武天皇は危険を感じ
奈良京を離れたのです。
反乱は鎮圧されたため奈良京には戻れなくなってしまったのです。
つまり、藤原の王である聖武天皇は奈良の都から追い出された状態にあったともいえます。

しかし、藤原氏側の主張では、聖武天皇は王であり、王のいる場所は都であるので、
遷都したとしているわけです。

本来の大王である、高市大王の王子である鈴鹿王が本来の正統な王です。
天武大王ー高市大王ー忍壁大王ー 長屋大王ー鈴鹿大王

草壁、持統から繋がる、聖武天皇のお父さんである文武天皇は傍系の人物です。
それは、持統のお父さんである天智に問題があるのです。天智の出自に関しては、
渡来人の血が入っていて王になるのは遠い存在でした。
系譜を、大王ではなく天皇の呼称を用いて改竄したのです。

聖武天皇のお父さんである文武天皇は、天武と持統の王子である、草壁皇子と元明天皇との皇子です。
藤原氏が関わったのはこの聖武天皇です。
この聖武天皇のお父さんである文武天皇も、王ではありませんでした。
文武天皇が天皇だったという主張もまた藤原氏のものです。

天武の本来の皇后は額田王なのですが、持統を皇后として系譜を改竄したのです。
聖武天皇のお父さんの文武は王ではないのです。
さらに母さんが、王家の女性ではない藤原宮子(藤原不比等の娘ではないとの伝説も
語られています)であるため、本来は聖武天皇は、王に即位するのには遠い存在でした。

そのため、天武の皇后を持統にする必要があったのです。さらに持統のお父さんである、
天智の出自を変更し天皇に即位していたとする必要があったのです。
本来は皇后である額田王の王子、高市皇子が王位継承の筆頭であり、実際に大王として即位していました。
この高市大王の王子の長屋王もまた大王でした。しかし彼らと対立し殺害したため、彼らは大王だったとは
出来ないのです。

744年、聖武天皇の第二皇子である安積親王が急死することになります。
聖武天皇と光明皇后との間に産まれた基親王は既に亡くなっていて、藤原系の王は男王は
この安積親王だけです。暗殺されたともいわれます。

ですのでふたたび王家と藤原氏の対立が激化したのではないのだろうか?

そして、745年、高市皇子の王子であり、本来の大王である鈴鹿王の崩御します。
744年安積親王が急死し、翌年今度は鈴鹿王が亡くなる。どちらも殺害された可能性もあるのでは?

たしかに安積親王は、聖武天皇と県犬養広刀自との皇子であり、藤原の血が流れていません。
ですので、藤原氏による暗殺説がありまが、そうではなく、敵対する鈴鹿王側により暗殺された?
藤原氏はそう感じていたのではないのか?

それは、光明皇后は県犬養橘三千代の娘であり、橘 諸兄もまた県犬養橘三千代の息子であるからです。
県犬養氏は藤原側の氏族だからです。安積親王が殺害された?(少なくともそう思っていた)ため、
藤原氏、橘奈良麻呂は鈴鹿王を殺害したのではないのか?

この鈴鹿王の崩御後に、藤原の時代になったともいえます。
そしてこの後もまた、藤原氏は、長屋王変の時と同様にに次期王座に就くことが出来る、
将来のの藤原氏に敵対することになるであろう王家の人物を何人も殺害します。

ですが、藤原氏は本来の王家の大王や王子たちを、何人も殺害したとは書けないのです。
我々は王家と対立していて、その王家の王や王子たちを何人も殺害し王座を簒奪しましたとはできません。

その王家に対するクーデターが、この橘奈良麻呂の乱ではないのか?
この乱に関しても、長屋王の変・・・長屋王は国家を傾ける陰謀や謀反を企てたという嫌疑をかけらられ
死に追いやられたということと同様の、藤原氏による陰謀ではないのか?そう、橘奈良麻呂の乱ではなく、
橘奈良麻呂の変である。つまりクーデターです。


ウイッキベディア・・・橘 奈良麻呂
奈良麻呂は聖武天皇の唯一の皇子で自らの縁戚にあたる安積親王の擁立を目指していた。
しかし、天平16年(743年)安積親王が急逝してしまい聖武天皇の皇子がいなくなる状況下で、
翌天平17年(744年)9月に聖武天皇が行幸中の難波宮で病気に倒れると、
阿倍内親王を皇嗣と認めない奈良麻呂は事変の発生を予想し、多治比国人・多治比犢養・小野東人・佐伯全成ら
を勧誘して黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せている。

     ****************************
長屋王は国家を傾ける陰謀や謀反を企てたという嫌疑をかけらられ死に追いやられたということと、
同様の藤原氏による陰謀ではないのか?

鈴鹿王の崩御はこの744年の9月です。橘奈良麻呂は、安積親王の急死をこの鈴鹿王の仕業と考えていた
のではないのか?
また聖武天皇が病気に倒れるということもあり、危機を感じ鈴鹿王を襲ったのではないのか?

橘諸兄は藤原の人物であり、息子である橘奈良麻呂も同様に藤原の人物です。聖武天皇をかくまっていた
ともいえるのがこの橘諸兄であり、聖武天皇側の人物です。
奈良麻呂は黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せたことから、阿倍内親王を皇嗣と認めないとされます。
これも定説ですが、間違っているのでは?

それは、この時の王は聖武天皇ではなく鈴鹿王だからです。阿倍内親王を皇嗣と認めないということでの
擁立ではないのです。
それは何度も云っていますが、「天皇」と「大王」は異なるということです。阿倍内親王は天皇にはなれます
が大王にはなれないということです。「天皇」は本来女帝の名称です。

推古天皇 ー皇極天皇ー 袁智天皇 (遠智娘)ー斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇 ー元正天皇ー 孝謙天皇(称徳天皇)

初代天皇は推古天皇です。そして、孝謙、称徳天皇以降は女帝の名称ではなく、王の名称に変わったのです。

光明皇后は藤原不比等と県犬養橘三千代との娘です。 そして橘諸兄もまた美努王と、お母さんが同じく
橘三千代(県犬養三千代)です。橘 諸兄にとって光明皇后は異父妹になります。
その聖武天皇と光明皇后との娘である阿倍内親王が王座に就くことを、橘 諸兄の息子である橘奈良麻呂が
反対するわけありません。また、安積親王は聖武天皇と、県犬養広刀自との皇子です。

橘奈良麻呂が対立していたのは、この時の大王である鈴鹿王です。つまり鈴鹿王はこの橘奈良麻呂によって
殺害されたのではないのか?

この後、つまり鈴鹿崩御後に藤原氏王の時代になります。つまり聖武天皇が王に即位したのは、745年であり、
この時初めて平城京に遷都したのです。この時に、藤原政権が確立したことになります。


しかしまだ藤原氏に対抗する勢力は残っていました。長屋王の王子たちもまだ健在でした。


ウイッキベディア・・・
橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、
天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。
    ********************
この奈良麻呂は橘諸兄の 子供です。そして藤原仲麻呂は、武智麻呂の次男です。
ですので藤原氏の本流です。この乱に関しても、どちらも藤原同士であり争うのはおかしいですよね。
よくある手口です無実の罪で殺せませんですからね。そして未遂に終わったとされるように、実際に乱なんか
おこっていませんよね。藤原氏の陰謀でありまたも無実の罪をきせようとしています。

藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てた・・・こう推測されていますが、そうではない。

橘奈良麻呂の乱とされますが、次の王座を争う王家と藤原氏の戦争でありここが改竄個所です。
王家を滅ぼしたとは書けないのです。橘奈良麻呂の乱ではなく、これもまた「藤原の変」で
ありクーデターです。

この橘奈良麻呂の乱は作り話です。藤原氏と王家の次期王座をめぐる争いです。
本来反乱を起こしたのは藤原氏であり、争いのきっかけ作りの反乱計画であり改竄個所で
はないのだろうか?

反乱を起こそうとしたというのは、藤原氏の言いがかりです。解かり易い例は長屋王の変、
有馬皇子の謀反計画ですかね。
長屋王の変は、多くの学者先生が語るように藤原氏の陰謀ですが、この橘奈良麻呂の乱に関して同じことが
いえるのではないのか?

そう感じるのは、この争いによって藤原氏に対抗する勢力は一掃されている。
橘奈良麻呂の乱を、謀反とか反乱とか言っているのは藤原氏の主張です。実際に反乱なんておきていません。
それは、王家の人物を何の理由もなく処罰し殺害できないからです。

それが証拠に首謀者とされる橘奈良麻呂は、結局どう処分されたかは不明です。
反乱の首謀者である橘奈良麻呂が何ら処罰されていないということはありえません。
藤原氏の人物である、藤原南家の右大臣・藤原豊成や息子の乙縄も事件に関係したとして、
大宰員外帥に左遷されとされますが・・・のちに復権しています?

結果だけ見ると、これによって藤原氏に対抗する勢力は一掃されている。ですので、
橘奈良麻呂の乱というのも
藤原氏の陰謀にしか思えないのですが?・・どうなのでしょうか?

藤原氏と対立していたのは、処分されたとされる多治比氏 、大伴氏 、佐伯氏 、賀茂氏 、小野氏 などである。

これ結局は天武から繋がる次期大王候補である本来の王家の人物を殺している。これで藤原は権力、王座を乗っ
取ったわけです。

長屋王の変に関してもは、長屋王だけではなく、将来の藤原のライバルになるであろう、王子たちを亡き者に
する目的もあったわけです。
この橘奈良麻呂の乱というのも同様である。実際に乱は実行されてはなく、藤原氏の言いがかりです。

この長屋王の変で、長屋王と吉備内親王の王子たち、膳夫王、桑田王、葛木王、 鉤取王が藤原氏によって
殺されている。

しかしこの時、長屋王の王子たちでも、お母さんが藤原不比等の娘(藤原長娥子)である、安宿王、 黄文王、
山背王は生き残りました。
ところが、この橘奈良麻呂の乱においては、罪を問われ安宿王は流罪、そして黄文王は獄死したとされます。
長屋王と藤原不比等の娘の子供たちということは、本来の大王と藤原氏の子供たちともいえます。
藤原氏にとっては、望んでいた王家と繋がりを持つ重要な王子たちのはずです。

それが、どうして藤原仲麻呂は彼らを殺害するということになるのでしょうか?私は非常に不思議に思うのですが?
系譜が改竄されているように思うのですが・・・実は聖徳太子に関係します。

この聖武天皇の謎は次回に続きます・・・




写真は紫香楽宮跡そして恭仁京跡です。今年は桜の開花が早かったですよね。いつもは奈良までお花見に
行くのですか、今回は奈良から滋賀県の甲賀市にある鮎河の千本桜を見に行きました。
和歌山から奈良、そして滋賀に向かいましたので、
途中、恭仁京跡、山代国分寺跡、そして紫香楽宮跡によりました。
今では車で向かえばそう時間がかかりませんが、
写真でもわかりますがこの紫香楽宮は、かなりの山奥ですよ。

こんな山間部が都になるわけありません。平城宮からはあまりにも遠く、不便であり政治を
行える場所ではありません。政治を行うにはそれなりの施設が必要です。

聖武天皇が滞在したから都だとするのは藤原氏の主張でしかありません。
聖武天皇は大王ではありません。また天皇でもなかったと思います。
藤原氏はこの傍系の人物を利用したともいえます。それは藤原光明子の夫だからです。

藤原広嗣が九州において兵を上げ反乱をおこしました。聖武天皇と光明皇后は
奈良京を離れ皇后である光明皇后の異父兄にあたる 、橘諸兄の本拠地に避難したのです。
おそらく、紫香楽には大仏を造立しようとしていたのだと思います。
戦乱が続く中、仏教に救いを求めたのでしょうか?
この聖武天皇は、後に、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位することになります。
それは、聖武天皇自身は藤原の血が流れていないからでもあります。

聖武天皇は崩御の際、何故か新田部親王の子の 道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てる
ことを遺言に残しました。どうしてなのだろう?

次回は聖徳太子も関わるであろう、聖武天皇の系譜の謎を考えてみたいと思います。



                          

    



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白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎

2018年02月26日 | 日本書紀の謎


旅さらら、飛鳥・橿原の観光ガイドブックから・・・
大宝律令を制定し和同開珎を作った時代
701年、文武天皇が、刑部親王と藤原不比等らに作らせた「大宝律令」。
「日本」という国号が初めて定められた最初の法典でした。飛鳥時代と奈良時代をつないだ藤原京16年
の歴史は、国の骨格が作られた重要な時代だったのです。
    *************************
このガイドブックにも、そして案内板にも、数々書籍等にも「藤原京」、「藤原宮」の名称がが使用
されています。誰もおかしいとは思わないのでしょうか?(>_<)

続日本記なんて藤原氏の時代、藤原の主張でしかない。

万葉集・・・巻二(一九九)高市大王への挽歌

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 

わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香久山の宮」は、万年の世を過ぎても
なくなることは考えられない。

高市大王が新たに造りはじめた宮を、「香具山の宮」と表現しているでしょう?あたりまえだけど、
藤原の宮なんて、宮の名を臣下の名で呼んでいたはずはない。ありえません。
この「香具山の宮」は高市大王の宮です。都城の名を宮の名からとるのであれば、 「香具山京」です。

古代の王家の人物を何人も殺害してきたのはこの藤原氏です。ですので、この「藤原京」、「藤原宮」
の名称には反対です。都城の名称に「藤原」なんて使うべきではない。
「藤原宮」というのは藤原不比等の邸宅のことです。

今回は、この「大宝」などの元号に関してのお話です(^o^)丿
それで、これら年号を調べていると出てくるのが「九州年号」といわれる年号なのですが、・・・もちろん、
九州年号なんてありえないわけですが、ではこれらの年号はなんなのだろうか?神社などの記録に
記述されているようです。この九州年号に関しても少し考えてみます。


歴史を改竄したのは藤原氏であり、この「元号」に関しても藤原氏の私年号が含まれているのでは
ないのかな?
高市大王、長屋王が大王だったとすると、その時代に天皇だった、持統、元明、元正は王ではないのです。
ですので、この時代に使われていた年号は、この藤原氏の私年号が使用されている。

同じことが、蘇我氏が権力を握っていた時代にも言えるのではないのか?蘇我氏を本来の王家と
繫げる改竄をした、天皇記・国記の編纂時です。

蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされるこの天皇記・国記において年号が記載されていたのではないのか?
天皇記・国記の編纂時以前に使用されていたとされる年号は、この蘇我氏の歴史書の編纂時に作られた
年号ではないのか?

そう、もしかしたら、この元号を初めて作ったのは聖徳太子ではないのだろうか?その可能性についても
考えてみます。聖徳太子か蘇我馬子だと思うのですが・・・?
この時期には朝鮮半島の新羅においても既に年号は使用されていたこともあり、日本でも新たに年号の
使用が始まったのでは?

聖徳太子、・・・二人いますが、厩戸皇子 こと押坂彦人大兄皇子と、仏教を興した方の聖徳太子・・・推古の息子
である竹田皇子です。


蘇我氏と藤原氏が使用した私年号、・・・解かり易く言えば、「大王」と「天皇」、王座が二つある状態でした。
つまり、年号に関しても「大王」の年号、「天皇」の年号が存在しているということです。
天皇記・国記は蘇我氏の歴史書であり、記紀や続日本記は藤原氏の歴史書です。

本来の、王家の年号と、蘇我氏、藤原氏の私年号が混同しているのでは?

この「大宝」は長屋王の年号であり、これは本来の年号、そう大王側の元年である。
700年が長屋王が大王に即位した年です。奈良京遷都は、翌年の大宝元年である701年です。
奈良京と平城京は異なります。

ウイッキベディア・・・元号
皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも随意に行われる変更(改元)によって再度元年から数え直され、
名称も改められる・・・

君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、
「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。

また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように、
後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。
   **************************
元号は、年号ともいわれ、普通は王が即位したたときに行われるということで、治世の途中に
改元されることもあるようですが、本来はその王の在位期間続くということですよね。
改元については、この王の交代により改元される、代始改元の他にも、祥瑞改元,災異改元,
革命改元の4種があるとされます。

蘇我氏の台頭以降「大王」と「天皇」、王座が二つあるという状態でもありました。
本来は、代始改元は、即位した年か、翌年に改元される。ですので、長屋王が大王に即位したのは、
700年か、大宝元年の701年であり、王が変わったから年号が変わったわけであり、王が即位したから
都が変わったのです。年号の建元の形式でとしては普通の代始改元です。

王が即位した年か、その翌年に改元される代始改元というのが、改元の理由としては重要な理由で
あるはずです。

ただ必ずしも在位期間の間、元号は続いたとする、一世一元とは言えないようですが、長屋王が大王
として在位した、701年から729年までの期間が大宝年間のようにも思うのですが?

この大宝の期間に存在する、年号の慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀は、いわば藤原氏の私年号である。
続日本記は藤原氏の歴史書です。藤原氏は、対立していた高市皇子や長屋王を大王に即位していたとは
したくないのです。

そう思うのは、藤原氏側である天皇が即位したときなどに改元しているのです。以下は全て藤原氏の私年号です。
藤原氏に関係する天皇の即位年やその翌年の改元です。

慶雲・・・ 704年から708年までの期間。
大宝2年(702年)に崩御した持統天皇のあと、文武天皇は、703年に天皇に即位しその翌年の改元である。
つまり、本来の文武の天皇即位の翌年の改元です。
しかし大宝律令などの功績を、藤原氏が関係する(夫人が不比等の娘の宮子)、この文武天皇功績と
するために、697年に即位したとしている。藤原氏の主張であり、本来の大王を消し去る操作が行われている。
和銅・・・ 708年から715年までの期間
  元明天皇即位の翌年の改元。
霊亀 ・・・715年から717年までの期間
元正天皇 の即位年。
養老・・・ 717年から724年までの期間
藤原の天皇ともいえる聖武天皇の15歳において成人しての即位の翌年。
翌年には藤原不比等が養老律令を選定したとされます。
神亀 ・・・724年から729年
元正からの譲位された724年から729年までの期間
天平・・・729年から749年までの期間
長屋王崩御年である729年から、聖武天皇崩御年である749年までの、いわば藤原の天皇である聖武天皇の
本来の在位期間。


この時代に天皇だったとされる文武天皇は697年に即位したとされます。本来はこの年か翌年に改元
されるはずです。それが、何故に701年に大宝と改元したとされるのでしょうか?おかしいですよね。

持統は天皇ですが、大王ではない。同様に文武も天皇ですが、大王ではない。
「大宝律令」は、文武天皇が作らせたのではなく、 長屋王が作らせたのです。藤原氏により、
長屋王や忍壁大王による功績も変更されている。

天皇の呼称を使用して歴史を改竄している。
天武の生年が不明というのはありえません。意図的に消し去っています。高市大王や長屋王もまた不明です。

高市大王の後は、長男である長屋王が大王に即位する予定でした。ですが、まだ刑部(忍壁 皇子)は、
まだ若い長屋王を補佐する関係にあったか、あるいは忍壁 皇子も即位していたかもしれません。

それで、大宝元年は701年でしょう。高市大王が崩御したのは、696年です。長屋王はいつ生まれたかは、
はっきりしないようですが、いままでいわれていたように684年の生まれでいいのでは?
684年の生まれであり、46才崩御の記述は公卿補任 、扶桑略記 、尊卑分脈の史料に記述されています。

万葉集からも明らかかなように長屋王のお母さんは阿部氏の姫王である明日香皇女です。
そして、高市大王が崩御したときは、まだ長屋王は若かったのです。
高市大王の崩御した696年では、長屋王はまだ幼かったこともあり、この 忍壁 皇子が彼を補佐する
立場にあったのです。
長屋王は、696年の時点では、いまだ12歳ということもあり、15歳以上にならなければ立太子
されないため、成人になるまでの間、忍壁 皇子が大王に即位していたのです。
その後、長屋王が成人した後である、この700年に大王に即位したのです。そして翌年改元されたのです。
王が変わったから年号がかわったのです。「大宝」は長屋王の年号です。
この大宝元年である701年が、奈良京遷都年です。

この年号ですが、・・・ふつうは王が交代したときに改元さるのが年号の建元の形式でとしては
普通の代始改元です。
この「大宝」は長屋王の年号、その前の「朱鳥」はお父さんである高市大王の年号です。
あたりまえだけど、普通は王の交代により改元されるわけですよね。ですがこの「朱鳥」は実に不思議な年号です。

ウイッキベディア・・・朱鳥
天武天皇15年7月20日(ユリウス暦686年8月14日)に朱鳥と定められ、32年ぶりに再開された。
しかし同年9月9日(ユリウス暦10月1日)に天武天皇が崩御すると、早くも翌年より用いられなくなり、
以後15年にわたって一時途絶する。
    ************************
この年号の朱鳥は、天武崩御年の686年7月に定められたとされます。そして天武が9月に崩御した
関係でしょうか?なぜか、わずか一年程しか使用されなかったとされますが、そんなわけないですよね。
年号の建元の形式としては全くおかしいですよね?
何故に建元されたかは、全く説明できないでしょう。これはもちろん、高市皇子の即位の時の年号とは
したくはないからです。高市大王、長屋王と対立していたのは藤原氏です。
つまり、この「朱鳥」は天武の元号とされますがそうではなく。
前の年号とされる、「白鳳 」が天武の年号です。

ウイッキベディア・・・白鳳
中世以降の寺社縁起等では672年〜685年の期間を指すものもある。
  *********************************
この年号の「白鳳 」は、寺社縁起などには、天武の在位期間と重なるものもあるようです。
この「白鳳 」は天武の年号である。
天武在位期間は、673年から686年とされますが、そうではなく、672年〜685年の期間では
なかったのか?そして、この時代は一世一元であったのでは?

686年の崩御年に改元されたのではなく、・・・天武崩御は、686年ではなく685年だろうか?
これ、おそらく、686年としたのは、持統が687年に天皇に即位したからでしょうか?
つまり、「朱鳥」の年号は実際に使用されていたから消すわけにもいなかったのでは?
翌年の686年が、朱鳥元年であり、高市王子が大王に即位した年です。
年号の「朱鳥」は高市王子が大王に即位したから年号が変わったわけです。

天武が崩御した年は685年であり、持統が即位したのが687年だからです。
しかし、たった一年間(実際には2か月程?)とされますが、そんなわけない。これはありえない。

高市皇子が大王に即位していたとしたくないために、本来は高市王子の年号の「朱鳥」を、在位期間から外し、
天武晩年しかも一年で使われなくなったとしたのです。藤原氏は、高市王子が大王に即位していたとは
したくないので、変更したため不思議な年号になっているのです。日本書紀は変更したのだけど
他の文献にはそうではないとの証拠が残っています。

ウイッキベディア・・・「朱鳥」
『日本書紀』では687年を持統天皇元年としているため、686年だけの元号であることは確かである。
   ***********************
「朱鳥」は一年だけしか使用されていないとされます。しかし、そんなのありえないわけです。
天武の晩年に改元する理由がないのです。そして、天武の崩御後は、新たな元号は定められなかった
とされますが、そうなのだろうか?

「朱鳥」は686年だけの元号であることは確かであるとされていますが、そうではない。
それは、持統は天皇ですが、大王ではないということです。ですので、「朱鳥」の年号は一年以上
使用されています。
この日本書紀なんて信用できない。事実はそうでないということが、万葉集などから分ります。
持統は天皇ですが、大王ではない。日本書紀はあくまで、天皇側の主張でしかない。
これはつまり藤原の主張である。

高市大王、長屋王が大王に即していたことが消されています。ですので年号も消し去る必要があったのです。

この「朱鳥」も、王が変わったから、つまり高市王子が大王に即位したので年号が変わったのです。
「朱鳥」は高市大王の年号です。
ですので、本来は「朱鳥」の年号は、高市大王が696年に崩御するまで使われていたはずです。
実際に使われていた年号であるので消し去るわけにはいかず、しかも天武崩御後であれば、
王に即位したための改元ともみなされるので、天武晩年に、そして一年ほどで変わったとしたのです。

しかし他の文献には、以降にも「朱鳥」の年号の使用された例があり、嘘がばれています。

ウイッキベディア・・・
「万葉集」、「日本霊異記」などには、朱鳥4年、6年、7年、8年などが見える。天武天皇の
代の文献には、朱鳥と朱雀の2つの年号が見える。
   *********************************
日本書紀によると「朱鳥」の年号は一年しか使用されなかったとされますが、嘘がばれていますよね。
何故かというと、そう高市大王を大王だったとしたくないからです。王に即位したから年号が
変わったわけです。
同様に、「大宝」もそうです。長屋王が大王に即したから年号が変わったのです。
この指摘のように、朱鳥は8年までの記述が残っています。ですので高市大王が696年に崩御
するまで使われていたはずです。「朱鳥」は高市大王が王に即位した686年から696年まです。
大王としての在位期間です。
「朱鳥」は天武の年号ではなく高市大王の年号です。

そして、万葉集に高市大王が崩御した朱鳥10年の記述があります。
万葉集 202
泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ

泣沢神社にお酒を捧げて祈っていたのにわたしの大君(高市大王)は天をお治めになってしまわれた。

柿本人麻呂の高市大王への挽歌の反歌です。作者は檜前女王とされます。この檜前女王とは、
もちろん阿部氏の姫王である皇后の明日香皇女のことです。キトラ古墳の被葬者であり、檜前(檜隈 )の地は
阿部氏の領土です。この、檜前女王とは皇后の明日香皇女のことです。
高市大王の病気(毒を盛られた?)が快復するように、神様にお祈りしていたのに亡くなられたという歌です。
朱鳥10年、696年のことであり、この「朱鳥」は高市大王の在位期間と重なります。
つまり一世一元であるということです。
この「朱鳥」は大王側の年号であり、本来の年号です。

そして、「朱鳥」と、もう一つ「朱雀」年号があるようです。
ウイッキベディア・・・「朱雀」
『続日本紀』の神亀元年(724年)冬十月の条には「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、
尋問明め難し。」という記述がみられる。
    **************************
年号が、白鳳ー朱雀ー朱鳥の順ならこんな記述の仕方はしないわけですから、白鳳ー朱鳥ー朱雀のはずです?
つまり、「朱雀」は「朱鳥」の後に使用された年号なのでは?

この「朱雀」は、おそらく、長屋王が成人し即位するまでの年号、697年から700年までの年号、
おそらく 忍壁皇子の年号だと思うのですが・・・?
実は、忍壁 皇子も大王に即位していたのですが、その事実が消されています。彼らを大王だったと
したくないために、日本書紀から消されている年号です。ですので、私年号とされますが、本来はそうではない。
日本書記は改竄したのですが、他の文献などに残っています。

高市皇子が持統天皇10年の696年に薨去したとされます。持統はまだ健在なわけですから、
この時合議が行われる理由がありません。
これは、何度も云いますが、持統は天皇ですが、本来の王ではないということです。

合議が行われ軽皇子、後の文武天皇が皇太子になったとされます。これは藤原氏の嘘であり、
ここが改竄個所です。文武天皇の皇后は不比等の娘とされる藤原宮子であり、その息子の聖武天皇の皇后も
また不比等の娘である光明子です。

同様に、吉野の盟約において天武と鸕野讚良皇女こと持統天皇の間の息子である、草壁王子を天皇にすることを
誓わせたというのも、藤原氏による改竄個所です。天皇側の主張であり、文武天皇のお父さんはこの草壁王子です。


本来は、大王である高市大王が崩御したので、合議が行われたのです。
それは王子である、長屋王がまだ幼かったからです。長屋王が成人するまで、
忍壁 皇子が大王に即位するということが話し合われたのです。
長屋王は、696年は12歳であり、15歳以上にならなければ立太子されないからです。
成人になり後継者として認められた、700年に大王に即位し、翌年改元されたのです。
この合議では、まだ幼かった長屋王が成人するまで、忍壁皇子が大王に即位することが決まったのです。
ですので、「大宝」は、王の交代により改元される、代始改元です。

記紀などには、この忍壁皇子が大王に即位したことが消されていたのですが、
実は、この忍壁皇子が大王に即位していたことが、万葉集の歌ににあるのです。

万葉集、巻三の冒頭の柿本人麻呂の有名な歌です。 この大君とは、天武か、持統のことだとされますが、
そうではなく忍壁大王のことです。
忍壁皇子のことを「大王」と詠んでいます。

万葉集 巻三(二三五)
大君は 神にし座せば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも

或本に云ふ、忍壁皇子に献れるなり、その歌に曰く、

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きゐます。
    *****************************
或本に云ふ、・・・柿本人麻呂が大王である、忍壁皇子のことを詠んだと記述されているように、忍壁皇子は
大王であり神であるので、 雷山に宮を建てたと詠んでいます。高市大王崩御後、長屋王が成人するまでの間、
この忍壁皇子が大王として即位していたのです。
宮敷座・・・つまり大王である忍壁大王の行宮(かりみや)のことを詠っているのです。実際に雷山の山頂には
宮が建てられていたのです。この忍壁大王の年号が、「朱雀」です。

ウイッキベディア・・・ 小治田宮
淳仁・称徳朝にあっては、両天皇の行宮として営まれた。藤原京の南東端に近い雷丘東南の雷丘東方遺跡
3次発掘で「小治田宮」と記す墨書土器破片が多数出土した。これは奈良時代の淳仁朝にかかわる墨書で、
この付近に「小治田」の地名があり、天平年間末年から平安時代初期ころまでにかけての小治田宮が
あったことがかなり有力になってきている。

     *******************
この雷丘の、東部、あるいは東南部あたりに淳仁・称徳朝の小治田宮があった場所だと推測されています。
推古天皇の小墾田宮に関しては、従来言われていたのは古宮遺跡です。しかしここからは宮跡は
発見できていません。
ですので「小治田宮」と記す墨書土器破片が出土したこの場所もまた推古天皇の小墾田宮の跡地
として有力候補になっています。
しかしどうなのだろう?推古天皇の小墾田宮なんて本当にあったのだろうか?

ここは、もとは忍壁王子の祖母である皇極が、飛鳥板蓋宮に遷都するまで、少しの期間ですが遷都して
いたとされる小治田宮であり、後に即位し忍壁大王の住居、つまり宮といえます。
そこを行宮として新たに作り替えたともいえます。
それで、本当に歌のように山頂に宮を新たに建てたのでしょうか?
さらに、淳仁・称徳朝においても両天皇の行宮となったのです。この二人は天武系の天皇、そう本来の王たちです。


万葉集の歌にあるように、この遺跡は雷丘を含むような形であり、山頂には・・・雷山に 宮敷きゐます・・・
そう歌にあるように、柿本人麻呂は、雷山の山頂の宮を、実際に見て詠んだ歌なのではないのかな?

天雲の 雷の上に、雲隠る 雷山に・・・小さな山ですので、たしかに大げさな表現ですが、
この雷丘の地名の起源は、雄略天皇の時代に、少子部連蜾蠃 が、ここで雷を捕らえたという記述に
由来するともいわれます。

雷山に 宮敷きゐます・・・長屋王が成人するまでの、いわば行宮(かりみや)です。

忍壁皇子は「大王」であり、「神」であり、宮を営なんだと詠っています。
この歌は消し去っていたのですが、最後の編纂時に付け加えられてしまったのです。
柿本人麻呂は、大王である、天武、高市、忍壁、長屋王に仕えた宮廷詩人です。
「朱雀」を含む四神の壁画が描かれていた、高松塚古墳とキトラ古墳は 、まさにこの時代に
造られたものです。

「朱鳥」は高市大王の年号であり、「朱雀」は、忍壁大王、「大宝」は長屋王の年号です。
そして「白鳳 」はもちろん天武の年号です。

大宝元年である701年は、長屋王が大王に即位した翌年であり、この年こそ、奈良京遷都年です。
王が変わったので改元され、都が変わったのです。大宝律令は長屋王の時代に制定した律令法典です。

天武(白鳳)-高市大王(朱鳥)-忍壁大王(朱雀)-長屋大王(大宝)

彼らが大王だったことが消されています。元号は王が交代したから改元されるということです。
そしてこの期間の元号は一世一元です。

しかし、高市皇子が大王に即位したから年号が変わったとしたくないのです。
ですので、「朱鳥」の年号は一年しか使用されなかったわけはないのです。
一年で改元したというのは、この年号が大王に即位していたことを消し去った高市大王の年号であり、
持統が687年に天皇に即位したからです。
天武の晩年の年号などではなく、本来は高市皇子の年号なのですが、彼を大王に即位していたと
したくないために、天武晩年を一年延ばしたのです。本来は、白鳳時代が天武の御代です。

大王と天皇、王座が二つあるという状態でもありました。
高市大王や長屋王を大王に即位していたことを消し去っています。
だから、本来は高市大王の年号の「朱鳥」は在位期間の10年間続いたわけですが、大王に即位していたとは
出来ないために、持統が天皇に即位した年には元号が変わったとしているわけです。

天武以降は本来の元号と、王家と藤原氏の元号、つまり、大王側の元号と天皇側の元号が存在する。
この天皇側の元号というのが、藤原氏の私年号であり、そして蘇我氏の私年号なのです。


藤原氏により彼らが大王に即ししていたことが消されている。この「大宝」は長屋王が王として
在位していた期間、本来は、この701年から729年までです。しかし藤原氏の台頭により、
藤原氏が関係する天皇たちが即位したときに改元が行われるようになった。

続日本記により、長屋王は王などではないと改竄され、この「大宝」の年号を消し去るためにこの期間に、
他の年号が入れられている。当たり前だけど729年までとは出来ないのです。
701年から729年までには、慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀は、いわば藤原氏の私年号である。
天皇側の元号である。続日本記は藤原氏の主張でしかない。

これら年号を調べていると出てくるのが「九州年号」なのですが、・・・
以上の理由により、大化、 白雉 、白鳳、 朱鳥、 朱雀の年号は九州年号などではない。
藤原氏によって改竄された、本来の年号である。年号が変わるのは、当たり前だけど本来は王が
変わったからです。本来の元号以外のものは、蘇我氏や、藤原氏の私年号です。

大化が最初の年号とされますが、そうではない。聖徳太子がこと、天武の祖父である押坂彦人大兄皇子
の年号である「法興」が、最初の年号であるのでは?押坂彦人大兄皇子でが大王に即位した、
法興元年(593年)から、崩御年である、624年までの期間である。


そして九州年号ですが、・・・
鎌倉時代初期に成立したとされる二中歴といわれる辞典には、最初の年号とされる大化より
古い年号の記述があり、これらの古い年号は大和王権の年号ではなく、九州王朝で使用されていた
九州年号ではないのか?という説です。

しかしどうなのだろう?これらの古い年号は、王家と対立していた蘇我氏の私年号なのでは?
そう感じるのは、いままでこのブログで記述してきましたが、蘇我の天皇の時代の記録だからです。

継体天皇、欽明天皇、推古天皇は、大王ではない。いわば蘇我の王の側の人物です。
蘇我馬子は天皇の呼称を使って系譜を改竄したのです。彼らは王ではありません。
蘇我氏が系譜を改竄し、蘇我の天皇の方(蘇我の女帝である推古のお父さんである欽明)が
古代の王家との繋がりがあるとして改竄した継体天皇以降の年号だからです。改竄した系譜の蘇我の王の
時代の年号だからです。

継体天皇は、古代の王家が断裂したとするための人物にほかならない。蘇我の王の正当性を
主張するために、蘇我の天皇である、推古のお父さんの欽明が新たな王朝の始祖であると改竄したしたのが、
蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる 天皇記及び国記です。

蘇我の時代が始まったとされる天皇からのある年号である。九州年号とされるものは、
この天皇記・国記で使用されていた蘇我氏の私年号なのではないのだろうか?
神社などの由緒にこの私年号が残ったのです。

ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
               —『日本書紀』推古28年是歳条
蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、
即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る
               — 『日本書紀』皇極4年6月条
   ****************************
蘇我馬子と皇太子(竹田皇子)が編纂した、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書です。
この歴史書により古代の歴史は改竄されました。
消失してはなくこの蘇我氏の歴史書を基に後の歴史書は編纂されたのです。
ですので、聖徳太子こと竹田皇子がこれらの年号を作ったのではないのか?

古代の歴史を改竄したのは蘇我氏と藤原氏。これら年号は蘇我馬子が関係する。
蘇我の王ともいえる推古天皇のお父さんである、欽明天皇や祖父の継体天皇は、王だったとするのは
蘇我氏の主張である。

継体天皇や欽明天皇にある年号は、この天皇紀・国記作成時に作られたものであり、後に神社などの
由緒を変更するときにこの蘇我氏の年号を使用して変更させられたのです。
それは、古代の王家は物部だったからであり、物部の神様を祀らないように変更させられた
神社などに残った年号です。

この「大宝」以前の本来の元号以外の、九州年号ともいわれる元号は、蘇我氏の私年号である。
そしてこの私年号は代始改元ではないようです。
おそらく、天皇記・国記に記載されていた蘇我氏の私年号である。これらは蘇我氏の歴史書であり、
蘇我の時代になり、蘇我氏の私年号を使用して神社などの由緒を書き換えたのです。

編纂に関わったのは、蘇我馬子と竹田皇子です。つまり、この推古の息子である竹田皇子、
つまり聖徳太子が、これらの元号を作ったのでなないのかな?・・・新羅が独自の年号を使用していた
時期でもあるので、日本はこの新羅よりも早くに年号を使用していたとしたかったのかな?

九州年号ともいわれる元号は、 天皇記・国記に記載されていた蘇我氏の私年号であり、これらの年号は
既に使用されていた新羅の年号に対抗するために真似てつくったものであるのですが、新羅より優位の
立場にあった日本としては、新羅の年号使用時より以前に既に使用していたとしたかったため、
天皇記・国記編纂時に作られたものである。

この九州年号とされる年号は、蘇我氏の私年号であると思うのは、これらの年号は継体からはじまり、
天皇との記述があるからでもあります。この蘇我氏の歴史書に合わせて、神社などの由緒を変更
させられたたのです。

九州年号とされる年号が記述されている由緒などには、継体天皇や欽明天皇などと、天皇の呼称が
使用されている。本来は、この時代には天皇なんて呼称はなかったわけですから、これらの由緒は、
天皇の呼称が作られた以降のものである。

天皇の呼称を使用したのは、この天皇記・国記編纂時であり、この天皇記・国記編纂時に過去の年号も作られて、
その年号や天皇の呼称などを使用し、改竄した蘇我氏の歴史に合わせてに由緒を変更している。
蘇我氏の主張は、古代の王家は断裂し、この継体天皇や欽明天皇から蘇我氏の時代になったという主張である。


蘇我氏が歴史を改竄したのが、この継体以降であるともいえます。本来、天皇とは蘇我の王のことです。
今まで述べてきましたが、継体天皇は王ではありません。継体は天皇であり、ここで王朝がかわったとする
主張は蘇我氏のものである。初代推古のお父さんである、欽明の方が正統であるとして、
蘇我氏を古代の王家に繋げたのです。

この九州年号というのは、蘇我氏が関係する継体に始まり欽明、そして推古の時代の由緒にある年号である。

神社の記録、特に、八幡さんが多い、この八幡神社は本来は物部関係の神社である。物部の神様を
祭ることを禁止し、蘇我の神様でもある応神天皇を祭るようになったのが八幡神社である。
そして、この応神天皇は架空の人物である。
さらに、天智・藤原の時代になって秦氏が関わることになるのです。

矢田八幡神社(京都府京丹後市久美浜町)
由緒・・・
当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と
蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、
宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた・・・
    **************************
よくこの由緒を残してくれました。蘇我氏の歴史書にあわせて由緒を変更させられた神社が存在するのです。

蘇我の時代になって、物部の神様を祀らないようになったのです。この、後の物部というのが、
古代の王家、大和王権です。
もう何度も述べていますが、この物部は広範囲に分布します。八十物部ともいわれ、非常に繁栄した
氏族だということがわかります。広範囲に分布していたということは、広範囲の領土を保有していたと
いうことです。この物部の神社も広範囲に分布します。

本来はこの八幡神社も物部神社でした。蘇我の天下となり物部の神様を祀ることが困難になり、
蘇我の神様を祀るように変更された神社が多数あるということです。この時に蘇我氏の私年号を使って
由緒を変更させられたのです。

物部の神様を祀る神社が、蘇我神社に変更させられ、後に秦氏が関わる、天智系天皇や藤原氏の時代になって、
八幡神社の名に変更したのです。八幡とは多くの秦という意味です。

宇左八幡宮もそうです。
ウイッキベディア・・・
社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、
大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、
護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)
を祭神とするのはそのためと考えられる。
  ********************************
由緒もやはり、欽明天皇の時代であり、蘇我の神様の応神天皇を祀るようになったという由緒です。
この主祭神とされる、誉田別尊こと応神天皇、と神功皇后は、蘇我の神様であり、蘇我の時代になって
祀られるようになったのです。
欽明天皇は、もちろん本来の大王ではなかったのですが、初代天皇である推古天皇のお父さんを、王、
つまり「天皇」だったとして系譜を改竄したのです。

この由緒も同じく、蘇我の天皇である欽明の時代だとして改竄されています。
本来の宇佐神宮の創建はもっと古いものです。

宇佐八幡宮の主祭神である、応神天皇とは蘇我の神様であり、宗像三女神とされる比売神はもとのこの地の
神様であり、神功皇后は本来は倭人伝にある台与のことなのですが、蘇我氏により息長足姫命に変更されている。
台与は物部姫であり。蘇我氏はもとは息長氏なのです。
もとは大和王権の神社です。蘇我の時代になって、由緒を書き換たのです。

使用した由緒は物部の神様を祀ることを禁止されたため、天皇記・国記に記述されていた蘇我氏の私年号使って
変更した由緒である。
変更された由緒が残っていたのです。九州年号などではない。この天皇記・国記は、蘇我馬子とと聖徳太子こと、
推古の息子の竹田皇子が編纂に関わっている。つまり、これらの年号を考えたのは聖徳太子の可能性あるのでは?

この時、蘇我の神様でもある応神天皇が祀られるようになったのです。

隅田八幡神社人物画像鏡

ウィキペディアから、隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
    **************************
623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)
の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は
姉の孫のこの竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱で
この鏡を作らせた。

私が隅田八幡神社人物画像鏡の銘文を謎解けたのが、この鏡が八幡神社に納められていたことから、銘文にある、
「斯麻」という人物が蘇我馬子であると感じたからです。物部神社は蘇我神社に代わっていたからです。
すると、銘文の「葵未年」は623年になり、 日十大王という人物もいます。隋書にあるように、男の王であり、
敏達の第一皇子である押坂彦人大兄皇子です。大王と蘇我の王である推古、この時から「大王」と「天皇」、王座が
二つあるともいえる状態でした。

押坂彦人大兄皇子の弟の王もいます。敏達と推古の息子の竹田皇子であり、彼は蘇我の皇子です。
この「男弟王」の「男」表現は、推古が蘇我の女帝としていましたので、男弟王になったのです。

この鏡は蘇我の皇子である、本来の聖徳太子である竹田皇子の病気回復を願って蘇我馬子が奉納した鏡です。
残念ながら翌年、病気で亡くなったのはこの竹田皇子であり、彼が仏教を興した方の、聖徳太子です。
銘文の二人の人物が、後に聖徳太子の呼称で、一人の人物に纏められてしまったのです。

この押坂彦人大兄皇子のお母さんは、敏達天皇の皇后の息長真手王の娘とされる広姫ではありません。
お母さんは、もちろん聖徳太子のお母さんとされる穴穂部間人皇女であり、彼女は物部姫です。
そして息長氏というのは蘇我氏のことです。蘇我馬子によって蘇我の女性に変更されたのです。

この穴穂部間人皇女は、押坂彦人大兄皇子がまだ幼い時に亡くなったと思われ、敏達天皇の次の皇后である、
推古が彼を育てました。
推古の子供である、竹田皇子とこの押坂彦人大兄皇子が、聖徳太子の名称で混同された理由でもあります。
銘文の「男弟王」の「弟」とは、異母兄弟ですが、この押坂彦人大兄皇子の弟という意味です。


厩戸皇子とは、日十大王こと押坂彦人大兄皇子であり、聡耳皇子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある、法興の元年とは、推古が天皇に即位した591年ではありません。

釈迦三尊像光背銘は、この押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年(摂政になったとされる年)から
三十一年、つまり、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、「葵未年」の623年ということです。
銘文どおり、翌年亡くなったのが推古の息子の竹田皇子です。おそらく伝染病であり、
もう一人の聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子も同年に亡くなっている。聖徳太子没年は624年です。

これらは蘇我氏の主張の年号である。つまり、蘇我氏の私年号である。九州年号なのではない。
天皇の呼称もまたそうである。

藤原氏が関わったのはこの蘇我の王である天皇の方です。それは王家と対立していたからです。
「大宝」は長屋王の元号であり、その在位期間である、、701年から729年までの期間に存在する、
慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀は、いわば藤原氏の私年号である。

藤原が関係する「天皇」たちの即位年、その翌年に改元されています。
王家と対立した、蘇我氏と藤原氏の私年号が、本来の年号と混同されているのです。
九州年号などであるわけない。

それは、「法興」の元号が、記紀にはないことからも推測できる。それは、本来の王家である厩戸皇子 こと
押坂彦人大兄皇子の元号だからです。この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文や、隋書などにより、
彼が大王に即位していたことがわかります。ですが、藤原氏により、彼が大王になったことが消されています。
ですので、記紀などから彼の年号も消されたのです。

つまり、初めて元号を使用したのは、この時代であり実際に使用されたのが、この「法興」であるともいえます。
厩戸皇子こと、 押坂彦人大兄皇子、日十大王の在位期間が「法興」です。大王に即位した、
593年から624年までです。
法興元年は593年です。天皇記・国記編纂以前のこの「法興」が日本で最初の元号です。

591年天皇に即位したのが推古であり、593年大王に即位したのが押坂彦人大兄皇子です。
この年に「摂政」という官職に就いたとされますが、そんな官職はありませんでした。
そうではなく大王に即位した年です。押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことを消すために
摂政という官職に就いたと後に改竄されているのです。

押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王―天武大王―高市皇大王―長屋大王
押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟大王―孝徳大王―有馬皇子

押坂彦人大兄皇子こと日十大王の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇や、藤原氏だということは、
この系譜を見れば容易にわかります。 本来の大王である天武の父親は、押坂彦人大兄大王の王子である、
山代大王である。聖徳太子の王子の山背大兄王のことである。
大王家と対立していた天智系天皇である桓武天皇、そして藤原氏により系譜の改竄がなされている。
聖徳太子一族は滅んだとして天武の系譜を改竄している
天武と天智は兄弟ではない。桓武天皇は天智を天武の兄として系図を変更したのです。
それは天智は本来の王家の人物ではないからです。

天智系天皇である桓武天皇は、天智が王家に関係しないと、全く王には即位できない人物です。

この押坂彦人大兄皇子の子孫、つまり王家と対立していたのが、天智系天皇や藤原氏です。
「法興元年」は、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年です。ですので初めて元号を作ったのは、この
押坂彦人大兄皇か蘇我馬子です。押坂彦人大兄皇子の年齢を考えるとやはり、蘇我馬子・・・かな?
蘇我氏の私年号は、蘇我氏宗本家が滅亡したとされる乙巳の変までは使用されていたように思うのですが?

この年号の「法興」は、新羅で初めて年号を使用したとされる、法興王にちなむ。
それは蘇我氏の出自が新羅と関係するからです?

それで、大化改新についてですが、・・・
ウイッキベディア・・・
『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。

藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され
郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確と
なったとされている

発掘結果から「評」と表現される地方行政組織が存在したとは確実であるが、『日本書紀』や『万葉集』では
一貫して「郡」となっており「評」については一切記されていない。『日本書紀』や『万葉集』では故意に
「評」を「郡」に置き換えてあることが明らかになったがその目的や理由については判っていない。
   ****************************

「評」を「郡」に置き換えた、目的や理由については判っていない。とされますが、大宝は長屋王の
年号であり、長屋王が大王に即位していて、大宝律令はこの長屋王の時代に制定された律令だとすると、
こんなの謎でも何でもないないですよね。 

藤原氏は、乙巳の変において蘇我氏を滅ぼし、改革を行ったとしたいわけです。天智天皇や藤原鎌足
によって、新たな政治改革が行われたという功績を作りたかったわけです。
藤原の時代の始まりとしてこの「大化」を日本最初の元号とし。また日本という国号、天皇の称号の使用が
始まったとしたのです。

本来は、藤原氏と対立していた長屋王や忍壁大王の大宝律令時の改革の功績を、取り込んだという
ことに他ならない。養老律令に関しても同様である。その改竄が、木簡などからばれちゃっただけです。
それだけです。
日本書紀は偽書です。この箇所だけでなく他にもたくさんある、後世の潤色だらけです。
つまり歴史を改竄したのは、王家と対立していた藤原氏です。

天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
つまり、改革を行ったのは長屋大王だということになります。大化の改新ではなく、本来は、長屋大王や
忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。

孝徳の年号は「大化」ではなく、本来は「大和」ではなかったのか?
大化の改新なんてなかったわけです。これは、乙巳の変のクーデターのあと、天智と中臣鎌足が改革を
行ったとして、本来の年号である「大和」を、天智系天皇や藤原氏によって、乙巳の変以降の年号を
「大化」の年号に変更して改革を行ったと改竄しているのです。
つまりこの「大化」は藤原氏の私年号であり、最初の藤原氏の私年号である。


「天皇記」「国記」 編纂時以降の年号・・・
年号に関してはこの押坂彦人大兄皇子の「法興」以降は使用されていたように思うのですが?大王という
ことを消されている関係で年号に関しても同様に消されている年号もある。この「法興」に関してもそう
なのですが、日本書紀にはないのですが、法隆寺の釈迦三尊光背銘に残っていました。

古代から繋がる本来の大王家・・・
押坂彦人大兄皇子(法興)ー茅渟王ー山代王ー孝徳(大化?)ー天武((白鳳) ー高市大王(朱鳥)
-忍壁大王(朱雀)-長屋大王(大宝)

天皇に関しては・・・
初代天皇は推古天皇です、2代目は皇極天皇、3代目は大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある、
袁智天皇(茅渟王の娘 遠智娘 持統のお母さん)、4代目は重祚して斉明天皇、5代目は持統、
6代目は元明、7代目は元正。

推古 ー皇極 ー 遠智娘(白雉)ー斉明ー持統ー元明(和銅) ー元正(霊亀)

本来は「天皇」は女帝の名称だったのではないのかな?天智に関しても天皇だったかどうかは疑わしい。
持統のお父さんを、王、つまり天皇に即位していたと後に改竄したものではないだろうか?
近江京というのは、百済国にすぎないように思うのですが・・・?




写周は雷丘です。周辺には雷丘東方遺跡、雷丘北方遺跡、雷内畑遺跡 、などの遺構が発掘されています。
この遺跡から、「小治田宮との墨書土器が 発見されたことにより、この雷丘周辺が新たに推古天皇の
小墾田宮としての有力な候補地になっています。

ウイッキベディア・・・雷城
築城時期や築城者は不明だが中世の城郭と見られる跡が残っている。丘の中央に主郭、南と東に
一段下げた曲輪、空堀を挟んで西側に曲輪、更に西に一段下げた曲輪、北に空堀から続く曲輪が置かれていた。
飛鳥時代までの遺構は
この頃に破壊されたと推測されている。
      **********************
この地を宮としたのは、もともと、忍壁皇子の住居はこの雷丘付近にあったからです。この雷丘は
小さな山ですが、山頂には宮があったのです。小さな低い山だからこそ、この時代でも宮を造ることが
出来たともいえます。

山頂には15世紀頃の山城跡が発見されています。この忍壁大王の宮の遺構は、この雷城造成時に
山頂部分は大規模に削られていて、遺構は破壊されてしまったのです。


推古の小墾田宮は豊浦寺の近くにある、古宮土壇のあたりだとされてきました、しかしながら周辺では
宮跡は発見されていませんでした。そう、いまだに推古天皇の小墾田宮はどこにあったのかわかっていない
のが真実です。

これらの遺跡は、推古天皇の小墾田宮ではないように思うのですが・・・?というより、推古は天皇ですが、
大王ではない。ですので、推古天皇の小墾田宮の存在自体も少し疑っているのですが・・・?

今はこの雷丘周辺が推古天皇の小墾田宮としての有力な候補地になっています。
ですが、ここは皇極の小治田宮なのでは?推古の宮である小墾田宮は、この皇極の小治田宮の名称を使用した
可能性はないのだろうか?
推古天皇の宮は、初めは豊浦宮でした。天皇一代ごとに宮を変えたともされますが、何故か後に小墾田宮に
移っています。

推古が天皇の時代の大王は、押坂彦人大兄皇子でした。しかし大王であることを消しています。
ですのでこの時代の本来の宮は、推古天皇の小墾田宮ではなく、押坂彦人大兄皇子こと日十大王の
水派の宮でした。隋の使者が訪れた宮殿はこの水派の宮です。

しかし大王であることを消したため、推古の宮である小墾田宮の名称を使用したのです。
ですので、本当に推古の宮である小墾田宮は存在したのだろうか?もしかしたら、この皇極の小治田宮の名称を
使用した可能性はないのだろうか?漢字をを変えて小治田宮を小墾田宮としたのではないのかな?

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きゐます。

この歌から推測されるのは、この雷丘の山頂に宮を、柿本人麻呂が実際に見て詠んだ歌だともいえますよね。
歌にあるようにこの雷丘に忍壁大王の宮があったのではないのか?

ここは、もとは祖母である皇極が、飛鳥板蓋宮に遷都するまで、少しの期間ですが遷都していたとされる
小治田宮であり、後に忍壁大王の住居、つまり宮といえます。そこを行宮として新たに作り替えたともいえます。
それで、歌のように山頂に宮を新たに建てたのでしょうか?

山頂に宮?が存在していたとの証拠は既に学者先生により示されています。
雷丘東方遺跡から墨書土器が出土している。写真にあるように「小治田宮」の記述のある土器が発見されました。

この墨書土器の中に「城下」と墨書された土器も発見されています。この土器が発見されたとされる小治田の井戸は、
淳仁天皇の行幸に合わせて造られたとされ、 8世紀末~9世紀初頭位と考えられています。
つまり、この8世紀末~9世紀初頭には、まだ雷丘の山頂には、墨書土器に記述されているように「城」とよばれる建物が
存在していたのではという推測がなされています。

この雷丘の山頂の建物を、忍壁皇子の「殯宮」とする説があるようですが、殯宮を万葉集では「荒城」とも
表現されるようですが、宮殿のそばに殯宮を造るはずはありません。殯宮とは、死者を本葬するまでの棺を
安置する建物のことをいいます。

この「城」こそ忍壁大王の宮ではないのだろうか?墨書土器にある「小治田宮」の文字通り、この地は、
もとは、祖母である、皇極天皇の「小治田宮」ではなかったのか?そこに、新たに忍壁大王の行宮が
造られたのではないのか?

「小治田宮」は、 雷丘東方遺跡、雷内畑遺跡 、そして、この雷丘などを含む宮だとされます。
東南部分に宮があったと推測されています。
そして、雷丘ちかくには、もう一つの遺跡、雷丘北方遺跡があります。この遺跡がもとの忍壁皇子の
住居ではないのかな?新たに大王に即位したときに雷丘に宮を建設したのではないのかな?
それは、傍に大官大寺がありこの寺は、もとは高市大寺と呼ばれていたからです。雷丘北方遺跡は、忍壁大王の住居、
そして北東隣りには高市皇子の住居だったのでは?
この大官大寺は、高市大寺と呼ばれていました。たしかに高市郡ではあるのですが、香久山宮(藤原宮)は、
高市皇子の宮であり、都だとするわたしには、何故に、高市大寺と呼ばれていたのかは凄く気になるところです。

ここは、元は高市皇子の住居であったのですが、香久山宮が完成し移ったので、元の住居を寺にした
のではないのだろうか?
こにに百済大寺が移されて、寺となったので高市大寺とよばれたのではないのか?そして都完成時には
大官大寺としたのでは?お寺の名や、地名の高市もまた、高市大王の名に由来するのではないのか?

ウイッキベディア・・・
出土した土器や瓦(複弁八弁蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦)の編年から、この伽藍の建立は天武朝まで
はさかのぼらず、持統天皇の末年から文武天皇の初年頃(7世紀最末期)であったことが推定された
   *********************************
つまり、天武朝に造られていたのは、高市皇子の住居であって、寺となったのは、香久山宮が完成し移った後の、
発掘調査の通り 7世紀最末期ということだと思うのですが?
つまり、天武天皇2年(673年)に、百済寺を百済の地から高市の地に移し、高市大寺としたとあるのは
日本書紀の嘘です。

天武の二人の皇子、第一王子の高市皇子、そして第二王子はこの忍壁王子だと思うのですが?
ふたりは大王に即位していました。


                                   


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奈良京遷都と平城京遷都の謎

2018年01月03日 | 日本書紀の謎


奈良京遷都は、長屋王が即位した大宝元年の701年であり、平城京遷都は、745年です。
王が変わったから年号が変わったわけであり、王が即位したから都がかわったのです。

万葉集 巻三(328)
    あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています。 
奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などと表記されているとされますが、「平城」は「なら」
とは読めない。

この奈良京と平城京は異なります。奈良京は長屋王の都であり、平城京は聖武天皇の都です。
もう少し、この奈良京と平城京の謎について考えてみます。


長屋王は、太政官における事実上の最高位とされる、左大臣に就任していたとされます。
しかし、そうではなく、出土した木簡からの推測では大王でした。

大王である長屋王を死に追いやったのは藤原氏です。藤原氏は対立していた、王家、長屋王やお父さんである
高市皇子を大王に即位していたとはしたくないのです。天武崩御後から、王家と藤原氏の権力争いは始まっていました。

高市皇子や長屋王が大王だったとすると、その時代に天皇だったとする、持統、元明、元正は、
本来は王ではないのです。
これまで、何度も述べてきましたが、「天皇」は、本来は蘇我の王の呼称でした。元は蘇我の女帝の名称だった
かもしれません。
「大王」と「天皇」、王座がふたつあるといえる状態でした。
藤原氏は、この天皇たちを利用したのです。「天皇」の名称を利用して歴史を改竄したのです。
藤原氏が関係する天皇を、王家に繋げたのです。この歴史を改竄する操作は、二度行われている。
権力を握った、蘇我氏と藤原氏です、蘇我馬子もまた蘇我の王である、天皇、そう初代天皇である推古天皇を、
古代の王家に繋げたのです。

日本書紀・古事記、続日本記などは正史とされます。正史だから間違いないと、いつまでもこういう姿勢では本来の
歴史は見えてこない。
歴史書とは権力者の都合によって変えられる・・・というか、こういうのは歴史を変えるために書かれた書物である。

天皇とは本来は大王ではなかった。これ、今までの歴史がひっくり返ることですが、・・でも真実だからしかたない。
藤原氏は、この「天皇」の呼称を使って歴史を改竄したのです。本来は、もちろん「大王 おおきみ」です。
残念ながら万世一系なんてうそです。あくまで、呼称の問題だとしたいのですが、そうではない。
「大王」と「天皇」、王座が二つあるような時代があったわけです。


長屋王邸宅跡から出土した木簡からは、長屋王が「大王」だったという証拠がたくさんでています。
長屋王が大王だということは、この長屋王邸宅跡の地域が本来の都の中心だったわけです。

今回は、長屋王の奈良宮の範囲、そして本来の邸宅(内裏)の位置を考えてみます(^o^)丿

「奈良宮」と「平城宮」は異なる。そして、「大王」と「天皇」は異なる。これが理解できていないから謎解けていない。



写真は、高市皇子の香久山宮(藤原宮)です。
この高市大王の香久山宮(持統の藤原宮)は、中央、北から内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形である。
東側、西側には、東方官衙、西方官衙 (これは仮称のようですが)、様々な官庁が存在していたとされます。
宮は、この東西官衙の中央に内裏、大極殿、朝堂院が存在する形である。
この北から内裏、大極殿、朝堂院が配置されている形が、本来の宮の形ではないのだろうか?

そして、この香久山宮(藤原宮)は、下ツ道、中ツ道の中央に位置します、同様に、王子である長屋王の宮、奈良宮も、
東西は下ツ道、中ツ道の間、その中央に位置していたのです。「北宮」との記載されている木簡が出土していますが、
これはもちろん香久山京の真北に長屋王の奈良京が存在していたからです。

今の奈良市役所の東側が、香久山宮(藤原宮)の真北の位置になり、長屋王邸宅跡とされる地域はこの奈良宮の、西側、
つまり西方官衙とされる地域です。出土した木簡の記述通り、奈良宮の務所、これは「つかさどころ」と読むそう
なのですが、行政の実務をおこなう官庁があったところです。



長屋王の奈良宮は、お父さんである高市大王の香久山宮(藤原宮)と同様に都の中央に位置し、周囲を囲まれた宮である。

中国の「周礼」に記載されている、理想的な都城の要素として正方形の都城の中央に宮をおくことなどが挙げら
れています。
藤原京の十条十坊説はこの書物の記事と一致することからも、従来言われていたよりも大きな都だったとされます。
しかし、問題点もあるように、後にこの十条十坊を取り入れ大きくしたのです。
当初天武が計画していた都、この藤原京の大きさは、従来いわれていたのは東西は下ツ道と中ツ道、南北は横大路、
山田道に囲まれた地域とされていました。しかし、京外に条坊道路が発見され、もっと広大な面積の都、平城京や
平安京を上回る規模だったのではとされています。

この藤原京を再現した、ジオラマが、橿原市藤原宮資料室に展示されています。藤原京の1000分の1サイズの
精巧なジオラマがあります。ありえないような大きさです。
この都はとても信じられないくらいの広大な面積だっとされます。
ジオラマを見た第一印象は、・・・「こんな大きな都だったはずはない」・・・そう感じました。( ゚Д゚)
この感想は私だけではないと思います。復元された藤原京は、ちょっと信じられないくらいの面積の都だったとされます。
しかも、この広大な都の中に隙間なく建物が再現されていたので、余計にそう思ったかもしれません。

本来は、こんなに大きな都であったはずはないし、これほどの建物があったようには思えない。
これは、後に大きく広げられたのでしょううが、本来は、従来言われていた大きさでいいように思うのですが?

後に十条十坊の考えをを取り入れ大きくしようとしたたのですが、未完成に終わっているということです。
これ、745年に平城京に遷都したときには、都を東西に伸ばし大きくした関係で、香久山京(藤原京)も
大きくしたのです。

この藤原京は短期間、694年から710年までのわずか16年間で平城京に移ったとされます。
理由は簡単です。高市皇子が崩御し、都が長屋王の住居のある北宮に移ったからです。
本来は、王が交代したという従来通りの簡単な理由です。

ウイッキベディア・・・
宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言われ、着工から28年が経過したことになる。
以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より
遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたと
されている『扶桑略記』
   **************************
藤原京跡地での発掘では、火災の痕跡は発見されていないとされます。これは、この藤原宮というのは、高市大王の
香久山宮ではなく、藤原氏の邸宅だという証拠であるわけです。
焼けたのは、持統が即位した藤原氏の邸宅である藤原の宮だということです。
もちろん、元明は天皇ですが大王ではないので、遷都の勅なんてだせるはずはありません。
何度も云いますが、「天皇」は「大王」ではない。高市大王、長屋王が大王だったことが消されている。

長屋王が、奈良京に遷都したのは、即位した大宝元年(701年)のことだと思うのですが・・・?
奈良京遷都は701年です。それまでは、持統天皇の藤原京ではなく、高市大王の香久山京です。

天武ー高市皇子ー忍壁皇子ー長屋王です。彼らが本来の大王たちです。

高市大王崩御、696年、長屋王即位701年。この間まだ幼かった長屋王に代わって忍壁皇子が即位していたのです。
ここはまた次回にでも・・・。


この長屋王の奈良京も、高市皇子の香久山京(藤原京)と同様の大きさである。下ツ道と中ツ道の中央に宮が存在し、
都城の中央に宮を置く形である。
そして奈良宮も、同様の宮であり、北から内裏、大極殿、朝堂院並ぶ配置である。つまり今、長屋王の邸宅跡と
される地域は、この西方官衙とされる場所である。木簡からの推測では、奈良宮の務所や政所などが存在して
いたと思われる。
したがって、この西方官衙の東側が中央であり、内裏、大極殿、朝堂院が配置されている。

地図を見てもわかりますが、平城宮は四角い形ではなく東南部分が欠けているでしょう。これおかしいでしょう?
誰も疑問に思わないのかなーぁ?
四角い形にできなかったのは、そこが奈良宮の西側にあたり官庁などが存在していたからです。
長屋王の邸宅跡とされる、イトーヨーカドー跡地もこの宮の西側にあたります。木簡からも明らかですが、
奈良宮の「務所」などが存在していた、西方官衛とされる地域です。

長屋王の奈良宮の大きさは平城宮の東南部分が欠けていることから推測できる。
この欠けた平城宮の東南部分が、奈良宮の北西部分である。

香久山の宮(藤原宮)から真北の位置、今の奈良市役所(これ偶然でしょうね?(^O^))の少し東側、
奈良市役所東の交差点がおよその中央の位置です。ですので今邸宅跡とされる場所は、宮の西側の地域になる。
宮の中央には内裏、大極殿、朝堂院が配置されていて、その東西には官衙(役所)が配置されていたようです。

この配置、北に内裏があって、その南に大極殿があるという形は、平城宮の第二次大極殿の配置と同じである。
つまり、第二次大極殿というのが最初に造られた大極殿である。

香久山宮(藤原宮)、北から内裏、大極殿、朝堂院が配置される形であるりこれが本来の宮の配置である。
平城宮の第二次大極殿は、まさにこの形であり、北から南に、内裏、大極殿、朝集堂院が並びます。
また、恭仁京の宮も同様の配置である。
第一次大極殿が最初に造られた大極殿だとすると、東西に、大極殿、内裏が並ぶ形でありおかしい。
この第二次大極殿というのが最初に建てられた大極殿である。これが、続日本記にある「藤原宮」である。
後に下ツ道に繋げるために、西側に大極殿を造り、平城京は新たに造られたのです。
つまり、長屋王の奈良京も同様の宮であり、今邸宅跡とされる東側に本来の、宮が存在する。

長屋王邸から出土した木簡からは、長屋王が大王に即位していたことの証拠が沢山でています。
これらの木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」だそうです。奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、
などの記述です。どれも「つかさどころ」と読むようです。奈良宮の行政機関です。
そして、「長屋親王」、「長屋王家令所」という木簡も出土しています。

もう、これ答えが出ているじゃないですか。長屋王の邸宅跡じゃなくて、奈良宮の務所で、長屋王は大王
ということですよね。
木簡によると、長屋王が大王であり、この邸宅跡地が「奈良宮」だという決定的な証拠だといってもいいものです。
長屋王邸宅跡とされる場所は、宮の西側の、香久山宮(藤原宮)でいう、「西方官衛」とされるところです。
政治の実務を行う役所などの施設がある地域です。

長屋王の邸宅は佐保の地にあるとされます。この佐保の地名は今も残っています。いまの奈良市役所の場所が、
佐保の地の西側の端といわれ、長屋王邸宅跡とされる場所は、少しですが佐保の地から離れる立地である。

一条大路が、この時代佐保路ともいわれ、東大寺の転害門から、奈良市役所のラインまでが、佐保の地である。
長屋王の邸宅で詩宴会がたびたび開かれていたようですが、残されている詩の内容からも、佐保川が宮の南東部を
流れる自然豊かな環境にあったと思われます。

そして、長屋王邸宅、つまり奈良宮の内裏の傍には池があったのです。

「懐風藻」には、「秋日於長王宅宴新羅客」などの記述があり、 これは、長屋王宅で、新羅の使節の送る宴が開かれた
神亀三年(726)の晩秋のことだろうと思われます。長屋王の邸宅で詩宴会が開かれたようです。
このように長屋王宅では、しばしば宴会がなどが開催されていたようです。
ここが大王の住居であり、内裏であり、長屋王が大王だったという証拠です。

長屋王邸宅で、曲水の宴が開かれたときの詩が、この「懐風藻」に記載されています。
これらの詩から、長屋王の邸宅、つまり奈良宮の内裏の位置が特定できます。
  晩秋於長王宅賓
      従五位下備前守田中朝臣浄足
  苒々秋云暮 飄々葉已涼 西園開曲席 東閣引珪璋
  水底遊鱗戯 巌前菊気芳 君侯愛客日 霞色泛鸞觴

「苒苒として秋ここに暮れ・・・長屋王宅の西園に曲水の宴を設け、東の高楼に詩文の俊才を招く。
水底に遊魚の鱗が光り、巌前には菊花の香が芳しい。・・・。」

長屋王の邸宅の西側の庭に曲水の宴席を作って、そこには池があるという記述です。
今の跡地を長屋王の邸宅だと決めるのに、この池に関しては問題のあった点だとされます。

そう、長屋王の邸宅傍、西側には池があったのです。いま、長屋王の邸宅跡とされる、イトーヨーカドー跡地は長屋王の
邸宅の場所ではないということです。ここは木簡の記述どおりに、奈良宮の務所です。
宮の西側の西方官衙といわれる地域です。
この奈良宮の務所の東側が、下ツ道と中ツ道の中央であり、本来の内裏や大極殿があった場所です。

本来曲水の宴は、王が催したわけです。このことからも長屋王が大王だったということがわかります。
長屋王は大王に即位していました。つまり長屋王邸というのは、都の中心である奈良宮の内裏のことです。

それでは、この池はどこにあるのでしょうか?

この池とは、今、平城宮の「東院庭園」の池です。そして、その傍の法華寺の南端の阿弥陀浄土院跡もそうです。
実際の長屋王邸宅の庭園はもっと大きなものだったのです。

つまり、奈良宮の内裏、長屋王邸は、奈良市役所の北、「東院庭園」の東側の地域です。
この庭園は長屋王邸の庭園です(^o^)丿

ですの、この「東院庭園」は、本来は、長屋王邸宅の西側にあり「長屋王庭園」ということです。
後に藤原宮である、平城宮(第二次大極殿の方)が完成したため、この平城宮から見て東側に位置するため、この
長屋王の邸宅である奈良宮の内裏が「東宮」と呼ばれたのです。
この長屋王邸宅、つまり奈良宮の内裏は、長屋王が祟って後、つまり745年に平城京に遷都した時にあらたに
平城宮を中心に都造りをしたときに壊されたのです。

天平元年(729年)、長屋王が崩御すると、その年の8月には藤原光明子は皇后に立てられます。
この光明皇后の住居は、不比等の邸宅であり、後に法華寺になったとされます。法華寺は光明皇后の発願の寺院であり、
国分尼寺と されます。この法華寺も南の方向に伸ばし、長屋王の庭園の池も法華寺に取り込まれたのです。
それが、阿弥陀浄土院跡です。この阿弥陀浄土院は池の上に建てられているとされます。



写真は、およそですが、奈良宮の位置と範囲です。平城宮もこの奈良宮の内裏、大極殿、朝堂院と同じ規模だと
思われますので、平城宮を奈良宮に移してみました。
長屋王の奈良宮の大きさは、下ツ道と中ツ道の中央に位置し、北は一条大路、南は二条大路、東はこの平城宮の
欠けているラインの正方形の宮である。
これは高市大王の香久山宮(藤原宮)を、そのまま真北に移した、規模も同様の、およそ1km四方の大きさである。
宮も同様に、北から内裏、大極殿、朝堂院が配置される形の宮です。ですから、奈良宮の内裏の位置も容易に
推測できます。

奈良市役所東交差点付近が、およそ下ツ道と中ツ道の中央に位置します。
この場所にあったのが、宮の南に位置する最も重要な大伴門です。王家と関わりが深かった大伴氏の名が付けら
れています。
この大伴門は後に朱雀門との名称が変更されたとされますが、間違っています。大伴門と朱雀門は異なります。
奈良宮の南門が大伴門であり、平城宮の南門が朱雀門です。

宮の南西の角にあるのが、邸宅跡とされるイトーヨーカドー跡地です。ですがこの推測も間違っています。
曲水の宴を催したとされる、邸宅の西側の池がありません。
ここは木簡の記述どおり香久山宮(藤原宮)でいう西方官衙とされる地域です。奈良宮の官庁があった場所になります。

長屋王の邸宅というのが本来の内裏のことであり、この内裏と、東院庭園の間の空間が、阿弥陀浄土院が建立され
ていた場所です。ここは、曲水の宴を催した長屋王邸宅の池があったところです。
後に法華寺が南部に伸びこの池を法華寺に取り込み、阿弥陀浄土院が建立されのです。
ですので、阿弥陀浄土院は池の上に立っているのです。


下の写真は、東院庭園です。この庭園なぜか平城宮の東南のはずれにあるでしょう。
どうして、こんなところに庭園があるのだろう?私は初めこれが不思議でした。
だって、ふつうは家を建て、傍に庭をつくりますよね。王の住居、つまり内裏の傍に庭園を造るだろうと
考えるのが常識的な推測でしょう?これ、あたりまえのことでしょう?。
内裏から歩いて東院庭園に向かいましたが、結構距離がありますよ。どうして、こんな不便な場所に庭園を
造るのでしょうか?

そして、この庭園は、周囲に住居がないでしょう?でも、そんなわけないのです。だって「東宮」とよばれて
いた地域なので東院庭園と名付けたわけですから・・・。その東宮はどこにあるというのでしょうか?
東宮とは何なのか?全然説明できていない。
いまは、塀で平城宮の方に取り込まれていますが、本来は奈良宮の敷地内、そう内裏の西側の庭園だったのです。
長屋王の内裏が東宮ということです。

東院庭園が、平城宮の庭園ではないという決定的な証拠は、この庭園、東側を向いているのです。
そして、この庭園の東側にも池があったのです。本来はもっと大きな庭園だったのです。

称徳天皇の時代に、「東宮」から「東院」とよばれたとされます。それは、「東院玉殿」を建てたからですが、
それまでは、何のため、誰のための庭園だったのでしょうか?
庭の中の建物は、宴会や儀式の際に中心となった場所とされます。
どうして内裏から遠くの不便なところに庭園を造ったのでしょうか?
誰もおかしいとは思わないのでしょうか?「東院玉殿」を建てたのは、この「東宮」は壊されていたからです。
ですので呼称も「東宮」から「東院」に変わったのです。

この「東宮」というのは長屋王の邸宅であり、奈良宮の内裏のことです。写真のように藤原宮(第二次
大極殿の方の東側に位置するため、「東宮」と呼ばれたのです。ですので、本来は、「東宮庭園」であり、
奈良宮の内裏の庭園ということです。この「東宮」の呼称は、あくまで藤原側(平城宮)からみた呼称であり、
本来はこの時代の中心である奈良宮の内裏ことです。

逆に言えばこの奈良宮からみれば、平城宮は「西宮」になります。長屋王邸跡とされる奈良宮の務所からは
「西宮」と記された木簡が発見されています。この「西宮」とは藤原の宮である平城宮のことです。

木簡の記述にあるのに、この「東宮」も「西宮」も、現時点でどこにあったかは分かっていません。
いまのままでは、いつまで経っても永遠に見つかりませんから。
そうではなく、「東宮」とは奈良宮のことであり、「西宮」とは平城宮のことです。


そして、この東院庭園は、奇妙なことに東側が正面なのです。そう、何故か東側を向いているのです。
それは、もちろん東側に邸宅、つまり本来の奈良宮の内裏があったからですが・・・。

正面は東側で、傍には東面大垣という塀があり、その塀の方を向いているのです。これもおかしいとは思わないの
でしょうか?掲示物なのでは、春日山や御蓋山を眺めるためにという説明をしていますが、そうではない。
もともと東側には塀などなかったのです。

それは、この東院庭園の東側にも池があったのです。
奈良市役所東の北側、東院庭園の東側、つまり内裏と東院庭園の間、少しだけ空間があるでしょう。
実はそこにも池があったのです。つまり塀なんかなかったのです。長屋王の庭園はもう少し大きかったのです。

4、5、6枚目写真にあるように、「東院庭園」の東側、ここが阿弥陀浄土院が存在したとされる場所なのですが、
この寺院は池の上に立てられていたとされます。佐保川から水を引いたのだと思いますが、東院庭園の傍にも池が
あったのです。

この阿弥陀浄土院、池の上に建てられていたのか?あるいは、池が埋められたあとに、・・・つまり長屋王邸が
壊された時に、不比等の邸宅南部にあたるこの池が埋められ、そこに阿弥陀浄土院が建立されたので、池の上に
建てられたようになっているのか?

ともかく、阿弥陀浄土院が建立される以前には池があったのです。
この池は、本来は法華寺の池ではなく、長屋王邸宅西側の庭園だったのです。

745年に平城京に遷都され、都造りがなされたのです。おそらく、この時に長屋王の邸宅、
つまり東宮は壊されたのです。
この時に池も埋められ、その上に阿弥陀浄土院が建てられたのでしょうか?
光明皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりとされますが、これがまさに745年あり、二年後の747年に
法華寺は完成したのです。

そして、阿弥陀浄土院以前の遺構も、跡地から発見されているそうです。この寺院以前の遺構というのが、
本来の長屋王の庭園の遺構、あるいは奈良宮の内裏の一部の遺構です。

写真にあるように、東院庭園の中央建物が東側を向いていることからもわかりますが、奈良宮の内裏から、
この池の上の建物跡を通り、東院庭園の中央建物まで繋がっていたのではないのかな?そう、大王に相応しい大きな庭園
だったのです。
この池の東側が長屋王の邸宅、つまり奈良宮の内裏のがあった場所です。庭園は住居のそばにあり、ここでしばしば
曲水の宴が開かれていたのです。

光明皇后が皇后宮としていた、藤原不比等の邸宅を宮寺にしたのが法華寺であり、聖武天皇が平城京に遷都したとされる
745年に、平城宮を中心にした都造りが行われ、その時に、邸宅南部にあった、長屋王邸宅の庭まで伸ばし造られたのが
元の法華寺であり、阿弥陀浄土院はこの法華寺の一部である。
この745年というのが、本来の平城京遷都年です。

そして、池の上に作られていたとする阿弥陀浄土院は、長屋王の邸宅、つまり奈良宮の内裏の西側部分であり、
元は庭園の一部である。

この時に東院庭園に関しては、平城宮内に取り込まれたのです。称徳天皇の時代には、壊されていたので、そばに
「東院玉殿」を建てたのです。
香久山京(藤原京)が大きく拡大されたのは、この平城京を大きくしたので、それに合わせて拡大したのです。

長屋王の邸宅跡とされる出土した木簡には「奈良」、「奈良宮」との記述のある木簡が多数出土しています。
木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」です。奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、などの記述だそうです。

これらの木簡の記述から、木簡が届いたこの場所こそが「奈良宮」内であり、奈良宮の西南に位置し、
行政の実務をおこなう官庁があった「西方官衙」といわれる地域です。平城宮などではありません。
長屋王邸宅の西側には池があり、また邸宅は佐保の地にあるとされ、跡地は佐保の地から少しばかりですが外れます。
これらのことから、今長屋王邸宅跡とされるイトーヨーカドー跡地は邸宅跡ではありません。
奈良市役所東側の北方、阿弥陀浄土院跡地の東側を発掘すれば、内裏跡が出てきます。ですが、もうすでに住居が立って
いるじゃないですか。何やってんだか・・・(>_<)

長屋王邸跡地から出土した木簡からの推測では、高市皇子やこの長屋王が大王に即位していたことがわかります。
すると、この長屋王邸跡地が、都の中心地であるという推測ができるでしょうに。
何故に、こんなの容易な推測もできないのでしょうか?

高市皇子や長屋王と対立していたのは、藤原氏です。大王を死に追いやった藤原氏は、彼らを王に即位していたとは
したくないわけです。
藤原が、天下を取った時代の続日本記なんて信用できない。




1、2、枚目の写真は、東院庭園の中央建物を東面大垣を背に東側から写しています。
建物にわたる平橋は、東側から渡るように作られています。
これが、平城宮の庭園だとすると、たとえ建物が東向きに造られていたとしても、この建物に渡る橋は、
西側から建物に繋がるように作られていなければおかしい。またこの庭園の東側にも池があったわけですから、
塀を作って遮るのもおかしい。

3枚目の写真は西側から撮ったものです。中央建物から平橋を渡ると、すぐに東面大垣があり、中央建物の正面からの
景色は庭を鑑賞するようにはできていない。それは、この東面大垣が視界を遮るようにあるからです。
本来はこの東面大垣なんて存在してはなく、さらに東側の池を鑑賞するように中央建物は東側を向いていたのです。
角の建物を隅楼という名称を付けていますが、その建物は隅に位置していたもの
ではなく、東側の池からこの庭園へのいわば通用門の役割をしていた建物である。

5,6,7枚目の写真は、東院庭園の東側です。ここにも池がったのです。ですので東院庭園は東の方を
向いているのです。
奈良京の内裏、つまり長屋王邸宅の西側の池です。後に、その池の上に作られたのが阿弥陀浄土院です。
住居が建っている辺りが、奈良京の内裏のあったところです。

この東院庭園と、東側の池を含めた庭が、大王である長屋王邸、つまり、奈良宮の内裏の西側の庭園です。
この奈良宮の内裏は、平城宮から見て東側に位置するので「東宮」と呼ばれていたのです。
本来はこちらの方が、奈良京の中心である奈良宮の内裏であるのです。

                                   







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平城京遷都と大極殿再建の謎

2017年12月02日 | 日本書紀の謎


「飛鳥。藤原の宮都とその関連資産群」を世界遺産に登録しようとしています。でもちょっと待って下さい。
藤原だけはダメです。登録されてから変更というのは難しいかもしれませんので・・・。

藤原宮に藤原京、おかしいと思わないのでしょうか?反対する学者先生はいないのでしょうか?
もう不思議としか言いようがない。

古代の王家を滅ぼしたのは藤原氏です。王家を滅ぼした憎き藤原。
だから何度もいいます。藤原だけは良くない。臣下の名を都の名に付けるべきではない。

この藤原の宮、地名から名付けられたともされますが、たまたま?それとも偶然?地名が藤原だった
とでもいうのでしょうか?宮というのは建物のことです、藤原の宮とは藤原氏の邸宅のことです。

平城京を藤原京と呼ぶのであれば異論はないですが、天武があらたに建設しようとした都、
新益京を藤原京と呼ぶのは良くない。

宮の名から採るのであれば「香久山京」がいいかな(^o^)丿
この「香久山京」は、天武の第一王子である、高市大王の宮であり都です。

それで、この平城宮に関してもおおきな疑問があります。ですので平城京について、もう少し書きます。
平城京の大極殿は再建されています。
今、平城宮跡に復元されている、大極殿は、最初に造られた第一次大極殿とされます。
これがおかしい。間違っています。

奈良京は、平城京とは異なる。これが理解できていない。(>_<)

続日本紀には興味深い記述があります。平城宮の謎を解く鍵のひとつです
問題記述とされますが、そうではありません。

持統は藤原氏の邸宅で天皇に即位したのです。新益京の藤原宮です。
同様に元明も藤原氏、不比等の邸宅で天皇に即位したのです。平城宮というのも、元は藤原氏の邸宅。
つまり藤原の宮であるわけです。これが理解できていないから謎解けないのです。

続日本紀・・・
慶雲元年(704年)十一月に「初めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟
に布賜ふこと差有り」という記述がです。
****************************
初めて藤原宮の地を定む ・・・藤原京遷都から十年経てるわけですから、不可解で問題記事だとされています。
ですが、そうではありません。何度も述べてきましたが、宮というのは本来は建物のことを表します。
この記述の藤原宮とは、もちろん持統が即位したという藤原京の藤原宮のことではありません。

奈良京においての藤原氏の宮ということです。持統が即位したという、藤原京においての藤原宮(藤原氏の邸宅)
ではなく、704年に宮の地を定め、後に、元明が710年に即位した奈良京においての藤原氏の宮のことです。
古墳を壊して、不比等の邸宅横に建てた、内裏や大極殿のことです。だから初めての「藤原の宮」なのです。

それで、大極殿再建の謎ですが・・・この初めての「藤原の宮」というのが、第二次大極殿のほうです。
第一次大極殿と第二次大極殿の治定が逆です(#^.^#)
じゃないとおかしい、疑問点が複数あります。

この続日本紀にある、藤原宮とは名称どおりに藤原氏の宮、つまり平城宮のことです。
ですので、なんら問題のある記述ではないのです。
この平城宮は、平城京の中枢にあたる宮殿とされます。この平城の宮の大極殿はは何故か建て直されています。
ふたつの大極殿が存在します。今、跡地に復元されている大極殿は、最初に造られた大極殿であるとされます。
しかし、これはありえません。間違っています。

もとの大極殿の東側に、新たに大極殿が建設されたとされます。
どうして、宮の中心である大極殿が、ふたつも存在していたのか?
おかしいですよね。何故に平城宮は建て直されたのか?

この謎について考えてみます。
本来は長屋王の奈良京が、平城京に造りかえられたのです。


この新たに建設されたとする、平城宮第二次大極殿は、、全長100mクラスの前方後円墳、「神明野古墳」が壊され、
その上にあらたに大極殿が建設されたとされます。
内裏とは天皇の住まいのことです。大極殿は、儀式などを行うところであり、ともに都の中心となる重要な建物です。
都を造ろうとするときは、まず、これら内裏や、大極殿の位置を決めてから都造りの計画をするはずです。
何度も云いますが、墓域に宮を建設しようとはしないはずです。お墓の上に建てられているのですよ。
これは、ありえません。

おかしいとは誰も思わないのでしょうか?
最初に建てられたとする、第一次大極殿は元明天皇が建てた大極殿であり、次の「第二次大極殿」は聖武天皇が建てた
大極殿とされます。
今、平城宮の跡地に再建されている大極殿、これは元明天皇が建てた最初の大極殿とされます。
これが、第一次大極殿とされています。聖武天皇によって建て直されたものは、東側に建てられたもので、
これが第二次大極殿であるとされます。
これが間違っています。私は逆だと思うのですが・・・???

東側の、第二次大極殿というのが、最初に造られた大極殿であり、この時内裏、大極殿が、
古墳を壊して造られたのです。元明はここで即位したのです。

疑問点です・・・
*大極殿はふたつ存在していたことになります。どうして異なる場所に大極殿は建て直されたのか?

*古墳の上にに内裏や大極殿を建てる必要があったのか?いまも北部には古墳が存在している。
「佐紀盾列古墳群」です。ここは既に墓域であったわけです。

*都の中心である、内裏や大極殿の位置を決めてから宮づくり、都造りを計画するはずです。
何故に古墳のある場所に宮を建設したのか?

*平城宮第二次大極殿建設の時、つまり、745年に聖武天皇がふたたび宮を建設しようとしたとき、
壊されてた古墳の上に、大極殿をたてたとされます。最初の大極殿が移築されているのなら、
何故に元の位置に再建されずに古墳のあった場所に造ったのか?

*万葉集 巻三(328)
    あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています。
 この奈良京と平城京は異なるののでは?
奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などと表記されていますが、
「平城」だけは「なら」とは読めない。


本来は、長屋王の王都でした、後に、つまり、745年に聖武天皇により平城京は造られたのです。
この時平城宮を中心にして都造りが行われたのです。
元明天皇は持統天皇と同様に、藤原不比等の邸宅傍に宮を造り、そこで天皇に即位したのです。
何度も云いますが、大王ではありません。

この藤原不比等の邸宅は、平城の宮の、東側に隣接して建てられています。
いまの法華寺であるとされます。そう不比等の住居の傍に宮は造られたのです。

つまり、古墳を壊して、建てられたとされる東側の大極殿、つまり、「第二次大極殿」というのが、
最初の大極殿であり、元明天皇が建てた・・・というより藤原氏が建てた大極殿、藤原宮です。
ここで元明天皇は即位したのです。

もとは藤原不比等の住居の傍の大型古墳を壊して藤原氏の宮を造ったのです。
この地を作り替えて、内裏や大極殿を造り、元明天皇の住まいとしていたのです。後の元正や聖武の天皇の
即位の儀式が行われたのはこの第二次大極殿とされる場所です。

聖武天皇は、平城京を離れ、恭仁京や難波京へ遷都したとされます。
そして、745年(天平17年)に、再び平城京に遷都したとされます。
しかしそうではありません。
再びではなく、745年に初めて平城京に遷都したのです。
それまでは、奈良京でした。奈良京と平城京は異なる。

後に、つまり745年に建て替えられたのは、第一次大極殿とされている方です。でなければ、天皇の住まいの
内裏や大極殿は、大きな古墳のある墓域に存在していたことになります。
おかしいですよねこれ、ありえないでしょう。もとは都の中心地はなかった証拠です。

今に残る平城京の都造りは、710年に行われたものではなく、745年に行われたものです。
平城京遷都は、745年です。それまでは、長屋王の都である。奈良京でした。
平城宮はこの長屋王の奈良京の北西部にあたる、本来は藤原氏関係の建物のことです。


和銅二年(709)の記事・・・ 元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」
という勅令を出したとされます。元明天皇在位は、707年から715年である。壊した古墳とは、この
「神明野古墳」そして「市庭古墳」であり、第二次大極殿はこの「神明野古墳」の上につくられているとされます。
つまり、藤原不比等邸宅の傍の、この第二次大極殿というのが本来の元明天皇の第一次大極殿です。


高市皇子の都(香久山京)ー長屋王の都(奈良京)ー聖武天皇(平城京)です。


後に聖武天皇に、西側に新たに大極殿を建て、唐の長安の都をモデルに平城京の都造りが始まったのです。
後に建てられたのは、最初の、つまり、「第一次大極殿」とされている方です。都を西側に伸ばしたのです。

西側に大極殿を建設したもう一つの大きな理由は、下ツ道に繋げたのです。
下ツ道を宮の中央になるように大極殿を造り、さらに朱雀大路を造って都造りがなされたのです。
平城宮は、本来の宮ではありませんでした。ですので南部に伸びる朱雀大路もこの時に造られたのです。
下ツ道に繋げたのです。
いま復元されている朱雀門は元は大伴門と呼ばれていて、後に朱雀門の名称に変更されたとされますが、
そうではない。朱雀門と大伴門は異なる。大伴門は奈良宮の門であり、朱雀門は平城宮の門である。

長屋王の都(奈良京)は、高市皇子の都(藤原京)と同様の造りであり、中心である宮を囲む形の都造り
がなされている。
本来は、下ツ道と中ツ道の中央に長屋王の宮が位置する形である。
この長屋王の都、奈良京を、745年に長安の都を模して平城京に造りかえられたのです。

長屋王の宮、奈良京をを消し去るためでもあります。
平城京遷都は、745年です。710年ではありません。
それまでは、長屋王の寧楽の京でした。「平城京」は、「奈良京」ではない。


少しまとめてみます。

*まず、平城宮が、都の中心じゃなかったと考えられる大きな証拠。
平城宮の大極殿は建て直されています。全長100mクラスの前方後円墳「神明野古墳」が壊され、その上に
大極殿が建設されています。古墳の上、つまりお墓の上に内裏や大極殿が建設されています。
これ、ありえません。おかしいでしょうに。

*都を作るには、王の住まいである大内裏、大極殿などの位置を決めてから都づくりをするはずです。
古墳のある場所に、王の住まいである宮を建てようとはしないはずです。
都の中心である、王の住む場所、平城宮の内裏、大極殿は、なんとお墓、古墳の上に建てられているのです。
これは ありえません。

*今も北部には古墳が多数存在します。「佐紀盾列古墳群」です。これらの古墳の一部を破壊して
内裏、大極殿はを建設している。
これは、平城宮は本来の都の中心地ではなかったからです。証拠といってもいいです。

* 後に、そう王家を滅ぼしてから、この平城宮を中心にして、唐の長安にならって都作りがなされたのです。
本来の長屋王の都は、お父さんである高市皇子の都である。新益京と同様、内裏や大極殿などが中央に
くる都造りがなされていた。


*長屋王の、奈良京をけしさるため、同じ場所に平城京を作ったのです。
平城宮を中心にした都造りをおこなったのですが、そばにある古墳はこの時に壊されたのではなく
既に藤原氏によって壊されていた。壊したのは王家と関係ない藤原氏です。

*第一次大極殿とは、古墳を破壊して造った東側の大極殿であり、聖武天皇の造った 第二次大極殿とは、
今、平城京跡地に復元されている大極殿です。
この時に、藤原氏によって平城京の都造りがおこなわれたのです。
平城京遷都は745年です。それまでは奈良京でした。

*和銅二年(709)の記事・・・ 元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」
という勅令を出したとされます。元明天皇在位は、707年から715年です。
この壊した古墳とは、「神明野古墳」、そして、「市庭古墳」のことです。

平城京遷都、つまり、元明天皇が平城宮に移ったのは、710年とされています。
第二次大極殿はこの「神明野古墳」の上につくられているとされます。
つまり、間違っているというのがこのことからも判断できます。
この第二次大極殿というのが元明天皇の第一次大極殿です。
北に位置する内裏、この内裏は中央に位置するのではなく、東側です。この内裏は元明天皇が平城宮に
移った時の内裏であり、同様に古墳(市庭古墳)を壊して作られている。

*長屋王邸宅跡から出土した木簡により、高市皇子は大王に即位していたことがわかります。
そして、その王子である長屋王も大王でした。つまり、長屋王邸宅跡が本来の都、奈良京の中心地である。
「長屋親王」と書かれた木簡の出土は衝撃的だったともいわれますが、当たり前のことです。
「親王」のお父さんの高市皇子は、もちろん大王だったということです。それが、藤原氏によって変更されている。

*出土した木簡には「奈良京」との記述があった。本来は長屋王の都である奈良京である。
ウイッキベディア・・・
平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては
奈良京(寧楽京、ならのみやこ)と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の
造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。
   ***********************
この平城は。「なら」とは読めない。長屋王の「奈良京」ー「平城京」であり、この「平城京」こそ、
藤原氏の都である。奈良京の跡地に新たに作られた都である。


平城宮の大極殿と大極殿回廊の一部を恭仁京へ移築したとされます。
朝集院などの建物も移築されている可能性もあるとされます。

平城京の第一次大極殿が、恭仁京に移築されたとするなら、平城京には大極殿がなかったはずです。
ですので、そこに建て直したらいいわけです。
なのに、何故に、第二次大極殿は、中心地、つまり、第一次大極殿から南の朱雀門までが宮の中心であるのに、
何故に第二次大極殿は、宮の中心を外して東側に建設したのでしょうか?

第一次大極殿跡地に建物がないのなら、そこ建てたらいいわけですよね。
ここが宮の中心であるわけです。それがどうして、古墳のあった場所、そして中央から外れる位置に
建て直さなければならないのか?
朱雀門は、平城宮の正門です。大極殿から朱雀門、その中心位置を外して何故に東側に再建する必要が
あったのでしょうか?何らかの理由があったとでもいうのでしょうか?おかしいでしょうに。

こんなの説明できるのなら説明してほしいものです。説明は無理でしょうに。
間違っています。


いま復元されている第一次大極殿というのが、聖武天皇の第二次大極殿であり、平城京遷都は745年です。
平城京は、ほんらいは長屋王の奈良京を造りかえたものである。これがわからない限り謎は解けません。

写真の平城宮跡地に復元されている大極殿は、平城遷都1300年の平成22年に完成したものです。
この大極殿こそ、聖武天皇が建てた第二次大極殿です。
写真は、平城宮跡ガイドというパンフレットです。

最後に、第一次大極殿と第二次大極殿の治定は逆であり。今、平城宮跡地に復元されている大極殿は、
後に建てられたものであるという決定的証拠?・・・かどうかはわかりませんが、恭仁京跡地が調査され
新たな発見がありました。


写真の、平城京跡ガイドの写真を見てください。



聖武天皇は740年、平城京から恭仁京へ遷都しました。
この恭仁京の大極殿は、平城宮から移築されたものともされますが、移築したのはこの第二次大極殿と
されている方ではないのだろうか?
恭仁京の大極殿は、平城宮の第二次大極殿と同様の回廊と一体になった大極殿であると判明しました。

第二次大極殿の、北側に接して内裏があります。この大極殿と内裏は同時期に造られたものと考えられます。
この内裏が元明天皇の内裏だとすると、第一次大極殿の位置がおかしい。大極殿は南になければおかしい。

第一次大極殿の築地回廊というのは、は第二次大極殿の回廊とは異なるのでは?
恭仁京跡地で新たに「大極殿後殿」である可能性がある柱穴が見つかりました。
この大極殿後殿は、第二次大極殿と同様の回廊と一体になったものであるとされます。
つまり、この第二次大極殿というのが、最初の大極殿であり回廊とともに恭仁京に移築したものである。
大極殿後殿が存在したのは、北側に内裏があったからと推測されますよね。
内裏から大極殿へのいわば通用門です。

第一次大極殿の北側には内裏がなく、したがって大極殿後殿はあるはずもない。
恭仁京の回廊と一体になったものされる回廊は、第一次大極殿の築地回廊とは異なる。
平城宮跡ガイドの写真、第二次大極殿の四角い黄色の部分が二つあるでしょう。上が大極殿後殿で下が大極殿です。
この大極殿後殿と回廊が一体となって大極殿を囲んでいる形になっている。

いま復元されている大極殿が元明天皇の第一次大極殿とするのなら、大極殿に接して北に内裏があり、
第二次大極殿と同様の大極殿後殿と回廊がなければおかしい。

写真のように、東側の第二次大極殿は、北から南に、内裏、大極殿、朝集堂院、朝集殿院が並ぶ形であり、
これは恭仁京と同様であると考えられる。つまり、恭仁京に移築されたのは、この第二次大極殿の方であり、
最初に造られた元明天皇の宮である。

そして、高市皇子の「香久山宮」、長屋王の「奈良宮」も同様の配置、北から南に、内裏、大極殿、
朝集堂院が並ぶ形の宮である。この配置が本来の宮の形である。第一次大極殿というのが最初に建てられた
大極殿だとすると、内裏は東側にあることになりおかしい。
東西に並ぶ形は、本来の宮の形ではない。ありえません。これら内裏、大極殿、朝集堂院、朝集殿院は
一体のものであり、同時期に造られたものであり、これが藤原宮であり、平城宮である。

新たな計画で都造りを行ったため、大極殿を造る必要があったわけです。再建されたのは、いうまでもなく
平城宮には大極殿がなかったからです。
平城京遷都は745年です。それまでは長屋王の「奈良京」でした。
この新たに建設した大極殿を中心に、唐の長安を参考に都造りがされたのです。この大極殿を中心にするために、
朱雀大路を造り、下ツ道に繋げた・・・というか、下ツ道を中心にするために、大極殿を造ったのです。

本来は、藤原京と同様に下ツ道と中ツ道の中央に長屋王の宮が存在していたのですが、この745年に
下ツ道に合わせて大極殿を建設し都造りが行われたのです。新たに西側に大極殿を造った大きな理由の一つです。

平城宮跡ガイドの写真の、平城宮は四角い形ではなく南東部分が欠けた形になっているでしょう。
東院南門(建部門)は朱雀門の位置、つまり南は二条大路の位置までなければおかしい。
東に張り出し部があるのは、不比等の邸宅と繋げたためです。
この欠けた部分までが長屋王の宮の北西部分である。

本来は長屋王の邸宅跡とされるところが都の中心であり、長屋王の都(奈良京)は、高市皇子の都(藤原京)
と同様の造りであり、中心である宮を囲む形の都である。本来は、下ツ道と中ツ道の中央に長屋王の宮が
位置する形である。
つまり、長屋王邸宅跡の右側には、上から内裏、大極殿、朝堂院が存在していたはずです。
これが奈良京の中心である長屋王の「奈良宮」です。

邸宅跡から出土した木簡には「奈良」、「奈良宮」との記述のある木簡が多数出土しています。
木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」だそうです。
奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、・・・などの記述です。
これらの木簡の記述から、木簡が届いたこの場所こそが「奈良宮」であり奈良京の中心であることがわかります。

木簡からの推測では、長屋王の邸宅跡ではなく、奈良宮の務所などであるわけです。
これは、奈良宮の西側にあたり、行政の実務をおこなう官庁があったところです。
高市皇子の香久山宮(藤原宮)でいう「西方官衙」といわれる場所です。

つまり、本来の長屋王の宮である「奈良宮」の内裏、大極殿、朝堂院は、いま邸宅跡とされている
この「務所」などが存在する西方官衙の右側にあるはずです。
これらの木簡の記述から、この場所が、「奈良宮」であり都の中心であるという決定的な証拠です(^o^)丿

写真は、平城宮跡地にのこる大極殿あとです。写真の部分が大極殿北側にのこる、大極殿後殿跡です。
何故に北側にあるのかというのは、もちろん、内裏が北側にあったからです。
内裏から、大極殿へのいわば通用門です。
つまり、北側の内裏と、この大極殿は同じ時期に建てられたものである。
最初の建てられたのはこの大極殿であり、これが藤原宮のことです。

後に恭仁京に移築されたため、あらたに西側に大極殿を建設したのです。
西側に伸ばしたもう一つの理由が、下ツ道に合わせたのです。この下ツ道は、この平城京が作られた時に、
造られた道ではありません。
すでに存在していた道です。この道に合わせて新たに都造りをおこなったのです。
大極殿ー朱雀門ー羅城門、朱雀大路を下ツ道に繋げたのです。。

平城京遷都は、710年ではなく745年です。それまでは、長屋王の奈良京です。
平城京は、藤原氏の宮であり、こちらこそ本来は藤原宮といってもよいわけです。

           
                                   




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高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎

2017年10月18日 | 日本書紀の謎


キトラ古墳の壁画の第五回公開がされていますので、行ってきました。修理作業は終えたようで、
取り外された壁画を見ることが出来ました。
天上には現存最古の中国式天文図が描かれていますが、今回は西壁の白虎と戌(十二支)を見学できました。

このキトラ古墳は七世紀末から八世紀初めころに造られた古墳とされます。
高松塚古墳とキトラ古墳は、共に極彩色の壁画が描かれていて、とても有名な古墳です。
でも、いまだに両古墳とも被葬者を特定できていません。

この高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎も、万葉集から謎解けます。
被葬者は誰なのでしょう?・・・沢山の人たちが謎解きをしていますので、参考にしながら考えると、・・・

あれ?・・・案外、簡単に謎解けました・・・なんか、またまた謎解いちゃったー(^^♪
でも、こんなに簡単に謎解けていいのかなー?・・・皆様、ありがとうございます。(^o^)丿


万葉集、柿本人麻呂の高市皇子への挽歌により、高市皇子は王に即位していたことがわかります。この高市皇子の皇后は明日香皇女であり、長屋王の両親だということが分かれば、高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の特定も難しいものではない。

この挽歌にある、高市皇子の殯宮である、「城上の殯宮」はどこでしょうか? 高市皇子が埋葬されている古墳を
推測していきます。

天武の王子であるわけで、天武陵の傍に造られるはずです。そして、この時代は、王のお墓は前方後円墳ではなく
八角形墳になっていますよね。
高市皇子は王あり、八角形墳に埋葬されているとすると、この、八角形墳って少ないから比定はそう難しくない。
都の南部に位置する八角形墳。
候補は二つしかない。束明神古墳と中尾山古墳です。
そして、内部が壁画で飾られている特別な高松塚古墳、キトラ古墳を加え。この4基の古墳が候補と考えられますよね。

高市大王の「城上の殯宮」ですが、・・・、宮から、殯宮までの葬送は、おそらく大人数の行列となるでしょうから、
広い道を選んだはずです。

香久山宮(藤原宮)を出て、少し北上し、横大路まで出て、磐余を見ながら横大路を東に向かい中ツ道に至り、その後、中ツ道を山田道まで南下した香久山京の東南のはずれ、有力な比定地とされる明日香村字木部という地域が、高市大王の「城上の殯宮」です。
明日香皇女の殯宮も、高市大王の殯宮である「城上の殯宮」です。もちろん、これは夫婦だったからです。
墓域は都の南部に位置するはずです。


万葉集
明日香皇女の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌

飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す ・・・

高市大王と、明日香皇女は同じ殯宮、「城上の殯宮」です。他人の后が同じ殯宮に安置されることはないですよね。このことからも、高市皇子の皇后はこの明日香皇女であると推測できますよね。

あたりまえの話だけど、当然夫のお墓の近くにに葬られると考えられるわけでしょう?高市皇子の「城上の宮」に安置され、高市皇子のお墓の近くに葬られたわけでしょう。

高松塚古墳は、この高市皇子か忍壁皇子が有力ですよね。すると、明日香皇女のお墓は、今は文武天皇陵とされている
檜隈安古岡上陵か、あるいは、キトラ古墳と推測できますよね。

キトラ古墳の被葬者の候補のひとりに、高市皇子の皇后である、この明日香皇女をあげときますね(^^)/
写真は高松塚古墳の壁画ですが、中央の赤い服を着た女性が、皇后の阿部明日香です。
この時代の、王である高市大王の皇后であり、香久山宮から南の位置にあり、関係者と考えられるからです。

そして、このキトラ古墳の被葬者は、阿倍内麻呂の子の阿倍 御主人が有力とされているからです。
そう、キトラ古墳周辺はは阿部氏の領地だと考えられるからです。阿倍 御主人は陰陽道の祖だそうです。天体観測や、
方位を使って吉凶を占うようで、中国と深いかかわりがあるともされます。

ウイッキベディア・・・キトラ古墳
被葬者は右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という
名前の地名であることを挙げている。
     *************************
この女性を候補のひとりにあげるのは、この明日香皇女のお母さんは、阿倍内麻呂の娘であり、古墳の被葬者として
有力な阿倍御主人の妹だからです。

そう、明日香皇女は阿部氏の姫王でもあるのです。
そして万葉集の挽歌には高市皇子の「城上の宮」へ安置されたとされるからです。

高市皇子のお墓の傍であり、しかも阿部氏の領地にある、キトラ古墳こそ明日香皇女のお墓なのでは?
高市皇子の皇后であり、高市皇子の崩御の4年後に亡くなっていることからも、高市皇と同様に40歳代で亡くなったと
考えられますよね。

ですので、壁画が共通する高松塚古墳とキトラ古墳が高市皇子と皇后の明日香皇女のお墓なんじゃないのかな?

でも、・・・「アスカの大宇宙 キトラに眠るのは誰だ」・・・
この番組で、キトラ古墳から出土した人骨、歯からの分析がなされました。ただ、この骨、体の部分ではなく、
頭蓋骨のこめかみ近くの少量の小さな破片や、歯からの分析でした。

でもこの鑑定により、被葬者は「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」「大柄で、骨太で、頑丈な男性」
ということになりました。

あれ、???・・・女性じゃないの???・・・自信あったんだけどなーぁぁぁぁ(>_<)
でもね、だから被葬者の謎は解けているのですが・・・。

たしかに、伯父である、阿倍御主人は、ほぼ同時期に亡くなっていますし、出土人骨の鑑定・・・
「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」によると、この阿倍 御主人の可能性が高いようには思いますよね。
ですので、阿倍御主人が被葬者として有力なようですが?
キトラ古墳の被葬者は、40歳から60歳代の男性で、もう決定のようになっていますが、・・・どうなのでしょうか?


謎解きの前に文武天皇陵に関して・・・
いま、文武天皇陵とされている檜隈安古岡上陵は、比定に問題あるとされています。
本当は誰のお墓なのでしょうか?ここ円墳だから、王のお墓ではない。つまり、文武天皇陵ではない。
このお墓の被葬者の推測もそう難しくはない。そう高市皇子の関係者のはずです。

ウイッキベディア・・・
日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られた

天武・持統陵、中尾山古墳から高松塚古墳、文武天皇陵までを含む檜隈の大内・安古とよばれる一帯があり、
その安古が「赤穂」に通じることから、このあたりに十市皇女の墓を想定している説もある。
     *************************
もう、候補は檜隈安古岡上陵しかないですよね。文武天皇陵とされていますが、女性の古墳だとする説もあるようです。

そう被葬者は高市皇子の妹の十市皇女です。高市皇子と十市皇女は、天武と額田王との子供、兄妹であり第一皇子、
第一皇女であるわけです。

ウイッキベディア・・・
新薬師寺(奈良市高畑町)の隣にある鏡神社の比売塚は、「高貴の姫君の墓」として語り伝えられており、
ここに十市皇女が埋葬されているという
    *************************
この新薬師寺周辺はいうまでもなく、藤原氏の支配地である。そこに十市皇女が埋葬されているはずはない。
ここの姫君とは、藤原鎌足の娘であり、藤原不比等・五百重娘の姉である、氷上娘のお墓である。


それでは、文武天皇陵が、今治定されている、檜隈安古岡上陵でないとしたら、文武天皇陵どこなのでしょうか?
おそらく、八角墳墓であるはずですから、・・・そう束明神古墳しかないですよね。

おそらく、お父さんの草壁皇子のお墓の傍にあると考えられるからでもあります。
今、草壁皇子のお墓として比定されている岡宮天皇陵は、どうもあやしいようです。すると、候補は一つしかないですよね。

そう束明神古墳の傍の丘の上にあるマルコ古墳こそ、草壁皇子のお墓なのでしょうか?


ウイッキベディア・・・ 草壁皇子
皇位に就くことなく持統天皇3年(689年)4月13日薨去。淳仁天皇即位後の天平宝字2年(758年)に岡宮御宇天皇の
称号が贈られた。

万葉集巻二(一六七) ・・・
日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌

最後の箇所・・・
由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬる 
そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも
+*++++++++++++
巻二(一七七)
朝日照る佐太の岡部に群れ居つつわが泣く涙止む時も無し
巻二(一七九)
橘の島の宮には飽かねかも佐田の岡部に侍宿しに行く
巻二(一八七)
つれも無き佐太の岡辺にかへり居ば島の御階に誰か住まはむ
巻二(一九二)
朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜泣きかはらふこの年ころを

    ************************
万葉集には、日並皇子尊(草壁皇子)が、皇位につくことなく、佐太の岡部 (真弓の岡)に埋葬されたことが
詠われています。
お墓は、今治定されている岡宮天皇陵(古墳ではない)ではなく、真弓丘陵の佐田の岡とはマルコ山古墳でしょうか?

束明神古墳がこの草壁皇子との説もあるようですが、この万葉集の記述にある位置情報と、皇位についていない
などを考慮すると、八角墳墓である束明神古墳は、皇位に就いていた文武天皇陵で、マルコ山古墳が草壁皇子ではない
でしょうか?
束明神古墳は藤原氏の氏神である、春日神社の中にあります。文武天皇妃は不比等の娘とされる藤原宮子ですので、
こちらの方が文武天皇陵墓のような気がするのですが?
隣接してありますので、この二人の古墳だろうと考えられると思います。

高光るわが日の皇子の万世に国知らさまし島の宮はも

夢にだに見ざりしものをおほほしく宮出もするか佐檜の隈廻を
    *************************
この 草壁皇子の宮は、島の宮とされます。この島の宮とは、石舞台のそばにあった宮が住まいだとされます。
そこから、檜前の地を通って皇子の御陵に出仕することになるとは夢にも思っていなかったという意味のうたです。

この島の宮なのですが、蘇我馬子の邸宅跡ともされますが、草壁皇子は持統の皇子であるので、祖父である
天智の宮とされる、いまは跡地が残りますが、飛鳥稲淵宮(飛鳥川辺行宮)ではないのかな?
そこから、西に向かい檜前の地を通ってマルコ山古墳まで出向いたことを詠っているのではないでしょうか。


高松塚古墳の被葬者は、忍壁皇子が有力とされます。そして、彼も怨霊として恐れられました。
舎人親王と、新田部親王はこの忍壁皇子の子供たちであり、この2人もまた藤原氏によって暗殺されている?
その後すぐに怨霊が現れ藤原四兄弟は病死します。

そう忍壁皇子や、その王子たち、舎人親王と、新田部親王を殺害したからだとも考えられます。
この忍壁皇子は、高市皇子の後、大王に即位していたと思います。ですので中尾山古墳の可能性もあるように
思いますが、どうかな?

忍壁皇子も天武の王子なのですが、高市皇子と同様に身分の低い女性との子供とされ、おそらく暗殺されている。
天武の后たちでは、天智の娘たちや藤原の娘たちの方が位が上位とされている。




それでは、高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎について・・・(^o^)丿

高松塚古墳とキトラ古墳は、その壁画が共通しますが、今有力な説とされているように、阿部氏が古墳を製作したのではないだろうか?
この阿部氏の領地傍には、檜隈を拠点とする渡来人の東漢氏がいて、壁画作成に関係したのかもしれません。

それで、この 高松塚古墳とキトラ古墳は、壁画が描かれているという共通点があります。
しかもかなり重要な人物だと思われます。天武の関係者だとするのが有力です。

梅原猛氏は、この高松塚古墳の被葬者の頭蓋骨が取り除かれていることや、壁画の日象、月像が傷つけられていることから、怨霊の復活を恐れたためであると考えられました。
天武の第六王子である、弓削皇子を被葬者として考えられていましたが、人骨からの推定年齢とはあわないようです。

この高松塚古墳は、 高市皇子のお墓であり、キトラ古墳が皇后の 明日香皇女のお墓です。この 明日香皇女は誰の后だったかが消されています。それは、 高市皇子の皇后であり長屋王のお母さんだからです。


両古墳とも、出土人骨が異常な状態であるのに、そこが注目されていない。

キトラ古墳から出土した、人骨とは頭部の骨と、歯でした。何故に体の部分の骨が出土しないのでしょうか?
不思議ですよね。

それで、・・・高松塚古墳の出土人骨の頭蓋骨がない、キトラ古墳からは、頭蓋骨だけが発見され、しかもこの頭蓋骨は、
・・・「40歳から60歳代のがっしりした体つきの男性」・・・ともに同年代の男性の人骨ですよね。

そう、キトラ古墳の頭部の人骨は、高松塚古墳から取り出された高市皇子の頭蓋骨です。
まさかそんなことするわけないと思われるので、これ案外盲点でしょう。
梅原氏の説どおりに、復活出来ないように、頭蓋骨と体を異なる場所に埋められたのです。もちろん藤原氏の仕業です。

長屋王が祟り、藤原氏は4兄弟が祟られて亡くなったとし恐れました。
藤原氏は、怒り、恐怖し、さらなる祟りがないように、怨霊封じを行いました。長屋王のお墓はもちろん、
お父さんとお母さんのお墓を暴いたのです。

藤原氏は、長屋王や、長屋王のお父さんである高市皇子、お母さんである明日香皇女のお墓を暴き、復活しないように、
高松塚古墳から、頭部と体とを切り離し、キトラ古墳に埋葬し、長屋王も復活しないように、この時、明日香皇女の遺体は
この場所から取り除かれたのです。
そして、長屋王もこの場所から遠くに移葬したのです。 中尾山古墳こそ長屋王のお墓なのでは?


以下は根拠です。今回もかなり自信ありますよ(^^)/

*柿本人麻呂の挽歌により、高市皇子の皇后は明日香皇女である。
つまり、大王に即位していたと思われる長屋王は、この高市皇子と皇后の明日香皇女との王子である。
藤原氏により、高市皇子と長屋王が大王だったことが消されている。

*高市皇子や長屋王は大王に即位していました。ですがこの高市皇子や長屋王のお母さんを、身分の低い女性
として系譜の改竄がなされている。系譜の改竄を行ったのは、彼らを死に追いやった藤原氏である。
柿本人麻呂の高市皇子への挽歌にある、天武が作った「香久山の宮」に居住していたのは、王に即位した高市皇子である。
万葉集・・・
我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや

*持統が即位した、「藤原の宮」とは、藤原不比等の邸宅である。そして持統は天皇に即位したのであって大王ではない。
本当の宮の名は 「香具山の宮」であり、高市大王の宮である。高市皇子や長屋王が大王だったことが消されている。
消したのは彼らを殺害した藤原氏である。
長屋王が大王だったことは、長屋王邸とされる場所から出土した木簡の文字から容易に推測できます。

*柿本人麻呂の明日香皇女への挽歌にある、「王」とは高市大王のことであり、「君」とは明日香皇女のことである。
高市大王が亡くなり、后の明日香皇女が悲しみに暮れている様子を歌ったものです。
彼女が皇后であり、長屋王のお母さんである。柿本人麻呂は本来の大王、高市大王に仕えた人物である。

*柿本人麻呂の挽歌により、この二人は夫婦であり、ともに殯宮である、 「城上の宮」へ安置され、同じ地域にに
埋葬されたと考えられる。他人の后を同じ殯宮に安置するはずはありません。高市大王の皇后はこの明日香皇女です。
高市大王崩御は、696年であり、明日香皇女は700年に亡くなっていて、古墳の築造時期として問題ない。
古墳の造られた年は、高松塚古墳は、696年であり、キトラ古墳は700年に造られたものです。

*明日香皇女のお母さん、阿倍橘娘は、阿倍内麻呂の娘であり、キトラ古墳の被葬者として有力な、阿倍御主人の妹です。
つまり、明日香皇女は阿部氏の姫王です。阿倍内麻呂は、最高官である左大臣に就任したとされる重要人物でもあります。

*キトラ古墳周辺は阿部氏領地であり、明日香皇女はこの阿部氏の姫王である。高松塚古墳とキトラ古墳はこの阿部氏が
造ったものではないだろうか?大王であり、夫であった高市皇子の陵墓もまた阿部氏が造った古墳である。
両古墳は共通するところが多くあり、夫婦や親子などの関係者のお墓であると考えられる。

*阿部氏は渡来人と関係が深く、近くには東漢氏の領地があり、壁画作成に関与したのではないだろうか。
高松塚古墳とキトラ古墳は、ともに石室に壁画が描かれています。四神の描き方が、両古墳で同様であるなど、
製作者は共通である。これらの古墳がある、檜前(檜隈 )は、古代より渡来人の居住地であった。

*万葉集、柿本人麻呂の高市大王への挽歌の反歌です。
万葉集 202
泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ

(泣沢神社にお酒を捧げて祈っていたのにわたしの大君(高市大王)は天をお治めになってしまわれた。)

作者は檜前女王とされます。この檜前女王とは、もちろん阿部氏の姫王である皇后の明日香皇女のことです。
キトラ古墳の被葬者であり、渡来人の居住地でもあった檜前(檜隈 )の地は、阿部氏の領土である。
今も阿部山の地名は残っています。この檜前女王とは皇后の明日香皇女のことです。

*高松塚古墳の壁画に描かれている、赤い服を着て正面を向いた女性が注目されています。
身分の高い女性だとされますが、この女性こそ皇后である明日香皇女であり、阿部氏の姫王である彼女が
夫のお墓である高松塚古墳の壁画の制作を依頼したのではないのか?

*阿倍 御主人は陰陽道の祖とされる。この陰陽道は天体観測や、方位で吉凶を占うようで、天体図が描かれていた
キトラ古墳の壁画と関係すると考えられる。
つまり、キトラ古墳の被葬者は阿部氏に関係する人物であるとするのが有力である。

*高松塚古墳の出土人骨には頭蓋骨がない。歯が一本だけ見つかっていてます。このことから、もとは普通に埋葬されて
いたのですが、後に頭蓋骨だけ取り出されたと考えられる。本来は頭蓋骨や歯は残るはずであり、
これは、意図的に取り除かれたとしか考えられない。

*キトラ古墳からの出土人骨は、少量の頭蓋骨と歯だけで、体の部分の骨が出土していない。これも、全く不自然である。
しかも、頭蓋骨は破壊されているように思う。両古墳とも出土人骨は異常な状態である。

*何らかの怨霊封じが行われている。頭蓋骨はあきらかに、粉々にされている。同様に副葬品なども壊されている。
キトラ古墳出土の二振りの太刀(銀製と鉄製の太刀)が良く知られています。この太刀も破壊されている。
盗難にあったとされますが、そうではない。銀製の鞘尻金具や、鞘口金具、銀装把などが出土しています。

盗難されたのであれば、そのまま持っていくはずです。これらの、特に銀製の刀装具が残されているのはおかしい。
太刀の刀身も、断片ですが出土していて盗まれたものではないことがわかります。
副葬品であるこれらの太刀も破壊されている。
二振りの太刀のうち銀製の太刀といわれる黒漆塗銀装太刀の方は、高松塚古墳から持ち出された高市大王の所有品だと思
うのですが?

*副葬品に関しては、この刀剣以外にも玉類(琥珀玉・ガラス玉・微小鉛ガラス玉)などが副葬されていたそうです。
何故わかるかというと、破片が残っていたからです。これは、盗難にあったのではないということです。破壊されていたのです。
また漆塗木棺も壊されていたようです。被葬者の遺骨や棺、副葬品にいたるまで、全て壊されている。
これは怨霊封じが行われていたからです。

*キトラ古墳からの出土人骨の頭蓋骨は、高松塚古墳から取り除かれた頭蓋骨であり、復活をしないように異なる場所に
埋められた。怨霊封じである。高松塚古墳とキトラ古墳は、怨霊である長屋王の両親のお墓である。

*同じ場所に夫婦がいる(埋葬されている)と、子供である長屋王が復活するため、后の明日香皇女の遺体は取り除かれた。
長屋王がふたたび復活し祟らにようにするためである。
キトラ古墳の頭蓋骨の骨も、ほんの少量の破片しかないので、怨霊封じを行い破壊して取り除くはずだったのですが、
少量残ったということです。骨は本当に少量しかなくおかしい。
盗掘者は、お宝を盗んでいくでしょうが、遺骨なんて盗んでいくはずありません。

*高松塚古墳の被葬者は、「聖なるライン」上にあり、 また描かれていた壁画からも、皇族、天武の皇子たちが有力である。
出人骨の鑑定により、40代から60代の人物である。すると、高市皇子か忍壁皇子しかいない。
高松塚古墳、キトラ古墳は、王家と関係ない人物が葬られているはずはない。

*高松塚周辺の古墳は、天武の皇子である、 高市皇子の関係者のお墓である。

  高松塚古墳・・・高市皇子、中尾山古墳・・・長屋王?
  キトラ古墳・・・明日香皇女、檜隈安古岡上陵・・・十市皇女

高松塚古墳は、高市皇子を大王としたくないために、元は八角墳墓だけど、円墳に作り直された可能性はあると
思うのですが・・・どうなのだろう?長屋王のお墓も、祟った後にこの埋葬地から移葬されている。


香久山宮から南のセンターラインに、天武持統陵墓と額田王のお墓、さらに南に、香久山宮の王である高市大王(高松塚古墳)、
妹の十市皇女(檜隈安古岡上陵)、さらに南に高市大王の皇后の明日香皇女(キトラ古墳)、意図的に作っています。
天武の王子であり、香久山京(藤原京)の主である、高市大王の関係者です。

文武、草壁皇子が「聖なるライン」から外れるのは、持統は天武の皇后ではなかったからです。

束明神古墳・・・文武天皇陵あるいは、草壁皇子
マルコ山古墳・・・草壁皇子あるいは文武天皇陵
でしょうか?

いま、中尾山古墳が、八角形墳墓で火葬墓であるということから、文武天皇陵として有力とされます。
ですが、お父さんである、 草壁皇子のお墓そばの、束明神古墳のように思います。

同様に、高松塚古墳傍の 中尾山古墳は、高松塚古墳の被葬者に近い人物、そう高市皇子の王子である長屋王の
お墓ではなかったのか?
それが、長屋王が祟ったとされた後に、この地から追放される形で移葬されたのではないだろうか?
生駒郡平群町にある、長屋王のお墓は、直径15m、高さ1.5m程の小さな円墳とされます。
もちろん、定かではないのですが、こんな小さな円墳が長屋王のお墓であったわけはない。このお墓の規模や埋葬地
からも推測できますが、藤原氏により本来の埋葬地から移葬されて、今の小さなお墓に葬られている。



最後に、この天武・持統陵に檜隈大内陵 に関してです。持統天皇は、薄葬令により天皇としては初めて火葬されたとされます。
ここは、本来は天武天皇陵墓なのですが、本来、持統は他の場所に埋葬されていたのですが、天武の皇后とするために、
後に火葬されて天武陵に移葬されたのです。
藤原氏は、関係する聖武天皇が、本来の正当な皇位継承者とするため、また高市皇子や長屋王が大王に即位していたことを
隠すためには、祖母の持統がが天武の皇后でなくてはならないのです。
権力を握り歴史を改竄した後、つまり、長屋王が祟って後に、藤原氏によって埋葬されていたお墓から火葬されて
天武陵に移葬されたのです。
同じ陵墓内に、天武はふつうに埋葬されているのに、持統は火葬されているのはおかしい。思想的に異なりますので、
異常な状態にあるといえます。火葬は仏教の葬方であるともされます。




1枚目の写真は、高松塚古墳です。2枚目、キトラ古墳、3枚目は、八角墳墓である 中尾山古墳です。
高松塚古墳とキトラ古墳出土の人骨を調べれば同一人物の遺骨であると分ると思いますよ。
4枚目以降は、国営飛鳥歴史公園にある、キトラ古墳壁画保存管理施設の四神の館です。明日香を訪れた際は是非
立ち寄ってください。
とにかく、国営ですので、豪華な施設です。周囲の景観に配慮した建物です。公園も綺麗に整備され、のどかでおすすめです。
7枚目の写真にあるように、石室内部が再現されています。外部から見ると、石室内は凄く狭いように感じました。
今回のように、期間限定ですが、壁画の公開もされています。


                                                            











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「奈良京」と「平城京」・・・長屋王の祟り

2017年10月09日 | 日本書紀の謎


今回は平城京の謎に関してです。
藤原京の名称の問題は前回書きました。
何度も云いますが、「藤原の宮」に「藤原京」、・・・藤原ですよ。
「藤原の宮」の名称に何の疑問も感じずに、さらに都の名を、「藤原京」に、・・・そして今も誰も不思議に思う
ことがないのでしょうか、この藤原京の名称は使用されています。

そして、同様に次の都とされる平城京もまた、名称や、宮殿に関して問題あります。

おそらく、この問題に関しても、誰も指摘していない・・・かな?
でもこれ凄く重要です。記紀や、続日本紀における藤原氏の改竄個所が明らかになる(^^)/


藤原京(新益京)は、持統の都ではなく、天武の王子で第一王子の、高市皇子の都でした。そして新たに移った
平城京もまた、元明天皇の都ではなく、本来はは長屋王の都でした。

高市皇子、長屋王は大王に即位していました。しかし藤原氏によって王に即していたことが消されています。
同様に彼らの宮、都の名称も消されている。

平城京は、長屋王没後に、平城宮を中心にした都づくりがなされたのです。
それまでは、長屋王の都だったのです。書物において都の名称を消し去っていましたが、都の名が記された木簡が出土しました。

ウイッキベディア・・・
平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)
と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。
    *************************
この平城京、元は奈良京とも呼ばれていたとされています。ですが、この都、この遷都当時の造成土から見つかったように、
この「奈良京」というのが、本当の都の名であり、長屋王の都です。物的証拠である木簡に書かれていました。
高市皇子の都の新益京の次の都は、この「奈良京」です。平城京が奈良京と呼ばれていたのではなく、奈良京の地に、
あらたに作られたのが平城京であり。この平城京こそ、権力を握った藤原氏の都です。


高市皇子、長屋王は大王でした。ですので、長屋王邸宅が本来の宮であり、都の中心地でした。その事実が消されている。
しかし邸宅跡から多数の木簡が発見されました。

ウイッキベディア・・・
奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年(1988年)には
奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡群(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した

出土した4万点に及ぶ木簡の中から、「長屋親王」の文字が入った木簡が発見され、長屋王の邸宅であったことが判明した。
    ************************

なんと、4万点もの木簡が発見されました。その木簡には、「長屋親王」などの記載のあるものがありました。
これ「親王」ですよ。「親王」は天皇の皇子という意味です。次の王位継承者ということです。
木簡は一級資料ともいえる物的証拠ですよね。

つまり、お父さんである、高市皇子は大王ということになります。
もちろん、「親王」である長屋王も、大王に即位していました。
この「親王」は「親皇」じゃないですよね、ですので、「高市皇子」は、本当は「高市王子」です。
本来は天皇ではなく大王です。万葉集にも天武は大王と呼称されています。

こんな簡単なことが何故にわからないのでしょうか?王だったいう証拠物件がでているじゃないですか?
もう不思議としかいいようがない。

長屋王は大王だったとする証拠の木簡はまだあります。
「長屋親王宮」、親王と表記がある。
「吉備内親王大命」この「大命」とは天皇の命令を表します。
「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、天皇の食物を表す言葉だそうです。
「勅旨」と書いた木簡も見つかっている。これも王位についていた証拠です。


大王と天皇は異なる。天皇は本来は蘇我の王の呼称でした。王座が二つあったともいえる状態でした。これが理解できていない。
本来の王はもちろん大王です。ですが、藤原氏が関わったのは天皇の方でした。持統は天皇に即位したのです。
そして、聖武は天皇なのです。本来、天皇は、王でなかったのですが、後に藤原氏は天皇の呼称を使用して歴史を改竄したのです。
藤原氏が関わる天皇の方が正統だとしたのです。
これがわかれば謎解きは難しくない。

天武天皇ー高市大王ー長屋王
かれらは全員「大王」でした。藤原氏は対立していた、高市大王や長屋王を大王だとしたくないために、かれらの系譜が改竄されている。

そして、これら多数の木簡の出土により、この場所が長屋王の邸宅であると判明しました。また木簡の内容からも長屋王は大王でした。
この大王である長屋王を殺害したのは藤原氏です。
あたりまえだけど、藤原氏は彼を王だったとしたくないわけです。
ですので系譜を改竄したわけです。

記紀はこの長屋王が祟って後に改竄されている。また、藤原の時代の続日本紀に至っては全く信用できない。藤原氏の主張でしかない。

押坂彦人大兄皇子ー 山代王ー天武天皇ー高市皇子ー長屋王
彼らは、本来の大王でした。この王家の系譜が改竄されています。

持統や元明、元正は天皇でした。ですが、天皇は王ではない。これが理解できない限り、古代史の謎はとけません。
これらの木簡の出土がなかったら、平城京の謎も分らないままでした。
良く見つかったなと思います。おそらく長屋王の邸宅は、藤原氏によって壊されたと考えられるからです。

もう何度も云っていますが、長屋王は大王でした。
つまり、この邸宅跡というのが、王の居住地であり、本来の平城京の、中心地でした。それが藤原氏によって変更されている。



今回は、地図を見て下さいね。どう長屋王の都である「奈良京」から、「平城京」に変更したかを考えてみます。

ウイッキベディア・・・平城京

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により
遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備
された程度と考えられており[1]、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている
740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、
その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた
   ****************************
710年の平城京遷都を、710・南都・・・「なんと見事な平城京 」で覚えましたよね。
ですが、正確には、平城京遷都は710年ではないかもしれません。

王家と藤原氏の対立により、大王と、天皇、王座が二つあった状態でした。大王である、長屋王、天皇である、持統天皇や元明天皇。
記紀や、続日本紀はこの天皇側、つまり藤原の主張でしかない。

高市大王崩御は696年です、その後はおそらく、忍壁 皇子が697年に即位?、そして崩御は705年 。
このあと、長屋王が即位した706年が奈良京遷都年ではなにのだろうか?。宮が完成するまでには少し期間が必要かもしれませんが、
長屋王即位した年であろう706年頃が、本来の平城京遷都年・・・ではなく奈良京遷都年です。

長屋王は大王に即位している。つまり、本当の都の中心地は、長屋王の邸宅でありここが宮です。後に、つまり710年に、
都の北西部分に藤原氏の宮が完成し、元明はここで天皇に即位し移ったわけです。平城宮は藤原氏の宮です。

この長屋王の邸宅は、長屋親王宮と記された木簡が発見され、長屋王の邸宅跡は特定されています。邸宅は藤原氏によって、
すぐに壊されたとも考えられますが、貴重な遺構は残っていました。
保存すべき貴重な遺構は失われてしまいました。・・・悲しい( ノД`)シクシク…


ウイッキベディア・・・平城京の疑問箇所
唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に
位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、
中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
**************************
平城京の謎ともいえる疑問点があげられていますよね。
同じ時代である唐の都の長安を模してとするのが常識的な答えですよね。何回か遣唐使が派遣されているわけですから。
北魏洛陽城などをモデルにするわけないでしょうに。

ですが、この高市皇子の都(藤原京)と、長屋王の都である奈良京はともに長安の都を模して造られたものではない。

長屋王の都、奈良京は、お父さんである高市皇子の都、香久山京(藤原京)と同様の都だと推測できますよね。
すると、藤原京は、大内裏(天皇在所)に当たる部分が中心にあるのに、この平城京は北端に位置します。おかしいですよね。
これ、都の守備面を考えると、王の住居は、普通は周囲を囲みますよね。これでは、北側から敵に攻められたらどうするのでしょうか?

この指摘から平城京の謎は解ける。
この指摘にあるように、本来は端に宮をつくるわけないですよね。本来、防御面から考えても、当然ですが、
王の住む宮殿は周囲を囲まれた、中心に位置するように作りますよね。

謎はここにあります。大王は長屋王であり、都である、奈良京の中心地は、本来は王である長屋王の邸宅である。
つまり、長屋王邸宅が、宮であり都の中心、大内裏です。藤原京と同様に、中心に宮があるのが、当然ですよね。

いま平城京の跡地とされる場所「平城宮」は、本来の都の中心地ではなかったのです。都の北西部分でした。

後に、王家を滅ぼした、藤原氏により、藤原氏の宮である「平城宮」を中心にした都づくりがなされ、「平城宮」が
中心に位置する都作りがなされたのです。長安の都を模して造られたのはこの時です。
本来の都である、長屋王の「奈良京」は変更し消されている。

藤原氏は、この長屋王の都、「奈良京」の北西に、藤原氏の宮を作ったのです。持統と同じく、元明はこの藤原氏の宮で
天皇に即位したのです。これは、いわば「藤原の宮」です。
長屋王に対抗して藤原氏が作ろうととしたのだけど、当初は結局ほとんど作っていない。それは長屋王が祟ったからです。

長屋王の変の後、王家と藤原氏の争いは、藤原氏の勝利となり、この平城宮の方が主役になってわけです。
もとは王家に対抗して、藤原氏が建設しようとした宮です。平城宮こそ藤原宮であるのです。

後にこの平城宮を中心に都作りが行われたのです。

では、本来の都、長屋王の都とはどういうものだったのでしょうか?
都建設途中で暗殺されましたが、どういう都を建設しようとしていたのでしょうか?

長屋王の邸宅は、香久山の宮(藤原宮)の真北の位置にあるでしょう。

この平城京の中心地は、この長屋王の邸宅であり、ここが宮であり都の中心地です。藤原氏はこの都の北西に部分に、藤原氏の宮を作ったのです。
地図を見てください、長屋王の邸宅跡(奈良そごう、イトーヨーカドー跡地)を中心に考えると、およその都の大きさは想像できますよね。

ウイッキベディア・・・
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。
大官大寺も、説では霊亀2年(716年)に平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。

   ********************
長屋王の邸宅というのが、本来の「奈良京」の宮です。この宮を中心に南北の距離は、北の平城宮(平城京跡地)の北西の角から、
南は、南西に位置する薬師寺まで。
東西の距離は、この薬師寺から南東に位置する大安寺までの範囲(中ツ道 )までが、長屋王が作ろうとしていた都だったのでは?

およそ、高市皇子の都(藤原京)を、そのまま上に移動したのが長屋王の奈良京である。

長屋王の宮から、発見された木簡には「北宮」との表記がありました。
これは、もちろん、高市皇子の宮(香久山の宮)から、北に位置するため「北宮」と呼ばれていたのです。
この「北宮」とは長屋王の宮のことを指します。
長屋王の邸宅は、香久山の宮(藤原京の藤原宮)の真北の位置します。


解かり易く言えば、南北は、東側は中ツ道、西側は南北に流れる秋篠川にそってある、今は県道9号線。
東西は、北は平城京跡地から中ツ道まで、南は、薬師寺と大安寺は含まれるだろうから、今の県道41号。
薬師寺からすこし南の奈良口から、中ツ道までではないだろうか?形的には、南は七条大路までかな? 

本来はこの長屋王邸宅、つまり王の宮ですが、ここが中心地だったのですが、長屋王崩御後に、藤原氏によって、
藤原の宮である、いまの平城京跡地を中心にして都づくりがされたわけです。

そして、・・・740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄される
     *************************
長屋王の祟りにより、この地を離れたと考えられますよね。伝染病です。
怨霊を恐れ、聖武天皇は、740年に恭仁京へ遷都。しかし、奈良に近いためでしょうか、わずか3年余りで難波宮に移ります。
その後、745年1月、紫香楽宮を新京にしようとしますが、どこに移ってもいろいろと問題があったようで、結局同年5月には、
再び平城京を都することになります。
この745年が、本来の平城京遷都年です。もとは、奈良京とよばれ長屋王の都でした。ですので、本来は平城宮は都の中心の位置になかったです。

このときに、今の平城京跡地を中心にした都づくりが行われたのです。ですので、大内裏に当たる部分が中心ではなく、北端に位置するのです。

平城宮を中心に位置するようにするために、中央に朱雀大路を作り、都を西側に伸ばしたのです。そこに西大寺を建設したわけです。
南側にも、正方形に近くするために七条大路から九条大路まで伸ばしている。 
北側には伸ばしたかったでしょうが、地形の問題がありました。北側は古墳と山があったので伸ばせなかったのでしょうか?
ですので、宮が、北端に位置する奇妙な都になったのです。

これは、平城京を都とすることになった、745年以降です。
それまでは、もちろん、大王である長屋王の都、「奈良京」だったのです。

長屋王崩御後は、藤原氏は都をさらに東方に伸ばしました。東側は高台になっていて、平城京を見渡せる位置に新たに東大寺を建設したのです。
西の西大寺、東の東大寺、仏教の力で、この奈良京にある怨霊を封じるためです。



1、2,3枚目の写真は、平城京の大極殿です。4枚目は、この大極殿すぐ横にある
法華寺です。5、6枚目は、奈良そごう、イトーヨーカドー跡地にある、長屋王跡地の説明図。残念ながら、跡地に建てられた
奈良そごう、そして次のイトーヨーカドーも閉店することになりました。長屋王の祟りともいわれています。
7枚目は、長屋王家出土の木簡。長屋王邸と確定する根拠になった木簡と、長屋親王宮と記された木簡です。


ウイッキベディア・・・法華寺
法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。
天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが
文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
   ****************************
大極殿東側にある、法華寺は、本来は不比等の邸宅だったようです。
この「平城京」こそ、「藤原京」です。藤原氏の都です。

この藤原氏の宮である、平城宮は、奈良京の北西部分に位置していました。そして、ここにあったとされる大極殿は
聖武天皇時代以降に建て直されています。
平城宮第二次大極殿建設においては、全長100mクラスの前方後円墳が壊され、その上に大極殿が建設されています。
この古墳は、「神明野古墳」と呼ばれているそうです。古墳を壊して平気なのは、破壊したのは藤原であり、
祖先のお墓ではないからです。

まず都を作るには、中心の内裏、大極殿などの位置を決めてから都づくりをするはずです。
古墳のある場所に、王の住まいである宮を建てようとはしないはずです。いうまでもなく、古墳はお墓です。
最初に造られた、内裏、大極殿の横にはなんとお墓、古墳があったのです。
都の中心である、王の住む場所、内裏、大極殿は、お墓そばに造られていたことになります。
これ、ありえないでしょう。今も北部には複数の古墳が存在します。

平城宮が、本来の都の中心ではなかったことの証拠でもある。

万葉集 巻一(80)
あをによし寧楽の家には万代にわれも通はむ忘ると思ふな
巻三(328)
あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり

寧楽(奈良)の都と詠まれています。それが、何故に奈良京が、平城京ということになるのでしょうか?
おかしいですよね。平城を「なら」とよんでいたらしいといわれますが、本当なのでしょうか?
「那羅」、「寧楽」、「及楽」、そして「平城」などと表記されているとされますが、「平城」だけは納得できない。
長屋王が大王に即位していたことを消し去ったため、長屋王の都である奈良京も消し去られているのですが、
木簡や万葉集に本来の都の名が残っている。
藤原が殺害した人物が大王では都合が悪いため、歴史が改竄されている。こんなの簡単な推測でしょうに。



     
                         


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「藤原の宮」と「香具山の宮」、・・・万葉集の謎

2017年09月26日 | 日本書紀の謎


藤原京跡地には、沢山の花が植えられていますが、特に秋のコスモスが有名で、この時期には沢山の観光客が訪れます。
そして、この藤原京なのですが、この都の名称を「藤原京」、そして宮を「藤原の宮」なんていうのは絶対に賛成できません。

これじゃー、本来の歴史は全く歪められたままである。歴史を改竄した藤原氏、不比等の思惑通りじゃないですか?
とにかく、私はこの「藤原京」の名称が気に入らない。ですので、もう少し書き込みます。

この藤原京の名称は、持統が即位したとされる「藤原に宮」にちなむのですが、この藤原の宮とは、都の中心にある建物、天皇の住む内裏、大極殿、朝堂院などのことされますが、そうではなく、藤原氏、藤原不比等の邸宅のことです。持統はこの不比等の邸宅で天皇に即位したのです。何度も言いますが、大王に即位したのではない。本来の王の呼称は、この時代も「大王」です。


では、どこかに本来の宮の名称が記されているものがないのだろうか(・・?
実は、・・・万葉集の柿本人麻呂の歌の中に、本当の宮の名が記述されています。これ、持統は天皇であり、大王は高市皇子であり、この都、本来は高市大王の王都だとすると、案外簡単に発見できます。
長屋王の邸宅跡とされる場所から出土した木簡の記述からの推測では、長屋王や父親である高市王子は大王に即位しています。

今回は、この藤原京跡の写真を撮りに出かけました。そして、近くにある橿原市藤原宮資料室、奈良文化財研究所藤原宮資料室を訪れたました。橿原市藤原宮資料室には、藤原京の1000分の1サイズノ精巧なジオラマがあります。
この都はとても信じられないくらいの広大な面積だっとされます。本当なのかなー?(゚Д゚;)

奈良文化財研究所藤原宮資料室には藤原宮で出土した、瓦、土岐、木簡などが展示されています。
訪れてみると、新たな発見がありました。
都の中に、大きな邸宅跡も見つかっているようで復元模型を展示してあります。これが、・・・とまでは断言しまませんが、こんな大きな邸宅を建てることが出来るのは藤原氏以外ない・・・おそらくこの邸宅跡が、藤原氏、藤原不比等の邸宅であり、・・・つまり、
ここが「藤原宮」であり、持統はこの不比等の邸宅で天皇に即位したわけです。
でも大王ではありあません。

なんどもいいますが、中心にある、内裏、大極殿、朝堂院などの建物が、臣下の名である藤原宮なんて呼ばれるはずは絶対にありえません。この藤原宮にちなんで藤原と王都の名称につけたようなのですが、臣下の名を付けるべきではない。歴史を変更したのはこの藤原氏です。

写真は、万葉集にある 持統天皇の歌です。
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山
持統天皇
万葉集、そして百人一首にもある持統天皇の有名な歌です。
この「天の香久山」とは山ではなく、高市大王の宮、「香久山宮」のことです。

日本書紀、古事記は偽書です。同様に気になるのが万葉集です。持統が関わったともされる、15巻本万葉集といわれる初期に編纂されたとされるものです。
この万葉集についても記紀において、持統天皇、藤原氏によって改竄された歴史を補足する形で詠まれた歌が多数ある。

歌の内容はもちろん、作者や、詞書(和歌が詠まれた時・場所・事情などを説明したもの)によって改竄されている。
ウイッキベディア参照させてもらいます。

ウイッキベディア・・・
『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、
おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
1. 巻1の前半部分(1 -53番)…
原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが
推測されている。
2. 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶
が関与したことが推測されている。
3. 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集・・・
巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の
有無など、
万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。・・・
  *************************
もう何も言うことがない位なのですが、これらの指摘どおり、編纂には天智系天皇、そして藤原氏が関わっている。
原万葉集とされる、巻一、巻二は持統天皇の発意により文武朝に編纂されたとされます。特に問題なのはこの巻一、巻二です。

持統天皇、息子の草壁王子、その子の文武天皇 の皇位継承の正当性が述べられている。藤原氏による改竄です。
この原万葉集、本来は改竄された記紀の歴史を補足する形の和歌集である。元明在位期間を現在としている初期の15巻本万葉集がそうです。記紀を改竄し、それに合わせるように、この万葉集の中の歌で矛盾するものは変更されている。

それで、この持統天皇作とされる歌ですが、香具山は香久山、「天」の文字がつけられ、天香具山、天香久山とも表記されます。香具山をよんだ歌は他にもありますが、この歌に関しては、少し奇妙な歌だなーって思わないですか?

香具山は、そう神様の山ですよね。そこに衣を干すのでしょうか?
山に干した衣が見えるので、その景色を詠ったと考えられるわけですが、本当に宮から衣がみえるのでしょうか?どうして、わざわざ山に衣をほしに行くのでしょうか?おかしいですよね?
ですので、いろいろ解釈があるようなのですが・・・。


万葉集,第二巻には、挽歌とされる歌があります。この挽歌に詠われている人物は、不幸な死に方をした、殺害されたとされる人物が多いような気がするのですが・・・?この時代は暗殺が繰り返されてたから、たまたまかな?これらの挽歌は、死者への鎮魂歌であるわけです。

それで、、万葉集、柿本人麻呂が高市皇子の死を悼んだ有名な挽歌。
万葉集の中で最も長い歌です。壮大な挽歌を寄せていることから、この2人は親交があったのではないかとされます。
この高市皇子も大王と表現されている箇所があります。そう高市皇子は大王に即位していたのです。

この挽歌に高市皇子の宮の名が記されていて、これが本当の宮の名です。
この挽歌の内容からも、高市皇子は大王に即位していたとしか考えられない。

柿本人麻呂は持統天皇に仕えていたとされますが、そうではありません。
人麻呂は、大王である、天武や、高市王子、長屋王につかえていた宮廷歌人です。
彼らは全員本来の大王です。本来の王である長屋王を殺害したのは藤原氏です。大王殺しは藤原氏にとっては都合の悪いことです。

長屋大王が大王ではないとするには、天武大王の第一王子であり父親である高市王子を大王に即位していないとすることです。
ですが、木簡や、万葉集の歌からの推測では明らかに大王です。
柿本人麻呂は、高市王子のことを「大王」と呼んでいます。

万葉集・・・巻二(一九九)   
高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き   明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 
神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が王の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 
天降り座して 天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて 千磐破る 人を和せと 
奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任きたまへば 大御身に 大刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 
整ふる 鼓の音は  雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに差上げたる 
幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持たる 弓弭の騒き み雪降る 
冬の林に 旋風かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来れ 奉はず 立ち向ひしも 
露霜の 消なば消ぬべく去く鳥の 争ふはしに 度會の 斎ひの宮ゆ 神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 
覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を神ながら 太敷き座す やすみしし 我が大王の天の下 奏したまへば 万代に 然しもあらむと木綿花の 
栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に 装ひ奉りて 遣はしし 御門の人も 白布(しろたへ)の 麻衣着て 埴安の 御門の原に 
あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 
侍へど 侍ひかねて 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ神葬り 
葬り行して あさもよし 城上の宮を常宮と 定め奉りて 神ながら 鎮まり座しぬ  しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして 
作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども
短歌二首
  久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも

  埴安の池の堤の隠沼の行方を知らに舎人は惑ふ
    *************************
持統天皇の歌の謎はこの柿本人麻呂の、挽歌から謎解ける。
この挽歌の中の大王とは、天武のことです。その王子である高市皇子の御殿を神の宮として装い、仕えていた人たちは白栲(しろたへ)の 麻の衣を着て・・・この歌では白い喪服のことです。「白栲の衣」というのは普通は葬礼用の衣のことです。

そして、挽歌の最後の重要な部分です。
我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・

わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香久山の宮」は、万年の世を過ぎても
なくなることは考えられない。

天武が新たに造り始め、王子である高市大王の時代に完成した宮を、「香具山の宮」と表現しているでしょう?あたりまえだけど、藤原の宮なんて、宮の名を臣下の名で呼んでいたはずはない。ありえません。
この歌にあるように「香具山の宮」って名付けられていたのです。
それで、持統の歌の「天の香具山」なんだけど、・・・ この歌の場合は、この「香具山の宮」のことを指すのではないのでしょうか?どうなのだろうか?だから、「香具山京」でいかな。

この挽歌は、この高市皇子の宮である香久山の宮から、殯宮である、城上の宮へ移されたことを歌っているわけでしょう。

そして、万葉集 
持統天皇・・・
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山

つまり、この歌は、高市皇子を、城上の殯宮に移した後に、使用した葬礼用の白栲(しろたへ)の衣を、「香具山の宮」で干している情景を詠ったものであるのかも?当時は宮を天上にたとえる習わしがあったことから、この「天の香具山」とうい表現は本来、「香具山の宮」のことを言っているのではないのかな?

持統天皇の宮である藤原不比等の邸宅「藤原宮」から見える、高市皇子の宮である、「香具山の宮」に白栲の衣(祭礼用の着物)が干している・・・王であった高市皇子の死を悼んでいる歌であり、持統天皇から高市皇子への鎮魂歌でもある・・・と推測するのですが?

まー、高市皇子が、崩御した時の歌かどうかはともかく、持統の住まいである不比等の邸宅「藤原宮」から、高市皇子の宮である「香具山の宮」の様子を詠ったものである。夏に備えて夏用の衣を洗濯し干している情景を歌ったものです。

ともかく、王都の中心の建物が、藤原宮なんて呼ばれてたはずは絶対にない。
天皇は大王ではないので、持統は、この「香久山の宮」で即位したのではなく、藤原不比等の邸宅(藤原宮)で天皇に即位したのです。

多分だけど、発掘された大型堀立柱建物 ・・・土地区画は1町(約120メートル四方)より広い可能性が
あるとされる「貴族の邸宅跡 」・・・が藤原不比等の邸宅であり。
これが「藤原宮」であり、持統はここで天皇に即位し移り住んだたわけです。
藤原氏はこの持統天皇を利用したわけです。

気に入らないので何回も言いますが、王都の名を藤原とするのはよくない。「藤原宮」、「藤原京」の名称は変更すべきです。

藤原氏によって、対立しいていた長屋王を大王としたくない改竄がなされている。高市皇子は、天武の第一皇子なのに、王に即位できなかったのは、お母さんが身分の低い女性だからとされています。

しかしそうではない。本来は、高市皇子は天武と王家の女性である、皇后の額田王との王子であるのに、変更され王家の女性ではない人物を、高市皇子のお母さんとしている。同様に長屋王のお母さんも変更されているのではないだろうか?
高市皇子の皇后も、王家の女性であるはずです。対立していた藤原氏においては、長屋王が王に即位していたとするわけにはいかないのです。

じゃー長屋王のお母さんは誰なのでしょうか?もちろん、王家の姫王であるはずです。天智の娘ではおかしい。

この疑問も万葉集から推測できます・・・柿本人麻呂は高市皇子に仕えていたわけですから、その皇后に関する歌も残されているはずですから・・・。

柿本人麻呂は長文の挽歌を作っている女性がいます。それは明日香皇女です。
これらの挽歌から、この女性が高市皇子の后であることが判明します。

明日香皇女に関する歌
柿本人麻呂による挽歌が万葉集に残っている。
明日香皇女の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌

飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 
生ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥せば 川藻の如く 靡かひし 
宜しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背き給ふや うつそみと 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 
敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛づらしみ 思ほしし 君と時々 幸して 遊び給ひし 御食向ふ 
城上の宮を 常宮と 定め給ひて あぢさはふ 目言も絶えぬ 然れどもあやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋嬬 朝鳥の通はす君が 
夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 情もあらず そこ故に せむすべ知れや 
音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 思ひ行かむ み名に懸かせる 明日香河 万代までに 愛しきやし わご大君の
形見かここを


短歌二首
明日香川しがらみ渡し塞かませば 流るる水ものどかにあらまし [巻2-197]
明日香川明日だに見むと念へやも わが王のみ名忘れせぬ [巻2-198]
   **************************
これだけ長い挽歌を歌っていることからも、この明日香皇女は重要な人物だと推測できます。
ですが、この女性は誰の后なのかは不明です。
忍壁皇子の妻とする説があるようですが、そうではなく、 高市皇子の皇后であり、長屋王のお母さんではないのか?

柿本人麻呂による、高市皇子への挽歌とこの明日香皇女への挽歌から、推測します。
この二つの挽歌はとても重要な歌です。
長文の歌を、そのまま参照したのは訳があります、それは歌の内容から、彼女は天武の娘であり、そして高市皇子の皇后であり、長屋王のお母さんだろうと推測できます。

歌の中の「わが王」とは、高市皇子のことであり、「君」とは、この明日香皇女のことです。高市皇子が亡くなり、その後 、后の明日香皇女が悲しみに暮れている様子を歌ったものです。

女性が悲しんでいる姿を詠ったとする方が自然ですよね。
ですが、この歌の解釈、調べてみればわかりますが、ほとんど(多分全て?)この「わが王」とは、明日香皇女のこととし、「君」を夫のこととした解釈がなされています。
女性が「王」で夫が「君」、それ、あなたたちおかしいとは思わないのでしょうか?(^o^)丿

こんな不自然な解釈になっているのは理由があるのです。それは、この明日香皇女は忍壁皇子の妻とする説があるからです。
明日香皇女は、700年に亡くなり、忍壁皇子は、705年に亡くなっているからです。夫がなくなり、悲しみにうちひしがれているのは、明日香皇女ではおかしいわけです。

ですが、 明日香皇女への挽歌なわけでしょう・・・?
ここ、意味としては・・・
我が大王(高市皇子)の、立たてば玉藻のようで、横になれば、川藻のごとく、靡びいている、美しい君(明日香皇女)が、どうして朝になっても宮のことを、お忘れになられたのか?どうして、夜になると宮を離れてお帰りにならないのですか?・・・というような意味ですよね・・・?

もう一つ、最も重要な箇所、 ・・・
明日香皇女への挽歌の、・・・城上の宮を 常宮と 定め給ひて あぢさはふ ・・・
高市皇子への挽歌・・・城上の宮を常宮と 定め奉りて 神ながら 鎮まり座しぬ・・・ 

「城上の宮」を常宮と定めたのは、高市皇子ですよね。つまり、「城上の宮」は高市皇子の殯宮ですよね。
そうすると、明日香皇女への挽歌のなかの「わご大君」とは、この高市皇子のことですよね。その「わご大君」の、「君「」とは后のことですから、この明日香皇女は、高市皇子の后ということになります。

高市皇子は、「香久山の宮」を出て、殯宮である「城上の宮」に移されたわけですよね。同様に明日香皇女もまた、高市皇子の殯宮である「城上の宮」に移されて、のちに埋葬されたわけですよね。つまり彼女が皇后であると考えられるわけです。他人の后を同じ殯宮に移すわけありませんからね。

明日香皇女の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌・・・ですよね。

この明日香皇女は、誰の后になったかは不明です。それは、長屋王のお母さんだからです。
高市皇子の皇后である明日香皇女との王子が長屋王である。

  
この新益京にある、高市皇子の宮は「香久山の宮」とも呼ばれていたのです。
「藤原の宮」なんて呼ばれているはずはない。
ですので「藤原京」の名称はよくない。「香久山京」にすべきです。

挽歌の中の、「大王」、「宮」という表現されていることからも、この宮とは、もちろん天武が新たに作り始めた新益京の宮であり、 王子である高市皇子が受け継んだ宮、「香具山宮であるのです。
その香具山宮 を、明日香皇女が、高市皇子が亡くなってから宮を離れたことを歌っているのです。天武の後、即位したのはこの高市皇子であり、皇后はこの 明日香皇女です。

高市皇子が崩御したのは、696年です。夫の高市皇子が亡くなって後に、明日香皇女が悲しんでいる様子を詠ったものです。
これだけの挽歌があるのはこの女性は重要な女性に他ならない。


そして、この明日香皇女は天智の娘としていますが、そうではなく、天武、あるいは孝徳の娘だったのでは?
特に天智と天武の関係する系譜が改竄されている。高市皇子崩御後、王家と藤原氏との対立がおきます。藤原氏は、系譜を改竄する必要があったのです。

ウイッキベディア・・・
明日香皇女は、持統天皇の訪問を受けたり、彼女の病気平癒のために108人の沙門を出家させたりなど、
他の天智天皇皇女に比べて異例の重い扱いを受けている。
     *************************
それは、大王である、高市皇子の皇后は、この明日香皇女だったからです。
そして、孝徳天皇の娘だったからではないのか?
この皇女のお母さんの阿倍橘娘は、阿倍倉梯麻呂(阿倍 内麻呂 )の娘でしょう。同様に孝徳天皇妃になった小足媛もこの阿倍倉梯麻呂の娘であり、有馬皇子のお母さんである。孝徳天皇、有馬皇子と争ったのは天智である。

ですので、この明日香皇女は天智の娘とは思えない。この孝徳の娘なのでは?阿倍 内麻呂の娘であるこの橘娘もまた孝徳天皇の后だったのでは?阿倍内麻呂が左大臣として仕えていたのは、この孝徳天皇である。
孝徳天皇と、阿倍内麻呂の娘である橘娘との娘である、つまり、王家の女性であり、長屋王のお母さんである。

この明日香皇女の同母妹に、天武に嫁いだとされる新田部皇女がいます。妹が天武に嫁ぎ、姉がその天武の王子の高市皇子に嫁いだことになります。これ、明日香皇女が忍壁皇子の后だったとしても同様でおかしな話ですよね。忍壁皇子の后は全く不明です。

この明日香皇女の妹の新田部皇女は、天武の后ではなく、彼女こそ忍壁皇子の后だったのではないのだろうか?
つまり、同じ名を持つ天武の第十皇子とされる、 新田部親王は、忍壁皇子と、この新田部皇女との王子であるのでは?

新田部皇女の王子とされる舎人親王と、新田部親王は同母兄弟である。
この2人もまた藤原氏によって暗殺されている?この二人はともに「親王」とされているので、大王家の人物だったはずです。

長屋王変の後、長屋王の王子たちも多数亡くなっていることもあり、もちろんこの二人が次の王の候補であるのですが、二人とも同時期に亡くなっている。735年に新田部親王が薨じたあと、舎人親王はその1ヶ月半後に亡くなったとされます。不自然である。

明日香皇女と妹の新田部皇女は王家の姫王です。その王子である舎人親王と、新田部親王もまた正当な大王の後継者です。
本来は、お母さんである藤原宮子の出自があやしい聖武天皇より位が上なわけです。

王家の人物を殺害し、藤原氏は関係する聖武天皇が完全に王位に就くことになります。

ですので、本来の王家の人物を、藤原氏の人物とするために、系譜の改竄がおこなわれている。
新田部親王のお母さんを藤原鎌足の子の五百重娘として系譜を改竄したため、この五百重娘は最初は天武の后になり、その後に藤原不比等の妻となったとされます。少し不思議なはなしでしょう。大王を殺害したから、藤原の人物として取り込んだのだと思います。

系譜の改竄は案外簡単です。本来の王家の人物を王の系譜から外す、王家の人物を、自分たちの系譜に取り込む。これらの作業が行われている。

長屋王の変の時に、長屋王の皇子たちも沢山亡くなっています。特に后の吉備内親王との間の王子たちです。
この吉備内親王は草壁皇子と元明天皇との皇女とされますが、そんわけないでしょうに。

天武の王子の娘でしょうけど、草壁皇子と元明天皇との娘とは考えずらい。
私は名前にこだわるのですが、天武の息子の忍壁 皇子と、茅渟王と后の吉備姫王から繋がる女性との娘が、この吉備内親王かな?

天智天皇の皇女の4人が、天武の后になったとされます、しかし新田部皇女と同様に大江皇女もまた、
天智のむすめではないのでは? 天武のむすめであり、高市皇子の后であるのでは?

高市皇子の皇后は明日香皇女であり、長屋王のお母さんである、同様に長皇子と、弓削皇子もまた、高市皇子の王子たちではないのか?

天武天皇に、天智の4人の娘が后となっています。大田皇女、鸕野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女、です。
大田皇女と、持統天皇こと鸕野讃良皇女は同母姉妹でしょうが、・・・ですが、この大江皇女と新田部皇女は、天智の娘とは思えない。天武あるいは孝徳の娘たちです。4人の娘が后にというのはやはり、不自然ですよね。

新田部皇女の皇子である、第六皇子、舎人親王。そして、大江皇女の皇子たち、生年が不明の第七皇子長皇子 、第九皇子弓削皇子たちは、天武の皇子たちではなく、高市皇子の后だったのでは?そして、彼らは、不自然なくらい早くに亡くなっている。

高市皇子崩御後、長屋王が即位してのちに、次の皇太子である長皇子と弓削皇子はなくなっています。
そして、長屋王崩御後には、同様に皇太子である舎人親王と、新田部親王が亡くなっている。また、長屋王の変において長屋王の王子たちも多数亡くなることになります。

高市大王崩御696年、 弓削皇子699年、忍壁 皇子705年、 長皇子715年。
長屋大王崩御724年、舎人親王735年、新田部親王736年
他にも、大津皇子 686年、穂積親王 715年。

これが不自然である。天武の王子たちであり、本来の王家の人物です。
藤原氏の関係する、文武、聖武のライバルたちです。

天武大王ー高市大王ー忍壁大王ー長屋大王ー舎人大王ー新田部大王

長屋大王崩御後、聖武天皇は天皇ですが、王は舎人親王であり皇太子は新田部親王であったわけです。
持統や、文武、聖武は天皇でした、ですので天皇の呼称を使用して記紀を改竄したのです。

そして、・・・ついに怨霊が現れました。
737年天然痘のにより藤原四兄弟が相次いで病死することになります。
天武から繋がる王子たちはもちろん、天武に繋がる重要な人物、そう天武の祖父である、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子もまた怨霊だったのです。




最初の上の写真は、香具山宮跡(藤原宮)のコスモスと、北に位置する耳成山です。
この耳成山と香具山宮の間を通るのが横大路です。竹内街道から奈良盆地、そして東へは伊勢街道に
繋がる古代の主要幹線です。
都が明日香からこの地に移った理由でもあります。明日香はこの横大路から少し奥まった場所に位置し
この時代の都としては不便だったからでもあります。

下の写真は、藤原の宮跡です。秋にはコスモスが綺麗なのですが、今年は遅いようで?・・・というかまだ少し
早いのですが、やはり、咲いていませんでした。写真は去年のものです。2枚目、耳成山と3枚目香具山です。
3枚目の写真は天香具山神社です。
最後の写真は、本薬師寺跡、休耕水田にある水草のホテイアオイです。
こちらは、綺麗に咲いていました。背景の山は畝傍山です。

天武が、皇后である額田王の病気平癒のために発願し、天武崩御後には、ふたりの王子であった
高市王子が完成したのが薬師寺です。

5枚目の写真は奈良文化財研究所にある貴族の屋敷の復元模型です。
これが藤原の宮かな?
パネルにある説明・・・貴族の屋敷
宮の正門、朱雀門から南西に300m、「右京七条一坊西南坪」の地でみつかった。敷地は「一町」。
東西120m,南北103m、面積12000㎡。大路、小路に面し周りを板塀で囲む。もう一重内堀で囲んだ宅地の中央に、
正殿、その左右と後方に、
数棟の建物が整然と並ぶ。正殿の建築面積は、300㎡余。平城京長屋王邸の正殿の規模に近い。
主要建物の建築面積は700㎡、余に及ぶ。家主は貴族か皇位の役人だろう。だがその名を特定することはできない。
   *************************************

その名を特定しますよ。この貴族邸というのが藤原氏の邸宅であり、藤原の宮です。
持統はここで天皇に即位したのです。持統天皇作の歌は、ここから、高市大王の宮である「香久山宮」を望んで詠まれた歌です。

後の平城京の内裏や大極殿が、造り直された理由の一つが、この邸宅を、香具山京(藤原京)の中心として改竄したかったからです。つまり、この邸宅跡の真北に新たに、平城京の内裏や大極殿がを造ったのです。藤原氏による都の変更です。
藤原氏は、本来の、高市皇子の香具山の宮、そして長屋王の宮を消し去りたかったのです。
この藤原邸こそ本来の都の中心地であるとしたかったわけです。




                                   

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持統天皇の謎と藤原京

2017年08月19日 | 日本書紀の謎


写真は藤原京跡です。
天武天皇は、新たに王都の造営を開始しました。現在の藤原京跡地は、大和三山に囲まれていますが、
本来は、この大和三山が王都の中に治まるほど広大な都だともされます。そして、天武の遺志を継いで、
皇后である持統が造営したとされます。

持統は、690年にこの藤原の宮で即位したとされ、694年に遷都しました。この694年から
710年まで、持統・文武・元明天皇3代にわたる都だったとされます。
本当なのでしょうか?持統天皇、藤原不比等によって歴史は変更されている。
日本書紀、古事記は偽書です。本来の歴史は闇の中に・・・。( ノД`)シクシク…

それで、この藤原京の名称なのですが、・・・なぜに藤原なのでしょうか?おかしいでしょうに?
日本書紀に藤原宮との記述があるから、藤原京と名付けたようなのですが・・・藤原京???

なにが藤原京、藤原宮じゃああああああーふざけるなー・・・て言いたいんですけど?

何故に臣下の名を都の名に付けるのでしょうか?何かおかしいとは思いませんか?わたしは
凄く不思議に感じるのですけど・・・?名付けた学者も学者なんだけど、誰も反対しなかったのでしょうか?


そして、ここは持統の宮とか言っているけど・・・そうでしょうか?
ここはもちろん大王の宮。そう天武の長男である第一皇子の高市皇子の宮であり、王都であるのです。
高市皇子の子供は長屋王です。彼らが大王で、大きな宮に遷都していたのでは対立していた
藤原氏には都合が悪いのです。そう彼らが大王に即位していて、この王都が彼らの王都、宮だった
ことが変更されているのです。

藤原京ではなく「新益京・あらましのみやこ」でいいんじゃないですか?
宮とは建物のことをいうのですが、・・・この藤原の宮は、都の中心にある建物、天皇の住む内裏、大極殿、
朝堂院などのこととされますが、その中心の建物が、藤原の宮なんて呼ばれていたはずはない。絶対にありえません。

藤原ですよ???こんなの常識的に考えても分るでしょうに???

つまり新益京の中に藤原宮(藤原氏,不比等の住居)があり、持統はこの藤原不比等の住居で
天皇に即位したということです。

持統の後ろ盾になっていたのは藤原不比等じゃないですか。
ですが天皇とは大王ではない。持統は息子の草壁皇子 や孫の軽皇子を王位に就かせたいために
藤原氏の力を借りたわけです。
そして、藤原氏は、文部天皇に藤原宮子、聖武天皇に藤原光明子を嫁がせ天皇の外戚となって
権力を保持することになります。藤原氏は関係するこの文部天皇、聖武天皇の方が王に相応しい
と系譜を改竄したのです。天孫降臨です。

つまり、持統は天皇ですが、大王は高市皇子です。天武の長男である第一皇子の高市皇子が、
当然大王に即位している。この高市皇子と、その皇子の長屋王と対立していたのは、持統天皇や
藤原氏です。天皇と大王、王座が二つある状態でもあったわけです。彼らの系譜もまた改竄されている。

天武天皇が、当初に計画していたのは凄く広大な都でした。しかしわずか16年の短命に終え、
平城京に遷都されます。凄く不思議なはなしですよね。何故に短期で平城京に遷都されたかというと、
この王都が、高市皇子と長屋王の王都だったからです。持統が天武の遺志を継いで道営したのではない。

この藤原京の名称は明治時代に名付けられたものなのですが、良くない。これじゃーまるで藤原氏の
王都という印象を受けるじゃないですか。
臣下の名を王の都に付けるべきではない。これは変更するべきです。

ウイッキベディア・・・倭京。歌の記述があるので参照させてもらいます。

676年以降の「京」に関連して渡辺晃宏は、『万葉集』の「大君は神にし坐せば赤駒のはらばふ
田ゐを都となしつ」(大伴御行)、「大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(作者不詳)
の両歌は、飛鳥浄御原宮のことではなく、新益京(藤原京)の造営を詠ったものとみてよい、と述べている
  **************************
この王都は、もとは天武が造り始めたわけです、天武の後は、もちろん第一皇子の高市皇子の王都であったわけです。
それとこの歌に注目してください、もう何度も言いますが、大君(おおきみ)であって天皇ではないですよね。
天武は「おおきみ」って呼ばれていたわけです。本来、天皇は大王ではなかったわけです。

記紀が大王ではなく、天皇の呼称を使用したのは、持統が即位したのが天皇だったからでもあるのです。
天皇は大王ではない。持統そして、元明、元正も天皇だったからです。
古事記・日本書紀は、この天智の娘である元明天皇の時代に編纂されている。

それで、面白いこと気づいたのですが、・・・

初代天皇は推古です、2代目は大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある、袁智天皇(茅渟王の娘 遠智娘 持統のお母さん)、
3代目は持統、4代目は元明、5代目は元正、(草壁皇子の立太子そは軽皇子(文武天皇)の即位を正当化
するために後世作為 )・・・あれ???みんな女性ですよね。蘇我の女帝が天皇?
持統はお母さんが即位していた天皇に即位したのです。

古代の歴史を改竄したのは、蘇我馬子、藤原氏、光明皇后、そしてもうひとり、それは持統天皇なの
ではないだろうか。
持統は天智の娘であり、その天智は渡来人の血が入る人物だったからです。そして、持統は本来は
蘇我の王である天皇に即位したのであって大王ではない。そして天武の皇后は額田王であって持統ではない。

持統が天皇時に大王に即位していたのは、もちろん天武の長男である高市皇子であって、
彼は天武と額田王との王子です。

天武の最初の后は 額田王であり、彼女が皇后です。持統ではありません。
第一皇子である高市皇子と第一皇女の十市皇女はともに、天武とこの 額田王との子供たちです。
ですが、高市皇子が大王に即位したのを消すために系譜の改竄がされている。 王家の女性である額田王の出自と、
高市皇子のお母さんを胸形徳善女の尼子娘という身分の低い女性に変更されている。


そして、持統は自身と息子である草壁皇子 、孫の軽皇子を王として即位したとするために、
お父さんである天智の系譜を改竄する必要があったのです。それは天智は渡来人、
そして蘇我氏の血を引く人物だからです。
持統は孫の軽皇子 の皇位継承の正当性を述べるためには系譜の改竄を必要としたのです。

天武崩御後に天皇になったとされる、持統、文武、元明、元正天皇 聖武天皇 は大王ではありません。
天皇です。持統もまた天皇の呼称を使用してたのです。
天武のあとは、もちろん第一皇子である高市皇子、そして長屋王・・・彼らが大王でした。
長屋王の死後、天皇が大王にとってかわったのです。

今回は、蘇我氏とは、もと息長氏なのでは?・・・という疑問から、あらためてもう一度、
持統のお父さんである天智天皇と祖父である舒明天皇の謎を考えてみます。

以下もう何度も記述してきましたが・・・
ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、
臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
 『日本書紀』推古28年是歳条
******************************
聖徳太子(竹田皇子)と蘇我馬子は、天皇記・国記を編纂したとされます。蘇我馬子が編纂
したということからも判断できますが、
これ本来は蘇我氏の歴史書です。天皇とは本来は蘇我の王の呼称でした。

蘇我馬子により、古代の王家に蘇我氏を繋げる改竄がなされている。

この古代の王家とは、後に物部とされた氏族です。何故かっていう理由は簡単。
それは、この物部氏は非常に広範囲に分布するからです。これはイコール広大な領地を
保有していたということです。こんな単純なことが全く理解できていない。

この物部氏は、九州から関東、北陸まで広範囲に分布します。また関係する物部神社も同様に
広範囲に存在します。いうところのヤマト王権、大和朝廷です。

古代は力の時代です。大きな領地、大きな軍事力を持つものが他を征服するわけです。
古代から天皇家っていう氏族が存在していたとするなら、天皇家の支配していた領地って
どこにあるのでしょうか?どこにもないじゃないですか?
今の象徴天皇の感覚で考えては理解できない。
天皇家なんて存在していない。本来は大王と呼ばれていたわけで、天皇なんて呼ばれていたわけではない。
蘇我氏が権力を得、蘇我の王である天皇と、大王が存在するようになった。

この天皇記・国記の推古条には推古の息子の竹田皇子が皇太子の名称で書かれていました。
この蘇我氏の歴史書である天皇記・国記を基に、後の歴史書は編纂されている。
歴史は勝者によって書かれるわけです。勝者は天智系天皇と藤原氏です。

するとですよ、何故に、後の、つまり日本書紀・古事記は、本来の王の称号である「大王」ではなく、
蘇我の王である「天皇」の呼称を使用したのでしょうか?それは、持統が即位したのが天皇だからと
もいえるのですが、謎は、天智天皇にあるように思います。もしかしたら天智は蘇我氏にも関係する人物なのでは・・・?

複雑になっているのは持統天皇はこの天智の娘だからです。そして、彼女もまた改竄された
系譜に関わる人物であるからです。
持統のお母さんである遠智娘は 、大王であることを消された、茅渟王の娘です。
ですので、持統は母系で王家と繋がりますが、問題は天智です。

持統はお父さんである天智の地位を上げる操作をしている。そして、持統は天皇に即位したのであって、大王ではない。
記紀が天皇の呼称を使用した一つの大きな理由です。

蘇我氏とは、もと息長氏なのでは?この息長氏に関しても、多くの謎がある氏族といわれます。

蘇我馬子と聖徳太子によって編纂されたという、天皇記、国記は蘇我氏の歴史書です。
この歴史書は、応神天皇から、推古天皇までを記述されていたと考えられます。つまり、
この応神天皇は蘇我の神様です。

その蘇我の神様が、何故息長氏に関係する人物なのだろうか?疑問はここから始まりました。
そして、何故に、後の歴史書、日本書紀、古事記は蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を用いたのだろうか?

この息長氏の代表的な人物といえば、息長帯日売こと神功皇后 です。
神功皇后は、応神天皇のお母さんであり、応神天皇から継体天皇に繋がります。
そして、蘇我氏が祖とする、武内宿禰 (神武天皇)こそ応神天皇のお父さんであるというような記述の仕方もしています。

息長氏の重要人物は、蘇我氏の重要人物に関係する。

そして、蘇我氏が関係する、舒明天皇は何故か 息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)です。
どうしてなのだろう?

これは、蘇我氏が関わる人物だという名前なのではないのだろうか?謎は、天智、天武のお父さんとされる、
舒明天皇の謎に関わります。

つまり、この舒明天皇は欽明天皇と同様に蘇我の天皇である。彼らは蘇我氏が関係する天皇であり、
実際に大王ではなかった人物です。すると、彼は蘇我氏と関係し蘇我の血が入っているはずです。
では、舒明天皇とは一体誰なのだろうか?


蘇我氏が王家と関わる人物、欽明天皇と舒明天皇の謎を考えてみます。
この二人は実際には大王には即位していない、いわば蘇我の王(天皇)です。
天皇とは、本来は蘇我の王の呼称でした。

この舒明天皇の謎から、日本書紀、古事記は何故に、「大王」ではなく、蘇我の王の呼称である
「天皇」の呼称を用いたかの理由も謎解けるようにも思うのですが・・・?

この舒明天皇とは、誰なのだろうか・・・?

謎を解く鍵は、この漢風諡号にあります。舒明天皇の漢風諡号の息長足日広額天皇とされます。
これ、つまり舒明天皇は、息長氏の人物、つまり蘇我の天皇だという諡号なのだと考えられるのではないだろうか?
漢風諡号は、天武天皇の皇子、淳仁天皇の御代だと考えられています。

そして、蘇我は、もともと息長だったのではないだろうか?息長氏の本貫地は河内であり、
本来は「磯長」「科長」・・・「シナガ」だったのでは?
息長はシナガなのでは?この地は神功皇后誕生の地という伝承も存在するとされます。

蘇我稲目から蘇我氏であり、それ以前は「息長、しなが」だったのでは?
この舒明天皇は欽明天皇と同様に蘇我の天皇である。蘇我氏が関係する天皇であり、実際に大王ではなかった人物です。

彼は蘇我氏と関係し蘇我の血が入っているはずです。では誰なのだろうか?
系譜の改竄は、案外単純なものなのではないのだろうか?
宝女王は2度結婚しています。最初の夫が高向王であり、次の夫は舒明天皇だとされます。
そうではなく、これまで、なんども記述してきましたが、天智と天武は兄弟ではない。
最初の夫はが高向王で次の夫が天武のお父さんである 山代王である。舒明天皇とは、この二人をまとめたような人物です。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王

天武のお父さんは、厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の王子である山代王であるのですが、
ここが消されている。これは藤原氏による改竄です。上記の彼らが本来の王家の大王では都合が悪いのです。
山代王を暗殺したのは、「山背大兄王暗殺の謎と中臣鎌足」で書きましたが、中臣鎌足 と天智天皇の祖父?
である秦河勝 です。

乙巳の変と山背大兄王暗殺は、関係ないような記述ですが、そうではなく理由は同じです。
百済救援に反対の彼らを暗殺したのです。

宝女王の最初の夫とされるが高向王こそ舒明天皇ではないのだろうか?
つまり、この舒明天皇というのは架空に人物である。いわば、高向王と山代王、二人を一人に纏めた人物が舒明天皇である。

それでは、この高向王とは一体何者なのだろうか?

ウイッキベディア・・・
田目皇子

用明天皇の第一皇子。母は蘇我石寸名(蘇我稲目の娘)または意富芸多志比売。
子に男子一人(一説では高向王(宝女王の最初の夫、漢皇子の父)と佐富女王がいる。聖徳太子の異母兄。

  ******************************
この用明天皇の第一皇子である田目皇子の子供が高向王だという説があるようです。
この説は詳しくはわかりませんが・・・?ここから推測していきます。

この田目皇子 は、別名、豊浦皇子ともされます。これは蘇我の皇子といえる名前であり、蘇我氏が関わる人物です。
この蘇我稲目の娘を母に持つ豊浦皇子 こと田目皇子の子供が高向王ともいわれます?
つまり、蘇我の女性を母とする蘇我の皇子である、田目皇子の子供が高向王こと舒明天皇なのではないだろうか?
すると彼は。蘇我の王であるわけです。
蘇我馬子が編纂した、天皇記・国記を編纂時に、蘇我の王である天皇とされていた人物です。

そうすると蘇我蝦夷はなぜに舒明天皇を擁立したかとうい説明もつきます。
系譜どおりに、押坂彦人大兄皇子と、糠手姫皇女 との皇子では、まったく蘇我氏と繋がらないわけで矛盾します。
舒明天皇こと高向王は蘇我蝦夷によって、天皇にたてられた、蘇我の皇子です。

舒明天皇のお父さんは、田目皇子であり、お母さんは、何度も記述してきましたが、漢王の妹とされる大俣王 です。
この田目皇子と大俣王との子供が高向王であり、舒明天皇です。

つまり舒明天皇なんて存在していない、・・・というか舒明天皇とは、系譜を改竄するための人物
(王家と繫げるための人物)であり、本当はこの高向王のことなのでは?

舒明天皇は、押坂彦人大兄皇子 の子供だとされているのは、天智を本来の王家に繫ぐためであるわけです。
そうすると、持統は男系で王家と繋がるわけで、天武の皇后だったと主張できるわけです。本当の天武の皇后は額田王です。

そして、寶女王こと、斉明天皇と高向王との皇子の名が「漢皇子」ですよね。
これ、祖母が漢王の妹とされる大俣王だからに他ならないようにも思うのですが、・・・?

じゃー、この「漢王」っていうのは誰なのでしょうか?

この「漢皇子」というの天智のことなら、つまりこの「漢王」というのは、これも既に何度も記述してきましたが、
天智はこの百済に関係する秦河勝の子供か、あるいは年齢的には孫であであると推測してきました。

舒明天皇の謎から推測すると、秦河勝の妹の孫が天智なのでは?つまりこの「漢皇子」こそ天智であり秦氏の血を引く人物なのでは?

この「漢王」というのは、つまり中国の王という意味であり、この名をを名乗るからには、もちろん渡来人であり、
この時代その渡来人の王は秦氏の族長である、秦河勝であり、そのルーツを秦の始皇帝に求める 彼は「漢王」を
名乗ったのではないのだろうか。

そうすると、天智天皇はまったく王家と関わりのない人物ではなく、また寶女王と高向王との子供の名が何故に
「漢皇子」かも説明がつきます。
ただ出自的には、渡来人の血が入り次期の王としての候補者としては遠い位置にいたわけです。


でも、どうなのだろう?お母さんは本当に寶女王なのだろうか?ここに関しても私には疑問があるのですが・・・?
渡来人を祖母に持つ天智系天皇、つまり持統天皇などは、本来の王家に繫ぐ必要があった。
これは持統天皇による改竄なのでは?
つまり、天智天皇を本来の王家、押坂彦人大兄皇子こと日十大王に繫ぐ改竄がなされている。 寶女王の子供なら女系でも繋がる。


天智のお母さんは、本当はこの寶女王(皇極天皇・斉明天皇) ではないのでは?

寶女王の弟の孝徳天皇と争ったのはこの天智であり、お父さんである茅渟王 や押坂彦人大兄皇子が大王だったことが消されているからです。

寶女王は天武のお母さんであって、天智のお母さんではない。
では天智のお母さんは誰なのだろうか? 

系譜の改竄は案外単純なものです。舒明天皇 の后とされる誰かなのですが・・・簡単に見つけられます。
舒明天皇の后に、実に不思議?な女性がいます。

そう敏達天皇と推古天皇との皇女の 田眼皇女です。敏達・推古両天皇の皇女なのに子女は不詳であり、
しかも皇后ではありません。おかしいですよね。これ系譜が改竄されているからなのですが・・・。
彼女はこそ高向王の后であり、天智のお母さんなのではないだろうか?

ウイッキベディア・・・田眼皇女

甥の舒明天皇の妃となり、子女は不詳とされている。父・敏達天皇が敏達天皇14年8月15日(585年9月14日)
に崩御したことと、同母妹に桜井弓張皇女がいることから判断すると、遅くとも敏達天皇14年の生まれとなり、
推古天皇元年(593年)生まれと言われる夫の舒明天皇より8歳以上年上となる。尚且つ桜井弓張皇女は田眼皇女
の同母妹であるにも拘らず、舒明天皇の父・押坂彦人大兄皇子の妃となったと言われる。日本書紀の舒明紀には
舒明天皇の后妃紹介記事に載せられていないことや、敏達・推古両天皇の皇女である彼女よりも天皇との血統が
遠い(敏達天皇の曾孫)宝女王(のちの皇極天皇)が舒明天皇の皇后とされている点から、舒明天皇即位前に亡くなったと推測される。

  ******************************
系譜の改竄がおこなわれたために、不自然になっている箇所が記述されています。

*敏達・推古両天皇の皇女なのに子女は不詳
*敏達天皇の晩年の子供だとしても,夫の舒明天皇より8歳以上年上
*桜井弓張皇女は田眼皇女の同母妹であるにも拘らず、舒明天皇の父・押坂彦人大兄皇子の妃となった
*敏達・推古両天皇の皇女である彼女よりも天皇との血統が遠い宝女王が舒明天皇の皇后とされている

これ、つまり、田眼皇女は敏達 と推古の娘ではないからです。

それでなのですが、・・・この皇女は田目皇子と同じ名前でしょう。
田目皇子の娘が田眼皇女ではなのではないだろうか?

つまり、天智のお父さんは、田目皇子と、漢王(秦河勝)の妹とされる大俣王との子供の高向王であり、
この高向王と異母妹?の田眼皇女との子供が「漢皇子」こと天智天皇なのではないだろうか?
天智は渡来人の血が入っているため本来は王に即位するには遠い存在だったのではないか?
持統はこの系譜を改竄する必要があったわけです。

用明天皇、蘇我石寸名ー田目皇子、 漢王の妹の大俣王(秦河勝妹)-高向王(舒明天皇)、田眼皇女ー
天智天皇(漢皇子)、遠智娘 ー持統天皇

舒明天皇の第一皇子とされる古人大兄皇子と天智は、異母兄弟であって、お母さんが馬子の娘の蘇我法提郎女
ということもあり、蘇我入鹿は 天智ではなく、彼を次期天皇に擁立しようとします。
乙巳の変をおこす理由のひとつです。そう秦氏対蘇我氏の権力争いでもあるわけです。

用明天皇の皇子がこの田目皇子であるなら、聖徳太子を用明天皇の皇子として系譜を改竄したため、
来目皇子は聖徳太子の弟ということになっていますが、本来は、この田目皇子の弟が来目皇子なのでは?

舒明天皇の謎は最近発見された、小山田遺跡からも推測できます。
この古墳ははまさしくこの舒明天皇こと高向王であり、彼は蘇我氏の血が入った蘇我の皇子であります。
ですので蘇我氏の拠点である明日香に存在し蘇我氏の墳墓である方墳なのです。

それで、ここが蘇我蝦夷のお墓だともされています。それは、ここが蘇我氏の拠点に存在するからです。
ですが、この高向王もまた蘇我の血が入った蘇我の王であるわけです。
だから明日香の地に眠るわけです。
この小山田遺跡が方墳であるのは、蘇我氏に関係する人物のお墓であるということであり、王墓ではない。
つまり、舒明天皇とは高向王のことであり、彼は王ではなかった人物です。

舒明天皇の初葬地とされる「滑谷岡」とはここ小山田遺跡です。こんな大きな古墳に埋葬されていたのに
何故に押坂内陵に改葬されたのでしょうか?おかしいですよね。
額田王の謎と推古天皇の謎でも記述していましたが、舒明天皇は改葬されて、
押坂内陵(段ノ塚古墳)に改葬されたとされますが、これは真実ではない。

何故にこんな嘘がかかれているかというと、改竄した系譜を正当化するためです。
そう舒明天皇というのは架空の人物です。天智を天武と同等の位に上げるための人物ともいえます。
系譜を改竄しないと、天智の娘である持統、その子供や孫はは王位に就けないからです。
この高向王もまた蘇我馬子や蝦夷、入鹿と同様に明日香の地に改葬されている。完成後すぐに破壊されたのは、
天武によって磯長に移葬されたのです。
こんな大きなお墓に埋葬されていたのに、すぐに破壊されたのは、移葬されたからに他ならない。



最後の2枚のの写真は薬師寺です。

天武の本来の皇后は額田王であって、彼女の出自が改竄されている。ですので、この薬師寺の建立の由緒に
ついても疑問があるのですが・・・?
天武は鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願したとされます。そう日本書紀においては、
鵜野讃良こと持統が皇后とされているわけですから、天武天皇9年(680年)11月12日条の、「皇后」は持統に
なるわけです。でもわたしは信じない。
もとはこの新益京(藤原京)の中にあったのですが、平城京に移転に伴い現在の場所に移転されました。
それで、日本書紀のこの「皇后」なのですが、・・・持統は額田王が亡くなってから皇后になった可能性は
あるとは思うのですが、本来の天武の皇后は額田王です。ですので、建立時に病気だったのは、本当は額田王
だったように思うのですが?どうなのだろう?
額田王は、後に天智天皇の后となったという説がありますが、やはり、これは疑問ですよね?

天武天皇と、この額田王との子供の十市皇女から、女系ですが、古代の大王家と今の天皇家は繋がっています。

                                   





     




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額田王の謎と推古天皇

2017年01月01日 | 日本書紀の謎


推古天皇は、額田部皇女とされます。彼女は何故に額田なのだろうか?以前から疑問がありました。幼いころ、額田部氏に養育されたとされます?本当なのでしょうか?これは理由が見つからないからの推測でしかありません。

そして、額田というと、天武天皇の妃で、歌人としても有名な額田王(ぬかたのおおきみ)を連想します。額田王は、日本書紀においては、鏡王の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとされます。
はたして、推古はこの額田王と関係あるのだろうか?

この額田王も、日本書紀、古事記の謎を解くのに重要な人物です。額田王は、「おおきみ」ですので、もちろん王家の女性です。では何故出自が不明なのでしょうか?それは、彼女の出自が改竄された系譜に関わってくるからでもあります。そして、天武の本来の皇后
だったからです。

額田王は、蘇我馬子が、消し去った本来の王家の人物から繋がるからでもあり、また、天智系の天皇や藤原氏による改竄した系譜に関わってくるために、彼女の本当の出自を書けないからでもあります。天智の娘たち(大田皇女と鸕野讃良皇女) は、女系で王家とは繋がりますが,(お母さんの遠智娘は茅渟王の娘)男系では王家と繋がらない。
天智が彼女を欲したのは、遠智娘と同様に男系で繋がる王家の姫王だったからです。

この、額田王こそが、古代から続く王家の血を引く天武の本来の皇后です。

今回は、額田王の出自の謎を、彼女のお姉さんであるとされる、忍阪(押坂、おしさか)
にある鏡王女のお墓と、彼女たちの名前から謎ときます。

額田部皇女とは、推古天皇のことではない。

延喜年間(901~923)に編纂が行われた、延喜諸陵式(諸陵寮を管理する役所)によれば、陵内には糠手姫皇女の押坂墓、大伴皇女の押坂内墓、鏡女王の押坂墓があるとされます。ここ忍阪には、糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓が、隣接して同じ領内あります。この延喜諸陵式には、舒明天皇のお墓であるなんて記述はありません。
そう、この地は王家の女性が眠る墓地です。

もう何度も登場していますが、押坂彦人大兄皇子の妃であり、嶋皇祖母命とされる糠手姫皇女も重要人物です。同じ場所にお墓があるこの三人は血縁関係があります。そう親子です。額田王の、お姉さんと、祖母と曾祖母です。後にお母さんが、祖母の糠手姫皇女の押坂墓に合葬されたのです。そして、額田王自身のお墓も、もとはこの地にあったとされます。
前述してきましたが、糠手姫皇女は舒明天皇のお母さんではない。糠手姫皇女の押坂墓は舒明天皇陵ではない。

日本書紀の下巻の天皇たちは、天武が皇祖(本来は王祖)と仰ぐ押坂彦人大兄皇子(日十大王)から繋がります。本来は彼が大王だとして記述されていました。その時、天武は自身の系譜に関係する人物を皇祖の尊称ををつけました。嶋皇祖母命とされる彼女こそ、宝皇女(皇極、斉明天)、軽皇子のお母さんであり、本来の王家の血を引き継ぐ人物です。彼らは、いわば、天武系の王たちです。
蘇我氏が関係する舒明のお母さんではありません。
彼らは皇祖の尊称で繋がります。

天智のお父さんを舒明として改竄したため、舒明の地位を上げるため、敏達の皇女である、糠手姫皇女を舒明のお母さんとして改竄している。逆に、孝徳のお父さんである、茅渟王 の位を下げるために、敏達の皇女ではない漢王の妹とされる大俣王 をお母さんとしている。ここ、お母さんが交換されている。
つまり、糠手姫皇女の子供は、茅渟王 と桑田王であり、女性とされるこの桑田王こそ、額田王のお母さんであり、彼女の出自を書けなかった理由です。改竄された、天智天皇の系譜に関わるからです。

そして、この糠手姫皇女のお母さんが、同じ場所に眠る大伴皇女のことであり、彼女こそ額田部皇女なのでは?

謎はこの大伴皇女の名前から推測できます。

この糠手姫皇女の、糠手は本来は額田なんじゃないのだろうかか?そして、額田王はこの糠手姫皇女から繋がる人物なのでは?

大伴皇女は、欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との間の皇女とされ、推古とは姉妹になります。だとすると、全く蘇我の女性ですよね。おかしいですよね。何故、大伴なのでしょうか?

ごくごく、常識的に考えれば、大伴皇女の大伴は、もちろん大伴氏が関わると考えられますよね。この時代、大伴氏には、 安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えたとされる大伴 金村という人物います。この金村の子供に 大伴糠手古という人物がいます。女性なのか男性なのか不明ですが・・・名前からの推測ですが、女性であり、糠手姫皇女の糠手は、この祖母の名、大伴糠手古から名付けられたのでは?

この大伴氏は物部側の豪族です。安閑、宣化天皇の擁立者となり 、蘇我氏と対立していました。後に秦氏、藤原氏とも対立することになります。蘇我の女性が、大伴の名前を持つのはおかしい。

ですので、大伴皇女は欽明天皇と堅塩姫との間の皇女 ではなく、大伴 金村 の娘(大伴糠手古?)と宣化天皇の王子の誰か、王子は、3人います(上殖葉皇子、火焔皇子 、 宅部皇子 、との王女です。蘇我氏が関係する欽明を王だったとして改竄したために、王として即位したことを消された王子たちです。

継体天皇や欽明天皇は、推古のお父さんや祖父を王だったと後に蘇我馬子によって改竄されたものであり、本来の王家とは関係ない人物です。彼らは王として即位はしていません。

この大伴皇女のお母さんの大伴糠手古 ?は、大伴 金村 と額田部氏の娘との子供です。糠手は額田なのでは?そして、大伴皇女と敏達の子供が、糠手姫皇女なのでは。すると古代から繋がる王家の女性です。額田王も、宣化天皇から繋がる王家の人物なのは間違いないように思います。すると、天智の娘たちよりは位が上のはずです。だから本来は彼女が皇后だったのでは?天武の最初の后です。

宣化天皇から、額田王までの系譜に関しては、 かなりややこしいので纏めます。
それは、生年月日が全く不明だからです。ですので名前からの推測もあるのですが・・・

*同じ墓域内に、糠手姫皇女、大伴皇女、鏡女王、3人の女性が眠るお墓があるとされていて、彼女たちは血縁関係があるのでは?これ、当然の推測ですよね。改竄された系譜の矛盾が、こういうところから判明する。彼女たちは額田王の、お姉さんと、祖母と曾祖母です。

*大伴皇女は欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との娘とされますが、そうではなく、大伴氏が関係する娘である。これも、まず間違いないように思うのですが・・・?

*大伴 金村の娘に、大伴糠手古という人物がいます。糠手は額田なのでは?つまり糠手古のお母さんは、額田部氏の娘なのでは?
大伴 金村と額田部氏の娘との子供が大伴糠手古なのでは?

*宣化天皇の王子か、あるいはその子供から繋がる人物、上殖葉皇子の王子である十市王かな?(名前からの推測ですが、額田王の子供が十市皇女)この十市王と、大伴 金村の娘の大伴糠手古との子供が、大伴皇女なのでは?大伴皇女に関しては推測するしかないのですが、・・・。

*大伴皇女は、大伴 金村から繋がる女性である。額田部皇女とは、推古のことではなく、この大伴皇女のことであり、推古が額田部皇女とされるのは、本来、大伴皇女が敏達の皇后だったからなのでは?権力を握った蘇我馬子による、蘇我の女帝である、推古の地位を上げ、対立する、大伴氏の女性の地位を低くする操作が行われている。

*大伴皇女と、敏達の子供が、嶋皇祖母命とされる押坂彦人大兄皇子の后である糠手姫皇女。 宝皇女(皇極、斉明天皇)や軽皇子のお父さんである茅渟王や、桑田王 のお母さんである。舒明天皇のお母さんではない。

* 押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の子供で娘の桑田王と、鏡王との娘たちが、 鏡王女と額田王なのでは?王家の女性だから、「おおきみ」なのです。

*そしてこの鏡王もまた、宣化天皇から繋がる王家の人物とされます。 額田鏡王とされています。つまり、額田王は男系・女系からも繋がる姫王です。

  ウイッキベディア・・・
 『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬編)によると
宣化天皇-火焔皇子-阿方王ー額田鏡王-額田女王とある。
      ********************
額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王・鏡王ー鏡王女、額田王

天武の本来の皇后なのですが、天智系の天皇たちは、天智の娘、鸕野讃良皇女 こと持統を皇后にしている。そのために、額田王の本当の出自が消されている。

そして、もうひとつ彼女の系譜を表せない大きな理由があるように思うのですが、・・・これが本当の理由かな?

なんども、記述してきましたが、藤原氏が対立してきた長屋王に関係します。天武の皇子でもう一人気になる人物がいます。それは 長屋王のお父さんである 高市皇子です。

この長屋王に繋がる系譜、押坂彦人大兄皇子から長屋王に繋がる系譜もまた改竄されている。天武系の系譜です。藤原氏は、高市皇子の息子の長屋王と対立していました。彼らは、大王だったの
ではないのだろうか?

ウイッキベディア・・・
『万葉集』巻第2の199~202番に柿本人麻呂作の高市皇子への、『万葉集』中最長の壮大な挽歌が収められている。ここに「高市皇子尊」「後皇子尊」と尊称されている。この尊称から彼が立太子されていたのではないかとの説がある。

高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から発見された「長屋親王宮鮑大贄十編」の木簡、政治情勢、壬申の乱における功績、母の実家の勢力、莫大な資産などから彼が天皇であったという説もある ・・・
     ************************
このウイッキペデア7の指摘にあるように高市皇子は立太子してたのでは?
長屋王と対立していた藤原氏にとっては、彼らが大王では都合が悪いので、系譜が改竄されている。そう、身分を低くされている。身分を低くするには、お母さんを王家と関係ない人物にすることです。長屋王家とされる場所から出土した木簡の記述からの推測では、長屋王や父親である高市皇子は明らかに大王に即位しています。

長屋王のお父さんの高市皇子は、 天武と、胸形徳善女 の尼子娘とされますが、どうなのでしょうか?天智の娘たちの皇子をさしおいて、立太子しているということは、・・・つまり、 高市皇子は、天武と、胸形徳善女 の尼子娘 ではなく、古代の王家から繋がる女性との王子である。すると、額田王しかいない。

第一皇子である高市皇子と第一皇女の十市皇女はともに、天武と 額田王との子供たちなのでは?日本書紀・古事記は編纂後に、天智系天皇や藤原氏によって書き換えられている。

藤原氏は本来の大王だった、長屋王を殺害しました。そして長屋王は藤原氏に祟ることになりました。長屋大王が大王に即位していたということを消すためには、父親である高市王子が大王に即位していなかったとすることです。

天武大王の第一王子であるのに、高市王子が大王に即位していないとするには、母親の身分を下げることです。胸形徳善女の娘の尼子娘という地方豪族の娘ということに変更されています。藤原氏による系譜改竄箇所です。
額田王は采女や巫女などの低い身分の女性ではありません。額田王(ぬかたのおおきみ)の呼称どおり王家の女性です。

「市」の文字が共通する第一王子である高市王子と第一皇女の十市皇女は同母姉弟です。額田王の子供たちです。

万葉集には高市王子作の十市皇女への三首の挽歌です。
万葉集巻第二 156~158番

三諸の神の神杉 巳具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜そ多き

三輪山の山辺真麻木綿 短木綿 かくのみゆえに長しと思ひき

山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく


写真は、舒明天皇陵とされる押坂内陵(糠手姫皇女押坂墓)に、同じ陵域内にある大伴皇女押坂内墓と、鏡女王押坂墓です.

この舒明天皇陵(段ノ塚古墳 )を始まりとし、八角墳が採用されたとされます。これ以降は、斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、天武天皇陵、天武・持統合葬陵、草壁皇子の墳墓(束明神古墳)文武天皇陵(中尾山古墳)と、舒明天皇に始まり皇孫の文武天皇まで採用されているとされます。これは、天武系の王たちです。

そして、斉明天皇陵は、いままで地定されていた越智崗上陵ではなく、牽牛子塚古墳です。越智崗上陵は天智の后の袁智天皇こと、茅渟王の娘の遠智娘のお墓です。宝皇女こと斉明天皇とは姉妹です。「段ノ塚」が八角墳なのは、もちろん、糠手姫皇女は押坂彦人大兄皇子 の后であり、宝皇女・軽皇子の祖母だからです。しかし、この「段ノ塚」と呼称されるこの古墳は、舒明天皇陵であるとのとの伝承はありませんでした。滑谷岡に葬られ後に、ここに葬られたかは定かではありません。日本書紀の嘘です。

そして、八角墳はこの段ノ塚古墳 が始まりではなく、斉明天皇陵が始まりですよね?それは、この糠手姫皇女はかなりの長命だったからとされるからです・・・?斉明天皇は661年に亡くなったとされ、糠手姫皇女はなんと664年に亡くなったとさます。そして舒明天皇が移葬されたのは663年であるとされます。

糠手姫皇女は、およそ90歳位まで生きたことになります。今の時代なら、なんら問題のない年齢ですが、この時代としてはかなりの長命です。これ舒明のお母さんを交換したからだと思うんだけど・・・?この没年は、本当の舒明のお母さんである、大俣王の没年ではないのだろうか? つまり、舒明は今考えられている生年より、もっと後の生まれである。

同じく、斉明天皇に関しても同じことが言えます。彼女は594年生まれとされますが、これはありえない。それは、祖父の押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。つまり、お父さんの茅渟王が、この592年頃の生まれと考えられるからです。舒明も斉明もともに615年頃の生まれだったのでは?斉明を615年の生まれとすると、皇極天皇として即位したのが27歳で、斉明天皇として即位したのが40歳になり、妥当な年齢になります。日本書紀においては、斉明として即位したのが62歳という、この時代ではありえない即位の年齢です。

ともに、626年生まれの、天智を舒明と宝女王の皇子とするための改竄だとおもうのですが・・・?
押坂彦人大兄皇子、茅渟王、山代王、大王だった彼らの年齢を不詳にする理由です。
天武の生年が不明なのも、本来は天智の方が年上なのですが、宝女王の最初の子供(高向王との子供の漢皇子)を天武にする意図があるのでは?天智と天武は兄弟ではなく、明らかに身分の差がある。「段ノ塚」が八角墳なのは、もちろん、糠手姫皇女は押坂彦人大兄皇子 の后であり、宝皇女・軽皇子の祖母だからです。

新たに発見された、舒明の最初のお墓ではないのだろうかとされる、小山田遺跡に関しても、蘇我氏の墳墓である方墳であり、押坂彦人大兄王子の舒明のお墓ではありえなく、蝦夷のお墓の可能性が高いともいわれています。ではここに合葬たのはだれなのでしょうか?祖母のお墓に額田王のお母さんが合葬され八角墳に作り直されたのではないでしょうか?

天武、持統に関わる人物の墳墓を八角墳にしている。舒明は押坂彦人大兄皇子の皇子なのですが、
お母さんの身分より、即位したのは山代王 です。舒明は天智や天武の本当のお父さんではない。

額田王自身のお墓に関してですが、もとはこの陵域内にあったともされます。後に、孫である葛野王により天武・持統天皇陵の傍に移葬されたそうです。この葛野王 は額田王の娘の十市皇女の子供です。

そして姉とされる鏡王女ですが、・・・彼女は,額田王本人だとも、あるいは妹だともいわれています。お墓が別に存在するとされますので別人だとは思うのですが・・・。
そして、この鏡王女は天智天皇から大化の改新の功績を称えられた中臣鎌足に褒美として下げ渡されたとさます。中臣鎌足が百済王である義慈王の王子、翹岐?だとするとね、これ、天智より、位が上なわけです。下げ渡されたのではなく献上されたわけですが、 彼女が藤原不比等のお母さんともされ、お墓は談山神社の管理となっています。そうすると、藤原不比等は天智天皇(王家の人物ではない)の落胤でなくても、女系で王家の血が流れているわけで、この後の彼の異例の出世も納得できます。
しかし、額田王の姉の「鏡王女」と、不比等の母親である「鏡姫王」は別人です。




写真1、2枚目は、舒明天皇陵とされる押坂内陵(糠手姫皇女)です。
ここから丘を少し登れば鏡女王押坂墓(7,8枚目)です。さらに奥に100mほど登れば大伴皇女押坂内墓(9、10枚目)があります。
近くに日本最古といわれる石仏(石造浮彫伝薬師三尊像)が安置されている石位寺があります。この石仏は、もとは 額田王の念持仏として作られ、本来は近くの栗原寺にあったものです。この栗原寺建立のいきさつは、談山神社の三重塔の伏鉢の銘文に残されています。

由緒によると中臣大島が、草壁王子のために発願し比売朝臣額田が造営したお寺とされます。この比売朝臣額田は、もちろん額田王であり、その言い伝もいまに残ります。額田王のお墓も、もとはこ地にあったとされます。この石仏こそ、額田王の墓石のようなもの?であり、石位寺こそもとの額田王のお墓だったところではないでしょうか?後に、額田王の娘の十市皇女の子供の葛野王によって、この地から天武・持統陵傍に移葬されたといわれます。

厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子も押坂であり、聖徳太子が少年期までをすごしたとされる、上之宮の地名も、ここから2km程西側にいまも残ります。隅田八幡神社人物画像鏡にある意柴沙加宮はこの付近こそが、意柴沙加宮とされます。また、雄略天皇の泊瀬朝倉宮もこの地の傍にあり、ここいらへんは古くから宮の存在した場所であり、交通の要所でもあります。

この上之宮の名称は、父の宮の上方に営まれたという理由で名付けられました。聖徳太子こと、押坂彦人大兄皇子のお父さんは、敏達天皇であり、宮である訳語田幸玉宮(桜井市戒重)は、まさしくこの上之宮遺跡の北に位置します。



 



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継体天皇の謎

2016年06月21日 | 日本書紀の謎


継体天皇は、多くの謎があるとされます。特に大王だったのかどうかとうい
ところが大きな問題箇所です。この継体天皇で、王朝が変わったともされます。

今回はこの継体天皇の謎を考えてみます。継体天皇の問題は凄く難問ですよね。

継体天皇で、王朝が変わったと、蘇我馬子が編纂した天皇記・国記時に改竄
されたと思うのですが・・・?古代の歴史を変えたのは蘇我馬子と竹田皇子です。
継体天皇は、この時、古代の王家が断裂したとするための人物にほかなら
ないと思う。ヤマト王権内に、大王になる候補が誰もおらず、外部から王を
迎えなければならない状況だとは考えづらく不思議な話ですよね。

では、何故に継体は王に即位したとされるのでしょうか?
それは、蘇我氏と関係する欽明天皇が新たな王権のいわば始祖であるとするために、本来のヤマト王権外の人物を王とする必要があったからです。そう、天皇記・国記に記述されていたのです。
蘇我馬子と聖徳太子(蘇我の王子である竹田皇子)編纂した天皇記・国記は蘇我氏の歴史書です。


本来は、継体天皇は即位はしていないと思いますが、ここで、前の王朝を断裂させるため即位したとしているわけです。この前の王朝とは、蘇我氏が対立していた物部系の王朝です。
継体の皇子たちとされる、安閑、宣化は、もとろん継体の王子ではないということです。問題は欽明なのですが・・・?

継体天皇、彼は越前地方や近江地方の畿内北部の王だったかもしれませんが、本来の大和王朝の大王ではなかったということ。
古代から繋がる本来の王家、つまり、物部系の王たちをここでたちきっている。
この継体天皇は、前王家を断裂させるための人物である。
それは、前王家とは物部が関係するからです。蘇我氏の台頭により、蘇我氏に関係する欽明が、天皇として即位し、いわば天皇家の祖となったいうこと。
そう、天皇記・国記において、蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)によって、改竄されたということ。
天皇記・国記というのは蘇我氏の歴史書であり、蘇我の天皇たちは古代から繋がる正当な王だと改竄したもの。
天皇とは本体は蘇我の王のこと。

継体天皇の皇子の欽明が即位したとされるのは、蘇我稲目宿の堅塩媛や
小姉君を后にし、蘇我氏と大きく関係したからです。蘇我氏の力によって、
欽明を天皇に即位させたため、父親である継体も王に即位したとしているわけです。

継体天皇の皇子で王に即位したとされる人物は3名います。
欽明と兄の安閑、宣化です。しかし彼らは蘇我氏とは関係しません。
この欽明の兄たちとされる、安閑、宣化は、継体の王子たちではないのかもしれないと推測できるように思います。

前述べしましたが、雄略天皇と武烈天皇は、同一人物です。つまり、この武烈天皇の後、大王となったのは、清寧天皇なのではないでしょうか?
継体天皇の位置にあるのが、清寧天皇です。

*垂仁天皇の皇子の誉津別命は、言葉を発することがなく后がなく皇子たちもない。
*雄略天皇の皇子の清寧天皇は后がなく、従って皇子たちがない。
*武烈天皇は残忍な天皇で、子供がなく後継がいない。
本来の王家である、物部系の王たちからの後胤がけされている。

このように記紀において、不思議な話が語られて、後胤を消し去られているのが重要な人物です。そうここが改竄箇所であるということでもあります。

雄略天皇と武烈天皇は同一人物だとすると、この武烈天皇崩御後の、王はこの清寧天皇であり、後胤を消し去っているのは改竄箇所がここだということ。いつもの常套手段です。

継体は、古代の大和王朝とはなんら関係ない人物です。
つまり、欽明は、古代からの王家からの血脈を、男系からも女系からも受け継がない人物です。古代からの王家の血脈は、宣化天皇皇女からしか繋がっていない。この宣化天皇皇女から繋がるのが、天武系の王たちです。
敏達天皇は欽明の后の宣化天皇皇女の石姫の皇子であるということ。
つまり、蘇我の娘たちより、宣化天皇皇女からの方が王位継承は優先であるということです。


継体の王子たちとされる、尾張氏の目子媛から繋がる、安閑天皇―宣化天皇は、蘇我氏とは関わりのない天武系の王たちです。蘇我氏だけでなく、天武と対立した、天智系の天皇や、藤原氏にとっても、彼らを本来の王家の人物だとしたくない力が働いていて、継体を王だとしています。そして、尾張氏の娘を継体天皇に繋げている。

本当は、継体の皇子たちとされる、尾張氏の目子姫から繋がる、安閑天皇―宣化天皇は、雄略天皇の皇子たちであり、天武に繋がる物部系の王たちなのでは?

上宮記は、天皇記・国記を正当化するためのもの。継体は王ではないし、古代の王にも繋がらない。物部氏が古代の王家だとしたくないために、この物部王家を消し去っている。つまり、継体天皇で断絶しているとしたかったわけです。
そして、蘇我氏が関係していた、欽明天皇を古代の葛城系の王家につなげている。


この継体天皇の謎は難問なのですが・・・
ウイッキペディアに問題点がしめされていますので、そのまま引用します。

*『百済本記』の辛亥の年の記事は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」
*『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の即位した年が
辛亥の年(531年)とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。
*『古事記』では継体天皇が丁未の年(527年)に崩御したことになっている。
     *****************************

この問題点から、継体天皇の謎が解けるかな・・・?

古事記の記述が正しいとすると、継体天皇がなくなったのは527年であるとすると、つまり、百済本記の辛亥の年(531年)の記事の、天皇とは継体天皇ではないということですよね。この古事記の記述は天皇記・国記にあった記述を移していると思うのですが?

継体天皇の、崩御年が、531年とされるのは、この百済本記の記述によるものなのですが、この天皇とは継体天皇とは記述されていない。そしてこの百済本記の記述は天皇記・国記を参照している。継体天皇の次が欽明天皇であったように記述されていたのは天皇記・国記においてです。
継体天皇は、527年に崩御。そして、『百済本記』の辛亥の年531年の記事は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」とは、清寧天皇と皇子たちなのでは。

辛亥の変とも言われますが、この記述が正しいとすると、この時、蘇我に関係ない、雄略の皇子である清寧天皇と皇子たちが、蘇我稲目によって暗殺されたという可能性があるのでは?蘇我氏に関係する、欽明のおとうさんである継体が暗殺されたとは考えづらい。

百済本記の云う記述が本当のことなら、あくまで真実を語っているとするなら、この時期に台頭してきた蘇我氏、蘇我稲目によって暗殺された?後に、蘇我の王に立てられたのが欽明。継体天皇が即位したとされるのは、この大王殺害を隠すためともいえます。

安閑は、66歳にして即位。宣化も69歳に即位したとされます。これも、清寧天皇や皇子たちが暗殺されたため、高齢での即位となったわけです。継体天皇の崩御後に即位した、安閑、宣化が高齢での即位はこれが理由。

雄略天皇の和風諡号は、日本書紀は大泊瀬幼武尊、古事記には大長谷若建命、とされます。この雄略天皇の王子である、清寧天皇の和風諡号は、日本書紀では白髪武広国押稚日本根子天皇とされます。
そして、安閑、宣化の和風諡号に関してですが、・・・
安閑天皇の和風諡号は、古事記では広国押建金日命、日本書紀には広国押武金日天皇。
宣化天皇の和風諡号は、古事記では建小広国押楯命、日本書紀には武小広国押盾天皇
とされます。

ともに、雄略天皇こと倭王武からは、タケル「武」「建」の文字、そして安閑、宣化は雄略の王子たちだとすると、「広国押」という言葉が清寧天皇と共通することになります。このことからも安閑、宣化は雄略の王子たちなのではないでしょうか?
この雄略天皇は物部系の大王です。

継体天皇の生年、没年は古事記にいうとおり生年が485年ころであり、没年が527年でいいのでは?日本書紀にいう生年が450年頃とされるのは、安閑、宣化を継体の皇子として取り込むためです。古事記にいうように485年頃の生まれでは、安閑、宣化を皇子とするには不自然だからです。ただ、本来の大王たちなので、継体の皇子として取り込む必要があったのです。

つまり、安閑、宣化は継体天皇の皇子ではないということです。息長真手王の娘が、継体と敏達に嫁いだとされることも、この継体の生年が古事記のほうが正確に伝えてるともいえると思います。

継体天皇の后とされる尾張連草香の女の目子媛は、実は雄略天皇の后だということ。
つまり、本来の王家である物部系から繋がるということ。
天皇記・国記においてそう記述されていたのを、記紀編纂時に変更された。

ただこの、百済本記は蘇我馬子が編纂した天皇記・国記の記述を参照しています。欽明は531年に即位したのは、蘇我の王である天皇です。大王であはありません。そう天皇記・国記編纂時に記述されたということです。蘇我馬子の時代になり、物部氏が滅ぼされ歴史が改竄されたということです。

欽明天皇は、この531年に天皇に即位したともされます。ですが大王ではない。
これは天皇記・国記編纂時の後づけ。継体天皇も王ではない。

蘇我馬子が編纂した、天皇記・国記編纂時に、欽明が王にふさわしいとするために、お父さんである、継体を古代の王である、垂仁天皇からつながる、傍系の皇子である、誉津別命に繋げていたのです。天皇記・国記とは蘇我氏の歴史書であり蘇我氏にとって都合の悪い箇所は当然のごとく改竄されている。

前述してきましたが、雄略天皇と武烈天皇は同一人物です。
継体は、この雄略天皇からの後胤を消し去ったために、組み入れなければならない人物です。そして、この雄略天皇から繋がるのが本来の王家であり、天武系の王たちであるということ。
記紀においては、天武系の王を雄略天皇に繋げたくないため、記紀において安閑、宣化を継体天皇の皇子としている。

葛城系の王・・・つまり蘇我の王たち。
武内宿禰(神武天皇)―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」―磐坂市辺押磐皇子―顕宗天皇―仁賢天皇―継体天皇―欽明天皇―用明天皇―推古天皇

葛城系の王において、履中天皇「讃」・反正天皇「珍」以外で、天皇とされている人物は全員、王ではない。蘇我馬子によって編纂された、天皇記・国記において、蘇我の王である天皇とされた人物。彼らは本来の大王ではない。

蘇我氏が王家と関わるのが欽明天皇なのですが、継体天皇で、前の王朝が断絶したとしています。ただ彼は蘇我の王である天皇ですが、大王ではない。それで、本来の王家と繋げるための操作がここでもなされている。
継体天皇問題、そして蘇我馬子が改竄したかったのはここです。欽明天皇を、本来の王家に繋げている。

次の王である、敏達天皇 は欽明の皇子ではないのでは?つまり、欽明天皇の皇后や后である宣化天皇 の皇女とされる、石姫皇女 や、
稚綾姫皇女、日影皇女は本来は欽明天皇の后たちではないのでは?欽明天皇の后は、蘇我 稲目 の娘の堅塩媛 と小姉君 だけです。
これはこの後の歴史を見れば明らかです。そして蘇我 稲目 の娘たちに本来の王家の人物たちを繋げている。

ウイッキベディア・・・
敏達天皇4年1月9日(575年2月4日?)に息長真手王の女、広姫を皇后としたが、
同年11月に崩御。翌同5年3月10日(576年4月23日?)、16歳年下と言われる異母妹の
額田部皇女を改めて皇后に立てた。
尚、欽明天皇32年(571年?)に額田部皇女を既に妃としており、皇女であるにも
かかわらず何故そうでない広姫が当初皇后となったのかは不明。

******************************
これは勿論、もともと、広姫が皇后であり、額田部皇女こと推古は、欽明と蘇我稲目の女の堅塩媛 の子供であり、王家とは何ら血のつながりのない蘇我の人物だからです。

ウイッキペディアから・・・

継体天皇と手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖
となった。皇統の危機を救い、男系ではないものの、直系の血筋を後世に受け継が
せた手白香皇女の存在は非常に大きかったといえる。

天皇記・国記・・・
皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、
臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。

    *****************************
こうなるように系譜が改竄されている。本来は王家と全く関係がなかった欽明を(もちろん継体も)王家とつなげるには、本来の王である敏達を、欽明の皇子にする以外ありません。安閑、宣化 は継体の王子ではない。

これは、蘇我馬子と、聖徳太子によって編纂されたとされる天皇記・国記において改竄されていた。この天皇記・国記とは蘇我氏の歴史書です。蘇我氏の王たちは欽明から繋がります。その蘇我の王たちは古代から繋がる王たちであるとした改竄が行われている。

そして、その欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となるようにするには、・・・
本来は大王ではなかった欽明を王とするためには、・・・
そう本来の王家と繫がなければなりません。それは、敏達 を欽明の皇子にすることです。



写真は、今城塚古墳公園です。
継体天皇の陵は、三嶋藍野陵に治定されています。考古学名は太田茶臼山古墳といわれる前方後円墳です。
しかしながら、築造時期があわないために、 近くにあるが今城塚古墳有力であるされます。治定されている古墳の築造時期が合わないために、近くにある古墳を有力とするのも、おかしな話ですよね。
いかにいい加減な治定かわかりますよね。というか、継体は王ではありません。

今城塚古墳は、おそらくこの時代の有力者、候補者は二人、物部尾輿か大伴金村のお墓だと思うのですが?
たぶん、・・・大伴金村のお墓であり、太田茶臼山古墳 は父?の大伴室屋のお墓かな???
継体天皇のお墓は、生誕の地とされる高島市にある、鴨稲荷山古墳です。

この鴨稲荷山古墳は、継体天皇の生誕地にある古墳で、墳丘長約50メートルほどの前方後円墳であったとされています。棺内からは冠・沓など多くの豪華な副葬品が見つかっていて、その豪華な副葬品や、畿内の家形石棺の使用から、畿内と直接関係を持つ人物であるとも推測されています。

継体天皇は、蘇我氏が関係する王であるのですが、本来の大王ではありません。


                    















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神武天皇と応神天皇の謎と倭の五王

2016年04月23日 | 日本書紀の謎


まず、応神天皇の謎について・・・
継体天皇は応神天皇5世の子孫であるとされます。しかし、この応神天皇というのは
架空の人物です。継体天皇は、この応神天皇に繋がると主張していたわけでは
ないのです。この応神天皇の謎が解ければ、記紀における大きな問題点が解決します。

ウイッキペディア・・・
継体天皇
鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。
これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野
毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公
王(=継体天皇)」とされる。
       *************************

継体天皇は、応神天皇の5世の孫とされます。しかし、本来、継体天皇は、
垂仁天皇の皇子の誉津別命から繋がるって主張していたのです。それを、
応神天皇に繋げるために、つまりこの誉津別命の位置に、応神天皇を、
持ってくる操作がなされている。
そして、応神天皇を、誉津別命とよく似た名前に、誉田別尊(ほむたわけのみこと)に
している。凡牟都和希王は「ホムツ」であり、「ホムタ」とは読めない。

この応神天皇というのは、本来は神武天皇のことであり、神武天皇とは武内宿禰なのです。


この操作の謎は凄く簡単に解けます。3世代増やしただけです。そして、日本書紀、古事記
が何故、倭の五王のことを語らないかの謎も解けます。

ウイッキペディア・・・
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下
って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同
じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代
の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の実在性には疑問が
出されている。
    ********************************

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持つとされます。
この3人は架空の天皇であり、記紀作成時に組み込まれたものです。
継体天皇を応神天皇に繋げるために増やしただけです。誉津別命に繋げたくないのです。

本来、継体天皇は、垂仁天皇の皇子の誉津別命から繋がっていると主張していたのです。
それを、応神天皇に繋げたのです。どうして、こういう操作がなされたのかとういと、この
誉津別命から繋がるのが天武系の王たちであり、物部系の王だからです。

崇神天皇―垂仁天皇―景行天皇―成務天皇―仲哀天皇―応神天皇
崇神天皇―垂仁天皇―誉津別命

この三人(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇)をとれば、垂仁天皇の皇子の位置にくるのは、
応神天皇でしょう。


武内宿禰は、この12代から16代(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)の天皇に仕えたとさ
れるのは、この12代景行・13代成務・14代仲哀を後に組み入れたため不自然な長寿にな
ったわけです。本来は、品陀眞若王―仁徳天皇・大雀命の時に、葛城地方の王だっただけです。
蘇我馬子は、この葛城の王に蘇我氏を繋げたわけです。もと同族だったからです。
応神天皇は、もとは、神武天皇として描かれていたのですが、天武によって武内宿禰として、
大王に仕えたという人物に変更されたのです。

それで、この景行天皇。非常に沢山の子供たちですよね。皇后の八坂入媛命は10人もの子
供たちです。この時代の寿命を考えるとありえない。
これ、垂仁天皇の皇子たち、誉津別命、五十瓊敷入彦命、 稚城瓊入彦命・・・など、複数の
人物を、一人の景行天皇という人物にをまとめたからです。


系譜に関してはは、本来は垂仁天皇のあと、誉津別命系統と、五十瓊敷入彦命系統の2系統
に別れる。

上宮記の系図、継体は、垂仁天皇の皇子の誉津別命から繋がると主張していたのです。
上宮記・・・
凡牟都和希王―若野毛二俣王―太郎子―乎非王―汗斯王―乎富等大公王

ですので、この系図自体も怪しいように思うのですが・・・?どうでしょうか?

それで、記紀においては、この誉津別命に関しては、不思議な話をつくっているでしょう。
以前にも記述しましたが、これがいかにもあやしい。彼からの後嗣を消しさっていますよね。
これ、記紀においての常套手段。

もともとは、垂仁天皇のあとの、誉津別命から繋げていたの思うのですが?

ウイッキペディア・・・誉津別命
『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」
と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。湯河板挙(鳥取造の
祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発
するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。

一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の
国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・ 軽池に浮かべて、皇
子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれ
を見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・
信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。

      *****************************

これ、つまり、この地名、日本書紀の出雲、但馬、鳥取など山陰地方。
そして古事記にある、紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越はこの
垂仁天皇と、誉津別命の時代にこの地方がヤマト王権の支配下に入ったという示唆。
ここから、二系統に分岐しているということ。

この、継体天皇は、近江で誕生したとされますよね。継体天皇はこの垂仁―誉津別命の系統
から繋がっていると本来は記述されていたのです。
記紀に先んじる、「帝紀・旧辞」において、おそらく、この誉津別命の活躍が記述されてい
たのだと思います。

言葉を発することができない。赤子のように泣いてばかり。だから後嗣がない。
そして、この誉津別命のお母さんは、狭穂姫命であり兄の狭穂彦王は天皇を暗殺しようとし
ます。古事記において、狭穂彦王の叛乱として語られ、共に天皇に逆らって亡くなったとさ
れます。
でも、まーなんて、単純な作り話でしょう。こんなの信じる方がおかしいじゃないですか?

これ、つまり、垂仁―誉津別命の系統を消し去っているということですよね。
何故こんなことをするのかっていうと、継体はこの誉津別命から繋がるって主張していたか
らです。それを応神天皇につなげるため、後に12代景行・13代成務・14代仲哀の3人を
系譜に組み入れたのです。誉津別命に繋げたくないのです。

そして、本来の王家・・・
ウイッキペディア・・・
仁徳天皇・・・
日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、こ
の記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。

日本書紀
大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也。母曰仲姬命、五百城入彥皇子之孫也。

       *****************************

これ、日本書紀によれば、五百城入彦皇子の孫は、仁徳天皇だということですよね。
そして、五百城入彦皇子の皇子は、品陀真若王ということですよね。皇子は彼しかいないで
すよね。つまり、品陀眞若王の皇子が仁徳天皇ということですよね。
すると、品陀眞若王は譽田天皇であり、この品陀眞若王は応神天皇ということですよね。
これ、帝紀・旧辞からそのまま移してしまって変更し忘れた。日本書紀はミスっちゃったね。
日本書紀は、真実を書いてしまった。こういう小さな矛盾点から、改竄箇所が判明する。


つまり、こういうことですよね。これが本来の王たちなのでは?
崇神天皇―垂仁天皇―五十瓊大雀命敷入彦命―五百城入彦皇子―品陀眞若王―仁徳天皇・大雀命

だから、なのですが、・・・この歌(これは大雀が七支刀を佩刀している姿を歌ったものだ
とも言われますよね。この歌も、「品陀」としているわけです。

品陀(ほむた?ほむだ?ほんだ)ひの御子(みこ) 大雀(おおさざき) 大雀(おおさざき)
佩(は)かせる大刀(たち) 本(もと)つるぎ 末(すえ)ふゆふゆ木(き)のすから
が下樹(したき)のさやさや

七支刀の銘文・・・
それで、七支刀の裏面の文字の問題の箇所
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

だから、この「倭王旨」の「旨」は「眞」の略字であって、品陀 眞 若王の
皇子が仁徳天皇であり、この「旨」は王の名前なのでは?・・って考えた理由
なのですが?

応神天皇は誉田別命なのですが、品陀和気命や誉津別命は別人だということと、
応神天皇は架空の人物だということです。

さらにもう一つ、日本書紀、倭の五王の謎を解くのに重要な箇所。これ変更箇所
を正直に語っているように思うのですが・・・?

ウイッキペディア・・・
応神天皇の子の大鷦鷯尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは
同日に生まれた。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、
武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、
その鳥の名を交換して各々の子に名付けた
       ************************

これ、応神天皇―仁徳天皇は、本来は武内宿禰―平群木菟宿禰であるという暗示です。
この武内宿禰から繋がる、平群木菟宿禰の皇子たちが、履中天皇「倭王讃」
であり、反正天皇は「倭王珍」であるといこと。彼らが、河内王朝(葛城の王)です。

つまり、これは応神天皇と武内宿禰は同一人物であって、応神天皇というのは架空の人物。
応神天皇というのは、武内宿禰のことでもあるのですが、彼の位置にある他の系統の王が、
品陀真若王ということです。葛城系と物部系です。
応神天皇を、譽田天皇としたのは、品陀眞若王とよく似た名前ににしたからです。

そして、もうひとり、重要な人物がいます。大雀命の兄にあたる、菟道稚郎子皇子です。
お母さんは、先代旧事本紀のいうように、物部多遅麻連の女の山無媛であり、お父さんは品
陀眞若王です。お母さんや、妹の名前が矢田皇女ともされることからも物部系の王です。
彼が、倭の五王の「彌」の兄の「贊」で、物部系の王たちなのでは?


本来は、武内宿禰の皇子である平群木菟宿禰の皇后が、磐之媛命であり、その皇子は履中天
皇、反正天皇。彼らは、つまり、葛城系の王たち。
仁徳天皇のあと、葛城の王である「倭王讃」、「倭王珍」が王に選ばれた?(王座を簒奪した?)
ということ。

大雀命の皇后が、この矢田皇女であり、その皇子が允恭天皇になるのでは?
品陀眞若王の皇子が仁徳天皇であり、その皇子が、「済」允恭天皇であるということ。
菟道稚郎子皇子が倭王贊であり、大雀命は倭王彌であり、ともに物部系の王です。


ウイッキペディア・・・
天皇の中にはワケを称号にもつものが6名存在する。景行天皇はオシロワケ(大足彦忍代別)、
応神天皇はホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)、履中天皇はイザホワケ(大兄去来穂別、大
江之伊邪本和気)、反正天皇はミズハワケ(多遅比瑞歯別)、顕宗天皇はイワスワケ(袁祁之
石巣別命)および天智天皇はヒラカスワケ(天命開別)をワケの称号にもっている。

本来は天皇となれなかった皇子たちの地方領主としての称号がワケである。そのワケが天皇
につけられたのは地方領主的ワケの皇子が中央に入って天皇となったために付いている可
能性がある。
   **********************************
これ、ワケの称号からも推測できます。
履中天皇、反正天皇、そして市辺押磐皇子の子の顕宗天皇も、ワケでしょう。
これ、天智がヒラカスワケだからです。市辺押磐皇子からつながるのは、天武系の王たちで
はないのです。彼らは、葛城系の王たちであり、天武と対立する天智は物部系の王家に繋げ
たくはないのです。天智系天皇であり桓武天皇の時代に変更されたものです。

倭の五王・・・
葛城系・・・
武内宿禰―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」

物部系・・・
品陀眞若王「倭王旨」―兄の菟道稚郎子皇子「贊」・弟の仁徳天皇「彌」―允恭天皇「済」―
安康天皇「興」―雄略天皇「武」

梁書・・・
晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。・・・

梁書が語るのは、この倭王「武」の、物部系の系図。宋書倭国伝が語るように、讃と珍とは
兄弟ですが、済とは兄弟ではないとし、さらに宋書倭国伝と梁書、どちらも間違って記述さ
れていないとしたら、二系統になる。それで、王にふさわしい人物が共立された?ということ。
あるいはこの時、葛城系の王が王位を簒奪したということ。
蘇我氏はこの葛城系であり、天武系の王はこの物部系から繋がる。この物部・天武系の王が
本来の古代から続く王家だと都合が悪いのは、蘇我氏であり、天智系の天皇や、藤原氏なの
です。

奈良盆地の東西に位置する、東側の物部系の王は、品陀真若王。盆地西側の葛城の王は武内
宿禰ということ。一系で繋ぐため、この二人を纏めた人物が応神天皇ということ。
そして、蘇我馬子は、仁賢、顕宗のお父さんであり、手白香皇女の祖父である市辺押磐皇子
を、葛城系の履中天皇に繋げている。

品陀眞若王(物部の王)、武内宿禰(葛城の王)は同じ位置にいて、一つにまとめたのが応
神天皇であり、武内宿禰は、本来は神武天皇として描かれていたのです。

応神天皇―仁徳天皇は、品陀真若王―仁徳天皇であるならば、応神天皇の后である、品陀真
若王の娘とされる仲姫命、高城入姫命、弟姫命たちは、本当は品陀真若王の后たちなのでは?
つまり、その皇子皇女たちは、本来は品陀真若王自身の子供たちだろうと推測できます。

同じように、武内宿禰の子の、葛城 襲津彦の娘の磐之媛命(石之日売命)は仁徳天皇の皇
后となり、履中・反正を儲けたとされるのは、仁徳天皇ではなく、平群木菟宿禰との皇子た
ちなのではないでしょうか?仁徳天皇の本来の皇后は八田皇女です。名前の、八田、矢田か
らも想像できますが、先代旧事本紀においては、彼女の母は物部多遅麻連の女の山無媛とさ
れます。允恭天皇は彼女に繋がるのでは?

そして、応神天皇から、大鷦鷯尊こと仁徳天皇に繋げる女性、つまり、応神の皇后はこの仲
姫命((なかつひめのみこと)ですよね。前回記述しましたが「なかつひめ」ですよね。
さらに、仲哀天皇(たらしなかつひこ)の、后も大中姫命(おおなかつひめのみこと)です
よね。「なかつひこ」に「なかつひめ」、もちろん、二人共架空の人物です。

これが、物部系の本来の王たち。卑弥呼こと台与は、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命。

崇神天皇―垂仁天皇―五十瓊敷入彦命―五百城入彦皇子―品陀眞若王―菟道稚郎子皇子―
仁徳天皇・大雀命―允恭天皇―雄略天皇

葛城系の王・・・
武内宿禰―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」

五十瓊敷入彦命・・・
石上神宮の神宝に関する伝承で知られます。この石上神宮は物部氏の氏寺です。
また、五十瓊敷入彦命を主祭神とする、伊奈波神社は物部神社であるとされます。
お母さんの日葉酢媛命も、もちろん物部の女性です。
陵はもちろん、景行天皇の陵墓とされる、山邊道上陵(渋谷向山古墳)が、この五十瓊敷入
彦命の陵墓です。ここいらへんはもちろん、物部の支配地です。


写真は、神武天皇が即位した場所だという伝説が存在する御所の柏原です。近くに神武天皇
の宮跡だとおもわれる秋津遺跡が発掘されています。

ウイッキペディア、秋津遺跡・・・

年代は3世紀後半から4世紀中葉にかけての初期ヤマト王権の時代であり、板塀とみられ
る遺構は、分厚い板を立てたのち、丸太を横木として添え、両側から挟み込むという堅緻な
造りである。これは、葛城地域を本拠とする豪族の広大な祭祀空間を方形に囲った板塀の可
能性があり、5世紀以降に強盛をほこったヤマトの豪族葛城氏につらなる勢力の存在が考え
られる。
        ****************************

紀氏家牒・・・
家牒曰、紀武内宿祢者、人皇第八代孝安天皇曽孫、屋主忍武雄心命之嫡男・母曰山下影媛
一、・・・・・家大倭国葛城県五処理。一、今葛城里、玉手里、博多里、賀茂里、室里等是
也、墓在二彼処一。

この、紀氏家牒に記述されているように、武内宿禰の家は非常に広大な範囲ですよね。
神武天皇(武内宿禰)の宮・・・五処理(御所)、葛城、玉手、博多、賀茂、室等。

この御所の柏原周辺にある中西・秋津遺跡などが、武内宿禰の宮こと神武天皇の宮が存在し
た場所。後の葛城氏であり、この地方を初めて治めた王として描かれているのが神武天皇
なのです。

そして、この室にある室宮山古墳墓が、武内宿禰のお墓であり神武天皇のお墓。
本来は、4世紀の人物なので、前方後円墳でいいのです。
神武天皇が、即位したとされるのは、この御所の柏原です。


神武天皇社・・・

祭神は神倭伊波礼毘古命「カムヤマトイワレヒコノミコト」で、初代神武天皇の即位した場
所であると言われています。享保21年(1736年)の大和誌 には「橿原宮。柏原村に在り」
と記し、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、「畝傍山の近くに橿原という地
名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いた」と記しています。
言い伝えによると、この地が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなる
ので、明治のはじめに証拠書類を全て焼却して指定を逃れたという。

本殿は流れ造りで天保四年(1833年)九月正還宮の棟札がある。
本社の前にある境内社「嗛間神社」(別名ホンダワラの宮)は、「サワリの神」と称され神
武天皇の前后である吾平津姫(アヒラツニメノミコト)を祀る。
伝承によると神武天皇が大和を平定した後、三輪の大物主神の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命
(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后に迎えたためやむなくこの地に侘び住まいしたと
伝えられる。その怨念が夫婦の縁を呪うとわれ、昔から嫁入りの行列はこの神社の前を通っ
てはならないとされていた。
里の北西には本馬山(標高143メートル)があり、神武が国見をした「掖上の嗛間の丘」
であると伝えられる。
       ***************************

この地は御所の「柏原」です。初代神武天皇の即位した場所であると言われています。
神武天皇の宮が存在した場所なので、「御所」なのです。
この神武天皇というのが、武内宿禰のことであり、後の葛城氏のことです。
蘇我氏はこの武内宿禰を祖とします。なんども云いますが、天皇家なんて存在しない。
神武の東征の畿内での物語はこの、武内宿禰を祖とする氏族、(紀氏・巨勢氏・平群氏・
葛城氏・蘇我氏など)対、物部系(邪馬台国)の争いです。

現在、神武天皇の宮は橿原市にある橿原神宮です。この橿原神宮は、即位の礼が行われた
とされる宮址に、明治23年に創建されました。この橿原市の市名も、ごくごく最近(昭和31
年)に名付けられたものです。
伝承のように、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、大和誌 にある「橿原宮。柏原村に
在り」とは、この御所の柏原のことです。
神武が国見をしたという、この国とは葛城のことです。写真、奥に見える山は金剛山と葛城山です。
何故、神武天皇の宮が金剛山や葛城山の山麓部分である西側ではなく、葛城の東側の御所の
「柏原」に宮が造られたのかという理由があります。この地から山間部を、東に一里ほど抜ける
と明日香に至ることができるからです。

これ明らかに、神武天皇の宮は間違った場所に造られてしまいました。間違いのないような
伝承が残っているのに、何故なのでしょうか?
架空の人物とでも考えられていたのでしょうか?たしかに、現在の橿原市は、明日香北部、奈良盆地
の中央南部に立地します。でもどこでもいいわけではありません。歴史が変わります。

神武天皇陵がどこか不明になってしまっていたのは、記紀により、異なった人物「武内宿禰」
として描かれてしまったからです。彼も倭王武です。神様の武で、神武なのです。

武内宿禰を 神武天皇という架空の人物にしたため、お墓も別の場所に治定しなければならなかった
わけですが、古事記や日本書紀にいう畝傍山の北には神武陵らしきものはありません。
いま神武陵とされる所は、たぶん古墳ではありません。したがって誰も眠っていないのでは?
ミサンザイと呼ばれていた小さな塚を、神武天皇陵として大きく造りかえたものです。




写真、二段目は、神武天皇社の傍にある、本馬山の東側にある燕神社から撮影したものです。
神武天皇が国見をした、「ホホ間の丘」とはこの本馬山のことで、本来は山の西側部分から国
見をしたわけです。
ですが、奈良盆地を見渡たすのに、この場所から見る訳ありません。
神武天皇が、国見をした、この「国」とは葛城地方のことです。
またここから2kmほど南部には、国見山があります。勿論、この山から見える国とは葛城地方の
ことです。奈良盆地全体を見渡すのこんな場所から見るはずはありません。

神武天皇と、崇神天皇は、ともに、「はつくにしらすすめらみこと」とされます。
ともに、初めて国を治めた天皇という称号をつけられています。初めて国を治める天皇が、
ふたり存在することになり、これも謎だとされていますが、そうではありません。
これは、この「国」が異なるのです。
神武天皇は、この葛城を治めた初めての天皇としての「はつくにしらすすめらみこと」とい
う意味です。
神武天皇の宮は、間違った場所に造らてしまいました。
だから、どこかわからなくも、架空の人物と推測されていたとしても、どこでもいいわけで
はないのです。
実際に、訪れてみてください。神武が国見をしたという、この「国」が奈良盆地南部の葛城
地方だということは容易に分かります。

写真、下段は、景行天皇陵墓とされる、天理市にある山邊道上陵(渋谷向山古墳)です。
ここいらへんは、物部の領地です。


                                    

    




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