聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

雄略天皇と大仙陵古墳・・・倭の五王の謎

2016年03月30日 | 日本書紀の謎


中国の歴史書に記述のある、倭の五王の謎は、難問とされます。参照する資料が少ないうえ
記紀とは矛盾するからです。でもこれは、記紀に問題があるからでもあります。
記紀においては、天皇家は万世一系で繋がっているとされます。ですので、本来は血縁関係
がないにもかかわらず、繋げなければならないということです。
だから、これらの王の比定が難しいことに加え、本来の歴史を改竄し、大王ではなかった人
物を大王としているからでもあります。
そう、中国の歴史書と矛盾するのは、語れないのです。

今回は、この「倭の五王」の謎を考えてみます。
正史とされる、日本書紀・古事記の問題点は、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる、天
皇記・国記に始まります。この、天皇記・国記とは、どういう史書だったのだろうか?とい
うことを考えれば、この倭の五王の謎も解けるように思うのですが・・・?
この倭の五王のことを語らないのは、邪馬台国、卑弥呼のことを語らないのと同じです。

継体天皇は、応神天皇の五世の孫だといっているわけです。いわば、倭の五王とはなんら
関係のない人物だと言えます。そこまで、遡らない限り、関係を示すことができないわけで、
本当かどうかもあやしいものです。王朝が変わったともされます。
そして、後の天皇は、この継体天皇から繋がるわけです。継体天皇以降の天皇たちは、この
「倭の五王」の王家とは、なんら関わりないともいえます。対立して、倒した王家の実績を
語りたくないわけです。そう「倭の五王」は、天皇家ではなかったからです。

古代の歴史を変えたのは、蘇我馬子と竹田皇子です。
この史書は、応神天皇から推古天皇までの歴史書だとも考えられます。
そして、応神天皇以降は、この倭の五王時代と重なると思われます。この時代の歴史を改竄
した箇所はどこなのか?というところを考えていきます。
記紀の嘘は、他国の文献により明らかになります。
初代の天皇である、推古の出自をよくするための改竄がなされている。
蘇我の天皇たちを、古代の王家に繋ぐため、本来は王ではない人物を王としたため、この中
国の歴史書にある、倭の五王とは異なる系譜になったために、記述することができなかった
のです。あきらかに意図的に記述していません。継体天皇を、応神天皇まで遡らしたのは、
この「倭の五王」と関係するように思います。
日本書紀。古事記はこの蘇我氏の歴史書を基に編纂されています。


倭の五王の謎についてのキーマンは、倭王武です。雄略天皇こと、大泊瀬幼武尊(おおはつ
せわかたけるのみこと)だろうと比定されます。有力な説とされます。
倭王武は、武尊こと雄略天皇だとすると、謎解きはそう難しくはないように思うのです
が・・・?

倭の五王の王たちは、畿内の王権、つまり大和朝廷の王たちではなく、九州の倭国の王たち
ではないのだろうかという説もあります。ですが、倭王武の上表文や、江田船山古墳(熊本
県)や、稲荷山古墳(埼玉県)の鉄剣銘の「獲加多支鹵大王(ワカタケル)」は、雄略天皇
だとすると、やはりヤマト政権の支配地が、この倭王武の時代には広範囲に及んでいたと考
えられますよね。

倭王武の上表文・・・
順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑
寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡 平海北九十五國、

蘇我馬子が編纂した、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書です。
この歴史書により古代の歴史は改竄されました。
倭の五王の謎については、物部系の王を、王でなかったとし蘇我氏につながる人物を王とし
たため矛盾がおきているように思うのですが・・・?

以前にも記述しましたが・・・
蘇我氏が王家と関わるのが、継体天皇の三男とされる欽明天皇です。
この欽明のお母さんは、仁賢の娘の手白香皇女であり、彼女が皇后とされます。
そして、彼女が皇室の祖で、女系ですが直系の血筋を繋いだとされます。

しかし、これは真実であはありません。雄略天皇の子の清寧は、后がなく、したがって子が
なかったから、オケ、ヲケの二人が王に迎えられたという、仁賢、顕宗の奇妙な話は、蘇我
馬子による作り話です。
欽明の方が、正当であるとするため、彼女のお父さんを王に仕立て上げただけです。
尾張氏の娘、目子媛の子の安閑、宣化の系列より、欽明天皇から繋がる、蘇我の王である
天皇は、古代から繋がる正当な血筋を引く王であるとしたのが、蘇我馬子と竹田皇子が編纂
した「天皇記」「国記」です。
本来は王ではなかった、この仁賢、顕宗を、大王としたために、中国の歴史書とは矛盾が生じたのです。
この尾張氏の娘、目子媛の子の安閑、宣化の系列というのは天武系の王の系列です。


「天皇記」「国記」において、この倭王武こと、雄略天皇の系統を消し、欽明天皇のお母さ
んである、手白香皇女に繋がる人物、つまり仁賢、顕宗を王とし記述し、蘇我氏の天皇たち
の方が、古代から繋がる正当な王だとしたからです。
さらに、仁賢、顕宗のお父さんであり、手白香皇女の祖父である市辺押磐皇子を、履中天皇
に繋げていると思うのですが・・・???どうでしょうか?


倭の五王の、比定に関しては、以下のように云われます。
「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇

「讃死弟珍立遣使貢献」
倭王武が、雄略天皇だとするとこのようになりますよね。これが、有力な比定とされます。

記紀においては、履中天皇、反正天皇、允恭天皇、は仁徳天皇の子供達とされます。
ただ、宋書においては「讃」と「珍」とは兄弟ですが、「珍」と「済」との関係が明らかで
はないところが問題点だとされますよね。
ここ、つまり、まったく血縁関係がない可能性もあるということです。

倭の五王の謎は、この「讃」と「珍」とは兄弟ですが、「珍」と「済」は兄弟でも、親子で
もなく血縁関係がないとすると謎は解けるように思うのですが・・・?

ウイッキペディア・・・倭王武の上表文

封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)躬(み
ずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょ う)し、寧処(ねい
しょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六
十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。 王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひ
ら)き畿を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あ
やま)らず。」(『宋書』倭国伝)

梁書・・・
晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。・・・

     *******************************

倭王武の上表文について、面白い説がありますよね。この上表文の祖禰の、「禰」という人
物がいたとのでは?という説です。梁書においては、「贊」の弟は「彌」とされます。

梁書には、済のお父さんは「彌」で、「彌」と「贊」は兄弟だといっているわけでしょう。
この梁書には、「讃」と「珍」の記述はないですよね。
そして、「禰」と「彌」はよく似ていますよね。これ偶然の一致なのでしょうか?

倭王武こと、雄略天皇の祖父の仁徳天皇を「彌」とすると、允恭天皇は仁徳天皇の息子であ
るのですが、・・・(讃」と「珍」とは兄弟ですが、「珍」と「済」は血縁関係がないとする
と、)・・・履中天皇、反正天皇は仁徳天皇の子供たちではないということですよね。

宋書がいうように、讃と珍とは兄弟ですが、済とは兄弟ではないとすると、この梁書は、済
の系列だけをを言っているわけですから、「彌」と「珍」、「贊」と「讃」は同一人物ではな
いのでは?
413年に東晋に朝貢したのは、倭王贊であり、倭王讃ではないのでは?

宋書倭国伝と梁書、どちらも間違って記述されていないとしたらこうなりますよね。

これ、つまり万世一系で繋がっていると考えるとだめなのでは?
通説のように、「彌」と「珍」は、本当に同一人物なのでしょうか?
彌と珍の文字は明らかにちがうでしょう?崩しても似ていないですよね。贊と讃は似ている
から、記紀と照らし合わせて同一人物だとされいるわけですよね。
つまり、これ記紀においては、履中天皇、反正天皇、允恭天皇は仁徳天皇の息子とされるか
らです。だから「彌」と「珍」は、同一人物であり、反正天皇とされます。

そして、宋書倭国伝のほうが、この倭の五王と同時代であり、梁書は後のもの、だから、後
から書かれた梁書が、何を参照してこの「彌」の事を語っているのか?といわれます。

でも、朝貢していますよね、倭王武が。502年に梁が建国しので、朝貢したわけです。
国が異なるわけですから、その時、当然倭王武について、祖先に関しても語られると考えら
れますよね。この朝貢時の記録が残っていたとしたら、なんら問題ないですよね。
だから、宋書のほうが、梁書より史料価値が高いっていうのは間違いのように思います。
どちらも、資料価値はあるのでは?

この、梁書は、倭王武の系列を語っているだけなのでは?この系列が本来の王家のように思
います。ここから記紀の改ざん箇所が推測できる。必ずしも、万世一系なわけではなく、
大和朝廷内の有力中心の氏族の中から王が選ばれている。二朝並立とは言いませんが、各氏
族にも各々王は存在する。これが、後の、物部氏と葛城氏。

『梁書』倭国伝・・・
晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。

これ、倭王武こと、雄略天皇が祖先のことを朝貢時に語ったものなのでは?

ともかく、宋書にあるように、讃と珍とは兄弟ですが、済とはなんら血縁関係が示されいま
せん。兄弟なら、当然、血縁関係が記述されているわけですから、兄弟ではない可能性の方
が大きい。
そう、ここが非常に重要なのでは?血縁関係がないなら、王朝交代?なのでは・・・?
つまり、履中天皇と反正天皇は兄弟ですが、允恭天皇とは、なんら血縁関係はない。
これに関しては、日本書紀の即位する過程の記述からもなんとなくうかがい知れますよね。
でも、記紀においては、万世一系だから繋げなきゃいけませんよね。


それは、蘇我馬子によって編纂された、天皇記・国記編纂時に過去の歴史は変えられました。
この蘇我の歴史書は、応神天皇から推古天皇までだといわれています。
蘇我氏が、姻戚関係を結び王家と関係するのが、欽明天皇です。
蘇我の王たちは、この欽明天皇から繋がります。
欽明天皇のお母さんである、手白香皇女の出自をよくするために、つまり、彼女が継体天皇
以前の王家の血筋を引いているとするために、彼女のお父さんを天皇にし、祖父である市辺
押磐皇子を履中天皇に繋げる操作がなされている。
そしてさらに、履中天皇を仁徳天皇に繋げていて、この仁徳天皇は蘇我の神様である応神天
皇の息子だとしている。
それが、これら中国の歴史書によってバレちゃっている。


蘇我氏は、武内宿禰を祖とします。だから、蘇我氏の歴史書である天皇記・国記編纂時には、
彼が、神武天皇とされていて、始祖だとされていたのだと推測できるように思います。
後に、神武と、応神とふたりの人物に分けられ語られています。
邪馬台国、卑弥呼こと台与のあと、4世紀にはいり、大和王朝内の、有力部族間の争い(台
与が共立された時と同様に)があり、一時的に他の氏族から王が誕生した。
これがいうところの河内王朝。
讃と珍とは兄弟ですが、済とはなんら血縁関係ないとするとこうなります。
これつまりここで、王朝が交代したということ。これが、後の葛城氏。

この葛城氏というのが、河内王朝。始祖である神武天皇こと、武内宿禰の宮は、葛城にある
秋津遺跡。物部系の氏族と、武内宿禰を始祖とする氏族の争い。

紀氏家牒・・・
家牒曰、紀武内宿祢者、人皇第八代孝安天皇曽孫、屋主忍武雄心命之嫡男・母曰山下影媛
一、・・・・・家大倭国葛城県五処理。一、今葛城里、玉手里、博多里、賀茂里、室里等是
也、墓在二彼処一。

武内宿禰の宮・・・五処理(御所)、葛城、玉手、博多、賀茂、室、・・・最近発掘されてい
る葛城にある秋津遺跡が武内宿禰の宮こと神武天皇の宮。
そして、この室にある室宮山古墳墓が、武内宿禰のお墓であり神武天皇のお墓。
神武天皇が、即位したとされるのは、この御所の柏原。
大和を平定した、神武天皇は掖上の「ホホ間の丘」に登って国見をしたとされます。
掖上には、「本馬山」と「国見山」があります。

初代、神武天皇こと、武内宿禰であり、最後の王はこの讃と珍こと、履中天皇、反正天皇まで。
この河内王朝の始祖は武内宿禰こと神武天皇。

允恭天皇により、本来の王家に戻った。允恭、雄略により、葛城氏(河内王朝)は滅亡。

この済こと允恭天皇というのは、物部系の天皇であり本来の古代の王家。だから、この物部
の王である允恭天皇から繋がる王達は非常に悪く描かれたり、王ではなかったとし、後に繋
がっていないように子孫を消し去っています。

允恭天皇・・・忍坂大中姫
*允恭天皇 第一皇子 木梨軽皇子・・・近親相姦により失脚し自害。
*允恭天皇 第二皇子  境黒彦皇子・・・雄略天皇に殺される。
*允恭天皇 第三皇子 穴穂皇子(安康天皇)・・・子供がなかったとされます。ここで彼
 からの繋がりを消し去っています。7才の子供(眉輪王)に殺された。
*允恭天皇 第四皇子 八釣白彦皇子・・・雄略天皇に殺される。
*允恭天皇 第二皇女 軽大娘皇女・・・衣通姫とも。木梨軽皇子と近親相姦。自害。
*允恭天皇 第五皇子 大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)・・・大悪天皇。

*雄略天皇の第三皇子 清寧天皇・・・やはり、子供がなかったとされます。これにより、
 雄略天皇から後の天皇たちへ男系では繋がらない。

*武烈天皇・・・残忍な天皇で、子供がなく後継がいない。

これらの皇子、皇女たちは、皇后である稚渟毛二派皇子の娘の忍坂大中姫の皇子たちです。
允恭天皇は、あともうひとり后がいるとされます。それが衣通姫です。
古事記は、軽大郎女の別名とされ、日本書紀は、忍坂大中姫の妹の弟姫とされます。
しかし、彼女には皇子はいません。

ひとりの女性だけ子供がいて、しかも9人・・・。これ、本来の王家とは物部だとしたくな
いため、物部氏関係の后が消されている。

この稚渟毛二派皇子は、本来大王家とは関係のない継体天皇を、蘇我の神様である応神天皇
に繋げる人物の一人だったのです。この存在自体あやしい人物の皇子である、稚渟毛二派皇
子の娘の忍坂大中姫の子供たちです。おそらく、忍坂大中姫は、架空の人物です。
稚渟毛二派皇子は、応神天皇と息長真若中比売との皇子とされます。いわば、蘇我と天武系
の皇子です。その皇子の娘が、この忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)です。
この「なかつひめ」という名の女性は、他にもあるのですが、異なる二つの系統を、一つに
繋ぐ人物のように思えてならないのです。

応神天皇の皇后の仲姫命。応神天皇の后、息長真若中比売。仲哀天皇の妃、大中姫命。
宣化天皇の皇后の橘仲皇女。
そして、この允恭天皇の皇后の忍坂大中姫は、応神天皇と本来の王家とを結ぶ女性です。

おそらくほとんど作り話。雄略天皇は、蘇我氏に非常に密接に関係する葛城氏を滅ぼしてい
ます。同族といってもいいですよね。蘇我氏とすれば、雄略天皇憎しですよね。
悪逆、残酷天皇として描くための作り話です。

つまり、物部の系列を男系で断ち切り、後には繋がってなかったとしている。
(これでは、本来の王家断裂となるため、女系で繋げている。袁智天皇の謎と継体持統で記述
しましたが、雄略天皇の春日大娘皇女を仁賢天皇の皇后とし、武烈天皇と、この手白香皇女の
お母さんとしている。)


それで、結果どういうことかというと、ウイッキペディアから引用・・・

継体天皇と手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となった。
皇統の危機を救い、男系ではないものの、直系の血筋を後世に受け継がせた手白香皇女の存
在は非常に大きかったといえる。

    *****************************

これ、もう、蘇我馬子ふざけるなっていう内容でしょう。物部系の王である允恭天皇の後胤
を消し去っている。手白香皇女は、全く古代の王家の血をひいていません。
当然、欽明は、大王であはありません。天皇です。蘇我の王である天皇です。


そして、この雄略天皇と武烈天皇は同一人物です。

記紀において、倭の五王のことを記述できなかった大きな理由です。
倭王武こと、雄略天皇は、江田船山古墳の銀象嵌鉄刀銘と、稲荷山古墳から出土した、金錯
銘鉄剣銘の「獲加多支鹵大王」を、「ワカタケル大王」とよまれ、雄略天皇だとされます。

この稲荷山鉄剣銘と、宋書倭国伝などの中国の史書により、蘇我馬子による、改ざん箇所が
判明します。

ウイッキペディア・・・
稲荷山鉄剣銘
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児
名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼
宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

     *******************************

この獲加多支鹵大王というのは、雄略天皇で、倭王武だとされます。
そして、この辛亥年は471年だとされます。

これね、獲加多支鹵大王が斯鬼宮にあるときに、天下を治めるのを助けたって云っているわ
けでしょう。これ過去形ですよね。辛亥年を471年だとするとおかしいですよね。
中国の史書によると、まだ即位していませんよね。即位してないのは、宋書倭国伝の記述に
よると明らかですよね。
そして、内容に関しては、即位するのを手助けしたというこではないですよね。
即位してから天下を治めていくのを助けたっていう意味でしょう。
そうしたら、過去形ですので、この471年より、さらに過去のことになるわけで矛盾しま
す。
この稲荷山鉄剣銘は埼玉県です。乎獲居臣は、獲加多支鹵大王が即位して後に、ここ関東地
方を平定するときに味方したというようなことでしょう?

宋書倭国伝によると、477年に倭王武は、朝貢していますよね。即位したのがこの年か、前
の年位だと思われますよね。だから471年だと、まだ即位していないと考えられますよね。
即位してから、天下を治めて行くわけで、その手助けをしたと云っているわけですから、こ
の剣銘の辛亥年は531年と考えるの自然ですよね。


宋書倭国伝・・・
477年、・・・これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・
任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。

478年・・・武は上表して、自ら開府儀同三司と称し、宋の順帝に正式の叙正を求める。
順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と
称する。

南斉書倭国伝・・・
479年・・・南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号する

梁書武帝紀
502年・・・4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。

 ***************************************


477年、478年の倭王武、479年の南斉書倭国伝の倭王武。そして、梁書武帝紀にある502年の
倭王も武ですよね。
仮にですよ、倭王武が477年に25才で即位したとすると、502年だと50才でしょう。
つまり、502年の倭王武は同じ人物だとしても、全く不自然じゃないですよね。
それで、辛亥年は531年だとすると、30年ほど前になりますよね,
500年ころ、この乎獲居臣が25才くらいだと想定しても、531年だと56才ですよね。
なんら問題ない年齢ですよね。
そう梁書武帝紀にある、502年の倭王武も雄略天皇だということです。

それで、武烈天皇が崩御したのは、506年だとされますよね。つまりね、この雄略天皇と武
烈天皇は同じ人物だということ。武烈天皇が崩御したというのは、雄略天皇が崩御したとい
うこと。欽明天皇に繋がる、仁賢、顕宗を王だったとしたいため、武烈天皇という人物を作
らなければならなかったということです。

つまり、雄略天皇と武烈天皇の間の天皇(もちろん飯豊天皇も)たち、そう彼らは、王では
なかったといことです。
雄略天皇の皇子の清寧天皇は、后がなく、子供たちがなかったので、仁賢、顕宗が王に立っ
たという理由漬けの王です。ですので、欽明天皇のお母さんである、手白香皇女に繋がる、
仁賢天皇、顕宗天皇が問題の天皇達です。彼らはもちろん王ではありません。

蘇我の歴史書において、蘇我氏が姻戚関係を結んだ欽明からつながる蘇我の王である天皇は、
継体天皇以前の古代の王家から繋がる正統な王であるとしたわけです。
欽明の方が正当であるとするため、手白香皇女のお父さんを王に仕立て上げただけです。

武烈天皇・・・残忍な天皇で、子供がなく後継がいない。
『日本書紀』・・・男女無くして継嗣絶ゆべし」、
『古事記』・・・「日続知らすべき王無かりき」

武烈天皇は、後嗣定めないで崩御したとされます。つまりここで、古代の王家が断絶した
とし、応神天皇5世の子孫される継体天皇が即位したとされます。

継体は本当に大王だったのでしょうか?欽明天皇のお父さんを天皇にしただけだと思うの
ですが・・・?だって、彼から後の天皇に繋がるがるわけでしょう。
なにがいいたいのか?っていうとね、継体天皇と尾張連草香の娘の安閑、宣化からは、男系
では後の天皇には、繋がっていないということです。安閑、宣化は天武系の王であるという
こと。そう蘇我の天皇である欽明は、現皇統へと続く祖となったとされるわけです。
これがおかしい。そうなるように、系譜が改竄されていたということです。
ここの系譜改ざんは、蘇我馬子が編纂した、「天皇記」「国記」においてですが、記紀はこの
「天皇記」「国記」を基に作成されている。天武系の王と対立していたのは、蘇我氏であり、
天智系の天皇や藤原氏です。


写真は、大仙陵古墳、雄略天皇、武烈天皇の陵墓です。

古墳に関しては、あまり興味がなかったのですが、倭王武こと、雄略天皇のお墓だけは、一
体どこなのか興味ありました。それは、雄略天皇のお墓が小さすぎるからです。
雄略天皇の陵墓は、高鷲丸山古墳されます。これ明らかに間違っていますよね。
記紀において、雄略天皇は非常に悪く記述されています。間違っているということではなく、
明らかに小さいお墓に変更されているように思います。
もうひとつの候補が、河内大塚山古墳されます。ここならその規模として、雄略天皇に相応
しいお墓ですよね。ですが、・・・どうなんだろう???

私が思う、雄略天皇に相応しいお墓は、そう、それは日本一の規模、いや世界一の大仙陵古
墳です。この大仙陵古墳は、本当に仁徳天皇陵墓なのでしょうか???

ウイッキペディア・・・
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考え
られている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在す
る副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。

アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵され
ている。・・・実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期
とずれがあるという
      ****************************

問題ないことないように思うのですが?
これだけ巨大な墳墓だと築造するのにはかなりの年月がかかると考えられますよね。
円筒埴輪や須恵器、大甕などから築造は5世紀中葉から後半頃ともされます。
つまり築造が始まったのが、5世紀中葉である寿陵であるということが考えられますよね。
そして、確定的ではないものの、例のボストン美術館にある、大仙陵古墳からの出土品とさ
れる銅鏡や環頭大刀も、5世紀後半から6世紀はじめころのものだとされます。


この巨大古墳は、倭王武こと雄略天皇のお墓なのでは?寿陵であるならば十分可能性がある
ように思うのですが?これだけ大きな墳墓を造成するには、かなりの時間が必要なわけで、
この時代は、おそらく寿陵です。

邪馬台国、卑弥呼の台与のお墓、箸墓古墳も異なった人物になっているように、この巨大古
墳も、同じ操作がなされている。
日本一大きなこの大仙陵古墳は、倭王武こと雄略天皇のお墓のようにわたしは感じるのですが、
どうなのでしょうか?

大仙陵古墳は、倭王武こと雄略天皇のお墓なら、周辺の古墳は、允恭天皇の子供たち、雄略
天皇関係のお墓だと考えられます。
つまり、もうひとつの大きな古墳である、履中天皇陵される陵墓に関しては、倭王興こと、
倭王武である雄略天皇のお兄さんである安康天皇の陵墓なのでは?
この大仙陵古墳より、以前に築造されたとされます。

そして、この大仙陵古墳に次ぐ、規模である応神天皇陵墓とされる、誉田御廟山古墳は、雄
略天皇のお父さんである、倭王済こと、允恭天皇のお墓のように思うのですが・・・?
この、応神天皇というのは、蘇我の神様であり、架空の人物です。


それで、蘇我氏に関係する重要な、欽明天皇のお母さんである、手白香皇女のお墓は、西殿
塚古墳とされています。応神天皇の皇后の仲姫命の陵墓も、巨大な古墳(仲ツ山古墳)とさ
れます。あきらかに、大きな墳墓に、意図的に変更されている。

蘇我氏にとっては、これら大仙陵古墳などの巨大古墳が、物部の王たちの陵墓では都合が悪
いのです。そう、物部は古代の大王家だとわかってしまうからです。
倭の五王も記述できなかったのもこれが理由です。
記紀は偽書である、天皇記・国記を基に作成されています。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大安寺伽藍縁起并流記資材帳の袁智天皇の謎と継体持統

2015年12月20日 | 日本書紀の謎


天皇の名称は、本来は蘇我の王のことです。蘇我氏の台頭により、王の呼称が二つ存在して
しまったのです。というか、・・・天皇はもともと王ではないのです。
では、この天皇の呼称が大王という意味として使用され始めたのはいつなのか?
それは、乙巳の変により蘇我本宗家が滅亡した後です。天智が権力を保持したときです。
継体以降、天智以前で天皇とされている人物で実際に王ではなかった人物が複数います。

乙巳の変の時に、蘇我蝦夷によって焼かれようとしていた天皇記・国記を、保有していたの
は天智です。この後です。天智、天皇対天武、大王の対立となったのは。


蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結んだのは欽明天皇ですが、この欽明と同じ立場にあって、
蘇我の王である天皇になった人物がいます。それは、蘇我蝦夷によって天皇に立てられた
舒明天皇です。蘇我の女性を后とし蘇我氏と姻戚関係にありました。
もちろん彼は王家の人物なのですが、血統関係において上位ではなく(敏達天皇の皇女の王子ではない)
この時は大王ではありません。蘇我氏が姻戚関係を結び、大王家と対立するために立てた蘇我の王
である天皇です。実際に王ではなかった人物のひとりです。

この舒明の后の田眼皇女は、敏達と、推古の娘です。推古は女帝だとされているわけですか
ら、両親が天皇という立場の女性なのに、舒明の皇后ではありません。

茅渟王と吉備姫王との娘の寶女王が皇后です。両親が天皇の娘より位が上なのです。
そう茅渟王は大王だからです。天智、天武のお母さんだから皇后なわけではないのです。

この舒明の時の大王は厩戸王子こと押坂彦人大兄皇子の子の山代王です。
そう聖徳太子の子とされる山背大兄王です。

押坂彦人大兄皇子―茅渟王―山代大王
大王である押坂彦人大兄皇子のふたりの王子たちも当然、大王でした。茅渟王のあと立てられたのは
山代大王です。
この山代大王の御代、舒明天皇のあと蘇我蝦夷によって天皇に立てられたのは寶女王、皇極です。


皇極元年
於是、上宮大娘姬王、發憤而歎曰、蘇我臣、專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。
何由任意悉役封民。自茲結恨、遂取倶亡。是年也、太歲壬寅。

天皇と大王が存在した。この二人の王とは、大王は押坂彦人大兄皇子の子の山代王であり、
天皇は、蘇我蝦夷により天皇に立てられた舒明の皇后である寶女王、皇極です。

この翌年(643年)、聖徳太子の山背大兄王は蘇我蝦夷によって殺害されたとされます。
これは、押坂彦人大兄皇子の子の山代王のことです。すでに、大王でした。

同じく押坂彦人大兄皇子の子である軽皇子(孝徳天皇)は、乙巳の変において蘇我本宗家
を滅ぼします。孝徳、寶女王にとっては仇討ちでもあり、王家を乗っ取ろうとする蘇我氏と
の戦です。
天智が、この変に参加するのは、前述してきたように、百済を助けるための朝鮮出兵に関係
します。しかし、このあと、孝徳は天智と争うようになります。それは同じく朝鮮出兵に関
んしてです。孝徳は、朝鮮出兵には反対していたのです。



天皇の呼称が大王という意味で使用されたのはいつなのかという問題はは、記紀には見当た
らないのですが、聖徳太子が創建に関わったとされる大安寺の伽藍縁起并流記資材帳に興味
深い記述が存在します。
この資材帳には、疑問とされる、謎の天皇、袁智天皇との記述があります。
この袁智天皇とはいったい誰なのか?
そして何故、この人物は記紀に登場しないのでしょうか?

日本書紀や古事記が無視をする王は、そう天武系の大王です。この袁智天皇とは天武系の
押坂彦人大兄皇子から繋がる王だからです。天智系や藤原氏にとっては、この天武系の王た
ちが大王だと都合悪いのです。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子から繋がる大王たちの何人かを王ではなかったとしてい
ます。推古、舒明、の時の大王たち、押坂彦人大兄皇子、茅渟王、山代王です。


大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」との記述があるそうです。

日本書紀、孝徳条
是月、始造丈六繡像・侠侍・八部等卌六像。

本文と合致する繡仏等36像が、天平19年大安寺資材帳に記録。

      ***********************

大安寺伽藍縁起并流記資材帳に、白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇との表記が
あります。
この袁智天皇とは、斉明天皇のことだとされます。本当に斉明なのでしょうか?
白雉元年は650年だとすると、説明するまでもなく、おかしいですよね。

この袁智天皇とは、そう天智の后であり、持統のお母さんである蘇我倉山田石川麻呂の娘と
される遠智娘のことです。ですが、彼女は蘇我倉山田石川麻呂の娘でじゃありません。
この遠智娘は天智の后とされます。本来の王家の女性です。ですので難波宮にいたのです。
系譜が改竄されているのかも?

元号が変わったのは女帝が新たに誕生したからです。
つまり彼女は王になれる血統を持つ人物だったのです。


天智とこの遠智娘の娘の持統天皇の持統は、継体持統から名付けられたとされます。
何故、継体持統なのでしょうか?持統もまた本来の王家の女性です。

それは、天智は継体の血を父系で引き継がないからであり、持統のお母さんは蘇我の娘で
はないということです。遠智娘は、王家の血を父系で引く次ぐ女性であり、その娘が持統だからです。

何故、持統は王になれたのだろう・・・?わたしには大きな疑問でした。

持統のお母さんは、この蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘だとされます。父は天智です。
だとすると持統は王になるのは難しい身分です。それは、天智のお父さんは渡来人であり、
蘇我倉山田石川麻呂は王家の血が流れていないからです。

天皇は本来。蘇我の王の名称です。ただ、蘇我の王でも継体からの血のつながりのある人物
であり、蘇我氏と姻戚関係にあった人物やその子供に限っています。
ですので、遠智娘が継体と繋がりのない、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるのはおかしいわけ
です。天皇にはなれないのです。

この天智の后であり、持統のお母さんである遠智娘は重要人物です。
この遠智娘は複数の名があるとされます。この複数名を持つ人物はキーマンです。
またの名は、・・・美濃津子娘、造媛、茅渟娘です。複数名を持つのは、他の人物と混同
されているからでもあります。

日本書紀、天智7年
有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘或本云美濃津子娘、生一男二女、其一曰大田皇女、其二
曰鸕野皇女、及有天下居于飛鳥淨御原宮、後移宮于藤原、其三曰建皇子、唖不能語。或本云、
遠智娘生一男二女、其一曰建皇子、其二曰大田皇女、其三曰鸕野皇女。或本云、蘇我山田麻
呂大臣女曰芽淳娘、生大田皇女與娑羅々皇女。

この複数名で注目したいのは「茅渟娘」です。
押坂彦人大兄皇子の皇子で、寶女王(皇極、斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)の父でもある人
物に茅渟王がいます。またの名はこの茅渟王の娘という名です。
だとすると、そう彼女、遠智娘は宝女王、孝徳の異母兄弟姉妹になります。
なら、王になる資格あります。そして、その娘の持統も継体持統に相応しい人物です。

寶女王のお父さんはこの茅渟王ですが、彼女、寶女王と孝徳は何故王として即位できたのか
謎だとされます。皇位継承においての血統の問題があるからです。
それは、この茅渟王が大王ではないからなのですが、そんなことあるわけないのです。

この茅渟王も、祖父である押坂彦人大兄皇子も当然王だったわけです。
しかし彼らが大王だったことが消されています。だから不思議なことになっているのです。

日本書紀下巻の王は全て厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子からつながります。
そう、初めは彼が王だとして記載されていたのです。後に変更されたわけです。
彼らが、本来の大王家の王たちであり、天武系の大王です。


では、何故彼女、遠智娘は蘇我の娘とされているのでしょうか?
もちろん茅渟王の娘としたくないからですが、おそらく蘇我造媛と混同されているのでは?
この蘇我造媛と遠智娘は別人です。美濃津子娘とはこの蘇我造媛のことであり、遠智娘では
ありません。遠智娘は茅渟王の娘です。

持統のお母さんであり、袁智天皇である遠智娘は、娘の持統がまだ幼い頃亡くなって、この
蘇我倉山田石川麻呂の娘、本当は阿部内麻呂の娘の姪娘に育てられたと思われます。
おそらく、遠智娘は、袁智天皇として白雉元年である650年以降、もうひとりの子供である建皇子を
産んで間もなく亡くなった。
おそらく、持統は6才か7才ころになくなり、姪娘に育てられたからです。
大田皇女と建皇子は寶女王(皇極)に、そして持統は姪娘に育てられたのではと思うのですが?


この謎は「皇祖」という尊称をたどれば、問題は解決します。
この天智、天武のお母さんである、寶女王(皇極・斉明)は、皇祖母尊とされます。
この寶女王、軽王のお母さんである、茅渟王の后の吉備姫王は、吉備島皇祖母命の尊称。
持統の兄弟である、大田皇女、建皇子には皇孫の尊称。

そして、何故か、敏達天皇の皇女で、押坂彦人大兄皇子の后である糠手姫皇女は嶋皇祖母命と
されています。彼女はまた、田村皇女、宝王と表記されている。
押坂彦人大兄皇子はもちろん皇祖です。

そして、この茅渟王は敏達天皇の皇女とされる、糠手姫皇女の王子だと思うのですが?
ここ重要なので説明していきます。

舒明の田村皇子と寶女王は、この糠手姫皇女のまたの名(田村皇女,宝王)から名付けられたともされます。
天武、持統に関係すると思われる、伊勢大鹿首小熊の女とされます。

壬申の乱において天武は、吉野より、伊勢に向かいこの地方の豪族の協力を得ることができ
ました。王家が伊勢の神様を祀るのはこの時以降です。

つまり、茅渟王の本当のお母さんは、この糠手姫皇女なのでは?だから嶋皇祖母命なのではないでしょうか?
記紀において茅渟王が、敏達天皇の皇女ではない大俣王を、お母さんとしているのは、
茅渟王―寶女王、軽王を血統において劣るようにされていて、大王ではなかったとするため
です。逆に、舒明は敏達天皇の皇女の皇子として系譜を改竄している。
そして、茅渟王の后の吉備姫王のお父さんである欽明天皇の皇子桜井皇子は、蘇我の王子で
はなく、おそらく宣化天皇皇女から繋がる物部王子だと思います。



継体持統に繋がる、継体上宮家の敏達以降の王家の女系・・・

押坂彦人大兄皇子の后、嶋皇祖母命(糠手姫皇女)―茅渟王の后、吉備島皇祖母命(吉備姫王)
―皇祖母尊(寶女王)、遠智娘―皇孫(大田皇女、持統)

押坂彦人大兄皇子は皇祖、その后の糠手姫皇女は嶋皇祖母命。そして、糠手姫皇女のまたの
名であるとされる宝王・田村皇女や、皇祖の尊称からたどれば、宝皇女のお父さんである茅渟王
のお母さんもまた、この糠手姫皇女なのでは?
この茅渟王の后は吉備島皇祖母命であり、その子の宝女王は皇祖母尊とされます。
このように皇祖の尊称をたどれば、遠智娘の子供たちの、大田皇女、持統は、皇孫とされているわけ
ですから、遠智娘は茅渟王の娘なのではないでしょうか?

押坂彦人大兄皇子―茅渟王―山代大王、軽皇子(孝徳天皇)


日本書紀には、大王と記述されている箇所が何箇所かあります。

日本書紀、 舒明天皇条即位前
時、大兄王、使傳問群大夫等曰「天皇遺詔奈之何。」對曰、臣等不知其深、唯得大臣語狀、
稱、天皇臥病之日、詔田村皇子曰「非輕輙言來之國政。是以、爾田村 皇子、愼以言之、不
可緩。」次詔大兄王曰「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」是乃、近侍諸女王及采女等、悉
知之、且大王所察。

山背大兄王が、「天皇(推古)の遺詔とはどういうことか?」と問うたところ、群臣が大臣
(蘇我蝦夷)が語ったところ(田村王子と大兄王にたいする遺詔)を答える箇所ですが、
最後の「且大王所察」の大王が誰だかわからない。

推古は天皇と表されているわけですし、話の内容からも、この大王はもちろん推古ではない。
そうこの大王とは、押坂彦人大兄皇子の子である茅渟王のことです。
推古が天皇の時代に大王だったのは、この押坂彦人大兄皇子と茅渟王です。

遠智娘が茅渟王の娘なら、寶女王とは、おそらくお母さんが異なる姉妹であり、
持統、大田皇女、建皇子とはさらに近い関係になります。
寶女王は言葉を発せられなかったとされる建皇子を可愛がったのはよく知られています。

漢風諡号の持統は淡海三船により「継体持統」から持統と名付けられたとされます。
それは、天武天皇の皇子、淳仁天皇の御代だと考えられています。
わたしには、継体持統の漢風諡号は、淳仁天皇の後世へのメッセージに思えてならないのですが?
持統は天智の娘ではないかもしれません?



下の写真は、明日香にある、吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓と、中にある猿石と呼ばれる石
像物です。梅山古墳の付近から出土したものが今の位置に置かれているそうです。
この梅山古墳(檜隈坂合陵)は欽明天皇陵墓とされますが、どうでしょうか?
この吉備姫王のお墓は、梅山古墳の陪塚です。
当然、夫である茅渟王のお墓なのでは。そう茅渟王は大王でした。

そして、となりの見瀬丸山古墳も欽明天皇陵ではないのでは?
この見瀬丸山古墳 の被葬者は謎だとされています。
この古墳は、巨大な前方後円墳であるので、もちろん本来の王のお墓です。
梅山古墳は茅渟王のお墓であり、その梅山古墳のそばに並んで造られていること
からも、元は押坂彦人大兄皇子 の王子の茅渟王の弟の山代大王のお墓だと思う
のですが?そこに父である押坂彦人大兄皇子が、後に改葬されたのかな。

おそらく、吉備姫王と欽明天皇は関係ないように思います。
下段の写真は、梅山古墳(檜隈坂合陵)近くの天武、持統合葬墓だろうとされる檜隈大内陵です。










  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天智天皇の謎

2015年02月10日 | 日本書紀の謎


漢風諡号の「天智」は、中国の暴虐な王として知られる殷の紂王の愛した天智玉から
名付けられたとされます。
そう天智こそ、百済からの渡来人を父に持つ王家簒奪の王なのでは・・・。

天智と天武に関することで、誰もが不思議に感じるのは、中大兄皇子から大海人皇子へ、
そう兄から弟へ4人の娘、(大田皇女、鸕野讃良皇女、新田部皇女、大江皇女)を
嫁がせていること。これは、明らかに不自然で、説明できない。
これ、お母さんが異なるっていうのならありますが、ともに舒明と皇極の子です。
こんなの明らかに、おかしいわけ。天智と天武、この二人には身分の差がある。

そして、記紀編纂に、かかわったであろう娘の持統天皇と、元明天皇姉妹は、
中大兄皇子のお父さんが渡来人ということなら、もちろん王になる資格なかった。
これは、王家とは男系で繋がりません。
記紀作成の理由のひとつは、この出自を隠すため。
蘇我の女を母に持つこの二人は、渡来人の血を多くひく女帝です。

だとすると、・・・この天智天皇の、出自に関するところを改竄し消し去って
いるはずです。当然、記紀には何も記述されていないのだけど・・・
どうなのでしょうか?

じつは、ひとつだけ消し去れない証拠がの残っているように思う。
それは・・・
持統天皇の名前、諱の、鸕野讚良(うののさらら)です。
どうして、彼女が「讚良 さらら」の名を持っているのか?
わたしは、はじめこれが不思議でならなかった。
このサララはシルラ、そう新羅のことです。そして讚良郡という地名があるのです。
そう、こういうのは、そこで生まれたか育ったところと考えられますよね。
地名が名に付く例が凄く多くあります。
讚良郡鸕野村です。もとは、新羅からの渡来人の居留地だったところです。

この讚良郡とは、いまの大阪の四條畷、寝屋川市、大東市周辺であり、
もともと古来から渡来人の居留地。
秦氏の本地は京都ですが、河内にも多くのの拠点がありました。
特に北河内は新たに百済から渡来した人々が住んでいたともいわれます。
この地にも、秦・太秦といった秦氏ゆかりの地名があります。

この時代、ここ讚良郡と京都周辺を支配下に入れていた部族長は、渡来人
である秦河勝であるといわれます。

この秦氏は百済からの渡来人か、新羅からの渡来人かはいろいろ議論あるようですが、
百済や伽揶諸国の滅亡による、多量の渡来人の影響がこの時期ありました。

この秦河勝こそ、天智天皇のお父さん。持統のおじいちゃんです。

この秦氏の先祖とされる弓月君は、応神天皇の時代、百二十県の民を率いて百済から
渡ってきて帰化した渡来人です。
おそらく、かなりの数の人々が渡来してきたと考えられます。

そう、百済と北方の大国である高句麗との戦いの時です。
倭国も朝鮮半島に出兵し、百済から七支刀が贈られたときです。
多量の渡来人があるのは、戦乱時においてです。
出兵の見返りに技術集団を要求したのだと思います。

秦氏は、もともとは、「波多」?であり、後に秦の始皇帝の末裔として中国にルーツを
持っていき「秦」という文字を充てたともされています。

もちろん、朝鮮半島からの渡来人は、百済からだけではなく、新羅、高句麗、伽揶諸国
などからもありました。そう、戦乱時には、朝鮮半島側の倭国を味方に付けようと
しました。
百済、加羅諸国とは、この4世紀から緊密な関係にあり、友好関係を維持してきましたが、
新羅とは敵対関係にあることが多かったようです。ですので、百済からの渡来人が多くなります。


特に、大阪の河内、摂津、泉は、百済からの渡来人が多く住み百済国ともいわれ、
今も多くの地名や神社仏閣が残ります。
百済王神社、百済寺、百済群、百済神社、百済川、百済橋・・・

この地名に関しては、百舌鳥・・・百済(モズ)が有名です。百舌鳥百済村です。
大仙古墳など河内の古墳が巨大になったのも、彼らの労働力によるものです。
多くの渡来人により人口が増え、古墳が巨大になりました。
百舌鳥古墳群ともいわれます。
奈良盆地から河内へ権力が移行したのも、この渡来人による人口増加が理由です。

この多数の百済からの渡来人が、倭国を百済側につけようと、秦氏の王である秦河勝と
宝皇女(皇極)の子の中大兄皇子に近づきます。
中大兄皇子が王になれたのも、彼らの後ろ盾があったからです。

もともと、渡来人というのは新羅からが多かったでしょうけど、
この7世紀には、唐が新羅と結んだため百済は敗北し、ついに660年に唐と新羅の
連合軍に滅ぼされます。
多数の亡命者がこの時もあり、この百済や伽揶諸国からの多数の渡来人が、大きな影響
を与えたと考えられます。

日本書紀天智4年、5年、8年と百済からの渡来人を、移住させた記述があります。
移住しただけでも、三千人以上になります。  
特に、近江に多く移住したことも記述されています。

この秦氏の領地である京都側の近江の大津に、天智は遷都しています。
もちろん、ここいらへんも秦氏の領地といってもいいと思います。
そう、中大兄皇子はお父さんである秦河勝のもとに遷都しました。
これはもちろん、白村江の戦の戦争責任追求から逃れるため。

以下、天智天皇のお父さん(あるいは、祖父)が渡来人の秦河勝なのでは?といところ纏めてみました。

*天武朝に、「帝紀」「旧辞」を作成したのに、なぜ持統・元明・元正朝に記紀を作成
 する必要があったのか?天智系の女帝に都合のわるいことがあったのでは?
 天智天皇のお父さんが渡来人であったなら、父系で王家と繋がらない。

*中大兄皇子の娘4人が大海人に嫁いでいる。しかも同父同母の兄から弟へ。
 これは、あきらかにおかしく、この二人には身分の差があるからなのでは?

*斉明天皇条、冒頭に、用明天皇の孫の高向王に嫁して、漢皇子を生んだ。
 という記述がある。この漢は、東漢氏などと同じアヤであり、高向王と
 いうのははたして誰なのか?不明ですが、渡来人との子を生んだことが、
 暗示されているのでは?


実は、・・・これは天武の年齢が意図的に記載されていないことに関係する。
これは、天智天皇の出自を隠すために、あたかも天武の方が年上で、高向王の子の、
漢皇子(渡来人)だとしたかったわけ。
ここ誰もが騙されている。この高向王とは秦河勝のこと。

 
*持統天皇の諱の鸕野讚良(うのささら)、このサララはシルラのことで、
 そう新羅のことで、古くからの渡来人の居留地。
 この時代、ここ讚良郡は秦河勝の支配地であり。秦・太秦といった秦氏ゆかりの地名があります。
 川勝町という地名が今も存在し、彼の墓所はここにもあります。

*皇極天皇条には、この秦河勝は神だという不思議な記述がある。

  太秦は 神の中の神 聞こえも高い 常世の神を 打ち懲めなさった

*どうも、秦河勝は蘇我入鹿とあらそっていた。これは、乙巳の変の一年前の
 皇極3年(644年)こと。 (大避神社由緒書き)

ウイッキペディア・・・由緒書き
河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、
千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去したという・・・。

*中大兄皇子が、乙巳の変に加担したのは、秦河勝が蘇我入鹿と争っていたから。
 これは、おそらく朝鮮半島への出兵に関してだと思う。
蘇我氏は新羅からの渡来人であり、出兵には反対していた。


*乙巳の変の時、古人大兄皇子は彼を「韓人」と表現している。
 「韓人、鞍作(入鹿)を殺しつ」の韓人とは、もちろん中大兄皇子のこと。
  この韓人とは百済人ということ。

*乙巳の変後、中大兄皇子が即位できなかったのは、もちろんお父さんが渡来人だから。
 王になれる身分ではなかったから。

*天智天皇は、秦河勝の領地であろう近江の大津に遷都している。
 この近江にも湖東三山の一つとして知られる百済寺があります。

*秦氏は百済からの渡来人で、この時期も百済から多量の渡来人が帰化して
 大きな勢力になった。この大きな後ろ盾を基に、天智天皇は朝鮮出兵を実行した。
 そして、この時代秦氏の族長は秦河勝である。

*額田王は、おおきみであり、これはいうまでもなく王家に関係する人物。
 天智と天武は、彼女を巡ってあらそったとされます。
 これは彼女が美しかったとか、才能豊かであったとかではなく、渡来人を父に
 持つ天智が欲したのは、王家の血、彼女の血統なのでは?

    あかねさす紫野行き標野行き
          野守は見ずや君が袖振る

      紫のにほへる妹を憎くあらば
                人妻故に われ恋ひめやも

*壬申の乱のとき、多くの豪族は天武に味方した。
 この戦は、わかりやすくいえば、百済渡来人対日本・新羅渡来人だったのではないでしょうか。

天武朝になって、遣唐使が途絶え、逆に新羅へ使者を送ることが多くなり新羅からも
  多くの使者が訪れるようになります。

左の写真は、紅葉の名所として知られる多武峰にある談山神社です。
はたして、藤原 不比等は天智天皇の子だったのでしょうか。



               


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倭王品陀 眞 若王

2014年12月26日 | 日本書紀の謎


神様の名前付いてる天皇は三人いますよね。神武に、崇神に応神。
神武も崇神も「はつくにしらすすめらみこと」とされていますよね。
これ凄く重要。

誉田(ホムタ)、品陀(ホムダ?ホンダ)、凡牟都(ホムタ?ホムツ)はすべて応神天皇ということにされていますが、
これ3人とも別人でしかも、ホムタこと応神天皇は架空の人物。
品陀も凡牟都もホムタとは読めない。

蘇我馬子が聖徳太子と共に著した「天皇記」「国記」はこの応神天皇から推古天皇まで。
この初代の神様は、歴史を改竄するための架空の人物。
天皇記っていうのは、蘇我馬子が天皇の名称を使用して歴史を改ざんしたもの。
問題なのは、のちの歴史書はこの偽書を元に著され、天皇の名称を使用していること。


品陀和氣命 坐輕嶋之明宮・・・古事記

品陀(ほむた?ほむだ?ほんだ)ひの御子(みこ) 大雀(おおさざき) 大雀(おおさざき)
佩(は)かせる大刀(たち) 本(もと)つるぎ 末(すえ)ふゆふゆ木(き)のすから
が下樹(したき)のさやさや

この歌は大雀が七支刀を佩刀してる姿をうたったものだともいわれていますよね。
わたしもそうおもうのだけど・・・問題はこの品陀。誉田でも凡牟都でもないですね

これそのままの人物いるでしょう。
そう品陀眞若王(ほんだ ま わかのみこ、わかのおう)。かれが倭王。
大雀は品陀眞若王の子供。
 
それで、七支刀の裏面の文字の問題の箇所
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

故為倭王旨造傳示後世・・・ここんとこの解釈なんだけど倭王旨の「旨」を名前だとする
と問題なく読めるのだけど、でもこんな「旨」名の王は記紀にはないですよね。
だから、おかしなな解釈していますよね。

ゆえに倭王旨のために造る。後世に伝え示されんことを。・・・とすればいいいわけでしょう。
この「旨」は「眞」の略字。品陀 眞 若王。

この漢字1字の王こそ、よくいわれている河内王朝の王。

倭王武(武内宿禰・神武天皇)―倭王旨(品陀眞若王)―倭王禰(仁徳天皇)―倭王讃(履中天皇)
―倭王珍(反正天皇)―倭王済(允恭天皇)―倭王興(安康天皇)―倭王武(雄略天皇)

この応神天皇というのは、架空の人物であり、後につくられたものであり、蘇我馬子が
編纂した「天皇記」「国記」においては神武天皇とされていた。
つまり「天皇記」「国記」は神武天皇から推古天皇までで、神武の物語は邪馬台国、
卑弥呼こと台与の後の4世紀はじめのおはなしである。
この神武天皇こそ武内宿禰であるということ。なぜならこの天皇記とは蘇我氏の歴史書
であり、蘇我氏はこの武内宿禰を始祖とするからです。

4世紀はじめに、畿内の大和政権内で内乱があったわけです。これわかりやすくいえば、
大阪対奈良の争い。で、大阪側の勝利になったわけ。
これ神武(武内宿禰)の東征の畿内での物語。
神武(武内宿禰)は葛城の地に宮を建設したわけ。これがいま注目の秋津遺跡です。





          








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇とは蘇我の王のこと

2013年08月02日 | 日本書紀の謎


天皇家は古代から続く王家ではない。
天皇と、王や大王とはちがうということ。天皇というのは蘇我の王のこと。
豊御食炊屋姫尊こと推古は天皇だけど、王,大王ではないということ。
つまり、彼女が本当の初代天皇ですよ。ここ理解できない限り古代史の謎は解けない。

隋書に書かれていてバレてるでしょう。すごく簡単なことなのに・・・

開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。
上、所司に其 の風俗を訪わしむ。
使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて
政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便 ち理務(つとめ)を停め、云う、
我弟に委ねん」と。
高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)
と号す。後宮に女 六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。


柿本人麻呂・・・「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも 」
この大君(おおきみ)とは天武天皇のことと言われているのだけど、この時代でも、おおきみ。
天皇ではない。記紀の謎はすべてここから。古事記、日本書紀は偽書。

日本書紀 推古20年春正月7日 酒をお置いて群卿に宴した。
大臣は寿ぎたてまつって歌った・・・
やすみしし わは大王が おかくれになる 天の八十陰 おでかけの・・・

天皇が和して
ま蘇我よ 蘇我の子は 馬なら 日向の駒だ 太刀なら呉の真刀だ
もっともだなあ 大王が 蘇我の子を お使いになるのも
 
天皇と大王を分けて使っているでしょう。これ、重要なとこ。
この天皇というのは、蘇我氏に関係する王の名称です。


この推古天皇と敏達天皇との娘である田眼皇女は舒明天皇の妃であって皇后では
ありません。
何故かっていうと、推古のお母さんが蘇我の娘だったからです。
蘇我氏は、もとは渡来人だからです。
押坂彦人大兄皇子こと聖徳太子が大王だったから、その子の茅渟王と吉備姫王の
娘の寶女王の方が、蘇我の王の推古の娘より身分がうえだからです。

620年に、蘇我馬子は、聖徳太子?と共に・・・「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并
公民等本記」を作ったわけ。
この時ですよ、天皇の名称をつかって歴史を改竄したのは・・・。
記紀編纂に関係する持統天皇と、元明天皇姉妹は蘇我系の天皇。
鸕野讃良皇女のお母さんは、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘で、同じく娘の姪娘は
阿閇皇女(元明天皇)のお母さん。

蘇我氏は、もとは葛城地方に居住し、この地方を領地としていた
後に葛城氏を名乗った氏族の下にあった、新羅からの渡来人。
馬具や甲冑の生産した技術集団で、かれらは鞍作と呼ばれていた。
葛城襲津彦のはなしが知られますが、この時新羅から多くの渡来人を招いた。
それが後に、さらに渡来人の増加により大きな勢力になった。

この葛城、御所の地に武内宿禰こと(神武)が宮(秋津遺跡)を作ることになりました。
室大墓古墳はこの武内宿禰のお墓であり、神武のお墓。御所の地名はこれが所以。
蘇我氏はこの武内宿禰を始祖とします。雄略天皇により、葛城氏が滅ばされた
後に、飛鳥に移住し蘇我を名乗った。

神武の東征の物語は、4世紀になって奈良盆地から河内に権力が移行した時のおはなし。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神武天皇は武内宿禰

2011年04月19日 | 日本書紀の謎


古代、奈良盆地は、湿地地帯が多く存在したようにいわれます。おそらく盆地の中央部は
農耕地帯だったのでは?各部族の本拠地はこの中心部をはさんで、東西になる。
それで、奈良盆地内が一つの勢力のもとに統一された後、この時期、河内(大阪平野)と
奈良盆地の勢力の争いの図式。
この河内の勢力も、奈良盆地を制した勢力も、もとは、どちらも同じ部族(後の物部)。
この河内の勢力と奈良盆地、大和物部との戦いが畿内での神武の東征の物語。
つまり神武天皇は武内宿禰とお父さんである屋主忍男武雄心命がモデル。
この屋主忍男武雄心命は、卑弥呼の男弟の伊香我色雄命の子である建膽心大祢命。
九州平定にむかったのがこの建膽心大祢命。

簡単に説明すると、この時期、南北に生駒山脈、葛城山、金剛山に隔てられた、大阪平野
の河内の勢力と大和盆地の勢力が争って、王座は一時、河内側に移ったということ。
蘇我氏はもちろん河内側であり、のちに再び大和の物部氏と争うことになるわけです。
それで、天皇家。この天皇家という氏族が存在するというのなら、この部族の本拠地はい
ったい何処なのでしょうか?天皇家の宮があちこち移動するのはえらく不思議じゃない
のでしょうか?

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする