聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

「奈良京」と「平城京」・・・長屋王の祟り

2017年10月09日 | 日本書紀の謎


今回は平城京の謎に関してです。
藤原京の名称の問題は前回書きました。
何度も云いますが、「藤原の宮」に「藤原京」、・・・藤原ですよ。
「藤原の宮」の名称に何の疑問も感じずに、さらに都の名を、「藤原京」に、・・・そして今も誰も不思議に思う
ことがないのでしょうか、この藤原京の名称は使用されています。

そして、同様に次の都とされる平城京もまた、名称や、宮殿に関して問題あります。

おそらく、この問題に関しても、誰も指摘していない・・・かな?
でもこれ凄く重要です。記紀や、続日本紀における藤原氏の改竄個所が明らかになる(^^)/


藤原京(新益京)は、持統の都ではなく、天武の王子で第一王子の、高市皇子の都でした。そして新たに移った
平城京もまた、元明天皇の都ではなく、本来はは長屋王の都でした。

高市皇子、長屋王は大王に即位していました。しかし藤原氏によって王に即していたことが消されています。
同様に彼らの宮、都の名称も消されている。

平城京は、長屋王没後に、平城宮を中心にした都づくりがなされたのです。
それまでは、長屋王の都だったのです。書物において都の名称を消し去っていましたが、都の名が記された木簡が出土しました。

ウイッキベディア・・・
平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)
と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。
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この平城京、元は奈良京とも呼ばれていたとされています。ですが、この都、この遷都当時の造成土から見つかったように、
この「奈良京」というのが、本当の都の名であり、長屋王の都です。物的証拠である木簡に書かれていました。
高市皇子の都の新益京の次の都は、この「奈良京」です。平城京が奈良京と呼ばれていたのではなく、奈良京の地に、
あらたに作られたのが平城京であり。この平城京こそ、権力を握った藤原氏の都です。


高市皇子、長屋王は大王でした。ですので、長屋王邸宅が本来の宮であり、都の中心地でした。その事実が消されている。
しかし邸宅跡から多数の木簡が発見されました。

ウイッキベディア・・・
奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年(1988年)には
奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡群(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した

出土した4万点に及ぶ木簡の中から、「長屋親王」の文字が入った木簡が発見され、長屋王の邸宅であったことが判明した。
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なんと、4万点もの木簡が発見されました。その木簡には、「長屋親王」などの記載のあるものがありました。
これ「親王」ですよ。「親王」は天皇の皇子という意味です。次の王位継承者ということです。
木簡は一級資料ともいえる物的証拠ですよね。

つまり、お父さんである、高市皇子は大王ということになります。
もちろん、「親王」である長屋王も、大王に即位していました。
この「親王」は「親皇」じゃないですよね、ですので、「高市皇子」は、本当は「高市王子」です。
本来は天皇ではなく大王です。万葉集にも天武は大王と呼称されています。

こんな簡単なことが何故にわからないのでしょうか?王だったいう証拠物件がでているじゃないですか?
もう不思議としかいいようがない。

長屋王は大王だったとする証拠の木簡はまだあります。
「長屋親王宮」、親王と表記がある。
「吉備内親王大命」この「大命」とは天皇の命令を表します。
「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、天皇の食物を表す言葉だそうです。
「勅旨」と書いた木簡も見つかっている。これも王位についていた証拠です。


大王と天皇は異なる。天皇は本来は蘇我の王の呼称でした。王座が二つあったともいえる状態でした。これが理解できていない。
本来の王はもちろん大王です。ですが、藤原氏が関わったのは天皇の方でした。持統は天皇に即位したのです。
そして、聖武は天皇なのです。本来、天皇は、王でなかったのですが、後に藤原氏は天皇の呼称を使用して歴史を改竄したのです。
藤原氏が関わる天皇の方が正統だとしたのです。
これがわかれば謎解きは難しくない。

天武天皇ー高市大王ー長屋王
かれらは全員「大王」でした。藤原氏は対立していた、高市大王や長屋王を大王だとしたくないために、かれらの系譜が改竄されている。

そして、これら多数の木簡の出土により、この場所が長屋王の邸宅であると判明しました。また木簡の内容からも長屋王は大王でした。
この大王である長屋王を殺害したのは藤原氏です。
あたりまえだけど、藤原氏は彼を王だったとしたくないわけです。
ですので系譜を改竄したわけです。

記紀はこの長屋王が祟って後に改竄されている。また、藤原の時代の続日本紀に至っては全く信用できない。藤原氏の主張でしかない。

押坂彦人大兄皇子ー 山代王ー天武天皇ー高市皇子ー長屋王
彼らは、本来の大王でした。この王家の系譜が改竄されています。

持統や元明、元正は天皇でした。ですが、天皇は王ではない。これが理解できない限り、古代史の謎はとけません。
これらの木簡の出土がなかったら、平城京の謎も分らないままでした。
良く見つかったなと思います。おそらく長屋王の邸宅は、藤原氏によって壊されたと考えられるからです。

もう何度も云っていますが、長屋王は大王でした。
つまり、この邸宅跡というのが、王の居住地であり、本来の平城京の、中心地でした。それが藤原氏によって変更されている。



今回は、地図を見て下さいね。どう長屋王の都である「奈良京」から、「平城京」に変更したかを考えてみます。

ウイッキベディア・・・平城京

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により
遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備
された程度と考えられており[1]、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている
740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、
その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた
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710年の平城京遷都を、710・南都・・・「なんと見事な平城京 」で覚えましたよね。
ですが、正確には、平城京遷都は710年ではないかもしれません。

王家と藤原氏の対立により、大王と、天皇、王座が二つあった状態でした。大王である、長屋王、天皇である、持統天皇や元明天皇。
記紀や、続日本紀はこの天皇側、つまり藤原の主張でしかない。

高市大王崩御は696年です、その後はおそらく、忍壁 皇子が697年に即位?、そして崩御は705年 。
このあと、長屋王が即位した706年が奈良京遷都年ではなにのだろうか?。宮が完成するまでには少し期間が必要かもしれませんが、
長屋王即位した年であろう706年頃が、本来の平城京遷都年・・・ではなく奈良京遷都年です。

長屋王は大王に即位している。つまり、本当の都の中心地は、長屋王の邸宅でありここが宮です。後に、つまり710年に、
都の北西部分に藤原氏の宮が完成し、元明はここで天皇に即位し移ったわけです。平城宮は藤原氏の宮です。

この長屋王の邸宅は、長屋親王宮と記された木簡が発見され、長屋王の邸宅跡は特定されています。邸宅は藤原氏によって、
すぐに壊されたとも考えられますが、貴重な遺構は残っていました。
保存すべき貴重な遺構は失われてしまいました。・・・悲しい( ノД`)シクシク…


ウイッキベディア・・・平城京の疑問箇所
唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に
位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、
中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
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平城京の謎ともいえる疑問点があげられていますよね。
同じ時代である唐の都の長安を模してとするのが常識的な答えですよね。何回か遣唐使が派遣されているわけですから。
北魏洛陽城などをモデルにするわけないでしょうに。

ですが、この高市皇子の都(藤原京)と、長屋王の都である奈良京はともに長安の都を模して造られたものではない。

長屋王の都、奈良京は、お父さんである高市皇子の都、香久山京(藤原京)と同様の都だと推測できますよね。
すると、藤原京は、大内裏(天皇在所)に当たる部分が中心にあるのに、この平城京は北端に位置します。おかしいですよね。
これ、都の守備面を考えると、王の住居は、普通は周囲を囲みますよね。これでは、北側から敵に攻められたらどうするのでしょうか?

この指摘から平城京の謎は解ける。
この指摘にあるように、本来は端に宮をつくるわけないですよね。本来、防御面から考えても、当然ですが、
王の住む宮殿は周囲を囲まれた、中心に位置するように作りますよね。

謎はここにあります。大王は長屋王であり、都である、奈良京の中心地は、本来は王である長屋王の邸宅である。
つまり、長屋王邸宅が、宮であり都の中心、大内裏です。藤原京と同様に、中心に宮があるのが、当然ですよね。

いま平城京の跡地とされる場所「平城宮」は、本来の都の中心地ではなかったのです。都の北西部分でした。

後に、王家を滅ぼした、藤原氏により、藤原氏の宮である「平城宮」を中心にした都づくりがなされ、「平城宮」が
中心に位置する都作りがなされたのです。長安の都を模して造られたのはこの時です。
本来の都である、長屋王の「奈良京」は変更し消されている。

藤原氏は、この長屋王の都、「奈良京」の北西に、藤原氏の宮を作ったのです。持統と同じく、元明はこの藤原氏の宮で
天皇に即位したのです。これは、いわば「藤原の宮」です。
長屋王に対抗して藤原氏が作ろうととしたのだけど、当初は結局ほとんど作っていない。それは長屋王が祟ったからです。

長屋王の変の後、王家と藤原氏の争いは、藤原氏の勝利となり、この平城宮の方が主役になってわけです。
もとは王家に対抗して、藤原氏が建設しようとした宮です。平城宮こそ藤原宮であるのです。

後にこの平城宮を中心に都作りが行われたのです。

では、本来の都、長屋王の都とはどういうものだったのでしょうか?
都建設途中で暗殺されましたが、どういう都を建設しようとしていたのでしょうか?

長屋王の邸宅は、香久山の宮(藤原宮)の真北の位置にあるでしょう。

この平城京の中心地は、この長屋王の邸宅であり、ここが宮であり都の中心地です。藤原氏はこの都の北西に部分に、藤原氏の宮を作ったのです。
地図を見てください、長屋王の邸宅跡(奈良そごう、イトーヨーカドー跡地)を中心に考えると、およその都の大きさは想像できますよね。

ウイッキベディア・・・
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。
大官大寺も、説では霊亀2年(716年)に平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となった。

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長屋王の邸宅というのが、本来の「奈良京」の宮です。この宮を中心に南北の距離は、北の平城宮(平城京跡地)の北西の角から、
南は、南西に位置する薬師寺まで。
東西の距離は、この薬師寺から南東に位置する大安寺までの範囲(中ツ道 )までが、長屋王が作ろうとしていた都だったのでは?

およそ、高市皇子の都(藤原京)を、そのまま上に移動したのが長屋王の奈良京である。

長屋王の宮から、発見された木簡には「北宮」との表記がありました。
これは、もちろん、高市皇子の宮(香久山の宮)から、北に位置するため「北宮」と呼ばれていたのです。
この「北宮」とは長屋王の宮のことを指します。
長屋王の邸宅は、香久山の宮(藤原京の藤原宮)の真北の位置します。


解かり易く言えば、南北は、東側は中ツ道、西側は南北に流れる秋篠川にそってある、今は県道9号線。
東西は、北は平城京跡地から中ツ道まで、南は、薬師寺と大安寺は含まれるだろうから、今の県道41号。
薬師寺からすこし南の奈良口から、中ツ道までではないだろうか?形的には、南は七条大路までかな? 

本来はこの長屋王邸宅、つまり王の宮ですが、ここが中心地だったのですが、長屋王崩御後に、藤原氏によって、
藤原の宮である、いまの平城京跡地を中心にして都づくりがされたわけです。

そして、・・・740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄される
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長屋王の祟りにより、この地を離れたと考えられますよね。伝染病です。
怨霊を恐れ、聖武天皇は、740年に恭仁京へ遷都。しかし、奈良に近いためでしょうか、わずか3年余りで難波宮に移ります。
その後、745年1月、紫香楽宮を新京にしようとしますが、どこに移ってもいろいろと問題があったようで、結局同年5月には、
再び平城京を都することになります。
この745年が、本来の平城京遷都年です。もとは、奈良京とよばれ長屋王の都でした。ですので、本来は平城宮は都の中心の位置になかったです。

このときに、今の平城京跡地を中心にした都づくりが行われたのです。ですので、大内裏に当たる部分が中心ではなく、北端に位置するのです。

平城宮を中心に位置するようにするために、中央に朱雀大路を作り、都を西側に伸ばしたのです。そこに西大寺を建設したわけです。
南側にも、正方形に近くするために七条大路から九条大路まで伸ばしている。 
北側には伸ばしたかったでしょうが、地形の問題がありました。北側は古墳と山があったので伸ばせなかったのでしょうか?
ですので、宮が、北端に位置する奇妙な都になったのです。

これは、平城京を都とすることになった、745年以降です。
それまでは、もちろん、大王である長屋王の都、「奈良京」だったのです。

長屋王崩御後は、藤原氏は都をさらに東方に伸ばしました。東側は高台になっていて、平城京を見渡せる位置に新たに東大寺を建設したのです。
西の西大寺、東の東大寺、仏教の力で、この奈良京にある怨霊を封じるためです。



1、2,3枚目の写真は、平城京の大極殿です。4枚目は、この大極殿すぐ横にある
法華寺です。5、6枚目は、奈良そごう、イトーヨーカドー跡地にある、長屋王跡地の説明図。残念ながら、跡地に建てられた
奈良そごう、そして次のイトーヨーカドーも閉店することになりました。長屋王の祟りともいわれています。
7枚目は、長屋王家出土の木簡。長屋王邸と確定する根拠になった木簡と、長屋親王宮と記された木簡です。


ウイッキベディア・・・法華寺
法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。
天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが
文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
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大極殿東側にある、法華寺は、本来は不比等の邸宅だったようです。
この「平城京」こそ、「藤原京」です。藤原氏の都です。

この藤原氏の宮である、平城宮は、奈良京の北西部分に位置していました。そして、ここにあったとされる大極殿は
聖武天皇時代以降に建て直されています。
平城宮第二次大極殿建設においては、全長100mクラスの前方後円墳が壊され、その上に大極殿が建設されています。
この古墳は、「神明野古墳」と呼ばれているそうです。古墳を壊して平気なのは、破壊したのは藤原であり、
祖先のお墓ではないからです。

まず都を作るには、中心の内裏、大極殿などの位置を決めてから都づくりをするはずです。
古墳のある場所に、王の住まいである宮を建てようとはしないはずです。いうまでもなく、古墳はお墓です。
最初に造られた、内裏、大極殿の横にはなんとお墓、古墳があったのです。
都の中心である、王の住む場所、内裏、大極殿は、お墓そばに造られていたことになります。
これ、ありえないでしょう。今も北部には複数の古墳が存在します。

平城宮が、本来の都の中心ではなかったことの証拠でもある。

万葉集 巻一(80)
あをによし寧楽の家には万代にわれも通はむ忘ると思ふな
巻三(328)
あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり

寧楽(奈良)の都と詠まれています。それが、何故に奈良京が、平城京ということになるのでしょうか?
おかしいですよね。平城を「なら」とよんでいたらしいといわれますが、本当なのでしょうか?
「那羅」、「寧楽」、「及楽」、そして「平城」などと表記されているとされますが、「平城」だけは納得できない。
長屋王が大王に即位していたことを消し去ったため、長屋王の都である奈良京も消し去られているのですが、
木簡や万葉集に本来の都の名が残っている。
藤原が殺害した人物が大王では都合が悪いため、歴史が改竄されている。こんなの簡単な推測でしょうに。



     
                         


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