「飛鳥。藤原の宮都とその関連資産群」を世界遺産に登録しようとしています。でもちょっと待って下さい。
藤原だけはダメです。登録されてから変更というのは難しいかもしれませんので・・・。
藤原宮に藤原京、おかしいと思わないのでしょうか?反対する学者先生はいないのでしょうか?
もう不思議としか言いようがない。
古代の王家を滅ぼしたのは藤原氏です。王家を滅ぼした憎き藤原。
だから何度もいいます。藤原だけは良くない。臣下の名を都の名に付けるべきではない。
この藤原の宮、地名から名付けられたともされますが、たまたま?それとも偶然?地名が藤原だった
とでもいうのでしょうか?宮というのは建物のことです、藤原の宮とは藤原氏の邸宅のことです。
平城京を藤原京と呼ぶのであれば異論はないですが、天武があらたに建設しようとした都、
新益京を藤原京と呼ぶのは良くない。
宮の名から採るのであれば「香久山京」がいいかな(^o^)丿
この「香久山京」は、天武の第一王子である、高市大王の宮であり都です。
それで、この平城宮に関してもおおきな疑問があります。ですので平城京について、もう少し書きます。
平城京の大極殿は再建されています。
今、平城宮跡に復元されている、大極殿は、最初に造られた第一次大極殿とされます。
これがおかしい。間違っています。
奈良京は、平城京とは異なる。これが理解できていない。(>_<)
続日本紀には興味深い記述があります。平城宮の謎を解く鍵のひとつです
問題記述とされますが、そうではありません。
持統は藤原氏の邸宅で天皇に即位したのです。新益京の藤原宮です。
同様に元明も藤原氏、不比等の邸宅で天皇に即位したのです。平城宮というのも、元は藤原氏の邸宅。
つまり藤原の宮であるわけです。これが理解できていないから謎解けないのです。
続日本紀・・・
慶雲元年(704年)十一月に「初めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟
に布賜ふこと差有り」という記述がです。
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初めて藤原宮の地を定む ・・・藤原京遷都から十年経てるわけですから、不可解で問題記事だとされています。
ですが、そうではありません。何度も述べてきましたが、宮というのは本来は建物のことを表します。
この記述の藤原宮とは、もちろん持統が即位したという藤原京の藤原宮のことではありません。
奈良京においての藤原氏の宮ということです。持統が即位したという、藤原京においての藤原宮(藤原氏の邸宅)
ではなく、704年に宮の地を定め、後に、元明が710年に即位した奈良京においての藤原氏の宮のことです。
古墳を壊して、不比等の邸宅横に建てた、内裏や大極殿のことです。だから初めての「藤原の宮」なのです。
それで、大極殿再建の謎ですが・・・この初めての「藤原の宮」というのが、第二次大極殿のほうです。
第一次大極殿と第二次大極殿の治定が逆です(#^.^#)
じゃないとおかしい、疑問点が複数あります。
この続日本紀にある、藤原宮とは名称どおりに藤原氏の宮、つまり平城宮のことです。
ですので、なんら問題のある記述ではないのです。
この平城宮は、平城京の中枢にあたる宮殿とされます。この平城の宮の大極殿はは何故か建て直されています。
ふたつの大極殿が存在します。今、跡地に復元されている大極殿は、最初に造られた大極殿であるとされます。
しかし、これはありえません。間違っています。
もとの大極殿の東側に、新たに大極殿が建設されたとされます。
どうして、宮の中心である大極殿が、ふたつも存在していたのか?
おかしいですよね。何故に平城宮は建て直されたのか?
この謎について考えてみます。
本来は長屋王の奈良京が、平城京に造りかえられたのです。
この新たに建設されたとする、平城宮第二次大極殿は、、全長100mクラスの前方後円墳、「神明野古墳」が壊され、
その上にあらたに大極殿が建設されたとされます。
内裏とは天皇の住まいのことです。大極殿は、儀式などを行うところであり、ともに都の中心となる重要な建物です。
都を造ろうとするときは、まず、これら内裏や、大極殿の位置を決めてから都造りの計画をするはずです。
何度も云いますが、墓域に宮を建設しようとはしないはずです。お墓の上に建てられているのですよ。
これは、ありえません。
おかしいとは誰も思わないのでしょうか?
最初に建てられたとする、第一次大極殿は元明天皇が建てた大極殿であり、次の「第二次大極殿」は聖武天皇が建てた
大極殿とされます。
今、平城宮の跡地に再建されている大極殿、これは元明天皇が建てた最初の大極殿とされます。
これが、第一次大極殿とされています。聖武天皇によって建て直されたものは、東側に建てられたもので、
これが第二次大極殿であるとされます。
これが間違っています。私は逆だと思うのですが・・・???
東側の、第二次大極殿というのが、最初に造られた大極殿であり、この時内裏、大極殿が、
古墳を壊して造られたのです。元明はここで即位したのです。
疑問点です・・・
*大極殿はふたつ存在していたことになります。どうして異なる場所に大極殿は建て直されたのか?
*古墳の上にに内裏や大極殿を建てる必要があったのか?いまも北部には古墳が存在している。
「佐紀盾列古墳群」です。ここは既に墓域であったわけです。
*都の中心である、内裏や大極殿の位置を決めてから宮づくり、都造りを計画するはずです。
何故に古墳のある場所に宮を建設したのか?
*平城宮第二次大極殿建設の時、つまり、745年に聖武天皇がふたたび宮を建設しようとしたとき、
壊されてた古墳の上に、大極殿をたてたとされます。最初の大極殿が移築されているのなら、
何故に元の位置に再建されずに古墳のあった場所に造ったのか?
*万葉集 巻三(328)
あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています。
この奈良京と平城京は異なるののでは?
奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などと表記されていますが、
「平城」だけは「なら」とは読めない。
本来は、長屋王の王都でした、後に、つまり、745年に聖武天皇により平城京は造られたのです。
この時平城宮を中心にして都造りが行われたのです。
元明天皇は持統天皇と同様に、藤原不比等の邸宅傍に宮を造り、そこで天皇に即位したのです。
何度も云いますが、大王ではありません。
この藤原不比等の邸宅は、平城の宮の、東側に隣接して建てられています。
いまの法華寺であるとされます。そう不比等の住居の傍に宮は造られたのです。
つまり、古墳を壊して、建てられたとされる東側の大極殿、つまり、「第二次大極殿」というのが、
最初の大極殿であり、元明天皇が建てた・・・というより藤原氏が建てた大極殿、藤原宮です。
ここで元明天皇は即位したのです。
もとは藤原不比等の住居の傍の大型古墳を壊して藤原氏の宮を造ったのです。
この地を作り替えて、内裏や大極殿を造り、元明天皇の住まいとしていたのです。後の元正や聖武の天皇の
即位の儀式が行われたのはこの第二次大極殿とされる場所です。
聖武天皇は、平城京を離れ、恭仁京や難波京へ遷都したとされます。
そして、745年(天平17年)に、再び平城京に遷都したとされます。
しかしそうではありません。
再びではなく、745年に初めて平城京に遷都したのです。
それまでは、奈良京でした。奈良京と平城京は異なる。
後に、つまり745年に建て替えられたのは、第一次大極殿とされている方です。でなければ、天皇の住まいの
内裏や大極殿は、大きな古墳のある墓域に存在していたことになります。
おかしいですよねこれ、ありえないでしょう。もとは都の中心地はなかった証拠です。
今に残る平城京の都造りは、710年に行われたものではなく、745年に行われたものです。
平城京遷都は、745年です。それまでは、長屋王の都である。奈良京でした。
平城宮はこの長屋王の奈良京の北西部にあたる、本来は藤原氏関係の建物のことです。
和銅二年(709)の記事・・・ 元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」
という勅令を出したとされます。元明天皇在位は、707年から715年である。壊した古墳とは、この
「神明野古墳」そして「市庭古墳」であり、第二次大極殿はこの「神明野古墳」の上につくられているとされます。
つまり、藤原不比等邸宅の傍の、この第二次大極殿というのが本来の元明天皇の第一次大極殿です。
高市皇子の都(香久山京)ー長屋王の都(奈良京)ー聖武天皇(平城京)です。
後に聖武天皇に、西側に新たに大極殿を建て、唐の長安の都をモデルに平城京の都造りが始まったのです。
後に建てられたのは、最初の、つまり、「第一次大極殿」とされている方です。都を西側に伸ばしたのです。
西側に大極殿を建設したもう一つの大きな理由は、下ツ道に繋げたのです。
下ツ道を宮の中央になるように大極殿を造り、さらに朱雀大路を造って都造りがなされたのです。
平城宮は、本来の宮ではありませんでした。ですので南部に伸びる朱雀大路もこの時に造られたのです。
下ツ道に繋げたのです。
いま復元されている朱雀門は元は大伴門と呼ばれていて、後に朱雀門の名称に変更されたとされますが、
そうではない。朱雀門と大伴門は異なる。大伴門は奈良宮の門であり、朱雀門は平城宮の門である。
長屋王の都(奈良京)は、高市皇子の都(藤原京)と同様の造りであり、中心である宮を囲む形の都造り
がなされている。
本来は、下ツ道と中ツ道の中央に長屋王の宮が位置する形である。
この長屋王の都、奈良京を、745年に長安の都を模して平城京に造りかえられたのです。
長屋王の宮、奈良京をを消し去るためでもあります。
平城京遷都は、745年です。710年ではありません。
それまでは、長屋王の寧楽の京でした。「平城京」は、「奈良京」ではない。
少しまとめてみます。
*まず、平城宮が、都の中心じゃなかったと考えられる大きな証拠。
平城宮の大極殿は建て直されています。全長100mクラスの前方後円墳「神明野古墳」が壊され、その上に
大極殿が建設されています。古墳の上、つまりお墓の上に内裏や大極殿が建設されています。
これ、ありえません。おかしいでしょうに。
*都を作るには、王の住まいである大内裏、大極殿などの位置を決めてから都づくりをするはずです。
古墳のある場所に、王の住まいである宮を建てようとはしないはずです。
都の中心である、王の住む場所、平城宮の内裏、大極殿は、なんとお墓、古墳の上に建てられているのです。
これは ありえません。
*今も北部には古墳が多数存在します。「佐紀盾列古墳群」です。これらの古墳の一部を破壊して
内裏、大極殿はを建設している。
これは、平城宮は本来の都の中心地ではなかったからです。証拠といってもいいです。
* 後に、そう王家を滅ぼしてから、この平城宮を中心にして、唐の長安にならって都作りがなされたのです。
本来の長屋王の都は、お父さんである高市皇子の都である。新益京と同様、内裏や大極殿などが中央に
くる都造りがなされていた。
*長屋王の、奈良京をけしさるため、同じ場所に平城京を作ったのです。
平城宮を中心にした都造りをおこなったのですが、そばにある古墳はこの時に壊されたのではなく
既に藤原氏によって壊されていた。壊したのは王家と関係ない藤原氏です。
*第一次大極殿とは、古墳を破壊して造った東側の大極殿であり、聖武天皇の造った 第二次大極殿とは、
今、平城京跡地に復元されている大極殿です。
この時に、藤原氏によって平城京の都造りがおこなわれたのです。
平城京遷都は745年です。それまでは奈良京でした。
*和銅二年(709)の記事・・・ 元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」
という勅令を出したとされます。元明天皇在位は、707年から715年です。
この壊した古墳とは、「神明野古墳」、そして、「市庭古墳」のことです。
平城京遷都、つまり、元明天皇が平城宮に移ったのは、710年とされています。
第二次大極殿はこの「神明野古墳」の上につくられているとされます。
つまり、間違っているというのがこのことからも判断できます。
この第二次大極殿というのが元明天皇の第一次大極殿です。
北に位置する内裏、この内裏は中央に位置するのではなく、東側です。この内裏は元明天皇が平城宮に
移った時の内裏であり、同様に古墳(市庭古墳)を壊して作られている。
*長屋王邸宅跡から出土した木簡により、高市皇子は大王に即位していたことがわかります。
そして、その王子である長屋王も大王でした。つまり、長屋王邸宅跡が本来の都、奈良京の中心地である。
「長屋親王」と書かれた木簡の出土は衝撃的だったともいわれますが、当たり前のことです。
「親王」のお父さんの高市皇子は、もちろん大王だったということです。それが、藤原氏によって変更されている。
*出土した木簡には「奈良京」との記述があった。本来は長屋王の都である奈良京である。
ウイッキベディア・・・
平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては
奈良京(寧楽京、ならのみやこ)と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の
造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。
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この平城は。「なら」とは読めない。長屋王の「奈良京」ー「平城京」であり、この「平城京」こそ、
藤原氏の都である。奈良京の跡地に新たに作られた都である。
平城宮の大極殿と大極殿回廊の一部を恭仁京へ移築したとされます。
朝集院などの建物も移築されている可能性もあるとされます。
平城京の第一次大極殿が、恭仁京に移築されたとするなら、平城京には大極殿がなかったはずです。
ですので、そこに建て直したらいいわけです。
なのに、何故に、第二次大極殿は、中心地、つまり、第一次大極殿から南の朱雀門までが宮の中心であるのに、
何故に第二次大極殿は、宮の中心を外して東側に建設したのでしょうか?
第一次大極殿跡地に建物がないのなら、そこ建てたらいいわけですよね。
ここが宮の中心であるわけです。それがどうして、古墳のあった場所、そして中央から外れる位置に
建て直さなければならないのか?
朱雀門は、平城宮の正門です。大極殿から朱雀門、その中心位置を外して何故に東側に再建する必要が
あったのでしょうか?何らかの理由があったとでもいうのでしょうか?おかしいでしょうに。
こんなの説明できるのなら説明してほしいものです。説明は無理でしょうに。
間違っています。
いま復元されている第一次大極殿というのが、聖武天皇の第二次大極殿であり、平城京遷都は745年です。
平城京は、ほんらいは長屋王の奈良京を造りかえたものである。これがわからない限り謎は解けません。
写真の平城宮跡地に復元されている大極殿は、平城遷都1300年の平成22年に完成したものです。
この大極殿こそ、聖武天皇が建てた第二次大極殿です。
写真は、平城宮跡ガイドというパンフレットです。
最後に、第一次大極殿と第二次大極殿の治定は逆であり。今、平城宮跡地に復元されている大極殿は、
後に建てられたものであるという決定的証拠?・・・かどうかはわかりませんが、恭仁京跡地が調査され
新たな発見がありました。
写真の、平城京跡ガイドの写真を見てください。
聖武天皇は740年、平城京から恭仁京へ遷都しました。
この恭仁京の大極殿は、平城宮から移築されたものともされますが、移築したのはこの第二次大極殿と
されている方ではないのだろうか?
恭仁京の大極殿は、平城宮の第二次大極殿と同様の回廊と一体になった大極殿であると判明しました。
第二次大極殿の、北側に接して内裏があります。この大極殿と内裏は同時期に造られたものと考えられます。
この内裏が元明天皇の内裏だとすると、第一次大極殿の位置がおかしい。大極殿は南になければおかしい。
第一次大極殿の築地回廊というのは、は第二次大極殿の回廊とは異なるのでは?
恭仁京跡地で新たに「大極殿後殿」である可能性がある柱穴が見つかりました。
この大極殿後殿は、第二次大極殿と同様の回廊と一体になったものであるとされます。
つまり、この第二次大極殿というのが、最初の大極殿であり回廊とともに恭仁京に移築したものである。
大極殿後殿が存在したのは、北側に内裏があったからと推測されますよね。
内裏から大極殿へのいわば通用門です。
第一次大極殿の北側には内裏がなく、したがって大極殿後殿はあるはずもない。
恭仁京の回廊と一体になったものされる回廊は、第一次大極殿の築地回廊とは異なる。
平城宮跡ガイドの写真、第二次大極殿の四角い黄色の部分が二つあるでしょう。上が大極殿後殿で下が大極殿です。
この大極殿後殿と回廊が一体となって大極殿を囲んでいる形になっている。
いま復元されている大極殿が元明天皇の第一次大極殿とするのなら、大極殿に接して北に内裏があり、
第二次大極殿と同様の大極殿後殿と回廊がなければおかしい。
写真のように、東側の第二次大極殿は、北から南に、内裏、大極殿、朝集堂院、朝集殿院が並ぶ形であり、
これは恭仁京と同様であると考えられる。つまり、恭仁京に移築されたのは、この第二次大極殿の方であり、
最初に造られた元明天皇の宮である。
そして、高市皇子の「香久山宮」、長屋王の「奈良宮」も同様の配置、北から南に、内裏、大極殿、
朝集堂院が並ぶ形の宮である。この配置が本来の宮の形である。第一次大極殿というのが最初に建てられた
大極殿だとすると、内裏は東側にあることになりおかしい。
東西に並ぶ形は、本来の宮の形ではない。ありえません。これら内裏、大極殿、朝集堂院、朝集殿院は
一体のものであり、同時期に造られたものであり、これが藤原宮であり、平城宮である。
新たな計画で都造りを行ったため、大極殿を造る必要があったわけです。再建されたのは、いうまでもなく
平城宮には大極殿がなかったからです。
平城京遷都は745年です。それまでは長屋王の「奈良京」でした。
この新たに建設した大極殿を中心に、唐の長安を参考に都造りがされたのです。この大極殿を中心にするために、
朱雀大路を造り、下ツ道に繋げた・・・というか、下ツ道を中心にするために、大極殿を造ったのです。
本来は、藤原京と同様に下ツ道と中ツ道の中央に長屋王の宮が存在していたのですが、この745年に
下ツ道に合わせて大極殿を建設し都造りが行われたのです。新たに西側に大極殿を造った大きな理由の一つです。
平城宮跡ガイドの写真の、平城宮は四角い形ではなく南東部分が欠けた形になっているでしょう。
東院南門(建部門)は朱雀門の位置、つまり南は二条大路の位置までなければおかしい。
東に張り出し部があるのは、不比等の邸宅と繋げたためです。
この欠けた部分までが長屋王の宮の北西部分である。
本来は長屋王の邸宅跡とされるところが都の中心であり、長屋王の都(奈良京)は、高市皇子の都(藤原京)
と同様の造りであり、中心である宮を囲む形の都である。本来は、下ツ道と中ツ道の中央に長屋王の宮が
位置する形である。
つまり、長屋王邸宅跡の右側には、上から内裏、大極殿、朝堂院が存在していたはずです。
これが奈良京の中心である長屋王の「奈良宮」です。
邸宅跡から出土した木簡には「奈良」、「奈良宮」との記述のある木簡が多数出土しています。
木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」だそうです。
奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、・・・などの記述です。
これらの木簡の記述から、木簡が届いたこの場所こそが「奈良宮」であり奈良京の中心であることがわかります。
木簡からの推測では、長屋王の邸宅跡ではなく、奈良宮の務所などであるわけです。
これは、奈良宮の西側にあたり、行政の実務をおこなう官庁があったところです。
高市皇子の香久山宮(藤原宮)でいう「西方官衙」といわれる場所です。
つまり、本来の長屋王の宮である「奈良宮」の内裏、大極殿、朝堂院は、いま邸宅跡とされている
この「務所」などが存在する西方官衙の右側にあるはずです。
これらの木簡の記述から、この場所が、「奈良宮」であり都の中心であるという決定的な証拠です(^o^)丿
写真は、平城宮跡地にのこる大極殿あとです。写真の部分が大極殿北側にのこる、大極殿後殿跡です。
何故に北側にあるのかというのは、もちろん、内裏が北側にあったからです。
内裏から、大極殿へのいわば通用門です。
つまり、北側の内裏と、この大極殿は同じ時期に建てられたものである。
最初の建てられたのはこの大極殿であり、これが藤原宮のことです。
後に恭仁京に移築されたため、あらたに西側に大極殿を建設したのです。
西側に伸ばしたもう一つの理由が、下ツ道に合わせたのです。この下ツ道は、この平城京が作られた時に、
造られた道ではありません。
すでに存在していた道です。この道に合わせて新たに都造りをおこなったのです。
大極殿ー朱雀門ー羅城門、朱雀大路を下ツ道に繋げたのです。。
平城京遷都は、710年ではなく745年です。それまでは、長屋王の奈良京です。
平城京は、藤原氏の宮であり、こちらこそ本来は藤原宮といってもよいわけです。