推古天皇15年(本当は押坂彦人大王15年)である607年に聖徳太子(押坂彦人大王)は、小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送っています。
隋書の「東夷傳俀國傳」に記述があります。有名な「日出處天子致書日没處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)の記載があった国書です。
この「日出處天子」とは大王だった聖徳太子ことであり、押坂彦人大王のことです。本来、大王と天皇は異なります。これが解らない限り古代の歴史は謎解けません。
この国書を見て隋の煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたと記述されています。
聖徳太子の事跡を語る上では外せないエピソードです。
強大な統一王朝である隋に対して、対等な立場での外交を望んだと云われますが、少々挑戦的とも思われる、・・・いやこれは喧嘩を売っているような国書といえるように思います。
聖徳太子の十七条憲法の第一条冒頭において「和をもって貴しとなす」という文をかかげている聖徳太子たろうものが、どうしてこのような挑戦的な国書を持たせて隋に遣使したのだろうか?何故にこの年に遣使したのだろうか?
今回はこの遣隋使についてです。この時代もやはり朝鮮半島情勢が関わることになるように思います。
以下はこの国際情勢を考慮しての推測になります。
実はこの607年の遣隋使は、第二回遣隋使であり、最初の遣隋使は、日本書紀に記載がなく隋書にあるのみです。もちろん隋書の方が信頼でき、事実であると思われます。日本書紀は信用できません。
それが、開口二十年(600年)の遣使であり、煬帝の前の隋の初代皇帝である文皇帝の時代です。およそ120年ぶりの遣使になります。
隋が建国したからでの遣使ではなく、この年に遣使を行ったのはやはり何らかの理由があるわけです。
隋という巨大な統一王朝成立することになると朝鮮半島に進出を企て、やがてそれが倭国にも影響を受けることになります。
この時期も朝鮮半島情勢が倭国に大きく関わる。
高句麗と倭国は同盟関係にあったのです。
この600年の突然ともいえる遣使は、高句麗の要望により、悪化していた隋と高句麗の仲を取り持つための遣使であったろうとも推測もできますが・・・これはそうではなく隋と敵対する行動をしていたからである。
朝鮮半島情勢に倭国が関わっていたからである。
この時代、倭国と高句麗は同盟関係にあっただろうと思われます。国が滅ぶ緊急事態において高句麗は、倭国に援助を要請するために貢物を送っている。
いわば倭国の属国になるという決断を下しているともいえます。
隣同士の国は仲が悪くなります。海を隔てた倭国は、これら朝鮮半島の三国にとっては頼りになる存在だとも言えます。
倭国、高句麗の同盟関係が成立している。高句麗を助けるべく?新羅遠征を行っている。高句麗征服を画策している隋にとっては見過ごせない事実です。
『隋書』東夷伝倭国条
「開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕」
600年の遣使の記事です。隋書によると、倭国の王はおおきみと呼称され、男の王であり后もいるとの記述です。この記述に対応するのが、607年の遣使の記述です。
まず、言いたいところは、本来、大王とはこの時の王である推古天皇でなければならないのです。
何度も記述しているところですが、天皇と大王は異なる。国書を送っているのは本来の王である大王であるということです。
推古天皇は、天皇ですが倭国のトップである王ではないということです。
日本書紀の改竄箇所です。「天皇」の呼称は本来は蘇我馬子によって作られた蘇我の王の呼称です。
日本書紀がこの年の遣使を消し去った理由のように思います。
何故に開口二十年(600年)の遣使がなされたのかというところから考えてみます。
卑弥呼が魏に朝貢した時、後の時代に唐が朝鮮半島の内乱に干渉した時と同様の理由である。大陸において巨大な統一王朝が、朝鮮半島に進出することに関係する。
隋が建国した時、高句麗、百済、新羅は朝貢し、冊封体制に入っていました。しかしこの時、隋という巨大な統一王朝が朝鮮半島を征服する行動を開始した影響が倭国に及んでいる。
607年の遣使は隋が朝鮮征服を企て高句麗と戦乱の中にあることが関係する。600年の遣使も同様です。598年、文帝の時代に、高句麗遠征を行っています。
煬帝は高句麗を征服しようと計画していました。
しかしこの598年の隋による高句麗遠征は失敗に終わっています。
隋の文帝の時代です。30万の大軍を派遣しましたが撤退しています。
ウイッキペディア・・・
598年、高句麗の嬰陽王が遼西を攻撃した。隋の文帝は、30万の大軍で陸海両面で高句麗に侵攻したが、周羅睺が率いる海軍は暴風に遭い撤退した。陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。
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隋による第一次国利遠征は失敗に終わっています。しかし当然近いうちにふたたび攻めてくるだろうという危機感を高句麗は持っていただろうと考えられます。
高句麗はなかなかの強敵でした。
じゃー隋とすればどうしたらいいのでしょうか?それは高句麗と敵対していた国を利用すればいいわけです。遠交近攻という戦法です。
これ誰にでも想像できる戦法といってもいいわけであり、戦争においての常套手段でもあります。
この時代、朝鮮半島には主に高句麗、百済、新羅の三国なのですが、中でも高句麗はもともと領土が大きく三国中では大きな存在でした。
百済や新羅は常に高句麗による圧迫を受け敵対していました。もともと国境を接するこの三国は仲が良くなかったわけです。
隋の高句麗遠征は、この百済や新羅の訴えを聞いての遠征だともされます。
隋とすれば、高句麗と敵対していた百済、新羅と同盟関係(支配下に置き)を結び、挟み撃ちにすれば高句麗攻略は容易です。
で、この戦法はこの時代でも常套手段ですので、当然ながら緊急事態下の高句麗も同様にこの手段を用いることを考えますよね。しかし隣国の百済、新羅とは仲が悪く同盟関係を結べません。
そう、倭国しかありませんよね。高句麗は倭国と同盟関係を結ぼうとするわけです。百済、新羅に頼ることができない、窮地の高句麗は倭国を頼って友好関係を結ぼうとしたのです。この時代、倭国は相当大きな力を持つ国に成長していました。
広開土王碑にあるように、以前には倭国と高句麗は敵対していました。しかしこの時代には友好関係にありました。
隋とすれば高句麗と倭国が手を結べば厄介なことになります。どちらも倭国を味方に付けたいわけです。
実に120年ぶりの遣使である600年の遣隋使は、隋から朝貢に来るようにとの国書が届いたからの遣使である。
それは、どうも倭国と高句麗、そして百済は手を結び、倭国は新羅に軍を派遣するという行動を起こしているからです。新羅遠征の真意を問いただすことも目的である。
そう、倭国と高句麗、百済との同盟関係は成立しているともいえます。
倭国は新羅を征服しようとするような軍事行動をおこしている。
隋は大国であり、古代から中国の近隣諸国はその冊封体制にありました。隋とすれば近隣諸国とは同盟関係というよりは、隋の支配下に入るようにとのいわば強制的な要求だと思われます。これは、同盟国という対等な立場でのものではありません。
対して高句麗は倭国に協力を仰ぐことに関しては、朝貢的な外交を行い、金銭的な面を含め多くの貢物ともいえる協力をすることになります。倭国の属国になるような対応で接している。
倭国にすれば、威圧的なこの隋からの要求に比べ高句麗に味方する方に傾くのは当然のことのように思われます。
600年の遣隋使に関しても倭国と高句麗が同盟関係を結んでいるのではということに関しての危機感からの、隋から倭国に対する国書を送られたからの遣使であると推測しています。それは新羅に対して軍事的な行動を起こしているからである。
この年、日本書紀によると朝鮮半島に出兵し新羅と戦っています。事実かどうかは疑わしい記事ではあるともされますが、これは事実のように思われます。
562年に任那日本府が新羅によって滅ばされたとされます。任那日本府の回復するための軍事行動が推古朝に三度も計画されています。
一度目は新羅まで侵攻し、新羅は降伏したとされます。
日本書紀によると、新羅に出兵した理由は任那を助けるためとの記述がされていますが、高句麗にとって隋との戦乱の中、南から新羅によって攻められると対応できません。高句麗は隋に攻められる前に南の新羅をたたきたいわけです。それはこの時代には新羅も相当の国力を持つ国に成長していました。
これは、高句麗の要望により倭国による新羅を牽制するための出兵であるといえます。
つまり倭国、高句麗は同盟関係にありました。そして高句麗と百済も接近していました。もともと倭国と百済は友好関係にありました。
つまり倭国、高句麗、百済の三国同盟が成立している。
600年の遣使は、この倭国の軍事遠征に関しての委細を問いただすための隋からの国書が届いたからの遣使である。
日本書記 推古八年(600年)
八年春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那。是歲、命境部臣爲大將軍、以穗積臣爲副將軍並闕名、則將萬餘衆爲任那擊新羅。於是、直指新羅、以泛海往之、乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之舉白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服。時、將軍共議曰、新羅知罪服之、强擊不可。則奏上。爰、天皇更遣難波吉師神於新羅、復遣難波吉士木蓮子於任那、並檢校事狀。
爰、新羅・任那二國遣使、貢調。仍奏表之曰「天上有神、地有天皇。除是二神、何亦有畏乎。自今以後、不有相攻。且不乾般柁、毎歲必朝。」則遣使、以召還將軍。將軍等至自新羅。卽新羅亦侵任那。
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600年の春2月とされます。新羅と任那が戦になった時に、任那に援軍を送ったという記述です。いまさらともいえる任那の問題を持ち出してはいますが、本来は中国(隋)と敵対していた行動をとったとは記述できないのでこのような書記の記述になっている。
日本書紀編纂(改竄)時には、唐の冊封体制のもとにあったからである。これは書記の記述において、隋とすべきところを「大唐」と記述しているところからも推測できるように思います。
当然ながら隋は、この倭国による新羅への軍事行動は、隋に対する敵対行為とも思われ倭国と高句麗、百済は同盟関係にあるのではとの推測をしたのだろうと思われます。
おそらくこの新羅への遠征の事実を憂慮しての、隋からの国書が届いたからの遣使である。隋書にはこういう内容は記述されていませんが、遣使の隋側の真の目的は倭国を冊封体制に入れることを目的としたものであるということは間違いないように思います。
本来は朝鮮半島内の、新羅と百済でいいわけですが、倭国も遣使を行っているのは、高句麗と同盟関係にあるのでは?という行動を起こしたからである。
これら近隣諸国が隋の支配下にあれば高句麗制圧も容易です。
隋はもちろん倭国、百済を味方に付けたいわけです。
これも以前に書きましたが遠交近攻という戦略です。隋の煬帝は、高句麗を攻めるために、南部に位置しもともと仲の悪かった新羅と同盟関係を結び、挟み撃ちにすれば攻略は容易になります。
これ誰もが容易に思いつく戦略ではあるのですが、高句麗も同様の戦略を用いている。
つまり、倭国と同盟関係を結び、新羅を牽制している。
さらに倭国、高句麗連合は百済を同盟関係に取り込もうと行動を起こしている。もともと百済とは友好関係にありました。
日本書紀 推古九年・・・
三月甲申朔戊子、遣大伴連囓于高麗、遺坂本臣糠手于百濟、以詔之曰、急救任那。
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高句麗には大伴連囓、百済には坂本臣糠手を使わしたのは、任那を救うためであるということですが、これはそうではなく、新羅攻略のための派遣である。倭国、高句麗、百済の三国同盟で、新羅遠征を計画していたのです。
倭国による新羅征服計画でもあるようにも思う。
これは大国隋を無視した形の行動でもあり、書記を改竄した時には、唐の冊封体制下にあり、隋と敵対関係にあったような事実を記述できないため、配慮して任那救出を理由に挙げている。
ウイッキペディア・・・
推古天皇10年(602年)2月、任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画の際、征新羅大将軍として軍二万五千を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山:桑山塔ノ尾古墳参照)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。
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そして、翌年新羅遠征計画を実行しようとします。
この602年の遠征計画は中止となりましたが、三国同盟が締結されている。
三国同盟を結成したことにより、翌年に新羅遠征する計画があったのです。
ウイッキペディア・・・
推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が征討将軍に任命される[1]。推古11年(603年)7月3日、難波より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の舎人皇女が明石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた[1]。
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この602年、そして603年の遠征計画は中止となりましたが、三国同盟が締結されている。おそらくこれらの計画中止は、隋による横槍であるように思います???
三国同盟を結成したことにより、翌年に新羅遠征する計画があったのです。
倭国は新羅を征服しようとする計画があったのです。おそらくこれは、高句麗による要望でもあった計画である。敵対するであろう新羅を倭国の力で抑え込もうとしていたわけです。
これら倭国の協力に対し高句麗は多額の貢物をおこなっています。
隋の煬帝は604年に皇帝に即位します。国内を安定させ、十分な兵力を準備し、他国(倭国、百済、新羅)も高句麗に味方することないとの確信を持って、高句麗に大軍を送ることになります。
607年の遣使についても倭国、高句麗、百済の三国同盟を牽制するための隋からの国書が届いたからの遣使である。そして高句麗は突厥とも手を結ぼうとしていました。
これらの状況に危機感を感じて煬帝はそれぞれの国に国書を送っている。倭国の遣使もこの国書に応じての遣使である。
隋とすれば冊封体制下にあると思われていた、これら国々が同盟を結んだことの関しての憂慮からの国書を送っている。
それは、煬帝(604年即位)の時代になり、再び高句麗遠征を計画しようとしていたからである。当然冊封体制の下にあった考えていた倭国と百済がどうも高句麗と関係を結んでいたからである。
607年の遣使を送った時には、倭国、高句麗、百済連合に対し隋、新羅連合の対立の構図になっている。高句麗と敵対していた百済や倭国はこの時代には接近し友好関係にありました。高句麗が隋によって滅ぼされると、次は百済や新羅に矛先が向けられるのは容易に予測できます。そして最後は倭国です。
この607年の遣使は、この情勢を察した煬帝からの命令ともいえる手紙に応じる遣使である。それは倭国、百済は高句麗側に付く行動を起こしていたからです。
記録にはありませんが、この時も冊封体制に入るようにとの命令の書が届いたからの遣使である。つまり朝貢に来いということです。
これは同じ年に百済も遣使していることからの推測です。百済にも同様の書が届いたからの遣使である。
隋にとっては、周辺国の中でも特に倭国は高句麗との関係を結ばせてはいけない存在でした。この時代には倭国は朝鮮半島の国々も認める大きな国家に成長していました。
隋書倭国伝開皇二十年・・・新羅、百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし並びにこれを敬仰し恒に通史往来す。
隋は高句麗との争いに倭国、百済が加わわらないように、そしてそれまでの中国の近隣諸国がそうだったように、煬帝は隋の支配下になるようにとの、いわば脅かしの国書をこの年に送っている。607年の遣使はこの国書に応じての遣使である。
ウイッキペディア・・・
冊封(さくほう、さっぽう)又册封とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。
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「日出處天子致書日没處天子無恙云云」は、冊封体制に入るようにとの煬帝からの国書に対しての、やんわり?とした拒否の手紙である。
この文章以降は記述されていませんが、問題はこの「天子」です。これは対等の立場での国書であるともいえます。
ウイッキペディアにあるように、・・・冊封とは「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係ということです。
隋書にある607年の聖徳太子による遣使が持参した国書は、煬帝がこの脅かしともいえる国書において自身を「天子」と自称した事に対する返答の国書であるように思います。
つまり、聖徳太子自身も「天子」と表現していることからも冊封体制に入ることに関しては拒否したという内容です。ふたりの「天子」とは冊封体制においてはありえないということです。隋と倭国は対等だという内容です。
煬帝が激怒したのは、この文章・・「日出處天子致書日没處天子無恙云云」で、冊封体制に入ることを拒否したということがわかるからです。
そしてこの国書は聖徳太子が作文したのではなく、聖徳太子の仏教の師匠である、高句麗の僧である慧慈の作った文章であるように思う。
僧であるので、仏教の師であるのですが、本来の目的は倭国を高句麗側に付くように密命を受けている。
隋による高句麗への遠征が失敗に終わった後に、高句麗に帰っている。
この国書、つまり倭国は高句麗とは友好関係にあるため、隋側には付かないということに煬帝は激怒したということであると推測しています。
そして、使者は、こういったとされます・・・
大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法
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隋書には、倭王は朝貢にきたと記述されていますが、そうではないことがこの使者の言葉から分かります。
使者曰く・・・海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。
これは、朝貢に来たのではなく、仏法を学ぶために来たということを云っています。冊封体制には入らないとのことであるとも受け取れます。
朝貢とは貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品を渡すということです。
菩薩のような皇帝、これは、朝貢に来いとの命令文にたいする、うまい逃げ口上だと思います。
つまり、隋の臣下として従属することに関しては拒否しているという内容にになっている。
これに激怒した煬帝は、いまにも大軍を持って倭国に攻め込むといったような脅迫的な内容の国書を送ったのだと思います。
この時の使者であるとされる小野妹子は、この煬帝の返書を紛失するという事件をおこします。不思議な、そしてありえない話です。
小野妹子は、608年の4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国したが、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告しました。
これは、日本書紀にはあるが隋書にはありません。事実ではないからです。
日本書紀の記述では遣隋使は607年、翌年の608年、そして614年のの三度の遣使とされます。
隋書によると、倭国からの遣使は、開皇二十年の600年と、煬帝の時代である、大業三年(607年)、翌年の608年、そして、大業六年(610年)の遣使の四度ということになります。
隋書や日本書紀には607年の秋七月、そして翌年の608年の夏四月の遣使との記述があるのですが、続けての遣使であるので疑問がなげかけられています。
小野妹子は607年7月に隋にわたり、翌年608年の4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国したというのが定説になっています。しかしこれはそうではないように思う。
この時代の情勢を考えれば、悠長に長期間滞在することなどありえない。
隋書や日本書紀の記述どおり、小野妹子は607年、そして翌年の608年の二度にわたり続けて遣使している。それは緊急の国書であったからです。
日本書紀 推古天皇
十五年・・・
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」
秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京・・・時、使主裴世淸、親持書兩度再拜、言上使旨而立之。
其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘德化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、遠脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世淸等、稍宣往意、幷送物如別」時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。
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まず、「皇帝問倭皇」の記述に関してですが、隋書では倭王と記述されています。この時代の本来の大王の呼称を消し去って天皇である推古が王であると改竄したため矛盾したものになっている。日本書紀の改竄時に、「王」の文字を「皇」の文字に変更されたものです。
推古天皇は、天皇ですが倭国のトップである王ではないということです。
日本書紀の改竄箇所です。「天皇」の呼称は本来は蘇我馬子によって作られた蘇我の王の呼称です。
日本書紀が600年の遣使を消し去った理由のように思います。
「倭皇」、この時代の王を推古天皇に変更していますからね。隋書倭国伝では「倭王」です。日本書紀の改竄箇所が他国の文献により暴かれている。本来の王は「天皇」ではなく「大王」であるということです。
そして、これら文章からわかるように、自分自身を天子と表現しているように、聖徳太子は大王に即位していたということです。推古は天皇ですが、他に大王が存在していたということです。
この大王とは、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、日十大王こと押坂彦人大王のことです。
推古天皇は、天皇ですが倭国のトップである王ではないということです。
日本書紀の改竄箇所です。天皇の呼称は本来は蘇我の王の呼称です。
使者の小野妹子による、国書紛失事件の不思議な話からも推測できる。
ここは既に指摘のあるところですが、・・・。
日本書紀によると、608年の4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国したが、隋から帰国するときに、経由地である百済において国書を奪われたということが記述されています。
しかし、隋の使者である裴世清が同行しているわけですから、国書はこの裴世清が持参しているはずです。八月には国書を上程していると日本書紀にも記述されています。
これ日本書紀自体矛盾する記述ですよね(*^▽^*)
これ単純に文章改竄時のミスだと思のですが、・・・
推古天皇は、倭国の王ではありません。本来の王は、隋書にあるように大王である、聖徳太子こと押坂彦人大王です。ですので本来の日本書紀には、推古天皇条なんてありませんでした。改竄時に新たに推古天皇条を作成したのです。
日本書紀 推古天皇条
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐・・・亦毎國置屯倉
の記事の後に、
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上・・・
この文章を入れなければ行けないのに、十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐・・・の文章の後に挿入したので矛盾するものになっている。二度遣使していることによる間違いである。紛失したとされる国書は十五年秋七月(607年)の遣使時のものである。
国書を失ったという事件は、この607年の国書である。しかしこの事件は作り話である。あたりまえだけど、608年の国書は、裴世清が持参している。隋書や日本書紀の記述通り、607年、そして608年の二度にわたり、隋に遣使している。
続けての遣使は、607年の国書が脅迫的な国書だからです。百済が国書を奪ったというのも信じがたい話ですが、国書の内容を記述できないため、紛失したということになっている。
それは、高句麗と同盟関係にあり隋と敵対しようする行動を起こしていたからである。
隋の冊封体制にはいるように、重ねて要求する高圧的な内容の国書であると推測できます。
さらに、戦争下になれば隋に援軍を送り、高句麗に出兵するようにとの内容が記述されている国書であるように思えるのです。隋側に付けということです。
これは、百済も、607年に二度遣使を行っていることからも推測できる。百済も同様のことであるように思う。倭国、高句麗、百済の三国同盟の絆を崩そうとしたのです。
倭国に対して、いまにも軍事行動を起こすという内容の国書をみて驚いた倭国は、続けての遣使を行ったのです。百済も同様です。
ただし高句麗とは友好関係にあり、出兵に関しては難しいとの国書を持っての遣使であるように思います。
それで、煬帝は使者である裴世清を派遣したのだと思います。
これは、隋書の煬帝紀には大業四年(608)三月に「百済、倭、赤土、迦邏舎国、並びて使を遣し、方物を貢ぐ。」
大業六年(610)正月に「倭国は使を遣し、方物を貢ぐ」と記されている。
つまり、隋の冊封体制にはいることを受け入れたということである。
ただし、煬帝はこれからおこるであろう隋と高句麗との戦いにおいては、倭国は高句麗側としては参戦しないとのことで妥協している。
610年、倭国が隋の冊封体制に入ったことにより、612年の正月、隋の煬帝は、なんと113万もの大軍で高句麗に侵攻します。
隋による高句麗遠征は、598年から614年まで4回にわたって行われます。
隋による最初の高句麗遠征は598年、そして第二次高句麗遠征は612年です。
この複雑な国際情勢の中、倭国の外交政策も大きく変わることになる。