日本書紀・古事記の謎は、この聖徳太子や天智天皇、天武天皇の謎が大きく関わります。
この聖徳太子一族滅亡とされる悲劇もまた、多くの謎があり、不思議な話とされます。この悲劇は、実際の史実を語っているのか?あるいは、脚色された作り話なのだろうか?
今回は彼らの改竄されたと思われる系譜から、山背大兄王暗殺の謎を考えてみます。
蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子である山背大兄王 を暗殺し、上宮王家一族をは滅んだとされます。たしかに、蘇我氏は王家と対立していたのは事実だと思います。しかし、今回は、この事件の真相はそうではないという可能性について考えてみます。
この暗殺についても、謎がたくさんあるとされます。聖徳太子の王子とされる山背大兄王暗殺の事件は、およそ乙巳の変の1年半前の643年12月の事件です。
聖徳太子一族滅亡とされる悲劇もまた、この乙巳の変とおなじ理由による可能性もあるのではないのだろうか?百済は642年から新羅侵攻を繰り返したとされ、この時期から朝鮮半島は戦乱の時代に入りました。
そう、この時代は朝鮮半島の情勢が大きく関わります。
乙巳の変とは、朝鮮出兵を画策していた天智と中臣鎌足がおこしたクーデターであり、この二人が、百済に関係ある人物だとすると謎は解けるのではないのだろうか?
蘇我氏や、天智系の天皇、藤原氏らによって系譜が改竄されている。
歴史は勝者の歴史ともされます。残念ながら勝者は、秦氏の王である天智系の天皇に、藤原氏です。ですので天智系天皇や藤原氏に対立していた人物たちは悪く描かれています。百済系の人物であるといえる秦氏の王である天智と、藤原氏によって王家は乗っ取られています。
ですので、この山背大兄王一族の暗殺事件の事実は異なるのでは?
聖人、聖徳太子一族を滅亡においやったとされる、蘇我入鹿、蝦夷の汚名を、晴らします。
蘇我氏を悪者に仕立て、中大兄皇子と中臣鎌足らによる乙巳の変を正当化している。
日本書紀・古事記は、秦氏の王である桓武天皇や藤原氏によって改竄されている。
特にこの山背大兄王一族の暗殺事件は大きく改竄されている。
それはこの山背大兄王暗殺の事件は、藤原氏の祖とされる、渡来人、偽物中臣鎌足が深く関係するからです。
藤原氏は、聖徳太子をひどく恐れています。
聖徳太子の両親とされる、用明天皇と穴穂部間人皇女は架空の人物ではないのですが、その皇子である厩戸皇子というのは、本来の王家の系譜から外す人物です。ですので、架空です。架空の人物の子供たちもまた架空です。
これまで、述べてきたように、厩戸皇子 というのは、押坂彦人大兄皇子のことです。
この、押坂彦人大兄皇子の両親こそ、敏達と穴穂部間人皇女です。
聖徳太子のお母さんとされる、この穴穂部間人皇女は蘇我氏の人物ではなく物部姫です。名前から推測できますが物部姫です。押坂彦人大兄皇子のお母さんは、息長真手王の女とされる、広姫ではありません。
息長氏とは蘇我氏のことであり、この系図の変更は蘇我馬子によるものです。
本来の、山背大兄王とは、この押坂彦人大兄皇子の皇子であり、同じ名前をもつ山代王のことです。この時、大王だった山代王は、藤原氏の祖とされる偽物中臣鎌足に暗殺された可能性はないのだろうか?
押坂彦人大兄皇子,茅渟王, 山代王が大王だったことが消されている理由のようにも思うのですが?山代王と山背大兄王、同じ名前(やましろ)なのは実在の人物だからです。
藤原氏が、聖徳太子こと厩戸皇子(押坂彦人大兄皇子)を怨霊として恐れるのはこれが理由のひとつなのでは?
ウイッキベディア
皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。・・・山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。
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広隆寺の謎と聖徳太子でも記述しましたが、有名な扶桑略記の記述です・・・
扶桑略記
同月五日,大友皇太子,即為帝位。【生年廿五。】一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。
永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】山陵,
山城國宇治郡山科鄉北山。
天智天皇は、戦争責任を問われ、暗殺されたのではないのだろうか?という記述です。
白村江の戦いの後、唐の使者である、郭務悰が来日します。中国、唐の要求は戦争責任者である、天智の首です。扶桑略記の記述にあるように、靴だけ残っていたのは、処刑し遺体を郭務悰のもとに、運んだからです。唐の使者である、郭務悰は天智の死を確認
してから帰国しています。
ここ・・・以往諸皇,不知因果,恒事殺害。・・・問題箇所とされているそうですが、ここは、もちろん天智天皇が、常に殺害をこととしてきたことの因果(暗殺された)だということを諸侯はしらないという意味です。
暗殺を繰り返してきたのは、そう、渡来人と大きく関係する、天智や藤原氏の祖とされる中臣鎌足です。
対立していた、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、 蘇我倉山田 石川麻呂、古人大兄皇子 、有間皇子や大王である孝徳天皇や山代王たちも彼らによって殺害されています。
もう前述してきましたが、天智と中臣鎌足は、百済救援のために朝鮮出兵を画策していました。
ですが、阻んだのが、蘇我氏です。この時、権力を保持していた蘇我氏は、この朝鮮出兵に関しては反対の立場であり、対立していたと考えられるのでは?
乙巳の変は、蘇我氏の専横 だけが理由ではない。天智や鎌足が参加したのは、蘇我氏が朝鮮出兵には反対の立場であり彼らのを要請を阻んだからです。そして、山背大兄王こと山代王もまた、朝鮮出兵には反対の立場だったのでは?
それは朝鮮半島の戦乱に中国が関わることになったからです。
藤原氏にとっては、厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子や王子の山代王子が、大王だと都合が悪いから系譜を改竄する必要があったわけです。そして、藤原氏はこの押坂彦人大兄皇子を怨霊だとして凄く恐れていました。怨霊だと恐れるということはなにか、後ろめたいことがあったからです。
そう、厩戸皇子こと押坂彦人大兄の王子である、山代王は藤原氏によって暗殺されたのではないのだろうか?それは、出自が不明ともされる藤原氏の祖とされる中臣鎌足の謎が関係するのではないのだろうか?
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子
押坂彦人大兄皇子の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇や、藤原氏だということは、この系譜を見れば容易にわかります。
本来の王家から繋がらないように、系譜から外した人物が、用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子です。厩戸皇子はもちろん実在の人物なのですが、押坂彦人大兄皇子と異なる人物を厩戸皇子として系譜を王家から外して改竄したわけです。
ですので用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子は架空の人物です。 架空の人物だから、その子孫を多数抹殺することができたのです。そして抹殺する人物を、これら天智系の天皇や、藤原氏に対立していた人物を、暗殺者に仕立てている。
また、聖人である聖徳太子の子孫を抹殺した悪者として描くことで、乙巳の変クーデターを正当化できます。
聖徳太子が聖人であるほど暗殺者は悪人になるということです。ですので、蘇我入鹿による山背大兄王一族の暗殺は作り話です。真犯人はほかにいます。記紀を信用してはいけません。
記紀の系譜どおり、聖徳太子が、用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子であるなら、彼は蘇我の皇子です。用明天皇は、欽明天皇の第四皇子であり、母は蘇我稲目の娘の堅塩媛だからです。そして山背大兄王は、聖徳太子と蘇我馬子の娘である刀自古郎女との皇子とされます。
蘇我の皇子である、この山背大兄王を蘇我入鹿が暗殺する理由などありません。
対立したとされるのは、本来の厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子 は物部系の大王だったからです。ですから、蘇我入鹿は暗殺する理由があるとは思いますが、・・・どうなのでしょうか???
藤原氏の祖とされる中臣鎌足が関わった可能性はないのでしょうか?用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子は架空の人物です。だからその皇子である、山背大兄王 も架空です。
本来の、山背大兄王とは、押坂彦人大兄皇子の皇子の山代王のことです。押坂彦人大兄皇子の皇子である山代王がモデルです。実在した人物なので、同名にしたのです。この山代王を暗殺したのは、百済の王子?ともされる、中臣鎌足なのでは?
天智天皇と中臣鎌足が百済に関係する人物なのでは?という謎を系譜から考えていきます。
天智天皇の謎・・・
もうすでに、大安寺伽藍縁起并流記資材帳の袁智天皇の謎と継体持統において記述してきましたが、天智天皇に関する系譜が改竄されている。
蘇我氏が関係する、舒明の系譜、ここでは彼のお母さんの身分が変更されている。変更の理由のひとつは、天智の出自をよくするためです。推古が、天皇の時代の大王だったのが、押坂彦人大兄皇子と茅渟王 であり、この茅渟王 は、宝皇女(皇極、斉明天皇)と軽皇子(孝徳天皇)のお父さんです。
諱の田村と、 和風諡号の息長足日広額は、茅渟王のことです。
だから、茅渟王 のお母さんが、敏達天皇の皇女 である糠手姫皇女 であり、田村王こと舒明のお母さんは漢王の妹である大俣王です。
ここお母さんが交換されている。それは天智の出自をよくするためです。
蘇我氏の后を迎え関係を結んだのは舒明です。というか蘇我蝦夷は彼を利用して王家に取り入ったのです。
もうすでに、大安寺伽藍縁起并流記資材帳の袁智天皇の謎と継体持統において、記述しましたが、茅渟王 のお母さんが、敏達天皇の皇女 である糠手姫皇女 であるとすると、皇祖の尊称で繋がる。この皇祖で繋がるのが天武系の人物たちです。
本来は、山代王のほうが田村王 より、お母さんの身分の問題で、大王となる資格があったのだと思います。
つまり、この舒明も大王ではなく蘇我の王である天皇であるということ。実際に王ではなかった人物のひとりです。
蘇我氏が関係を結び利用しようとしたのがこの田村王こと舒明です。本来は、天智や天武はこの舒明の王子ではない。
問題点は、すでにウイッキベディアにしめされています。脚注部分です。
天智は舒明の王子ではおかしい。糠手姫皇女は舒明の母親ではない。
ウイッキベディア・・・
仮に糠手姫皇女が推古天皇元年(593年)に15歳で舒明天皇を生んだと仮定しても、
皇女が亡くなった時には86歳と当時としては高齢となるため593年以前の天皇誕生は
考えにくい。一方、舒明天皇の長子とされる中大兄皇子(天智天皇)は、天皇崩御時
には16歳であったことは『日本書紀』に書かれており、逆算すると天皇が36歳の時の子
となるが、これもやはり最初の子を儲ける年齢としては遅すぎるため、593年以前の
天皇誕生は考えにくい。従って天皇の生年は推古天皇元年(593年)もしくはそれを
降ることはありえても同年を遡ることは困難である。また、舒明天皇には同母弟が
存在するとされている。これによって父親の押坂彦人大兄皇子が用明天皇2年(587年
)の丁未の乱の混乱で殺害されたとする説や崇峻天皇暗殺当時に押坂彦人大兄皇子が
既に亡くなっていたために推古天皇が即位したとする説は成立困難である
(薗田香融「皇祖大兄御名入部について」『日本古代財政史の研究』(塙書房、1981年
)P358-359・385・388(原論文発表は1968年))。
『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。舒明天皇13年(641年)
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舒明天皇の年齢を推測している箇所なのですが、この指摘のように長男である天智を舒明の王子とするには少し不自然ではないのだろうかとされます?ここ、何らかの改竄があります。
問題は、糠手姫皇女の年齢に関係します。渡来人を父に持つ天智、後の天智系天皇は、系譜を改竄する必要があったわけです。
それは、天智の系譜を大王家と繋げて出自をよくするための改竄です。同様に天武もまたこの舒明の王子ではないのでは?
そして、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子の没年は、624年です。推古は天皇ですが大王ではない。
ここはもう何度も書き込んでいますが、隋からの使者が、男の王で大王だと言っているのに・・・。
隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等
取白上同二百旱作此竟
623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の謎が解けないのは、天皇とは本来は蘇我の王の呼称であり大王とは異なるということが理解できていないということと、この推古の時代の第一皇子である押坂彦人大兄皇子が、記紀に登場しないという理由から早くに亡くなったというトンデモ説が存在するからでもありす。
竹田皇子も同様の理由で早くに亡くなったとされます。
厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子の没年は、624年です。同じく聡耳皇子こと竹田皇子もまた、この銘文の翌年の624年に亡くなっています。聖徳太子没年は、624年です。
押坂彦人大兄皇子の王子の茅渟王や、この、山代王(山背大兄王 )は、すでに大王でした。
この大王を殺害したのが、蘇我入鹿とされます。
蘇我入鹿は、舒明天皇の第一皇子 である、古人大兄皇子 を皇位につけようとします。643年、蘇我入鹿は斑鳩宮を襲い、山背大兄王とその一族を滅ぼしたとされます。しかし、このとき蘇我入鹿は押坂彦人大兄皇子の皇子である山代王を殺害した事件は事実ではないのでは?
天智系天皇や藤原氏によってこの暗殺事件の話の内容は大きく変えられている。山代王は、中臣鎌足に暗殺されたのですが、罪を蘇我氏に被せている可能性はないのだろうか?中臣鎌足や、百済からの渡来人であり、天智のお父さんである秦河勝らが本来の暗殺者なのでは?
天智や、中臣鎌足と対立していたのは、朝鮮出兵に反対していた、蘇我氏や、孝徳天皇です。彼ら百済系渡来人は、朝鮮出兵に反対する多くの人物を暗殺している。
乙巳の変クーデターを正当化するため、また天智と対立していた孝徳や蘇我氏をを、聖人である聖徳太子を殺害したとして悪く描かれている。乙巳の変後、王に即位した孝徳は、天智と対立します。対立の理由は百済救援に関してです。
記紀においては、悪者、蘇我氏を撃った手柄は、この天智と中臣鎌足に変更されています。この後、彼らは、対立する孝徳天皇派の側近たちを暗殺しています。
ウイッキベディア・・・
皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる
癸卯年11月11日(643年12月30日)丙戌亥時に太子子孫を宗我大臣并林臣入鹿が殺し、6日後の 辛卯辰時に大狛法師が事件後6日後に斑鳩寺にいた山背大兄王の息子弓削王を殺したと記述されている。
大狛法師、大化改新の大化元年(645年)8月8日に孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により十師に選ばれたうちの1人
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聖人、聖徳太子一族を滅亡においやったとされる事件の実行犯(巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳、そして大狛法師) は、対立していた蘇我氏や孝徳天皇の側近たちです。
こんなの、蘇我氏や、孝徳天皇と対立していた天智天皇、中臣鎌足が自ら真犯人だっていっているようなものです。凄く単純で解かりやすい改竄ですよね。
そして、もうひとつ聖徳太子一族を滅亡させる理由があります。それは天武天皇の謎に関わりあります。系譜の改竄がまだあります。
天武を本来の大王に繋げていない。 押坂彦人大兄皇子と王子の茅渟王、山代王が大王だったことがけされています。そのための改竄です。
天武のお父さんは舒明天皇ではなく、この山代王なのでは?天智と天武の争いはここに始まるようにも思うのですが?なんども記述してきましたが、子孫全員が消されているというのは、ここが改竄箇所ともいえるように思います。
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
日本書紀の下巻の天皇たちは全て、この皇祖とされる押坂彦人大兄皇子から繋がります。本来の天武系の大王の系譜は、こう記述されていたのではないのかな?
系譜が改竄されている箇所から推理します・・・
舒明天皇 のお母さんは、嶋皇祖母命 と称せられた、敏達天皇の皇女 の糠手姫皇女 とされます。
一方、茅渟王や、宝皇女(皇極、斉明天皇)、軽皇子(孝徳天皇)の お母さんは、漢王の妹の大俣王 とされます。これだと、舒明のお母さん方が身分が上です。ですので、この 宝皇女や 軽皇子が即位したのが謎だともされます。
明らかに、これがおかしい。ここすでに記述しましたが、お母さんが交換されている。どうしてなのかというと、それは舒明を、天智のお父さんとして系譜を改竄したからです。
天智の血統をよくしたわけです。
これは、以前に述べてきましたが、皇祖という尊称をたどればわかります。
茅渟王や、宝皇女、軽皇子の お母さんを嶋皇祖母命 と称せられた、敏達天皇の皇女 の糠手姫皇女 としなければ皇祖の尊称で繋がらない。
寶女王と孝徳は何故王として即位できたのか謎だともいわれますが、系譜が改竄されたのです。
舒明の名の田村のは糠手姫皇女の別名ではない。
渡来人を父に持つ天智、後の天智系天皇は、系譜を改竄する必要があったわけです。天智の系譜を大王家、つまり、大王であった押坂彦人大兄皇子の王子の舒明と繋げて出自をよくするための改竄です。さらに、対立していた孝徳天皇の出自を低くするためです。
そして、問題は天武です。逆に天武の出自は低く改竄されている。
天武もまたこの舒明の皇子だとされます。本当でしょうか?舒明は大王ではなく蘇我蝦夷によって蘇我の王である天皇になった人物です。実際には王ではなかった人物です。
記紀の系譜どおり、山背大兄皇子が、厩戸皇子 と蘇蘇我馬子の娘・刀自古郎女 との皇子なら、まったく蘇我の皇子です。何故、蘇我蝦夷は蘇我の皇子である山背大兄皇子を擁立しなかったのでしょう?
おかしいでしょう?さらに暗殺しているのですよ。しかも一族全員とされます。蘇我の皇子ですよね。
本来は物部系の王子であり、押坂彦人大兄皇子の王子である、山代王だからです。乙巳の変のあと、押坂彦人大兄皇子の王子である 茅渟王の王子の 孝徳 が即位するのは当然のことです。秦氏の王である渡来人の天智は即位できる身分ではなかった。
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー山代王、この三人が大王だったことが消されている。
それは、天武に繋がるからです。そして、天武から長屋王に繋がります。天武こそ、本来の王家から繋がる人物だからです。
茅渟王も山代王も、そして舒明も押坂彦人大兄皇子の王子です。
天武はこの舒明の皇子だとされます。ここも記紀編纂後に改竄されている。
天武のお父さんは、この山代王なのでは?天智と天武は兄弟ではない。天智を王家と繫ぐ操作がなされている。
そして、天武もまた本来の系譜から外す改竄がなされている。天智と、天武の争いは、この山代王の暗殺から始まるのではないのだろうか?
この藤原氏の祖とされる、中臣鎌足も謎が多い人物とされます。有名なのは、百済の王子である豊璋なのではないのかとうい説です。乙巳の変は、朝鮮半島への出兵に関係するとする私にも当然のように推測される説です。
ウイッキペデア・・・
扶余 豊璋
百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。 ・・・『日本書紀』にも
登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある 。
皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」と
その家族および高官が島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したと
されており、翹岐=豊璋同一人物説においては当然、この時に倭国に渡来したとされている。
孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に
豊璋が出席している。
662年5月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5000と軍船170艘を
添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。 豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、
豊璋は百済王に推戴された
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642年に倭国に来朝したとされるのは、弟王子の兒翹岐ですよね。、弟王子とされるわけなのに、どうして翹岐と豊璋は同一人物だとされるのか?
この説は詳しくは知りませんが、中臣鎌足は、豊璋じゃなくて、記述どおり弟の翹岐の方が可能性があるのでは?豊璋に関しては、その後帰国したことや、唐・新羅軍のとの戦いの記録も残っているわけですし・・・?
中臣鎌足は、百済の王子の、豊璋の弟王子である翹岐という可能性は十分あるように思います。来倭した理由は、勿論、百済救援にあるわけです。倭国に来朝した王子が百済救援のために、協力を求めたのが当時権力を握っていた蘇我氏ですが、蘇我氏は、出兵には反対の立場であったのです。
王家やこの時代の権力者である蘇我氏は、百済とは本来は悪い関係にはありませんでした。むしろ非常に緊密な関係でした。しかし後に中国が関わることになります。
唐の使者である、郭務悰は、 白村江の戦の以前から何度か来日しています。これはもちろん、朝鮮半島の戦乱に関わるなということです。百済に味方をせずに我々の方に付けという要求に他なりません。
この時代の中国と日本の力関係を考えれば、朝鮮出兵という無謀な判断はできません。
百済と関係する、中臣鎌足は、同じく百済からの渡来人である、秦氏の秦河勝。そして、その王子(あるいは秦河勝の孫)である、中大兄皇子に近づき渡来人勢力による蘇我氏暗殺のクーデターが行われたのです。
秦河勝が、蘇我入鹿と争っていたのは、百済救援のための朝鮮出兵の要請以外ないように思います。
大避神社由緒書き
秦河勝は蘇我入鹿とあらそっていた。これは、乙巳の変の一年前の皇極3年(644年)こと。河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去したという・・・。
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翹岐らが倭国に来朝したのは、642年です。目的はもちろん百済救援の要請です。
そして山背大兄王の暗殺事件は、翌年の癸卯年11月11日(643年12月30日)とされます。この暗殺事件も、やはり、朝鮮出兵に関係するのでは?王家も出兵には反対の立場だったのでしょう。
乙巳の変は、1年半後の645年です、・・・
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ・蘇我入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」・・・。
乙巳の変の後、孝徳天皇が即位しました。天智はこの孝徳とも対立します。
天智天皇の謎でも記述しましたが、中大兄皇子が、乙巳の変に加担したのは、秦河勝が蘇我入鹿と争っていたからです。この秦河勝が中大兄皇子のお父さん(または祖父)なのでは?
謎はみえてきました。そう、中臣鎌足こそ山代王の暗殺者です。暗殺実行者は、天智と対立していた孝徳の側近であり矛盾する。暗殺の内容が後に改竄されている。蘇我氏が山代王を暗殺したのであれば、乙巳の変は、兄弟である孝徳の敵討ちになります。
しかし、乙巳の変 のあと孝徳は出兵に反対していた蘇我氏を重用する。つまり、山代王を暗殺したのは蘇我氏ではないのでは?
翹岐らが倭国に来朝したのは、642年です。目的はもちろん百済救援の要請に他ならない。
山背大兄王の暗殺事件は、癸卯年11月11日(643年12月30日)とされます。彼が、中臣 鎌足ではないのだろうか?
最後に、山背大兄王暗殺の事件の真犯人は中臣 鎌足だろうと考えらる決定的な?とも言えないかもしれませんが、証拠というか、・・・そう、暗殺後に都から離れている?
ウイッキベディア・・・
『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。
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中臣鎌足が都を離れた時期はいろいろな説あるようですが、日本書紀においては、記述のように中臣 鎌足が、奈良の都から、摂津国に退いたのは、この山背大兄王暗殺の事件後の644年とされます。
理由は、もちろん異なりますが(真実を書けない)、643年12月に大王である山代王の暗殺を実行したので、都から離れたとともいえるのでは?・・・と感じるのですが?
同じく、秦河勝もまた、同じ年にに都から離れている。蘇我氏との対立ともされますが、彼もまた山代王暗殺の協力者なのでは?この秦河勝こそ、天智のお父さん(年齢的には祖父かな)です。
彼らが山背大兄王こと、山代王暗殺の本当の犯人だともいえるように思います。
藤原氏が、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子を凄く恐れるのは、彼の子孫と対立し暗殺を企ててきたからです。
系譜の改竄・・・
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
本来はこうだったのでは?天武の系譜を改竄している。
朝鮮出兵を画策していた 天智や、中臣鎌足と対立していたのは、朝鮮出兵に反対していた、蘇我氏と王家(孝徳天皇)である。孝徳は山代王と兄弟である。ともに厩戸皇子 こと押坂彦人大兄皇子の皇子たちである。
そして、無実の罪で暗殺された蘇我蝦夷、 蘇我入鹿もまた怨霊として、恐れられることになります。
無実の罪で亡くなったから、怨霊とされるわけです。恐れるのは殺した側です。
写真は、桜井市上之宮にある、上之宮遺跡です。この上之宮の地名もいまに残ります。
もちろんこの地名は、厩戸皇子の上宮の所在地であったためです。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子が、幼少期から青年期まで過ごした宮跡の、これはごく一部です。
推古が天皇時、大王だったのが、この押坂彦人大兄皇子です。上宮という地名は、父親の宮の上方に営まれていたことに由来します。
この由来通り、お父さんである、敏達天皇の宮(桜井市戒重)はこの遺跡の北部に位置します。
写真4枚目は、桜井市戒重の、いまは春日神社にある案内板です。
この春日神社は、以前は他田宮(長田宮)と呼ばれていたとされます。敏達天皇の訳語田宮の伝承地です。
この宮の南の上殿(かみつみや)に厩戸を住まわせたことから上宮の称が興ったとされます。まさしく由来通りで、写真のように遺跡の一部もも発見されているのですが、聖徳太子のお父さんを用明天皇として系譜の改竄がなされていたために、由来に矛盾が生じているのです。