聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

壬申の乱と法隆寺、斑鳩寺創建の謎

2022年05月16日 | 聖徳太子の謎


法隆寺は、推古天皇15年である607年に創建されたと伝えられています。
別称は、斑鳩寺、鵤寺ともいわれます。
法隆寺の西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群であるとされます。

私は、法隆寺の創建年に関しては、長屋王が大王に即位した、701年であると推測しています。
考古学的にも8世紀初頭の創建とされますが、それでも世界最古の木造建築物群です。

いままで記述してきましたが、現法隆寺と、斑鳩寺は異なる寺院です。
斑鳩寺は蘇我氏が建設したお寺です。
そして、斑鳩寺創建は607年ではなく、605年である。

現法隆寺は、天武大王の発願により造り始められた大王家のお寺です。
法隆寺建造は、百済復興の白村江の戦や古代の大戦である壬申の乱が大きく関わる。
渡来人勢力の脅威がなくなってから本格的に造り始められた大王家のお寺です。


法隆寺に関する大きな謎のひとつに、法隆寺は再建されたものであるかという問題がありました。
長年の論争がありましたが、発掘調査によって、若草伽藍が創建時の法隆寺である可能性が高くなり、再建・非再建論争に一応の結論が出されたとされます

若草伽藍が発掘され調査が進み、いまは再建されたものであるということが確実視されています。

若草伽藍にあったお寺は創建法隆寺(斑鳩寺)であり、現法隆寺は再建されたものであるということが定説になっています。

しかし、いまだに様々な謎は解決できていないのは、この定説が間違っているからです。
そしてさらに問題が複雑になっているのは、法隆寺の別称が斑鳩寺とされていることです。

法隆寺と斑鳩寺は同じ寺院ではない。つまり現法隆寺の西院伽藍は再建されたものではない。

再建されたというのなら、若草伽藍にあったとされる寺院こそ再建斑鳩寺である。

若草伽藍にあったお寺は、605年創建の斑鳩寺ではない。

これまで何度も記述してきましたが、斑鳩寺と、現法隆寺は異なるお寺です。
斑鳩寺は蘇我の時代に蘇我氏によって造られた蘇我の寺です。
現法隆寺は、天武大王の発願により造り始められた、大王家のお寺です。

若草伽藍に造られたお寺は、蘇我の皇子である竹田皇子が亡くなった時に、彼を祀るために造られた蘇我のお寺です。
624年、竹田皇子没後に造られたお寺であり、605年に創建された斑鳩寺ではありません。

この若草伽藍のお寺こそ、再建斑鳩寺であるともいえます。再建されているのはこの若草伽藍にあった斑鳩寺です。ただし祀られている人物は異なります。
若草伽藍の再建斑鳩寺は、二人の聖徳太子のうちの一人、蘇我の皇子である竹田皇子を祀るために、蘇我馬子や推古天皇により造られた蘇我のお寺です。

若草伽藍の再建斑鳩寺の本尊こそ、623年に造られたとの銘文が刻まれた釈迦三尊像です。銘文の上宮法皇とは、この竹田皇子のことです。
現法隆寺の本尊である釈迦三尊像は、本来は竹田皇子の回復を祈って造り始められた仏像です。

藤原氏により、この釈迦三尊像を現法隆寺の本尊として変更している。そして薬師如来像の銘文により法隆寺の由緒を変更している。

法隆寺に祀られていたのは、天武が皇祖と仰ぐ祖父の聖徳太子こと押坂彦人大王、天武のお父さんである山代王 (山背大兄王)と、孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王です。

この押坂彦人大王の後胤と対立して、多くの大王家の人物を殺害してきたのは、秦氏、藤原氏です。大怨霊である長屋大王もこの押坂彦人大王の子孫です。

現法隆寺は、天武大王の発願のお寺であり再建されたものではない。天武大王によって造り始められ、その後、長屋大王の時代に創建された寺院です。
しかしその由緒が、藤原氏によって変更されている。

長屋大王が藤原氏に祟った後の、738年に怨霊封じが行われ由緒や本尊も変更されている。

それは、法隆寺に祀られている人物が藤原氏に祟ったからです。

若草伽藍にあったお寺は創建斑鳩寺ではない。



737年に長屋王の怨霊により、藤原四兄弟が亡くなりました。
その二年後の739年に法隆寺は怨霊封じが行われ、その由緒は変更されている。
法隆寺に祀られているのは、押坂彦人大王、山代大王(山背大兄王)、茅渟王です。彼らも祟ったのです。

何度も記述しているところですが、この系譜の変更が理解できれば法隆寺の謎解きは容易です。
天武大王の父親は山代大王(山背大兄王)であり、聖徳太子は長屋大王に繋がるのです。天武と渡来人天智は兄弟ではありません。
押坂彦人大王は、孝徳大王の祖父でもあります。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子


物部と対立していたのは蘇我です。蘇我本宗家が滅んだ後に、物部系の大王である天武によって、この蘇我のお寺である若草伽藍の斑鳩寺は壊されている。そして再利用できる部材は利用している。

この地を選んだのは、元は物部の本地であるということと、父親である山代大王(山背大兄王 系譜が変更されている)が、この地で殺害されたからでもあります。
祖父や父親の菩提を弔うためにこの地を選んでいる。



605年の創建斑鳩寺は、この若草伽藍の場所ではなく別の場所に建設されていたのです。

それでは、605年に創建した斑鳩寺どの場所に建設されていたのでしょうか?これは、藤ノ木古墳が関わる。
蘇我氏との争いで亡くなった、藤ノ木古墳の被葬者(崇峻天皇、穴穂部皇子)を祀るために、蘇我氏が建立したお寺が、605年に創建された斑鳩寺です。

焼失した創建斑鳩寺の伽藍の場所には、重要な遺物が残っています。それが、若草伽藍の西隣、南大門前にある巨石、法隆寺七不思議の一つでもある「鯛石」です。法隆寺の謎を解く重要な遺物です。
写真では、わかりずらいですが、この鯛石はかなりの巨石です。たまたま魚の形に似ているので鯛石と呼ばれています。

表面が平らな巨石であるこの「鯛石」、これどうみても礎石でしょう?
設置するのに大きな労力が必要される巨石を意味もなく置く理由が見当たらない。だから謎となっているのですが、設置する必要があって置かれていたものです。そう、この鯛石は礎石以外ありえません。

礎石であるというのは、誰が見ても容易な推測?とも思えるのですが、法隆寺七不思議の一つとなっているのは、若草伽藍に存在していた寺院こそ、創建斑鳩寺だと推測されているからです。
この場所に寺院があったと考えられていないからです。だから謎解かれていない。

若草伽藍は創建斑鳩寺だという推測は間違いであるということです。

この「鯛石」こそ、605年に創建された斑鳩寺の五重の塔の心礎石である。

そして、この創建斑鳩寺は、610年に全焼している。

「法隆寺七不思議の謎と怨霊封じ」のところで書きましたが、・・・
法隆寺の原資料、「聖徳太子伝補闕記」においての、「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」との記述により、干支による表記のため、日本書紀編纂時(本当は改竄時)に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である、610年だったのでないのかという説があります。

この説が正解のように思います。矛盾なく説明できるのはこの説以外ありません。

書記に記述があるように、若草伽藍のお寺(再建斑鳩寺)は669年に、火災にはあってはいますが、全焼という状態ではなく、部材は再利用されている。
蘇我本宗家が滅んだ後、物部系の大王である、孝徳大王や天武大王によって蘇我氏の功績や形跡を消し去ることが行われている。
この「斑鳩寺」を「法隆寺」に、「飛鳥寺」を「元興寺」に、「栢寺」を「橘寺」に変更している。


日本書紀 天智天皇条・・・
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。

夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。
      *********************
「日本書紀」天智天皇9年(670年)4月、「災法隆寺、一屋無餘」

同じ天智天皇条において斑鳩寺と、法隆寺を書き分けています。天智系天皇である桓武天皇の時代に、記紀を改竄するときに、法隆寺の記述を後に差し込んだからです。斑鳩寺と法隆寺は同じお寺ではありません。

本来の日本書紀には、渡来人秦氏の王である天智天皇条なんてありません。
天武大王条に、この法隆寺の火災に関する文章をいれたのです。
法隆寺の源資料が、干支表記のため間違って挿入されたものです。

法隆寺においては、この火災についての言い伝えは残っていません。
747年の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には火災の記述はないのです。
これは、この747年以降、桓武天皇が即位した後に記紀は改竄され、この改竄時に付け加えられた記述だからです。

670年の天武大王条、つまり大海人皇子(天武大王)は、既にこの年以前に大王に即位している。


法隆寺の創建に関わります。重要なので少し説明します・・・

天智天皇は、667年に飛鳥から近江に遷都して正式に即位したとされます。
しかしこれは渡来人である秦氏の主張です。
天智天皇は秦氏の王です。皇子である大友皇子(弘文天皇)もそうです。本来の王ではありません。中大兄皇子(天智天皇)が天皇に即位したというのは事実ではありません。本来の日本書紀には天智天皇条なんてありません。

近江大津宮は、秦氏の宮であり本来の大王の宮ではありません。天智系天皇である桓武天皇の時に記紀は、この「天皇」の呼称を使用して改竄されている。
桓武天皇も秦氏の王であり、平安京も渡来人秦氏の都です。
これは、渡来人秦氏や、関係を持った藤原氏の主張にほかならない。

「藤原宮」や「平城宮」も同様に、秦氏、藤原氏の主張する宮の名です。
長屋王邸とされる場所から出土した木簡からの推測では、天武大王の長男である高市皇子は大王に即位していました。
もちろん長屋王も大王でした。
本来の大王の宮の名は、万葉集、柿本人麻呂の歌にある、高市大王の「香久山宮」であり、長屋大王の「奈良宮」です。

万葉集・・・巻二(一九九)柿本人麻呂 高市大王への挽歌の最後のところです。

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 
      
わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香具山の宮」は、万年の世を過ぎてもなくなることは考えられない。
         **********************************
高市大王の宮の名は「香具山宮」であり本来の宮の名称です。「藤原宮」なんて、宮の名を臣下の名で呼ぶことなんてありえません。
「藤原宮」とはもちろん藤原氏が主張する宮の名であり、藤原氏、藤原不比等の邸宅のことです。

この時期の、大王家と渡来人勢力の争いは百済復興に関してです。
亡命百済人(後の藤原鎌足)が頼ったのが、倭国内ですでに地盤を築き大きな勢力になっていた秦氏です。中大兄皇子は秦氏の皇子です。
秦氏はもとは百済からの渡来人です。そして平安の地(京都)は秦氏の本地です。この時期には秦氏は大勢力に発展していました。

大国唐が新羅と同盟を結んだことにより、大王家(山代大王(山背大兄王)、孝徳大王)は百済復興の出兵に関しては反対の立場であったのです。この時代、大きな力を持っていた蘇我氏も同様です。
乙巳の変は蘇我氏の専横が理由ではない。百済復興のための出兵に関してです。
山代大王(山背大兄王)を殺害したのも秦氏、藤原氏です。蘇我入鹿ではありません。犯人は百済渡来人、偽物中臣鎌足と、秦河勝です。

秦氏の王である天智天皇と、本来の大王である天武天皇は兄弟ではありません。天智系天皇である桓武天皇は、王に即位する条件として系図を変更し、天智天皇を本来の大王家に繋げる必要があったのです。
天智天皇が天皇に即位したと改竄したのは、この桓武天皇時代に記紀を改竄した時です。

秦氏の皇子である天智天皇は、天皇に即位していませんし、もちろん本来の大王ではありません。この天智天皇から繋がる桓武天皇も秦氏の王です。
秦氏は、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族であるとされます。

つまり本来の宮は奈良に存在している。そして本来の大王が存在している。
壬申の乱の後、大友皇子の後に、天武大王は即位したとされますが、そうではない。

661年から663年まで、百済復興のため、朝鮮出兵を行っています。この時、渡来人勢力は多数の人員を派遣している。663年の白村江の戦の敗戦により渡来人勢力は弱体化している。
百済復興のための出兵は、亡命百済人や秦氏などの渡来人勢力が行った戦です。

天智天皇が、飛鳥から近江に遷都したという667年に、すでに大海人(天武)は大王に即位している。

天智天皇が近江に遷都したというのは、渡来人勢力が近江に追いやられたということです。近江は多数の亡命百済人が住んでいたところです。
この時に、天武は既に奈良盆地に入っている。この後壬申の乱に繋がります。
壬申の乱は、大王家と渡来人勢力との争いであり、戦地は近江です。

壬申の乱は672年(6月24日 ~7月23日)に起きた古代の大戦です。
皇位継承を巡っての争いとされますがそうではない。
それは、天智天皇も皇子である大友皇子も、天皇になんて即位していないからです。渡来人が王に即位することなんてできません。
大王家と渡来人勢力との争いです。

大海人皇子は、この時に吉野から出立したとされますが、これも事実ではない。

以前から壬申の乱に関して、おかしいと感じていたところです。大きな勢力との戦に備えて、それなりの準備が必要であるように思う。
はたして、いきなり小人数で吉野からでて、他の豪族の協力を得られるものであるのか?
渡来人勢力と戦ができるものであるのか?
天武大王は、事前に軍備を整え、戦略を練ってから戦いに挑んでいる。

大海人皇子は、667年に既に大王に即位し、奈良盆地内で戦力を整え、近隣の豪族との連携を整えた上、この戦に挑んでいる。

ここももう何度も記述していますが重要なので・・・戦争責任者である天智天皇は、唐の命令で殺害されている。戦いは天智が亡くなった時から既に始まっているともいえます。

日本書紀 天智天皇条
唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻

天武天皇条
元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。


唐の使者である郭務悰使は、軍といってもいい人数をを率いて来日します。唐の要求は、唐と敵対する政策を行った戦争責任者である、天智の首です。この来日時に天智天皇は亡くなっています。
唐の使者である、郭務悰は天智の死を確認してから帰国しています。

唐に敵対した渡来人勢力を滅ぼすようにと、唐の圧力があったと推測しています。天武大王が壬申の乱を起こした一つの要因であると思います。


天智系天皇である桓武天皇の時代に、中大兄皇子(天智天皇)を天皇に即位したと改竄したため、天智天皇の死後に天武は即位したということになっている。

大海人皇子は、おそくてもこの渡来人勢力が近江に退いた、667年には大王に即位している。

法隆寺は、天武大王の発願により造り始められた寺院です。
渡来人勢力の脅威が去った、この667年頃から造り始められている。法隆寺の金堂で使用されている木材からの推測でもこの頃である。


法隆寺と斑鳩寺は同じ寺だとして、法隆寺の由緒を消し去ったのは藤原氏です。怨霊封じを行ったのも藤原氏です。
長屋大王の怨霊により、藤原四兄弟が亡くなった二年後の739年に法隆寺は怨霊封じが行われている。
法隆寺に祀られていた、押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)、山代大王(山背大兄王)、茅渟王も藤原氏に祟ったのです。

605年に斑鳩寺が創建されたのですが、610年に全焼したということです。そして蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子没後(624年)に、若草伽藍の場所に新たに創建された寺院、これが再建斑鳩寺である。
母親である推古天皇や蘇我馬子によって、竹田皇子をまつる釈迦三尊を本尊とするお寺が造られているのです。


若草伽藍のお寺を創建法隆寺としているかぎり、法隆寺関する謎は永遠に解決しません。

若草伽藍にあったお寺は創建斑鳩寺ではない。



法隆寺の七不思議の一つに、南大門の前に置かれた鯛石があります。鯛の形に似ているのでこう呼ばれています。

大和川の氾濫により、洪水が発生しても、法隆寺のこの鯛石より先に水が押し寄せることが無かったという言い伝えがあるようです。そのため、この鯛石を踏むと水難を免れると言われているようです。

この言い伝えは魚の形に似ているということからのものであり、本来は門の前に置く必要もない意味不明な巨石です。

法隆寺に参詣する大部分の人は、この南大門から入場しますので、この鯛石の上を通り階段を上り門をくぐります。
法隆寺の七不思議の謎は、あまり知られていないようで、この「鯛石」に注目する人はほとんどなく気付かずに通り過ぎます。

実はこの南大門は、元はこの位置にはありませんでした。
この南大門は、本来はこの位置にはなく、もう少し北側にありました。中門の南、東大門と西大門の通路の交わった壇上にありました。

この鯛石、門の前に置かれたのではなく、この位置にもともとあったものです。南大門の方が後で造られているのです。

表面が平らな巨石、これどうみても礎石にしか見えません。
斑鳩寺創建に関わる重要な遺物です。

つまり、これ605年に創建された斑鳩寺の礎石です。その大きさと位置から五重の塔の心礎石であると思います。一屋もなく全焼してしまったという斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。


五重塔の心柱構造は、時代により変遷があり、斑鳩寺のような初期の五重の塔は、心柱を地面に埋設して立てる掘立式という方法で建てられています。
塔の心柱は、およそ3m程地中に埋められて建設されているようです。
大火事にあっても、心礎石は地中にあったため綺麗な状態であるのです。


つまり、この「鯛石」の地上、3mのところに創建斑鳩寺の五重の塔は立っていたのです。
この五重の塔ですが・・・
斑鳩寺は一屋も残さず全焼全焼したとされますが、現法隆寺の五重の塔の心柱は、605年の創建以前に伐採された木材が使用されている可能性が指摘されています。つまり、この創建五重の塔は焼失してはいなく、若草伽藍(再建斑鳩寺)に再利用されているということです。
あるいは、一屋もなく全焼したというのが真実なら、創建時に伐採されて使用していない木材が若草伽藍(再建斑鳩寺)の五重の塔の心柱として使われたかです。
この若草伽藍(再建斑鳩寺)は火災にはあってはいますが、五重の塔は問題なく、現法隆寺の建設時に再利用されたということでwす。

この「鯛石」を通り、南大門の階段を上り入場しますが、法隆寺の伽藍にまでかなりの高低差があります。
現法隆寺の、地面の基礎を造るために、大がかりの工事が行われていると思われます。

法隆寺の場所は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地する必要があるところに建設されています。理由はご先祖様を祀る西院伽藍の場所を、周囲より一段高くいところに造りたいという思いからではないのかな?
この法隆寺周辺は案外海抜が低いようで、豪雨時の洪水の問題も勿論あります。

創建斑鳩寺の跡地は、掘られて今の西院伽藍の土地を高くするために用いられている。一屋もなく全焼したという創建斑鳩寺の跡地が見つからない理由です。


何度も記述してきたところですが、若草伽藍にあったお寺は創建斑鳩寺ではありません。推古天皇の息子である竹田皇子が亡くなった時に作られたお寺です。つまり再建斑鳩寺である。

現法隆寺の本尊である、釈迦三尊は本来はこの若草伽藍にあった再建斑鳩寺の本尊であり、竹田皇子のお姿を写した仏像である。

この再建斑鳩寺と、現法隆寺は別のお寺です。

若草伽藍は、金堂と塔が南北に並ぶ配置である飛鳥式です。しかし現法隆寺は、東西に並ぶ配置です。再建ということなら、伝統を受け継ぐという意味からもこの伽藍配置の違いはありえない。

若草伽藍は、蘇我の皇子である竹田皇子が亡くなった時に、推古天皇や蘇我馬子によって造られた蘇我氏の寺院です。
創建斑鳩寺も、蘇我氏によって造られたものであり、金堂と塔が南北に並ぶ配置であると思われます。

現法隆寺は大王だった、押坂彦人大王、天武のお父さんである山代王 (山背大兄王)と、孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王を祀るためのお寺です。彼らは全て本来の大王でした。
伽藍配置が異なる理由です。現法隆寺は大王家の寺院です。

つまり、創建斑鳩寺、若草伽藍に造られてはいなく別の場所に建立されていたのです。それが、斑鳩寺の西側の、鯛石があるところです。
鯛石は創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石である。創建斑鳩寺の遺構があったのはここです。

そしてこの創建斑鳩寺も、若草伽藍のお寺と同様に金堂と塔が南北に並んでいたはずです。
それは、この創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳の被葬者を祀る寺院だからです。

藤ノ木古墳の被葬者は、蘇我氏との対立によって殺害された物部の大王たち、崇峻大王と、穴穂部皇子です。斑鳩寺は、彼らの菩提を弔うために造られた寺院です。

藤ノ木古墳に正対している西側が正面となり、西側からの景色がいいように、つまり金堂と塔が重ならないように南北の配置となっているのです。

南北の伽藍は配置は四天王寺式ともされますが、そうではなくこの斑鳩寺の方が先に造られている。つまり、南北の伽藍配置は斑鳩式であるということです。


日本書紀、天智天皇条(本来は天武大王の時代)、斑鳩寺が火災にあったという記述があり、法隆寺の資料においては「庚午年災斑鳩寺」と、干支表記のため、670年の庚午年にあててしまったことによる間違いである。
669年に火災はあったものの、一屋も残さずという状態のものではなかったのです。

斑鳩寺は605年に創建されたのですが、610年には一屋も残さず全焼?しているということです。その後、竹田皇子が亡くなった時に造られたお寺が若草伽藍に建設されたお寺です。
この若草伽藍のお寺は、全焼したとされる斑鳩寺の跡地には建てられていない。若草伽藍の西側、藤ノ木古墳の近くが元の斑鳩寺のお寺、伽藍が存在していた場所です。


一屋もなく全焼してしまったという斑鳩寺は別の場所にありました。
その場所とは、この鯛石のあるところです。この鯛石こそ創建斑鳩寺の五重の塔があったところです。

創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳の被葬者を祀るためのお寺です。
若草伽藍のお寺は蘇我の皇子である竹田皇子を祀るためのお寺です。
本尊は釈迦三尊像であり、この竹田皇子のお姿を写したものです。

現法隆寺は、天武によって建てられたお寺です。
祖父の押坂彦人大王、父親である山代王 (山背大兄王)、茅渟王を祀るためのお寺です。彼らは物部系の大王です。


若草伽藍に造られたお寺は創建斑鳩寺ではない。
創建斑鳩寺は藤ノ木古墳に葬られていた、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子人物を祀るためのお寺です。彼らは物部系の大王です。斑鳩の地は元は、物部氏の本地でもあります。

そして、厩戸皇子こと押坂彦人大王も物部系の大王です。蘇我氏、蘇我馬子により、この押坂彦人大王を蘇我の皇子として系譜を変更したことにより混乱が生じている。
敏達天皇の最初の皇后は、物部姫である穴穂部間人皇女です。欽明天皇の娘ではありません。押坂彦人大王の母親です。ですが幼い時に母親は亡くなっている。
次の皇后?が推古天皇であるかは問題ありますが。この時代に権力を握ったのは蘇我氏です。
推古天皇は幼かった押坂彦人大兄皇子の育ての親であると思われ、蘇我氏が関わった大王家の人物です。推古天皇時、大王だった人物です。
推古天皇の息子の竹田皇子は、異母兄弟になります。

若草伽藍のお寺はこの竹田皇子を祀るために、母親である推古天皇や蘇我馬子によって造られたお寺であり蘇我氏の寺院です。



上の写真を見て下さい。この地図から創建斑鳩寺の建てられていた場所が推測出来ます。
写真の南大門の位置は分かるでしょうか?
若草伽藍にあった斑鳩寺と斑鳩の宮は、東西南北の正方位にたいして、西におよそ20度傾きます。
現法隆寺は、正方位に対しておよそ西に8度の傾きで建設されているとされます。

若草伽藍を、そのまま20度の傾きで西側にずらした位置が創建斑鳩寺の伽藍があった場所です。
若草伽藍の金堂と五重の塔を20度の傾きで西側にずらした位置に南大門の鯛石があるでしょう。
この「鯛石」こそ創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。

この斑鳩の地は元は物部氏の本地でした。後に蘇我氏が管轄することになります。物部と蘇我ではその土地の地割に違いがある。

この地割に違いから、創建斑鳩のあった場所は推測できます。

605年に創建された斑鳩寺は、蘇我氏のお寺であり、このお寺は藤ノ木古墳の被葬者の菩提をとむらうためのお寺であるからです。

つまり、藤ノ木古墳の東側、若草伽藍の西側に、創建斑鳩寺は存在していたと推測できます。
創建斑鳩寺の伽藍があっただろうと推測できる、藤ノ木古墳と、若草伽藍の間にあるのが「鯛石」です。
表面が平らに削られた巨大な石、そうこれこそ創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。

斑鳩の地は、元は物部の本拠地でした、物部本宗家が没落後には蘇我氏の管轄する土地となりました。

分かりやすく言えば、この20度の傾きが蘇我の時代の蘇我氏の地割です。

この傾きで造られたのが斑鳩道なのですが、この道は南部に通る、竜田道に平行に造られているとされます。
太子道とも垂直に交わります。この20度程の傾きは太子道の傾きと一致するのです。
太子道を飛鳥から斑鳩まで通ったといわれる聖徳太子とは、蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子です。

つまり、物部の時代にはこの竜田道は造られていなかったのですが、斑鳩寺や斑鳩宮の建設が始まった7世紀初めには整備されてていたということです。


8度は物部の地割?であり、物部の時代にはこの8度の傾きで造られている。
蘇我氏が没落後には、物部の大王である天武の時代に、蘇我氏の地割を無視して、法隆寺は建設されている。斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。

斑鳩寺と斑鳩宮は、蘇我のお寺であり宮です。ここに移ったのは蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子です。
推古天皇の時代には中宮は、息子である竹田皇子の宮傍に移転しています。
竹田皇子が亡くなった後に寺となりました。中宮寺です。
この中宮寺ももちろん蘇我氏の地割で造られています。



この20度の傾きの南北に通る道が今も残っています。
筋違い道といわれる太子道もそうなのですが、写真、法隆寺伽藍の図にある東大門と西大門の斜めのラインがそうです。斑鳩道と竜田道と垂直に交わる、蘇我の時代の地割です。

この東大門と西大門の斜めのラインから、創建斑鳩寺と若草伽藍の位置と規模が推測できます。
若草伽藍を。そのまま西に20度の傾きでずらした位置に創建斑鳩寺は存在していました。

この西大門の斜めのラインが、創建斑鳩寺の伽藍の西側のラインであり、東大門の斜めのラインが、若草伽藍の東側のラインです。

これは若草伽藍の、大きさからの推測です。この若草伽藍は再建斑鳩寺であるともいえます。つまり再建ということなら、伽藍の規模も同じ規模で造られている。伽藍配置も同様に、金堂と塔が南北に並ぶ四天王寺式の配置であるように推測しています。

若草伽藍の再建斑鳩寺の規模から推測すると、西大門の斜めのラインと、東大門の斜めのラインがとの間に、創建斑鳩寺と、若草伽藍にあった再建斑鳩寺が収まるということです。

若草伽藍を20度の角度で西に移動した場所が、創建斑鳩寺の場所である。

若草伽藍の西側に、創建斑鳩寺は建てられていたのです。
現南大門の「鯛石」こそ創建斑鳩寺の建設されていた場所であり、五重の塔の心礎石である。

若草伽藍にあったお寺は605年に造られた創建斑鳩寺ではなく、623年に竹田皇子が亡くなった時に造られたお寺です。蘇我氏のお寺だといえます。
現法隆寺は、天武大王が造り始めた大王家のお寺です。

これらが理解できていないので法隆寺は謎は解かれていない。

下の写真は、東西南北の正方位にたいして、西におよそ20度傾く、西大門と東大門前の道路です。

若草伽藍にあった寺院は、創建法隆寺ではありません。斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。
写真を見れば分かりますが、東大門前の斜めの道は若草伽藍の東側のラインとされています。
そして、西大門の斜めの道こそが創建斑鳩寺の正面のラインです。
この東大門と西大門の斜めの道の間に、創建斑鳩寺と若草伽藍(再建斑鳩寺)が収まる。
現法隆寺の南大門前の「鯛石」こそ創建斑鳩寺の五重の塔の礎石です。













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