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倭国王帥升の国が東進していったのだと思います。中国地方の高地性集落については、いままでいわれていた時期より半世紀さかのぼるといわれています。これこそ倭国東進の証拠だと思います。そして畿内の高地性集落は、倭国大乱の時期と重なると言われています。また銅鐸が消えていく時期とも重なります。ですので、倭国大乱とは、北部九州から吉備国を建国して東進してきた倭国と、出雲族といわれる、山陰から畿内に来ていた先住民との争いです。
そして、この争いは、畿内の辰砂(水銀)めぐる争いとしか考えられないように思います。畿内説の、これは私にとっても最大の問題点なのですが、北部九州が支配地でないなら、畿内が発展するはずない訳です。ですから、2世紀末に、少なくても畿内から、北部九州までの領土を保持することができるのだろうか?これは、たとえ連合体のようなものだとしても可能だろうか?と言うところです。武力で治めたとは、考えられないわけです。纏向遺跡には、外部からの多数の土器が出土します。つまり沢山の人々が奈良盆地目指してやってきたわけです。遠方からの土器も出土しています。ここに来る何らかの理由があるわけです。これは単に市場があり交易が行われたということでなく、この地にしかない重要なものが、此処、纏向に存在したからに他ならない。それは辰砂(水銀)しかない。おそらくこの時期には大量に産出されたのだと思います。 (写真は、唐古・鍵遺跡の楼閣。弥生時代の環濠集落遺跡といわれています。)
そして、この争いは、畿内の辰砂(水銀)めぐる争いとしか考えられないように思います。畿内説の、これは私にとっても最大の問題点なのですが、北部九州が支配地でないなら、畿内が発展するはずない訳です。ですから、2世紀末に、少なくても畿内から、北部九州までの領土を保持することができるのだろうか?これは、たとえ連合体のようなものだとしても可能だろうか?と言うところです。武力で治めたとは、考えられないわけです。纏向遺跡には、外部からの多数の土器が出土します。つまり沢山の人々が奈良盆地目指してやってきたわけです。遠方からの土器も出土しています。ここに来る何らかの理由があるわけです。これは単に市場があり交易が行われたということでなく、この地にしかない重要なものが、此処、纏向に存在したからに他ならない。それは辰砂(水銀)しかない。おそらくこの時期には大量に産出されたのだと思います。 (写真は、唐古・鍵遺跡の楼閣。弥生時代の環濠集落遺跡といわれています。)