女系天皇、女性天皇が問題視されていますが、
「天皇」は本来女系であり、初代天皇は推古天皇であり、女性です。
天皇家は蘇我家のことであり、古代の王家とは繋がりがりません。
蘇我馬子により、蘇我氏を大王家に繋ぐ改竄がされていました。
この蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」・「国記」を参照し
藤原氏もまた自家を大王家に繋げ、都合の悪い箇所は変更している。
それが、古事記、日本書紀である。
今回は天武の皇后?であるとされる持統天皇の謎から、藤原氏による系譜改竄の謎を考えていきます(*^▽^*)
たくさん訪れてくれるようになったのに、しばらくの間記事を投稿しなかったのは、皇統が二千年の間、
男系で繋がっているというは事実ではありません・・・という内容だったため、時期が時期なので書き込むのを
控えていたという理由があるのですが、・・・
実はパソコンの不調により保存していた記事が消えてしまった(+_+)
USBメモリーにも保存していたのだけど紛失(~_~;)
やってしまった・・・衝撃の内容だったのに・・・天皇家の系譜、万葉集、柿野本人麻呂、
蘇我氏の謎など・・・消えてしまった。写真も( ノД`)シクシク…
古事記、日本書紀は、蘇我氏の歴史書である、蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)が編纂したとされる「天皇記」・「国記」に記述されていた「天皇」とは、蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を使用したものである。本来の呼称ははもちろん「大王」であり、天皇家とは元は蘇我家のことである。
「天皇」の称号は蘇我馬子と蘇我の皇子である竹田皇子が作った蘇我氏の王の呼称である。
蘇我の王の呼称が、蘇我氏が滅んだ後は女帝の呼称になり、その後、秦氏、藤原氏が歴史を改竄するときに王の呼称として使用されたものです。
これ衝撃の事実ですが、ここがわからない限り古代の歴史は謎解けません。
そして天皇の称号は、本来は女帝の名称でもあるともいえます。
初代天皇は神武天皇ではありません、推古天皇です。この「天皇記」・「国記」を参照し
「天皇」の呼称を利用したのが桓武天皇、そして藤原氏である。
ですので、天智天皇なんて存在しません。天智が天皇に即位したというのは、天智系天皇である桓武天皇の改竄です。
推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇
残念ながら、そして非常に都合が悪いことに渡来人であるといってもいい桓武天皇と藤原の娘の後胤が後に繋がるということは、今の天皇家は古代から繋がるとされる本来の大王家とはほぼ繋がりがありません。
つまりここが内容的には衝撃的なわけですし、実は書きたくはなかったところでもあります。
歴史書というのは権力者の都合により改竄されたものである。古事記・日本書紀も例外ではない。
権力を握り歴史を変更したのは蘇我氏であり藤原氏である。
今の残る日本書紀は、藤原氏が権力を握った平安時代ののものである。
さらに。古事記も同様です。
歴史とは権力者の歴史である。つまり藤原氏の歴史である。
古事記、日本書紀は藤原氏の都合で変更された偽書です。
私のブログを訪れてくれている人たちは、もちろん古代史に興味がある人が多いはずですよね。
ですので皆様に問いたいことは、この「藤原宮」の呼称に違和感を感じたことはありませんでしょうか?
「宮」というのは必ずしも王の住居を指す言葉ではありません。
「藤原宮」とは藤原氏の宮ということです。藤原不比等の邸宅のことです。
権力を握ったのは藤原氏だというのは容易な推測ですよね。藤原氏により大王家は乗っ取られたともいえます。
ですので、私はこの「藤原宮」の名称が気に入りません。
いつの日にかこの名称が変更されるまで、ブログで書き続けます。
少し厳しい言い方になりますが、・・・
天武天皇、そして持統天皇(本来は高市大王)が新たに造ろうとした宮の名称が、
「藤原宮」、さらに「藤原京」、これおかしいと思う学者さんたちもいないのでしょうか?
「藤原宮」ですよ・・・大王の宮の名を藤原なんて名付けるはずないでしょうに。
こうもそろいもそろって無能な学者ばかりでは、本来の歴史は闇の中に埋もれたままです。
さらに藤原時代・・・もうバカじゃないかと・・・権力を握った藤原氏によって歴史が変えられただろうとの推測もできないのでしょうか?
古代の大王たちは泣いているよ(ノД`)・゜・。
この日本書紀に関して、よく歴史書などを読んでいると出てくる推測ですが、・・・日本書紀は、天武天皇の皇子である舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成したとされます。ですので天武天皇の意向に沿った天武側の視点で編纂されているのではという推測です。
本来はそのとおり、本来の大王家の人物である天武側の視点での歴史書なのですが、後に藤原氏の都合で変更されている。
今に残る最古の日本書紀は、藤原の時代、桓武天皇時代になって藤原氏の都合にによって変更された偽書である。
古事記も、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされますが、この時代のものは現存せず、今に残る最古の古事記は、14世紀のものである。それは、もちろん日本書紀と同様に内容を変更したからです。
内容を変更しなければならない理由、それはもちろん、何度も記述してきましたが、大王家と対立し
多くの人物を殺害してきたからです。
大怨霊となっているのは位が高い人物、長屋王や早良大王も本来は「大王」でした。
キーマンは、聖徳太子こと、天武が皇祖と仰ぐ、そう、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある聖徳太子、日十大王こと、押坂彦人大王である。
藤原氏は、特にこの押坂彦人大王の後胤の系譜を改竄する必要があったのです。それは大王家と対立し多くの大王たちを暗殺してきたからです
押坂彦人大兄大王ー山代王ー天武天皇ー高市皇子ー忍壁皇子ー長屋王ー鈴鹿王ー葦原王ー早良親王
押坂彦人大兄大王ー茅渟王ー孝徳天皇ー有間皇子
この間に天皇だったとされる女帝たちは本来の大王ではありません。
天皇と大王が存在したのです。
この押坂彦人大兄大王の後胤と対立してきたのは藤原氏であり、系譜を大きく改変している。大怨霊である長屋王や早良大王も、本来の古代からの大王であり、聖徳太子ことこの押坂彦人大王の後胤である。
大怨霊として恐れられる人物として思い浮かぶのは、平将門もそうでよね。平将門は、なんかファーストサムライのような人物ですが、実は平安時代中期の人物です。ここも誰も指摘していませんが・・・。
この 平将門は怨霊とされ恐れられたのは、「新皇」を自称し、天皇と対立したからではなく、藤原氏と対立していたからである。
そしてどうしてこうも恐れられているのかというと、平将門こそ本来の王家から繋がる人物であるからです。長屋王や早良大王と同様です。
平将門は、桓武天皇の5世子孫ではなく、本来の大王である早良大王の5世子孫である。
平将門は桓武天皇の5世子孫と称して「新皇」なのったのではなく、早良大王の5世子孫として「新皇」を
名乗ったであり、本来の正統な王家に繋がる人物だからです。だから大怨霊なのです。
本来の王家の血が繋がるのが平氏のほうである。桓武平氏ではなく、早良平氏である。ここも誰も指摘していません。
押坂彦人大王以降の歴史を藤原氏によって変更されている。
「長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎」のところで記述しましたので詳しくは書きませんが、・・・
凄く重要なところなので、もう一度。
桓武天皇の后たちをみれば彼が何者か容易に推測できます。
天智系天皇である桓武天皇は百済と密接な関係を持っています。
桓武天皇の母親は、百済系の渡来人氏族である和氏の女性である高野新笠であるというのはよく知られたことであるのですが、后にした女性たちも渡来人が多い。
それは天智天皇が、百済渡来人である秦氏の王子だからです。
桓武天皇は、后27人に、実に16人の皇子と19人の皇女があるとされますが、これは早良大王の后を桓武の后として取り込んでいるからです。
桓武天皇を王家に繋ぐための改竄であり、蘇我馬子が蘇我氏を王家に繋ぐ改竄と同様の手法を用いている。
多くの系譜の改竄に関しての手口、本来の王家の人物を自家に取り込んでいる。蘇我氏の手法を藤原氏は真似たのです。
系譜改竄の手法である。
藤原種継暗殺事件において、多治比氏、多治比浜人が処罰されていることからも推測できます。
多治比氏は大伴氏などとともに反藤原の豪族である。その多治比氏の娘が桓武天皇の后であるはずはない。
多治比真宗は、本来の大王である早良大王の后である。
長男である葛原親王はこの本来の大王である早良大王の王子である。
つまり、桓武平氏ではなく、早良平氏である。
平将門は、桓武天皇の5世子孫ではなく、早良大王の5世子孫である。
藤原氏の娘と渡来人の娘以外は、早良大王の妃たちである。
それと、藤原の娘とされている、自らの系図に取り込む改竄である、
王家の娘を藤原の娘として取り込んでいる。
皇后とされる藤原乙牟漏も阿部氏の娘、阿部乙牟漏であり早良大王の皇后である。藤原旅子は大伴旅子である。
桓武天皇は、秦氏、藤原氏に関係する渡来人の王である。
これは桓武天皇の妃たちを見れば一目瞭然でしょうに。藤原氏と渡来人の娘ばかりじゃないですか。
なぜかというと、桓武天皇は渡来人である天智から繋がる秦氏の王だからです。
藤原氏は中臣氏なんかではありません。藤原氏の祖、鎌足も百済からの渡来人です。
桓武天皇の都は平安京ですが、なぜに奈良から京都に都を移したかというと、
この平安の地は元は秦氏が開発した秦氏の本拠地だったからです。
天智天皇の近江京もまた同様です。平安京も、近江京も渡来人の都です。
天智は天皇ですが、本来の王ではありません。その天智から繋がる桓武天皇も本来の王ではありません。
天智天皇は長らく即位しなかったのは謎だとされますが、はっきりいって
天智は王(天皇)には即位してません。あたりまえだけど、王に即位できる身分ではない。
天智が天皇に即位したとされるのは、桓武が王座を奪ったからです。
天智天皇から繋がる桓武天皇もまた渡来人、秦氏の関係する王であり、桓武は自らの即位を
正当化するために、天智を天皇に即位していたと歴史を後に改竄したのです。
この歴史を改竄したという歴史書が日本書紀である。
天智と天武は兄弟であり、天智が天皇に即位していたというのは、この桓武天皇による改竄です。
天智天皇は秦氏と関わる渡来人である。
日本書紀、天智天皇条をみれば百済との関係を容易に推測できます。
私なんかこんなこと書かなければいいのに・・・って思うのだけど、もう本当に
天智朝と百済の関係を容易に推測できます。
天智朝は百済国だということです。その天智天皇から繋がる桓武天皇の平安京もまた百済国である。
この時代、多くの渡来人(特に百済から)が朝鮮半島の戦乱の中、倭国に渡ってきています。
そう百済は滅亡の危機にありました。
祖国を捨てて、はるばる倭国に亡命してきたの百済からの渡来人たちの多くは一般の民衆ではありません。彼らは百済の王家に関係する支配層の人々だと推測できます。それは支配階級の人々は殺される運命にあるともいえるからです。
この亡命渡来人たちが頼ったのは、すでに土着し倭国で基盤を築いていた百済からの渡来人集団である秦氏である。そして百済復興のため、彼らは倭国を百済に味方するように画策します。
これが悲劇の始まりである。倭国、孝徳政権は唐、新羅と同盟を結ぼうとしていたのです。秦氏、藤原氏と蘇我氏や王家との対立はこの朝鮮半島の情勢が大きくかかわります。
日本書紀 天智天皇条
四年春・・・是月、勘校百濟國官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。其本位達率。復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡。三月癸卯朔、爲間人大后、度三百卅人。是月、給神前郡百濟人田。
五年・・・是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。
八年・・・又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。
**********************
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたとされますが、必ずしもそうではなく、唐の主力軍が百済の地から離れると、各地で反乱が起きます。最終的には白村江の戦いの後に百済は滅亡します。
以前にも記述しましたがこの戦乱の時期に多数の渡来人が百済から亡命している。
そして天智天皇は彼らを保護し、重要な階級に就けているようなこともしている。それは天智天皇は秦氏の関わる王だからです。
この天智条にある、亡命百済人の大半は百済の王族や貴族などの支配階級の人々だと推測できます。
ここに記述のある数だけでも三千人以上もの人々が亡命してきます。残っている百済の支配層ががそのまま倭国に移ってきたといってもいいくらいです。
そして天智天皇は、自らの都である近江京の近くに亡命渡来人たちを住まわせます。記述にあるように、近江神前郡や近江蒲生郡です。
そして亡命した彼らを重要なポストに用いることもしています。本来はありえません。
十年・・・是月、以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明法官大輔、以小錦下授鬼室集斯學職頭、以大山下授達率谷那晉首閑兵法・木素貴子閑兵法・憶禮福留閑兵法・答㶱春初閑兵法・㶱日比子贊波羅金羅金須解藥・鬼室集信解藥、以上小山上授達率德頂上解藥・吉大尚解藥・許率母明五經・角福牟閑於陰陽、以小山下授餘達率等五十餘人。
童謠云、
多致播那播 於能我曳多曳多 那例々騰母 陀麻爾農矩騰岐 於野兒弘儞農倶
**************************
ここに記述されている人物の多数は百済からの渡来人です。もちろん支配階級であった人物たちであり、
彼らを天智朝の重要なポストに用いている。
そして続いて記述されているこの意味深な歌を見てください。
歌の意味は・・・
「橘の実はべつべつの枝に生っていますが穴をあけて通すときは同じ糸でとおします。」
百済からの渡来人を自らの政権の重要なポストに就ける話の後のこの歌、これ、百済と我々は同胞
だと言っているような歌に思えますよね。
出生地は異なっても同胞は一つに纏まるという意味に私には思えるのですが・・・?
ともかく、天智天皇は百済と深く関わっていることが推測できますよね。
いままで記述してきましたが天智天皇と藤原氏は多くの暗殺を行い、百済を助けるために朝鮮出兵を行っています。
それは天智や藤原氏はこの百済に関係する渡来人だからです。秦氏の王子が天智である。
秦氏の族長である秦河勝の妹の孫が天智天皇である。
これら新たな百済からの渡来人と、以前から渡来していて土着していた渡来人、秦氏が百済復興の兵を倭国で上げたのです。
倭国、孝徳政権は、本来は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。
しかしこの百済復興を目指す渡来人たちのクーデターが勃発したのです。
これが孝徳大王と天智との争いの真実です。
白村江の戦はこの渡来人たちのクーデターによる出兵であり、壬申の乱もまたこれら渡来人と王家との争いである。
壬申の乱は皇位継承の争いとされますが、そうではない。天智は王ではありません。
もちろん皇子である大友皇子も王ではありません。
天智が天皇に即位していたというのは、天智系天皇である桓武天皇による後の改竄です。
天智の近江京は百済国であり、渡来人のによって作られた国である。
こちらのほうが本来の都であると改竄したのは、桓武天皇や藤原氏である。
それは天智が渡来人であるなら、桓武天皇は王に即位できないからです。
書きたくはないところですが、渡来人による王家簒奪である。
改竄された歴史書である、日本書紀・古事記を正史とするかぎり古代の歴史は歪められたままである。
白村江の戦いには、これら多くの渡来人が参戦し敗北のため渡来人勢力は弱体化しました。
この機をとらえ本来の大王である天武は戦いを挑んだのです。逃亡中であるともいえる天武に何万人ともいえる加勢がありました。
多くの豪族が天武に味方したのはこれが理由です。
壬申の乱の主な戦地はこの近江である。この近江は渡来人の国、百済国である。
大王家と渡来人との争いを、皇位継承の問題にすり替えている。
本来の大王家の人物である天武と、渡来人である天智は兄弟ではありません。
ですので天智天皇から繋がる桓武天皇は、この天智の出自を変更する必要があったのです。
この天智天皇の系譜の謎を考えていきます。天智系天皇である桓武天皇は、天智天皇を大王家の系譜に入れる必要があったのです。
系譜変更のキーマンは天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后であったとされる持統天皇です。この持統天皇は天智天皇の娘ではない。
そしてもちろん、天皇は大王ではない。天武は大王であり、天武の後は第一王子である高市王子が大王に即位している。
万葉集、柿野人麻呂の挽歌にあるように、この高市大王の宮の名は「香久山宮」である。「藤原宮」ではなく「香久山宮」である。
藤原宮とは藤原不比等の邸宅のことであり、持統はここで天皇に即位したのです。
でも持統は天皇に即位した・・・これ真実なのだろうか???
この「藤原宮」の方が本来の宮であるとの記述は、もちろん藤原氏による改竄である。
そしてこの高市大王の皇后は同じく柿本人麻呂の挽歌から推測できるのですが、阿部氏の娘である阿部明日香である。
孝徳政権の時に、左大臣だったのが阿倍内麻呂である。
この対立していた阿部氏の系譜を消し去っている。持統天皇はこの阿部氏にかかわる女性である。
持統は天智の娘ではない。この阿倍内麻呂の娘である。
天智天皇の4人の娘を、弟である天武天皇の妃にしたという不思議な話が系譜改竄の重要な箇所である。
これは天智の血を大王家に繋げる操作といえます。
天智の娘とされる、大田皇女・鸕野讃良皇女・大江皇女・新田部皇女の4人の娘は、孝徳天皇と阿部氏の娘たちとの子供である。
天智の娘ではなく、阿部氏の娘たちである。
系譜改竄のキーマンは、長屋王です。藤原氏は本来の大王だったこの長屋大王を殺害しました。
長屋大王は本来の王だったとという証拠は、木簡の出土により明らかです。
藤原氏は、死に追いやった長屋王、そして藤原四兄弟をこの長屋王の怨霊により殺された恨みを持ちました。
この長屋王を大王に即位していたとしたくないのです。藤原氏による系譜改竄は、ここからです。対立していて殺害してきた大王家の人物たちの系譜を変更する必要があったのです。
ここから天武、持統以降の系譜の改竄を考えていきます・・・
この長屋大王を王ではないと系譜を改竄するには、父親である高市王子を大王に即位していないとすることです。
それは高市王子のお母さんの身分を変更することです。
天武天皇の第一王子であるのに、この高市王子は大王に即位したとされていません。そんなはずはありません。
実際に通説は、即位できなかった理由はお母さんの身分が低かったというのが大きな理由とされます。
高市王子のお母さんは、胸形徳善女の尼子娘とされます。ここが系図変更箇所であり身分の低い女性に変更している。
「額田王の謎と推古天皇」のところで書きましたの詳しく書きませんが、高市大王の本来のお母さんは、天武の本来の皇后であり大王家の姫王である額田王です。
この額田王の系図を変更し、天武の皇后を持統天皇にしている。持統は天武の后であるのですが皇后ではない。
藤原氏はこの持統を利用し、本来の大王家の人物の系譜を改竄したのです。
それは、聖武天皇の后が藤原氏の娘、光明子だからです。藤原氏は、持統天皇が天武の皇后であるとする必要があったのです。
系図を遡ってたどれば改竄の推理は容易です。
天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。聖武天皇の后が藤原氏の娘、光明子です。
聖武天皇は持統天皇から繋がります。つまりここです。持統を天武の皇后にする必要があるのです。本来は聖武天皇は傍系の人物です。
聖武天皇は王家の人物であるのですが、彼こそ本来はお母さんの身分の問題で王に即位するのは遠い人物だったのです。
藤原不比等の娘とされる、藤原宮子です。宮子は不比等の娘ではありません。
そしてこの藤原不比等は、天智天皇の落胤という説も桓武天皇による改竄である。
つまり、聖武天皇を正統な王位継承者とするには、持統を天武の皇后にすることです。
そして額田王の身分を下げることです。そして彼女たちを天皇に即位したとの操作がなされている。
持統天皇は本当に天皇に即位したのだろうかという謎まで考えてみます。
これも桓武天皇による改竄ではないのか?
もうすでに記述してきましたが、持統天皇もまた孝徳天皇の娘である。
ですので持統は本来天武の皇后ではないものの彼女の身分に問題はありません。
問題なのは、聖武天皇のおかあさん、髪長姫こと藤原宮子です。彼女は藤原氏、
不比等の娘ではありません・・・ここは次回に書きます。
この持統天皇の系図の変更について・・・
持統天皇の母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘とされます。
妹は姪娘です。ともに天智天皇に嫁いだとされます。
蘇我の娘が天智に、よくよく考えればありえませんよね。
「蘇我氏と藤原氏による系譜改竄の謎」のところで書きましたが、蘇我倉山田石川麻呂という少し奇妙な名は石川氏が渡来人を束ねるこの時代の最有力豪族である蘇我氏に繋いだ名だと思うのですが?
そして遠智娘は、天智との間に建皇子と大田皇女、そして鸕野讃良皇女(持統天皇)を生んだとされます。
天智天皇はこの遠智娘を得て大変喜んだとされます。ですので私も初めはこの遠智娘だけは天智に嫁いだのだと思っていました。これは間違いでした。
遠智娘は、またの名を造媛、美濃津子娘、越智娘とも伝えられているとされます。
このまたの名が多い人物は他の人物と混同されている。そして意図的に変更している。遠智娘と造媛、美濃津子娘は別人です。
蘇我倉山田石川麻呂の娘が造媛、美濃津子娘です。
遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女である阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。
ですので天皇に即位したのです。孝徳大王の皇后ということです。
持統天皇は天智の娘ではなく、孝徳大王の子供であるとの推測は、以前に書きましたが「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」において記述のある「袁智天皇」から推測できます。
孝徳大王の宮である難波宮にいるとの記述からの容易に推測できます。
袁智天皇とはこの阿倍遠智娘のことであり、孝徳大王の皇后である。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」
***************************
天皇の呼称は蘇我の王の呼称であるのですが、女帝の呼称(つまり皇后)でもあるのです。初代天皇は推古天皇です。
乙巳の変により蘇我氏が滅んだ後に女帝の呼称になったのです。650年に天皇に即位したのが阿倍遠智娘、袁智天皇です。
推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー孝謙天皇、称徳天皇
この女帝の称号「天皇」を用いて系譜を改竄している。
この系譜の改竄の謎を考えてみます・・・
袁智天皇こと阿倍遠智娘と孝徳大王との子供が持統天皇である。阿部氏憎しの藤原氏はこの阿部氏の系譜を消し去っている。
藤原四兄弟を祟りにより死に追いやった長屋王の怨霊、この長屋王は高市大王と阿部氏の姫王である阿部明日香との子供だからです。
以前から書いてきましたが、系図を変更しているのですが名前まで変更していない。これが改竄の謎ときの手掛かりとなる。
遠智娘の妹である、姪娘の子供たちの名からも推測できます。
蘇我姪娘は天智天皇との間に、御名部皇女と阿閇皇女(元明天皇)を生んでいるとされます。
この二人の娘の名前から系図の改竄を推測してみます。
特にこの元明天皇の名からの推測は容易です。
元明天皇の諱は阿閇(あへ)。阿部皇女ともされます。
何故に元明天皇は阿部の名がつくのでしょうか?おかしいですよね。
蘇我倉山田石川麻呂の娘、蘇我姪娘の子供であるなら、蘇我皇女のはずですよね。これはありえません。
姪娘は阿倍内麻呂の娘である、阿部姪娘である。だから娘の名が阿部皇女なのです。
同様に姉である、遠智娘も阿部遠智娘である。
阿部遠智娘は孝徳大王の皇后であり、持統天皇のお母さんである。
この阿倍氏の系譜を変更している。それは孝徳大王の側近であり、天智、藤原氏の敵対勢力であったからです。
藤原四兄弟を呪い殺したとされる大怨霊である長屋王のお母さんも阿部氏の娘である。ここも変更されている。
そして長屋王が本来の大王だったことが、改竄しなければならなかった理由である。
孝徳天皇は奈良の地を離れ、なぜか難波に遷都しています。それはこの阿部氏の勢力下に避難したのです。
今もこの阿部の地名、阿倍野は残っています。
阿部氏は藤原氏と対立していた孝徳側の有力豪族である。
この孝徳政権で左大臣だったのが、阿倍内麻呂である。
奈良の都は渡来人勢力により危険な状態にあったのです。孝徳政権は百済援護のための朝鮮出兵には反対していたからです。
蘇我氏もまた朝鮮出兵には反対の立場だったのです。孝徳政権に蘇我氏系豪族を多く重用したのはこれが理由です。
孝徳天皇が乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説がありますが間違っています。
乙巳の変は蘇我氏の専横が理由なのではない。百済救援のための出兵に反対の立場である蘇我蝦夷、入鹿の暗殺である。
藤原の時代の日本書紀なんて信用できない。ふざけるな藤原( `ー´)凸
倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。渡来人によるクーデターが起きたのです。
そしてもう一人の娘の名、御名部皇女から彼女たちのお母さんも推測できます。
彼女の御名部の名は地名から名付けられている。和歌山、紀南の地名の「みなべ」からです。
今もこの地名、(日高郡南部)は残っています。
彼女もまた、危険な渡来人勢力のいる奈良の都から離れ和歌山南部に移住しここで生まれたか、
あるいは育ったからの名です。
万葉集 巻九ー1669
三名部(みなべ)の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣りする海人を 見て帰り来む
奈良の都が危険な状態にあったため、孝徳大王は子供たちである有馬皇子や建皇子を紀南の地に避難させている。
ここは阿部氏に関わる豪族である、 塩屋鯯魚の勢力地である。
そしてこの地で、有馬皇子や建皇子は暗殺されている。有馬皇子の事件は、大王家と渡来人との戦争の中亡くなっている。建皇子もまたこの争いの中で殺されている。
姪娘は阿倍内麻呂の娘であり、お母さんはこの紀南の豪族である、塩屋鯯魚の娘である。
そして藤原氏の系譜に関わる重要な人物、藤原宮子もまたこの塩屋鯯魚の娘である。
阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘の子供が元明天皇やこの御名部皇女のお母さんである阿部姪娘である。
有間皇子の謀反の事件の時に連座した4名のうち、有間皇子とともに処刑されたのが、
塩屋鯯魚と新田部米麻呂とされまが、本来は渡来人との戦争である。
この塩屋鯯魚や新田部米麻呂は阿部氏と関わる孝徳大王側の豪族である。
この御名部皇女を蘇我倉山田石川麻呂の娘として、阿部氏の系図を変更し、 高市大王の妃に変更し、
本来の高市大王の皇后である明日香皇女の系図を変更している。
それは、長屋王はこの明日香皇女の子供であり、本来の大王であるからです。
これは、万葉集にある柿本人麻呂による明日香皇女への挽歌から容易に推測できます。
この明日香皇女のお母さんは阿倍内麻呂の娘の橘娘です。この系図は変更されてはいないのですが、天智天皇の妃ではない。
孝徳大王の妃であり、これも子供たちの名前から推測できます。
明日香皇女と新田部皇女の二人ですが、この新田部の名から改竄箇所を容易に推測できます。
そう、阿部橘娘は、阿倍内麻呂と新田部氏、新田部米麻呂の娘との子供である。
上記したように新田部氏は孝徳大王側の豪族である。
新田部皇女は、天智天皇と阿倍内麻呂の娘である橘娘との娘とされますが、
孝徳政権で、左大臣であった阿倍内麻呂は自身の娘である橘娘を敵対する渡来人の天智天皇に嫁がせるわけない。
孝徳天皇には子供一人、この有間皇子しかいません。そんなことありえません。
阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・
孝徳天皇は有間皇子しか子供がいなかったとされますが、ありえません。
そして以前にも書きましたが系譜変更により、年齢も変更している。
遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり
長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。
阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子
阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子
蘇我姪娘は 蘇我倉山田石川麻呂の娘ではなく、阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘との子供である阿部姪娘である。
そしてもちろん天智の后ではない。
阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)元明天皇
阿倍内麻呂と新田部米麻呂の娘との子供が阿部橘娘であり、天智の后ではなく孝徳大王の后である。
阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (刑部大王妃)
これが天智の娘を天武に嫁がせたという不思議な話の真実です。
天智の血を大王家に繋げるための改竄である。
天智天皇と藤原氏は深く関係します。大王家と対立していた藤原氏は、我々の関係する人物の方が
正統な王であると改竄したものが日本書紀である。
正史とされますが、とんでもないことです。
まだまだ続きます・・・
「神武天皇と応神天皇の謎と倭の五王」のところでも書きましたが、天智天皇の諱は葛城です。これ何故に天智の本来の名は、葛城なのだろうと不思議に思いますよね。葛城?だってあなた渡来人の皇子でしょう?・・・って私なんか思うのですが。天智は葛城氏とは関係しませんよね。もちろん真実ではありません。
もう何度も記述してきたことですが、本来の古代の大王家とは後の物部氏のことです。
この古代の大王家と、対立していたのが葛城氏です。大和王権内の内部紛争です。葛城系の豪族、蘇我氏によって変更された系図、つまり葛城系の王たちのほうが正統な古代の王たちだと変更したもの、・・・天皇記・国記を元に、天智系天皇である桓武天皇の時代に日本書紀・古事記を変更したからです。敵対していた古代の大王家の歴史を変更している。それは、桓武天皇の時代に歴史を変更したときに蘇我氏の歴史書を用い本来の大王家ではなくこの葛城系の王に繋げたからです。
神武天皇というのがまさにこの葛城の王のことです。本来は大和政権の内紛なのですが、この神武天皇はなぜか九州から来たと主張しています。これ大王家こと物部氏が古代において九州から畿内に来たからです。
対抗して我々も九州から来たとしているのです。魏志倭人伝にも関係するのですが、神武天皇は九州南東部の日向国から東征してきたとされます。これは九州北部こそこの物部の支配地であり、九州南西部は狗奴国だったからです。つまり南東部しか空いてなかったからだと思うのですが・・・?
そこから東進したとしているわけです・・・魏志倭人伝の謎はいづれ書きます。
神武天皇というのは、武内宿禰であり、彼は和歌山生まれとされます。この和歌山の地から紀ノ川沿いに奈良盆地、葛城地方にはいり葛城の王となったのが、武内宿禰である。
それは、蘇我氏や葛城氏はこの武内宿禰を祖とすることから容易に推測できます。これが本来、蘇我馬子と竹田皇子が編纂した、蘇我氏の歴史書ともいえる「天皇記」・「国記」において葛城の王であり祖王である武内宿禰こと神武と物部の争いの物語である。日本書紀にも記述されますが、神武天皇は物部氏と戦っています。先に大和に先住していたのは物部だとも記述されています。
天智系天皇や藤原氏というのは渡来人である。天智天皇の諱の葛城は古代において大王家と対立していた葛城氏の名を、桓武天皇の時代に名付けられたものである。欠史八代ともいえる天皇たちはこの本来は葛城の王たちのことでもある。
これは、もちろん蘇我氏が物部氏と争ったことが大きく関係する。