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文武天皇の妃である藤原宮子は、藤原不比等の娘とされますが不思議な話が語られています。宮子は藤原不比等の娘であるということが事実なら、宮子は藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になり藤原氏にとっても重要な人物になります。
藤原氏は天皇家と関りを持ち、子供の聖武天皇を天皇に即位させました。この後、藤原氏は天皇家の外戚となることで権力を得ることになります。藤原摂関政治の始まりです。
しかし、安珍・清姫で有名な、和歌山県御坊市にある道成寺には、藤原不比等の娘とされ文武天皇の妃となったとされる、不比等の長女であるこの藤原宮子は、実はこの地域の漁師の娘であったとの伝説が今も語り継がれています。
今回は、聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと宮子のお話です。かぐや姫のモデルともされる絶世の美女です。
梅原猛氏の著書である「海人と天皇」で有名になりましたが、宮子姫の伝説はあまり知られていないことです。
私も地元ともいえますので、この伝説は小さいころから知っていました。そして「海人と天皇」読んで以来、長らくこの、かみなが姫の物語を考えてきました。
もう1300年程も語り継がれている伝説です。これだけ長くに伝えられているのは真実
だからだろうとも思いますが、どこかにいまだ隠された謎があるのではないのか?
いままで系譜改竄の謎について考えてきました。こういう不思議な話がある箇所が系譜改竄の箇所であるように思えるからです。藤原氏の女性が初めて王家と関わったということになる宮子は、藤原氏にとっても、そして系譜改竄においても重要な人物です。
天武大王の王子の高市大王、その王子である長屋大王が本来の大王家の正統な大王たちだとういうことがわかれば、系譜が変更された箇所について案外容易に推測できます。(*^▽^*)
道成寺に伝わる、かみなが姫の伝説は、藤原氏にとって重要な人物である藤原宮子は不比等の娘ではないとの話です。道成寺の由緒として藤原氏は何故にこの伝承を残したのだろうか?。なにか隠されている真実があるのではないのか?
伝説のおおまかな話です・・・
九海士(くあまの里)今の和歌山県御坊市湯川町下富安。漁師の夫婦(村長ともされます)に娘が生まれました。名前は「宮」といいました。
娘は成長していったのですが、なぜか髪の毛が生えてきませんでした。
海に潜って漁をしていた母親(あるいは娘である宮自身)は、海中で小さな観音様を見つけました。この観音様を毎日拝んでいると、髪が生え始めました。やがて、かみなが姫とよばれる美しい女性に成長していきました。
藤原不比等は、この少女を自身の養女とし、そして宮廷内にいれました。
やがて、この絶世の美女が、文武天皇の妃となり藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になりました。
聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと藤原宮子です。
道成寺創建の由緒でもあります。
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藤原不比等は、この美しい少女を見つけ養女とし、天皇の妃にして王家と関りをもったということですが、この伝説においての不思議な話、つまりありえない事柄についてですが・・・
どうして漁師の娘が宮廷に入れたのかというところです。絶世の美女ということだけでは、本来は無理なのです。天皇の妃になるには、それなりの身分。つまり地方の豪族の娘位の身分が必要なわけです。
藤原不比等の娘ということなら、おかしくはないとも言えますが、伝説のように養女ということなら本来ははありえないことです。
だから宮子は地方豪族の娘であるはずです。この豪族の名が消されているのは、藤原氏と敵対していた豪族だからです。
この藤原氏の娘として系図を変更したのは後の話であり、本来の事実はそうではないのではとも思えるのですが?
「尊卑分脈」や続日本紀においては、藤原宮子は、不比等と、賀茂小黒麻呂の女である賀茂比売の娘とされます。これが事実なのだろうか?あるいは伝説の方が事実なのだろうか?
「海人と天皇」において梅原猛氏は、養父が不比等であり、養母がこの賀茂比売であり、この系図に組み入れたと考えられとされます。これはこの通りのように思います。
しかしこの系図を変更したのは、つまり藤原の娘だとしたのは、後の時代、息子の首(おびと)を聖武天皇として天皇に即位させた時だろうと思うわけです。
それは藤原氏、不比等の娘である光明子が、聖武天皇の后になったからです。聖武天皇は、藤原氏が初めて王家と関わる人物であり、藤原氏はこの聖武天皇のほうが正統だと系譜を改竄しています。
つまり、藤原の娘でないのに入宮できたということは本来は宮子はそれなりの身分の女性であるということです。この宮子姫の出自を考えてみます。
藤原宮子は不比等の娘なんかじゃありません。宮子は、やはり地方豪族の娘である。この紀中地方を支配する豪族は、阿部氏に関わる豪族である、塩屋連、塩屋鯯魚である。宮子はこの塩屋連の娘、年齢的には塩屋鯯魚の孫である。そして、何度も記述してきましたが、阿部氏は藤原氏に対抗する大王家側の有力豪族でした。
宮子は阿部氏と 塩屋連との姫王であるという推測をしていきます・・・
不比等による藤原氏を王家の系譜に入れる操作である。
そしてこれは、藤原の操る天皇としての聖武天皇の出自を上げるともいえる操作でもある。
天武天皇と持統天皇の子は草壁皇子です。この草壁皇子と元明天皇の子供が文武天皇です。
ところが不思議なことに文武天皇には正妃がいなとされます。皇后にふさわしい皇族身分の女性が妃の中にいないのです。そんなことは本来ありえません。ですので藤原の娘である宮子が后の中では一番上位に位置します。
ですが、そうなるように本来の后が消されている。
天武大王、第一王子の高市大王、その長男の長屋大王が本来の大王たちでした。藤原氏と敵対していた、高市大王、長屋大王を王に即位していなかったとの操作がなされている。彼らの時代に天皇されている人物は本来の王ではないのです。長屋王の時代、・・・そう聖武天皇もです。
「不改常典」を持ち出して、藤原に繋がる天皇たちのほうが正統だと主張していますが本来は傍系の王たちなのです。
藤原氏が大きく関わる聖武天皇は、直系ではなく傍系の王なのです。この傍系の王の方が正統だとして天智系天皇や藤原氏は系譜を改竄したのです。
改竄のキーマンは持統天皇など天皇に即位したとされるこれら女性たちです。
ウイッキペディア・・・
聖武天皇の即位詔
かつて元明天皇は元正天皇に譲位したとき、天智天皇が「万世に長く改めない常の典として立てたまい敷きたまえる法」に従って、わが子に授けよと命じた。・・・元明は聖武の祖母、元正は聖武の叔母だが、この宣命ではともに聖武を「わが子」と呼んでいる。
孝謙天皇の即位詔(聖武天皇の譲位詔)
詔では、天智天皇が「改めない常の典と初め賜い定め賜える法の随に」天日嗣高御座の業を継げと、元正天皇が聖武に命じたという。自分はこれに従って皇位についたが、身体が耐えないので、「法の随(まにま)に」、すなわち法にしたがって、皇位をわが子に授ける、という。
桓武天皇以降の即位詔
不改常典はこの後しばらく言及されないが、桓武天皇の即位詔で再登場した。その大意は「天皇(具体的には光仁天皇)が天日嗣高座の業を天智天皇の初め定める法に従って受けよと自分に命じた。自分は恐れて進むも退くもできなくなったが、天皇の命なので即位する」というものである。
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天智が定めたとされるこの「不改常典」。直系の子孫が継ぐという当たり前のことを言っているわけですが、裏を返せば直系ではなかったからです。
これはもちろん天智が定めたのではなく、続日本紀の編纂時に作成されたものです。この元明天皇の即位詔で用いられたのが初めてとされますが、天智系天皇である桓武天皇、藤原氏の時代になって日本書紀を改竄したときに、我々の方が正統だとし取り入れたものです。
系譜を改竄し天智系天皇や藤原氏が関係する天皇たちのほうが正統だとしているのです。実際はそうではなく傍系の人物たちであり、本来の直系の大王たちを滅ぼしたのが藤原氏である。聖武天皇は王ではありません。
天武大王ー高市大王ー長屋大王が本来の大王家の系図です。
この時代に天皇に即位したとされる女性たち、持統、元明、元正は本来の王ではありません。
この元正天皇は、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。とされます。そんなわけありません。皇后でなくては天皇に即位できません。それは、天皇とは皇后ともいえるからですが、元正天皇こそ文武天皇の后であるのでは?
元明天皇に関しては記述してきましたが、彼女の諱である阿部皇女から、阿部氏の関わる女性だと推測してきました。
そしてこの元正天皇もまた阿部氏の関わる女性である。元明の諱の「阿部」、そして、ありえないことに聖武天皇と光明子の娘である称徳天皇の諱も「阿部」なのです。
藤原四兄弟を死に追いやった阿部氏の系譜を消し去っている。長屋王の母親は阿部氏の姫王、阿部明日香である。
聖武天皇と、藤原氏の娘である光明子との娘の諱が「阿部」というのはありえません。
孝謙天皇、重祚して称徳天皇の即位前の名は「阿倍内親王」です。
藤原の娘であるのなら藤原内親王のはずが、なぜか阿部です。藤原の娘なら敵対する「阿部」の名を持つことはありえません。
系図のどこかで阿部氏が関わるはずです。
聖武天皇の父親である文武天皇は、阿部氏の娘である元明天皇との草壁皇子との子供だからともいえますが、やはり聖武天皇の母親である藤原宮子もまた阿部氏の娘、阿部宮子だからではないのか?
元明天皇の諱は阿閇、阿部皇女です。天智の娘とされますが、そうではなく阿部氏の娘である。
蘇我倉山田石川麻呂の娘とされる、遠智娘や姪娘はともに阿部氏の娘であるということです。
天智天皇に嫁いでいるされていますが、そうではなく孝徳大王の后たちである。
つまり彼女たちの娘であるこの元明天皇や、その姉とされる持統天皇は孝徳大王と阿部氏の娘との子供である。
そうでないかぎり、諱が阿部なんてはずがない。
そうすると文武天皇や、聖武天皇も阿部氏が関わる王たちになります。
だから、元明、称徳天皇の諱、本当の名が阿部なのです。
大王家は阿部氏と深く関わってきました。元正天皇と藤原宮子は、阿部氏と塩屋連の娘たちである。孝徳政権において左大臣だった阿倍内麻呂の子である阿倍御主人、年齢的には子供の広庭と塩屋連の娘との子供である。
そして元正天皇の名前からも同様の推測ができます。
元正天皇の諱は氷高(ひだか)・日高ともされます。これも地名から名付けられている。彼女もこの「ひだか」の地で生まれたからです。
すると彼女もまた、かみなが姫なのではないのだろうか?つまり宮子と関係するのではないのか?
この地名である「日高」は今も残っています。かみなが姫の伝説が伝わる道成寺のある御坊市はまさに日高郡の中心地です。そしてこの地を支配する豪族は塩屋連であるわけです。
彼女もまた孝徳政権での有力豪族だった阿部氏と、豪族塩屋連との娘である。
渡来人との争いで都が危険な状態にあったため、孝徳大王は宮を阿部氏の勢力地であった難波に移しています。さらに子供たちを紀南に避難させている。
孝徳政権において左大臣だったのは阿倍内麻呂です。内麻呂の子は阿部御主人です。元正天皇こと、日高と藤原宮子は、この御主人の子供である阿部広庭と塩屋連の娘との子供たちである。阿部御主人の孫娘たちである。
阿部氏と塩屋連は関りがありました。
阿部宮子と、阿部日高である。阿部宮子の子供である聖武天皇は阿部氏の王子なわけです。ですので娘の称徳天皇の名も「阿部」なのです。この阿部氏の系図が変更され消されている。
しかし彼女たちは王家の血がはいっていなく、身分的には高くはありません。この傍系の王、文武天皇と聖武天皇を利用したのが藤原氏です。
有力豪族である阿部氏の娘であることから宮廷にはいれたのです。
長屋王の母親もまた阿部氏の娘である阿部明日香である。
木簡によればこの氷高内親王の、宮は奈良宮の中にありました。
何度も記述してきましたが、藤原氏はこの対立してきた阿部氏の系譜を消し去っている。
ウイッキペディア 元正天皇
聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。
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阿部氏と塩屋連の娘、母親が異なるかもしれませんが、宮子と元正とは姉妹なのではないのか・・・ここは私の推測ですが、・・・姉が元正天皇こと、氷高、妹が宮子。ともに文武天皇妃であるのですが、本来の皇后はこの元正天皇である。しかし彼女には子供いませんでした。
藤原氏の娘である光明子が、宮子の子供の聖武天皇の后になったので、元正天皇は本来の文武天皇の后であるのですが、藤原氏は宮子の方を后として変えている。そして后だったことを消している。
元正天皇は、結婚経験が無く、独身で即位した初めての女性天皇であるとされますが、これはおかしいように感じます。そうではなく、宮子を后とするために文武天皇の后であったことを変更しているから独身ということになっているように思います。
ウイッキペディア・・・辛巳事件
聖武天皇は生母である藤原宮子を尊んで「大夫人」と称するとした勅を発した
公式令によれば大夫人という称号は存在せず皇太夫人があるのみであること、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になるとして、天皇の判断を仰ぎたいとの上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖」とする詔を出して事態を収拾した。
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なんか解りづらい事件ですが、呼称の問題だけではなく、藤原の娘に変更した
のがこの時、つまり藤原の操る王として聖武を天皇に即位させた時であり、
阿部宮子を、藤原宮子に変更し、文武天皇の后にしたからの事件である。
もともと藤原の養女にして文武天皇妃にしたのではなく、聖武を天皇に即位
させた時に母親を藤原の娘に変更したのです。
そして、聖武天皇妃の藤原氏の娘である光明子は、皇族以外で初めて皇后となりました。
臣下である藤原氏の娘ですが、聖武天皇の皇后にするために、宮子の位を上げ、
つまり后にし光明子が聖武天皇の皇后になる先例を作くろうとしたように思う。
つまり宮子は藤原の娘(皇族ではない)であるのですが、すでに文武天皇の皇后
だったとしたいわけです。
「大夫人」なんかより、「皇太夫人」のほうが位が上のようにも感じるのですが、・・・
この勅は撤回したとされますが、もともと「皇太夫人」そして「大御祖」の呼称を
使用したかったのだと思う。それは「天皇」の呼称を使用して歴史を改竄したからです。
長屋大王に対抗して聖武を天皇にしたからです。男性で最初に天皇位に
就いたのはこの聖武天皇かな?しかし天皇は大王ではありません。
推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇
辛巳事件とは、呼称の問題とされますが本来はそうでく系図の変更である。
聖武天皇を天皇に即位させたことにより、母親である宮子もまた天皇の后だったとしたいわけです。宮子を藤原不比等の娘としたことと、本来は皇后ではないのに文武天皇の皇后に変更したことが問題である。
「皇太夫人」の呼称は、天皇の皇后だったという意味でもあり、この呼称を使用したかったのだと思います。
裏を返せば、宮子は文武の皇后ではなかったからです。
文武天皇と后の宮子との子供である聖武天皇の正統性を主張したいわけもあります。
この事件以降に藤原氏と長屋王の対立は激化したとされますが、もともと対立していました。
最後にかみなが姫こと宮子の関する不思議な話について・・・
宮子は大宝元年(701年)に首皇子を出産しましたが心的障害に陥り、なんと、737年にやっと病気は回復し、聖武天皇とは実に36年ぶりに対面したという信じられない話が記述されています。
このありえないような話は、藤原氏と阿部氏に対立によるものだと思います。つまり親子が引き離されていて会えなかったのは敵対関係にあったからです。息子である首皇子は藤原氏の手の中にあったということです。
そして36年ぶりの対面となったのは、長屋王の祟りが関係する。
729年の長屋王の変以降はすでに権力は藤原氏のものでした。
しかし長屋王は祟りました。天平9年(737年)に天然痘により藤原四兄弟は4人とも病死してしまいました。これが長屋王の祟りだということで藤原氏は怨霊を恐れました。
怨霊が祟らないように対立するのではなく、これはいわば懐柔策である。
それは長屋王は高市大王と阿部氏の娘、阿部明日香との子供だからです。
そして宮子も阿部宮子だからです。
737年、長屋王の祟りが大きなものとなった時に、怨霊を鎮めるために36年ぶりの対面となるのです。
写真は道成寺です。
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ウイッキペディア・・・道成寺
大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう
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かみなが姫の物語は、聖武天皇の母親である藤原宮子は、藤原氏、藤原不比等の娘ではないとの話です。権力を握った藤原氏は、この道成寺創建の由緒を消そうと思えばできたはずです。何故にこの由緒が残ったのだろうか?という大きな疑問を持っていました。
これは本来の由緒を消すためでもあるようにも思います。
創建の由来は二通りあります、いずれも文武天皇が創建したということですが、大宝元年(701年)に創建というのが本来の由緒である。
しかし文武天皇の創建ではない。この由緒(藤原氏にとって都合の悪い由緒)を消し去るための、かみなが姫の物語でもある。
この「大宝」は長屋大王の元号であり、701年から729年まで在位期間である。ですので道成寺を創建したのは長屋王である。
もうすでに記述してきましたが、大王家と藤原氏は対立してきました。とくに孝徳大王時代に百済救援に関することで激しく対立しました。長屋大王政権において、右大臣に就任したのが阿部御主人です。阿倍内麻呂の子が御主人でその子が広庭です。
「大宝元年三月 大納言生従二位阿倍朝臣御主人を右大臣・・・」
「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」において書きましたが、戦乱によって、多くの大王家関係の人物が殺害されました。次期大王候補である、有間皇子や建王が殺害されたのもこの時期である、そして殺害された場所がこの道成寺のある紀中地方である。阿部氏が関わる塩屋連の勢力地に孝徳大王は子供たちを避難させていたのです。しかしここでも戦いはおき、多くの人々が亡くなりました。
長屋王のお母さんは阿部氏の娘、阿部明日香である。阿部氏は塩屋連と関係します。
かみなが姫の物語については随分と考えてきましたが、道成寺創建の由緒については、私は藤原氏によって殺害された先祖の霊を供養するお寺であり、本来の由緒は母親である阿部明日香の遺言により、長屋大王が創建したお寺であるように思います。
この由緒、つまり藤原氏が王家の人物を殺害したという事実を消すための、かみなが姫の物語である。
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