宗門で歌われる仏教讃歌の中で、個人的に好きな歌です。
「み仏に抱かれて」
この歌詞の1番から4番までの流れは、大切な人と死に別れた心に優しく響きます。
教学的には、歌詞の額面通りではない、相応しいお取次(とりつぎ)があると思いますが、それはちょっと横においておきます。
ご覧の通り、娑婆で見送る人の心情に寄り添い、うったえかける歌詞だと思います。
一番では、俤が消えるほどには時間が経過したように思いますが、それでも尽きない悲しみや哀惜を喚起します。
しかし、迷う様子もなく、すでに往く先が定まっており、いまどこらへんにいるのかなど不安を覚えることはなさそうです。
そして、亡くなった人を通して逝く(往く)先に私の心を向け、二番以降で阿弥陀様の清く美しい世界について具体的かつ端的なイメージが作られます。
慈悲の仏である阿弥陀様に抱かれて、現実では考えられない素晴らしい清浄な世界(西方浄土)へ往くのだと、私に教えてくれています。
話は少し逸れますが、
現実的に考えて、誰一人同じ状況、同じ気持ちで人と死に別れることはありません。
思いもかけない若さでの急な別れ、病んで痩せ衰えて苦しみに満ちた最期…思い出す大切な人の顔はどんな表情でしょうか。
そして、娑婆に生きていかねばならない私の孤独と不安があります。
物語だと言われたとしても、美しく苦しみのない世界でまた…そう願わずにはおれない私がいます。
ただ、そのように私が「願う」だけで終わらせないのが浄土真宗です。
「必ず浄土へ生まれさせる」という阿弥陀様の救いが、いま、ここにいる私の口にお念仏として成就し、我が身はすでに阿弥陀様のお慈悲に抱かれ救いのなかにありましたと、よろこばせて頂く宗旨です。
亡き人を抱き決して捨てない阿弥陀様は、今、ここにいる私をも抱いて離さないでいてくれるのです。
上記の真宗的なうけとめを抜きにして、孤独、悲しみなど心身がバラバラになってしまうような経験の乗り越え方の一つは、だれにはばかることなく、感情的に声をあげて涙を流すことです。
もちろん、怒ってもいいです。
さらに効果的なのは、誰かと共に泣くことです。
この曲は、その涙のトリガーになるような曲であると思います。
まずは、心のままに涙が枯れるまで泣きましょう。
美しく尊いものに想いを巡らせながら。
南無阿弥陀仏
写真の出典はコチラ↓ちょっと古いです。
YouTubeで音源を探したところ、宗門のご住職さんがギターを抱えて歌っておられる動画を発見したので、ご紹介だけしておきます。
↓YouTubeにとびます。