ふーむ。
訳しても訳しても終わらない「フィガロの結婚」の訳。
終わる時がくるんだろうか・・・(遠い目)
今度やらせて頂くスザンナは、レチタティーボ(歌以外の台詞のようなところです)も含め、とにかく量が多い、という 都市伝説 話は、先生方からきいてはいましたが。
まさかこんなにあるとは・・・
訳しても訳しても、終わらない・・・
今年やらせて頂いた、『ドン・ジョバンニ』のヅェルリーナは、出番は量としては少なかったですねぇ。特にレチタティーボなんて、ほんとに少しだけでした。
ですが、その割にずいぶん出番の多い印象が強いのは、シリアスな中のコミカルなキャラクターだから、目立つ所をもらっているんですよね
いわゆる、おいしい役、ということだと思います。
だからやりがいはあるし、その少ない場の中でどのように印象を残すか、というとこが大事なんだと思いますが。
目立つ役どころで、出番が多かったら、他のキャラクターの存在が薄くなってしまいますし。
魔笛における、夜の女王なんて、典型ですよね。
たった2曲のアリアだけで、すべてをもっていってしまう・・・でも、その代り、それに全てがかかっている、だからこそやはり、大変な曲なんでしょうが。
ええ、話は「フィガロ」に戻りますが。
まだスザンナを一本演じた事がないのでわからないのですが、このオペラはとにかく、皆がさびしいような気がします。
観客として見ている分には、伯爵夫人がさびしいのは、わかっていたけれど、それ以外のキャラクターの悲しさやさびしさには、思いが至ってませんでした。
伯爵がスザンナに言い寄っている、と知った時のフィガロのショックはすごかったでしょうねえ。
もちろん、ものすごい怒りもあるでしょうが、そこにある感情は、決して怒りだけではないのではないかな、と思います。
伯爵に対して、おそらく身分を超えた友情を感じていただろうに。
貴族は所詮、貴族でしかないということを思い知らされて、裏切られて。
しかも、それだけではなく、スザンナも守ってあげなくてはいけない。怒りと悲しみに身を任せる暇もない。
一番幸せなのは、一番最初の重唱だけではないかな・・・
あと、特に気になるのがバジリオ。
この人、ほとんど出てこないし、アリアもカットされているけれど、とっても悲しいし、すっごく良い役ですね。だから、ダ・ポンテも彼のセリフを使って「コシ・ファン・トゥッテ」につないだのだろうし。
バジリオも、フィガロを見て思うところがあるんでしょうねえ。
バルバリーナも、いずれデスピーナのようになってしまうのかもしれないと、ドキドキしてしまいます。
あんな小さなアリアが、あまりに切々としていて、辛いというか、悲しすぎる。あれしか出番がないのが、勿体なくて仕方がない。
まあまだスザンナがほとんど見えてないので、何とも言えないですけれど・・・
モーツァルトの音楽は笑っているけど、どこかさびしい、というのを私の先生がおっしゃってましたが、本当にそうなんだなあ、と改めて思います。
しかも、そんなさびしさや哀しさに誰が一番なんてつけられない、それをなくすことはあり得ない、ただ愛だけでしか包みこめない、といってしまうのには、もう、ただただ、ため息ばかり。
ところで、バジリオはフォルカー・フォーゲルのが好きです・・・
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訳しても訳しても終わらない「フィガロの結婚」の訳。
終わる時がくるんだろうか・・・(遠い目)
今度やらせて頂くスザンナは、レチタティーボ(歌以外の台詞のようなところです)も含め、とにかく量が多い、という
まさかこんなにあるとは・・・
訳しても訳しても、終わらない・・・
今年やらせて頂いた、『ドン・ジョバンニ』のヅェルリーナは、出番は量としては少なかったですねぇ。特にレチタティーボなんて、ほんとに少しだけでした。
ですが、その割にずいぶん出番の多い印象が強いのは、シリアスな中のコミカルなキャラクターだから、目立つ所をもらっているんですよね
いわゆる、おいしい役、ということだと思います。
だからやりがいはあるし、その少ない場の中でどのように印象を残すか、というとこが大事なんだと思いますが。
目立つ役どころで、出番が多かったら、他のキャラクターの存在が薄くなってしまいますし。
魔笛における、夜の女王なんて、典型ですよね。
たった2曲のアリアだけで、すべてをもっていってしまう・・・でも、その代り、それに全てがかかっている、だからこそやはり、大変な曲なんでしょうが。
ええ、話は「フィガロ」に戻りますが。
まだスザンナを一本演じた事がないのでわからないのですが、このオペラはとにかく、皆がさびしいような気がします。
観客として見ている分には、伯爵夫人がさびしいのは、わかっていたけれど、それ以外のキャラクターの悲しさやさびしさには、思いが至ってませんでした。
伯爵がスザンナに言い寄っている、と知った時のフィガロのショックはすごかったでしょうねえ。
もちろん、ものすごい怒りもあるでしょうが、そこにある感情は、決して怒りだけではないのではないかな、と思います。
伯爵に対して、おそらく身分を超えた友情を感じていただろうに。
貴族は所詮、貴族でしかないということを思い知らされて、裏切られて。
しかも、それだけではなく、スザンナも守ってあげなくてはいけない。怒りと悲しみに身を任せる暇もない。
一番幸せなのは、一番最初の重唱だけではないかな・・・
あと、特に気になるのがバジリオ。
この人、ほとんど出てこないし、アリアもカットされているけれど、とっても悲しいし、すっごく良い役ですね。だから、ダ・ポンテも彼のセリフを使って「コシ・ファン・トゥッテ」につないだのだろうし。
バジリオも、フィガロを見て思うところがあるんでしょうねえ。
バルバリーナも、いずれデスピーナのようになってしまうのかもしれないと、ドキドキしてしまいます。
あんな小さなアリアが、あまりに切々としていて、辛いというか、悲しすぎる。あれしか出番がないのが、勿体なくて仕方がない。
まあまだスザンナがほとんど見えてないので、何とも言えないですけれど・・・
モーツァルトの音楽は笑っているけど、どこかさびしい、というのを私の先生がおっしゃってましたが、本当にそうなんだなあ、と改めて思います。
しかも、そんなさびしさや哀しさに誰が一番なんてつけられない、それをなくすことはあり得ない、ただ愛だけでしか包みこめない、といってしまうのには、もう、ただただ、ため息ばかり。
ところで、バジリオはフォルカー・フォーゲルのが好きです・・・
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