天文10年(1541年)、篠脇城主東常慶(とうつねよし)が吉田川の南側に赤谷山城を築き、嫡男東常堯(とうつねたか)を城主とした。そして永禄2年(1559年)、東氏の一族の遠藤盛数が、赤谷山城攻めの拠点として対岸の八幡山に築いた砦が、郡上八幡城の前身です。
東氏を滅ぼした遠藤盛数は砦跡に城を築き、嫡男遠藤慶隆が継いだ。永禄9年(1556年)、郡上を統一した遠藤慶隆は、郡上八幡城や城下町の建設を行う傍ら、織田信長の配下として、各地を転戦し戦功をあげた。本能寺の変後の天正12年(1584年)小牧・長久手の戦の際、遠藤慶隆が織田信雄に通じていた疑いで豊臣秀吉によって賀茂郡小原(岐阜県加茂郡白川町)に転封となり、代わって稲葉一鉄の子稲葉貞通が4万石で入城し、高い石垣の整備や天守の設置など本格的な山城として大改修を行った。
慶長5年(1600年)、郡上八幡城の戦の後、遠藤慶隆は関ケ原の戦で徳川家康の東軍に参加し、再度郡上八幡城主として2万7千石に封じられた。稲葉貞通は豊後国(大分県)臼杵へ5万石で転封となった。
江戸時代には遠藤氏5代、井上氏2代、金森氏2代を経て、青山氏が7代治めた。明治4年(1871年)の廃城令で城は石垣を残して全て取り壊されたが、昭和8年(1933年)、郡上八幡城天守台跡に木造模擬の天守閣、隅櫓、高塀が再建された。そして昭和30年(1955年)8月に岐阜県史跡に指定された。
[所在地:岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659]
<アクセス>長良川鉄道郡上八幡駅からバス、城下町プラザ下車徒歩約15分
▼郡上八幡城遠望
▼郡上八幡城の略図
▼郡上八幡城の概要
▼山内一豊と妻千代の像 ▼城下より望む天守閣
千代は郡上八幡城主遠藤盛数の娘である。
▼首洗い井戸
▼天守閣(左)と隅櫓(右) ▼大手門
▼模擬天守閣
大垣城天守閣を模して昭和8年(1933年)に木造で築造された。
▼模擬天守閣
▼天守閣からの眺め
2019/04/13訪城