鎌刃城は、 鎌倉時代に土肥(とい)氏が居城として、のちに堀氏が居住した。標高384mの山頂に築かれた典型的な山城です。南近江と北近江の領地境の「境目の城」として築かれた。山頂の主郭と副郭という曲輪を中心に北西の尾根、西の尾根、南東の尾根の三方向に曲輪や堀切や土塁が設けられています。城の規模は東西・南北とも400mに及び湖北では小谷城に次ぐ規模を誇ります。元亀元年(1570年)に浅井長政が織田信長に反旗を翻した時には、浅井方の城主堀秀村は織田方に付き、坂田郡で6万石を賜り織田信長に湖北支配を任され鎌刃城はその拠点となりましたが、浅井方の小谷城落城後、羽柴秀吉が湖北支配を任されると天正2年(1574年)に堀氏が突然改易され、まもなく廃城となりました。現在、 総石垣の主郭や枡形虎口、建物礎石などに、近世初期の高度な築城技術が見られ、県の史跡に指定されています。
[所在地:滋賀県米原市番場]
<アクセス>JR琵琶湖線・米原駅下車徒歩で約6.5km
▼鎌刃城概略図
▼殿屋敷遺跡
大手口より登城しました。
▼枡形虎口概要
▼枡形虎口
北尾根先端に設けられた枡形虎口。門の礎石も確認でき、薬医門という形式の門がありました。
▼曲輪・・・土塁や石垣などで区切られた区画のことで、本丸、○○曲輪などとよばれます。
▼「水の手」の概要
▼水の手 ▼大櫓跡(中央のくぼみのところ)
▼曲輪の畝状竪掘群
竪掘が連続する畝状竪掘群は、敵の横移動を防ぐもので、近江では余り見られない構造です。
▼主郭の概要
▼主郭の虎口
主郭の北には、石垣によって築かれた枡形の虎口がありました。
▼南尾根の堀切
城の南東は、尾根続きになっているために、敵の侵入を阻止するために、この尾根には8条にのぼる堀切が設けられた。
2015/03/25 訪城
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鎌刃城からの帰りに、鎌刃山のふもとにある鎌刃城城主土肥三郎元頼公が再興した蓮華寺によりました。
蓮 華 寺
[所在地:滋賀県米原市番場511]
<アクセス>新幹線米原駅よりタクシーで約10分
▼勅使門 ▼本堂
▼土肥三郎元頼公の墓の概要
▼鎌刃城城主・土肥三郎元頼高の墓・・・蓮華寺を再興した時の領主(鎌倉時代近江坂田郡の地頭であった)
▼血の川
南北朝の古戦場
元弘3年(1333年)5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探題北條仲時公は、北朝の天子光厳天皇・後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿に着いた時、南朝軍の重囲に陥り止む無く蓮華寺に玉輩を移し、大いに戦いたるも、再び戦いに敗れ遂に本堂前庭に於いて、北條仲時以下432名自刃した。時の三代住職同阿上人は深く同情してその姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帳に認め、さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。その墓は境内にあり、過去帳は重要文化財として当山に所蔵されている。これらの史実は、太平記などに詳しく記載されています。
▼史跡・北条仲時公並びに432名の墓(蓮華寺供養塔)
▼一向上人の御廟 ▼樹齢700年の巨木「一本杉」
2015/03/25 訪問
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◆京極道誉(1295年~1373年)
第5代京極高氏(道誉)は能、狂言、茶道、華道に長じ田楽を楽しみ、派手好きであったといわれ「婆裟羅大名」と呼ばれています。北條高時の小姓足利尊氏とも親交があり、正中の変(1324年),元弘の変(1331年)でも活躍しています。後醍醐天皇の隠岐への護送、北畠具行卿の鎌倉への護送などを担ったほか、1333年足利尊氏と共に六波羅を攻め、米原市番場の蓮華寺で北條仲時以下432名を追い詰めました。1373年、滋賀県甲良町にある道誉の菩提寺勝楽寺で78年の生涯を閉じました。