天正元年(1573年)9月浅井長政滅亡後、湖北(滋賀県北部)を支配したのは、、羽柴(豊臣)秀吉であった。姉川合戦と小谷城攻めで手柄をあげた秀吉は、その功績によって浅井氏の領国の大部分を与えられた。天正2年(1574年)、夏には、羽柴秀吉が、琵琶湖の辺に位置する今浜(いまはま)の地に築城工事を開始し、翌年には、小谷城より本拠を移し、地名を「今浜」から「長浜」と改めて天正10年(1582年)まで長浜12万石の城主として在城した。天正10年(1582年)の清州会議で長浜城は、柴田勝家に譲られ、勝家の甥勝豊が入城したが、早くもその年の12月、秀吉は勝豊を攻めて、翌年4月に行われた柴田勝家との賤ケ岳合戦に際しては、軍事拠点としている。その後、天正13年(1585年)から天正18年(1590年)までは、山内一豊が城主となり、その移封後は、次第に荒廃し、湖北真宗門徒の惣会所が城内に設けられた。この時期は湖北は、佐和山城主石田三成の支配下に入っている。慶長11年(1606年)には、内藤信成が城主となり大改修を行う。慶長17年(1607年)その子信正が城主となるが、元和元年(1615年)摂津高槻城への移封によって、長浜城は、湖北支配の役目を彦根城に譲り使命を終えた。長浜城の石垣、櫓材等は、彦根城等に運ばれ、廃城になった。しかし、昭和58年(1983年)に秀吉の長浜城を再興しようという市民の熱望により天正期の模擬天主閣が再興された。現在、長浜城跡は、市指定史跡になっています。
[所在地:滋賀県長浜市公園町]
<アクセス>JR長浜駅から徒歩約5分
▼長浜城と城下町推定復元図
長浜城跡一帯は、「豊(ほう)公園」として整備されています。
▼長浜城本丸跡
▼復興天主閣
▼復興天主閣よりの眺め
▼大通寺台所門(長浜城大手門)
▼秀吉公と石田三成公 出逢いの像
▼長浜領境界碑
▼長浜領の特権(下図の赤線で囲まれた町屋敷)
年貢300石免除地域 [秀吉の特権は、江戸幕府にも認められた。]
2013/11/09 訪城
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姉川の戦 元亀元年(1570年)
織田信長軍,越前の朝倉攻めの最中に、近江の浅井氏が突然朝倉氏側に立って挙兵。挟み撃ちにされたため、朝倉攻めの信長が京都へ脱出。6月織田信長23,000騎と援軍の徳川家康軍5,000騎で浅井攻め。浅井長政5,000騎と援軍の朝倉義景8,000騎が姉川で激突。援軍の徳川軍の奮闘で織田方の勝利。
小谷城の戦 天正元年(1573年)
8月織田氏の越前侵攻再開と小谷城攻めを開始。織田軍一乗谷の戦で大勝した後、小谷城を猛攻し朝倉氏、浅井氏両家の滅亡。お市の方と娘3人が、浅井氏から信長に返される。
賤ケ岳の戦 天正11年(1583年)
織田信長の跡目を定める尾張清州会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立。賤ケ岳で柴田方の前田利家が戦線離脱と秀吉方の七本槍の活躍で勝利。柴田勝家北ノ庄で自刃。