織田信長が天下統一を目標に天正4年(1576年)1月17日、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高190mの安土山に築城させた平山城。岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。現在は、四方とも干拓により陸地になっているが当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ南方のみが開けた地形であった。天正7年(1576年)、5月、5層7階の壮麗な天守閣を有する城を完成させた。しかし天正10年(1582年),織田信長が本能寺の変で明智光秀に打たれると、その混乱の中6月15日、天守などを消失。のち、羽柴秀吉によって廃城とされた。そのさい安土城の城下町は羽柴秀次の築いた八幡山城(滋賀県近江八幡市)にそのまま移されている。現在、城の石垣,石段,礎石のほか、織田氏の菩提寺の総見寺の三重塔、仁王門(楼門)等が残存している。また、安土山は、山全体が国の特別史跡に指定されています。
[所在地:滋賀県近江八幡市安土町豊浦]
<アクセス>JR安土駅下車徒歩20分
▼安土城の概要
▼安土城址の石碑
▼石垣と大手三門址
▼東側石塁北上段郭と虎口
▼大手道
▼大手道
▼再現の大手道の復元
▼石仏が多くみられる ▼羽柴秀吉邸址
▼羽柴秀吉邸復元図
▼羽柴秀吉邸間取図
▼黒金門跡
天主址西下の伝二の丸址に織田信長公の本廟がある。
重臣、羽柴秀吉は、天正11年(1583年)1月三法師に年賀を表すべく登城し、翌2月織田信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂等の遺品を埋葬して本廟とした。そして6月2日の一周忌には、織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。
▼二の丸址入口 ▼織田信長公本廟(二の丸址)
▼天主閣入口 ▼天主閣址
▼安土城天主(天守)跡
▼天主跡よりの眺め
安土城天主跡から少し降りたところにある本丸御殿跡。「織田信長公記]によればこの建物には天皇を招き入れる「御幸の間」があったと記載されている。
▼本丸跡
▼総見寺跡
総見寺は、臨済宗妙心寺派の末寺。安土城築城の際、天正4年、織田信長が他所より移築し、安土城本丸の西方の峰に自らの菩提寺にしたと伝えられている。天正10年の天主崩壊の際も焼け残ったが、安政元年(1854年)11月16日火災により本堂なぞほとんどを焼失。今は礎石のみが三重塔の北に残っている。その後、昭和7年仮本堂が大手門近くの伝徳川家康邸跡に建てられ現在に至る。三重の塔は、天正3~4年に織田信長公が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移建した。
▼総見寺本堂跡 ▼総見寺三重塔(重要文化財)
▼総見寺仁王門(楼門)(重要文化財)
▼安土山地図と航空写真
2013/08/22 訪城
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◆丹羽長秀(1535~1585年)
早くから織田信長に仕え、尾張・美濃での戦いに活躍。入京前より部隊指揮官の地位にあった。入京後、京都の政治に関与している。元亀元年(1570年)、姉川の戦いの後、佐和山城攻めの主将、翌年二月開城させると、そこに入れ置かれた。犬上・愛知郡地域と地侍を支配する。大正元年頃より若狭の支配も任され、若狭武田氏の旧臣たちを傘下に置いた。天正4年(1576年)の安土築城では総奉行を務める。天正10年(1582年)5月、織田信孝に副えられ、四国征伐に就こうとした時、本能寺の変が勃発。羽柴秀吉に合流して山崎の戦に参加、織田信長の仇を討ち取った。清州会議で4人の宿老の一人となったが、常に羽柴秀吉に同調、その躍進を助けた。