なな色メール 

シュタイナーの勉強会の仲間と始めたニュースレター。ブログでもその一部をご紹介していきたいと思います。

インディアンに学ぶ自然共存という生き方

2008年06月01日 | ともこ
5月、私の住む町では大きな二つの神社、熊野神社と古四王神社の例大祭があります。
子供達は出店での買い物、行列では持ち物(旗や剣、弓など)を持っての町の練り歩きを楽しみにしています。
(お祝いの小銭集めが目的ですが。)

今年わが家は熊野神社の当番町でした。
上の子は勿論、小学一年生の下の子もはっぴを着てはち巻をして一人前に持ち物(弓)を背負い行列に参加しました。
こういった大きな行事のほかにも私は町の行事にはできるだけ子供連れで参加しています。
昔から伝わってきたものにはいろいろ意味、歴史があると思います。
象潟は昔ながらの祭典を伝えていて素敵な町だと思います。

夫は古四王神社の宵宮(土曜日夕方の歌や踊り)に協力し、バンド、お笑いの出演を担当していました。
やはりお祭りとくれば九十九太鼓、よさこいが年齢を問わずの人気ですが、バンドも大盛況でした。
地域のお祭りはいいものですね。

ところで、私は最近インディアンの生活を描いた素晴らしい本に出会いました。
『イシ』(二つの世界を生きたインディアンの物語)です.
(著者のシオドーラ・クローバー、かの『ゲド戦記』を書いたル・グィンのお母様です。)
今は同著者による大人向けに書かれたものを読んでいます。
『イシ』(北米最後の野生インディアン)といい、こちらが先に書かれた後、児童書も書かれたようです。
(この本は故心理療法家の河合隼雄さんの著書で紹介されてい、太田光が九条について書いた本にも載っており、いつか読みたいと思っていた本でした。)
 
 
イシは実在したカリフォルニア地方の山岳地帯に住むヤナ族の中のヤヒという小規模な部族のインディアンでした。
ワガヌパ山の神々を信仰し、自然に合わせた季節毎の生活を送っていました。
冬にはテント内の薪に火を家族中で囲んで手仕事や年寄りから言い伝えの伝承を聞き食糧はそれまでに蓄えた貯蔵庫のものでしのぎ、春にはクローバーなど山菜を採り、夏には暑さを避ける生活様式に変え昼寝・川泳ぎ、秋には木の実や草の実の収穫、収穫のお祭りをする。
そして各々の儀式。
自然と宇宙の神秘とを日々の暮らしの一部として、彼らはまじめに崇拝していました。
 
イシたちは彼が物心ついた時にゴールドラッシュでやって来た無法者の白人達から彼の小さな村や周りの部族が次々と無残に殺され、逃げ延びた数人の家族や仲間と森を歩く時も自分の足跡を消しながら歩き、ひたすら隠れてこのつつましい生活を送っていました。(最初の侵略、スペイン人の迫害からは山岳地帯のインディアンは免れていた。)
 
イシは少年の頃、夢を見ました。
彼はサケになり大海へ出、また川を上り故郷へ戻るというのです。
それは予言的な意味のある夢(ヴィジョン・クエスト)でした。
その通り彼は白人の社会と出会います。彼は最後の生き残りの野性のインディアンとして保護された後、博物館で民族研究に協力して生活をすることになります。


インディアンについて語る時、とても道徳的だということがあげられます。
イシが若い時、イシと年上の仲間ティマウィは自分たちの土地を奪い仲間を殺した白人を憎む心でいっぱいになっていました。
いつか仲間たちのために白人たちに向かって矢を射てやる!と。
私だってそう考えると思います。
ですが家長のイシの叔父は「よこしまな心に囚われてはいけない。」と諭します。
そして白人の中にもよい人間はいると。
若いインディアンにとって年長者と生活することがそのまま学校であり、宗教です。
私はイシの生涯、インディアンたちのことを思うと悲しくなります。
滅んでいくには何てあまりに素敵なつつましい暮らしだったことでしょう。
 
人間が自然への感謝の祈りも忘れて驕り高ぶったために、地球環境が破壊されたのでしょう。
私は看護学生の時にある講師から赤ちゃんの紙オムツからのダイオキシンの発生の事を聞きました。
子供たちにも外出時以外は布オムツを使いました。
ところで、紙ナプキンからもやはりダイオキシンが出ているそうです。
浸け置き洗いが少々手間ですが、経済的、健康にいい、環境にいいと三拍子揃っています.
お奨めしたいと思います。
2003年『ゆほびか』で、2005年には『クーヨン』、『リンカラン』でも紹介されていました。
布ナプキン  
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報告!去年なな色メールで紹介したポール・コールマン氏が私も参加している「虹の天使たち」(てんつくマン率いる元TEACM GOGO2007)というボランティアグループと一緒に内モンゴルに木を植えました!
現地は黄砂でとても困っているようです。
「モンゴルの木、すくすく伸びろ!」と一緒に祈りましょう!
(そういえば、「虹の天使たち」もインディアンに習い、” 七代先のことを考える”をモットーにしているんですよ!)

ひょうどうともこ

Global Perspective 21

2008年06月01日 | S.S.
 英語の力を伸ばすことができ、かつやりがいのある仕事・・が大学卒業時の就職先の希望。何とか見つけた外資系の船会社は小さいながらとても人気があり、入社試験の結果は補欠。やむなく親に勧められて受けた某信託銀行から内定をもらい入社することになった。

 配属された先は国際部。「島」と呼ばれる10人ほどの社員が向かい合わせに机を並べたグループが、同じフロアーに10個程度ある大きな部だった。私の島は調査班。融資を行う国々や金融機関などの信用調査を行う部門だ。「カントリーリスク調査?そんな責任が重い仕事をやっているところなの。すごいじゃない。いつか私もレポートが書けるのかなぁ。」と思って喜んだのは最初だけ。同じ島に女性は私と先輩のふたりしかいない。男の人達は朝からゆったりとタバコを吸いながら、国内だけでなく世界の新聞を読んでいる。昼頃まで新聞読みをした後、レポートを書く人、ふらーっとどこかに出かけて夕方まで帰ってこない人などまちまちだ。女性の仕事は、男の人達が印をつけた記事を切り抜き、台紙に貼りファイルすること。この量が半端ではない。1日中新聞の切り貼りに追われる日々が始まった。

 2、3ヶ月もすると私にも男性同様のレポート作成の課題が出されるようになる。「大卒なんだから雑用以外の仕事もしてもらわないとね。」「そんなぁ。新聞の切り貼りに追われてるのにいつ勉強してどうやって書けって言うの。大体私は経済は素人なんだから。」と心の中で文句を言いながらも、上司には従わざるをえない。国の信用調査をまとめる仕事が始まった。大きなファイルを家に持ち帰り、レポートは家で書くしかなかった。1日中雑用で走り回り、帰宅後さらに家で仕事をするのは大変で、やりがいがある仕事?との両立に毎日くたくたになった。

 しかし、じきにカントリーリスク調査のレポートなどあまり意味がないことがわかってくる。海外への融資額はあるルールのもとに暗黙のうちに決められていたのだ。国内の銀行には資金量を基準にした序列があり、その序列に従って融資額は他律的に決まってしまう。取り仕切るのは(当時の)大蔵省。えっ、何で大事な会社のお金を大蔵省の言うままに危ないところにも貸し出さないといけないの?殿様の言うことには全て従い、格に応じた働きをしないといけないっていうんじゃまるで武士の社会・・・江戸時代から進化してないじゃない!日本という国がいかに可笑しいかを目の当たりにしたのはこの時が初めてだった。

 国際部なんて名ばかりで、気にしているのはお上の顔色と国内の同業他行の動き。それでも高度成長末期の80年代。アメリカで日本車の輸出が増えすぎ、労働組合で日本車排斥運動が起きるほど日本が栄華を誇った時代。日本の銀行は儲かっていた。メーカーが一生懸命ものを作り、輸出し、Japan as Number1と言われるまでになった時代の恩恵を、金融機関が一番受けていたと思う。だから、南米や東欧の債務不履行を繰り返す危ない国々にも、外交上の理由からかどんどん融資を行い、それらが焦げ付いても銀行の経営が危機に陥ることはなかった。

 さて話をタイトルに戻すと、この横文字は会社の直属の上司が仲間と作っていた勉強会の名前である。会社に入って一番有り難かったのはこのグループに関われたことだろうか。勉強会を組織していたのは、Nセンターというシンクタンクへの出向者OB。当時(今もかも知れないが)Nセンターでは金融機関だけでなく、商社、メーカーから出向してきた若手社員が1,2年間日本経済の研究を行っていた。研究を論文にまとめた後、たいがいの人はさらに海外の研究機関(英語圏だけでなくヨーロッパ各国)へ留学する。ゆえに出向者達は、数年間自らの会社を離れ、国内外のエコノミスト(の卵?)達と関わる経験を持っていた。私が所属していた班は、Nセンターに出向している若手社員や、出向・留学から戻ってきたセンターOBが上司として働いている部門だった。

 私は名簿管理・書類発送などの事務の仕事をするため、アシスタント兼でこの会に関わることになった。年齢はひとり若く経歴も違うので肩身が狭かったが、勉強会の内容は刺激的だった。基本のスタイルは、講師の話を聞きその後活発にディスカッションをするというもの。その講師がバラエティーに富んでいた。印象に残っているのは、カンボジア難民の支援ボランティア(JVC)を行っている人、青年海外協力隊でアフリカで活躍してきた人、ユネスコアジア文化センターで絵本を編集している人などいわゆる草の根の活動をしている人達の話。日経センター出向者OBは、どの会社においても選ばれた人達である。そのエリート達が、先進国だけでなく貧しい途上国の人々の話も分け隔てなく熱心に聞いていたこと、かつ現地に入り込んで活躍してきた人達の生の声をしっかり受け止めていたことは、とても新鮮に感じられた。世界に目を向けるとはこういうことだと素晴らしいモデルを示してもらったと思っている。

 地球人という感覚で世界を見ることができた彼らは、当時何を見ていたのだろうか。日本が、豊かな経済大国になり国際社会でも相応の責任とそして発言権を持てる時代になったあの頃、実は一向に目をグローバルな世界に向けていないことを危惧していただろうか。勉強会に参加していた人達によく言われたのは、アメリカの姿は10年後の日本の姿だということ。ヨーロッパは保守的で沈滞しているように見えるが、過去に蓄積してきた素晴らしい文化を持っており、その存在は大きく、簡単には追いつけないこと。日本にはアジアの国々との関わりが大事であることなどなど・・。

あの頃アメリカの銀行はバタバタと倒産していた。当時銀行が倒産するなんて信じられなかったが、10年もしたら国内でも山一證券を初めとして一流金融機関が倒産する時代が来た。言われたことが現実化し、私は心底恐いと思っている。今のアメリカの姿を皆さんどう思われるだろうか。レーガン大統領時代から始まった「小さな政府」による競争社会の激化。9.11以降のテロとの戦いの名目のもとに進められている軍事大国化と社会保障(セーフティーネット)の切り捨て。医療保険が支払えず、救急診療も受けられないで困っている人々の姿を明日の日本に見ることは、とても辛い。

ガソリンの急騰を始め、ものの値上がりをきっかけに誰もが世界がひとつであることを実感せざるを得ない時代になった今、私達がGlobal Perspective(地球的な視野)を持って行うべきことは何だろうか。まずは・・・世界で起きていることを自分達なりに少しずつ学び、私達の生活とのつながりを考えてみませんか。学んだこと感じたことを、家族と、そして仲間と話し合う努力をしてみませんか。