今日で3月も終わりです。
こんなに長く辛い3月って初めてだ。
言葉がみつかりません。
たくさんの人が、突然日常を奪われる。
もって行き場のない、悲しみや怒りのうえに、さらにこれでもかと困難が降りかかって
どんな言葉もかき消されてしまう。
それでも、少しずつ少しずつ復興に向けて前を向いて歩いていく方々に
これから先のことが見えないながらも前を向いて歩いていく方々に、
被災されたすべての方々に、
一日でも早く笑顔が戻りますように、
平穏な日々が戻りますように、
暖かい明日がやってきますように、祈っています。
私にできるのは、節電とか募金とか、ホントに小さなことだけど
できうる限りのことを精一杯やっていこうと思っています。
あれから、楢葉町の父の実家と連絡が取れました。
父の実家は津波に遭い、家はなくなってしまったけど、親類一同全員無事でした。
実家は、父の姪夫婦が継いでいるのですが、
車で逃げようとしたところを津波に呑まれたけど、
波が引いたところに消防団の人が来て、助かったということです。
しばらくの間(9日間くらい)我が家に避難していましたが
やはり、家が気になるとのことで、圏外の、いわき市の親類が少し落ち着いたのを機に
帰って行きました。
放射能で、わずかながらに残った家屋の状況も確認できないですが
『避難解除になったらすぐに行けるように近くにいたい』って。
23日のことでした。
震災から10日間は心が重く苦しかったです。
もう10日、たった10日、という感じではなくて、
ただ、ただ、長く重苦しい10日間でした。
街に電気や水道が復旧し、スーパーに品物が少しずつ戻り
ガソリンが普通に供給されるようになってから、だんだん解消されていきましたけど。
それから。
転職しました。
特別養護老人施設での介護職です。
自分でも不思議です。
『私には絶対に無理』と思っていたから。
ここに至るまでいろいろあったんだけど、
最初はセラピストに戻ろうと転職活動していた中で
『その先に何があるのか』、
『一期一会じゃなくて、ずっとお客様に寄り添ったサービスを提供していきたい』と
思って考えて行き着いた先が介護の仕事でした。
母も妹も
『お姉ちゃんみたいに、ある意味華やかな仕事してた人には絶対に無理!』
『性格的にできるわけないじゃん!』
でした(苦笑)
私も実習前は不安でした。
祖父母とは離れて住んでいて、10代後半からはどう接していいかわからなかったから
会ってもあんまり会話しなかったし。
それが、実習に入ったら意外とお年寄りと楽しく話している自分がいた。
食事も入浴も排泄の介助も全然大丈夫な自分がいた。
実習から帰るときは、明日はこんなことが話せたらいいな、
こんなことができたらいいな、と思う自分がいた。
なので、仕事することに決めました。
無理しない程度に頑張っていこうと思います。