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なぞの旅人スーのブログ

鉄道、旅行、その他日記にしたい事を書いていきます。実際の面識が無い方からのコメント、歓迎。荒らしや誹謗中傷は×。

歴史秘話ヒストリア(NHK総合) 鑑真

2015-09-12 15:43:32 | 日記

 唐招提寺を訪ねてすぐにテレビで鑑真について知る事ができるのは嬉しいし、やっぱり僕が訪ねたところは直後にテレビで取りあげられるなあ(笑)
 まずは御身代わり像についてだった。美術院特別チームが脱活乾漆の技法を用いたり当時の造り方をできるだけ忠実にならい、制作したそう。へらを使わずに指を使って像を整えたり、鑑真の生き写しを求めた弟子の思いが伝わってくる。なかなか見る事ができない本物の像の姿を、近い形で立体的にいつでも見られる様になったのはありがたい。
 そして、鑑真が日本へ渡るまでのストーリーに入った。聖武天皇は僧侶の風紀の乱れを正すため、戒律に詳しい僧を国に呼ぼうと、733年に共に僧侶である普照、栄叡(ようえい)を唐に派遣した。9年もの間、応じてくれる僧を探し歩いたが、見つからなかった。って、当時は電話もメールも無かった訳だし、手紙も送れなかっただろうから、経過報告はしていたのだろうか?聖武天皇も気がかりではなかったのであろうか?それに、もし応じてくれる僧が見つかったとしても、連れてくる船はどう用意するつもりだったんだろうか?なんか、遣わせた後の国のフォローがなっていない様な(汗)
 そして、ついに2人は鑑真と出会い、日本に行くことを決意してくれた。743年に天台山参拝の名目で船を用意したが、弟子の密告で失敗した。唐の人間が国外に出ることは禁じられていた。その後も国の監視が緩む機会をうかがいながら出国を試みるも、船の遭難や密告で失敗が続いた。三度目の失敗で、普照は難を逃れたけど栄叡は捕まったという話で、「栄叡の身はどうなっちゃうのだろう?」と心配したが、その後のストーリーにも登場した。けれども、志を果たせず唐で病死した。これ以上迷惑は掛けられないと、普照は帰国する事となった。鑑真は視力を失った。
 753年に遣唐使船が来て、遣唐使が再度鑑真を招聘しようとしたが、出航直前にして唐との外交関係を気にした大使が結局キャンセルしてしまった。でも、副使が鑑真一行を自分達の船に乗せた。そこには普照の姿もあった。普照は鑑真を本当に強く尊敬していたんだなあ。ようやく六度目で鑑真の渡日が叶った。
 翌年鑑真は平城京に入り、聖武天皇の存命中に間に合った。戒律を教え誓わせ、僧侶を育てた。759年に私寺である唐招提寺を創建した。763年、生涯を閉じた。
 最後は近年の話だった。1960年代に中国では「文化大革命」が起こり、仏教が迫害されたそう。日本でも廃仏毀釈があったね。1980年に鑑真和上坐像が中国揚州で展示され、仏教が再度盛り上がるきっかけになったそうである。
 普照、栄叡そして鑑真の熱い思い、鑑真の偉大さが伝わってきた。「いいお話でした~」・・・・・・では終わらないんだよね(苦笑) まずひとつ、戒律には「大妄語戒」という「嘘を付いてはいけない」というものがあるけど、これに背いて唐国を欺き、日本に渡ろうとした己の行為を、鑑真はどう思ったのであろうか?まあ、どんな聖人でも一生嘘を付く事がないなんてことは無いだろうけど。もうひとつはネットで見た話。鑑真は僧侶を育てる目的で日本に来たのだが、朝廷の目的は僧侶の数の抑制であり、その違いから用無しとされてしまったという。悲しいね・・・。
 なお、再放送が今月16日(水) 14:05~あるそうである。番組は9日(水)に放送されたけど、夜勤でもあったし、録画を木金で観た。また、今日までネットでこのストーリーの話を調べた。ブログの作成日は12日とする。画像は先日のブログでは割愛した唐招提寺戒壇のもの。



 

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