なぞの旅人スーのブログ

鉄道、旅行、その他日記にしたい事を書いていきます。実際の面識が無い方からのコメント、歓迎。荒らしや誹謗中傷は×。

九州の旅 2日目 ソラヨイ編 その2

2015-09-27 23:59:59 | 日記

 綱引が終わると、子ども達が藁笠を着け、並んだ。笠からは鮮やかな色紙の飾りが垂れていた。最後尾の最年長者の笠からは大まかに藁が顔にかかっており、腰蓑を着けていた。


 次の様に言葉を出し、仕草をしながら、ゆっくりと土俵に近づいていった。「ソーレハヨイ ヨーイヨーイヨイ(膝に手をつけてゆっくりと歩む)、ヨイヤショ(止まって、パッと両手を腰に当てる)、シリーシリ(右手人差指を右耳近くでクルクル回す)、【ソラヨイソラヨイソラヨイヨイヨイ(膝に手をつけ、腰を左右に振る)、(2拍手)】、もう1度【 】」を繰り返して。右手人差指を右耳近くでクルクル回すのが不思議な仕草だった。腰を振る子ども達が可愛らしかった。歌で「ソレハヨイ」と言っている様に、ソラヨイには「それは良い」という意味があるそうで、収穫をもたらす大地を祝福しているそうである。ソラヨイの仕草は相撲の四股の原型であるという。






 供え物側から見て土俵右手(以降見る方向同じ)から入場し、円を描いた。最年長者の「ヨイヤショ」の掛け声で「サーヨイヤショ シリーシリ(以降は上記と同じ)」と行進と同じ仕草が行われた。2回目以降は最年長者の掛け声は無し。4回行われたが、3回目は「サーヨイヤショ」の後は無言で、仕草のみであった。


 次は相撲の様に2人ずつ向き合い、一方(多分すべて左側)の「ヨイヤショ」の掛け声で「サーヨイヤショ」と先程と同じことが1回行われた。右の子どもが次は左に移動した。始まりは左手に行進の先頭の子ども、終わりは右手に最年長者がいた。


 土俵左側から降り、行きと同じ様に行進していった。
 最後には子ども相撲があった。学校の先生が行司を務めていた。ちっちゃい子なんか疲れているだろうけど、元気に相撲をとってくれた。最年長者と体格差がある子が、負けたけど結構いい勝負をしていた。地域の大人達は傍らで焼酎を飲み、「今の一番、取り直し」と声が上がった。相撲は子ども達の力比べと大人の余興の目的があるのだろう。土俵の盛り砂がいつ崩されたのか見逃した。ヨッカブイでは子ども達が手で掻き崩していた。


 女の子の相撲もあった。ふと空を見上げると、雲の窓を開けてお月様がしっかり姿を現していた。ホント、不思議で幻想的であった。来年の豊作の願いが届いたはずである。


 以上で終了。タクシーを呼んだ。僕の次に来たおばさん達が「月を撮ろうとしたけど難しかった」と言っていた。知覧市街地に向かうとのことで、タクシーを呼ぶ前にそのことを聞ければ良かった。会場と月を絡められたのは、やぐらだった。


 ホテルに着き、スーパーで買ったつまみでお酒を飲んだ。鹿児島のきびなごが大好きで、きびなごの唐揚げの黒酢煮を買っていた。
 十五夜が平日に当たる年があるのも、ソラヨイの実施を難しくしているだろう。伝統の行事が続くことを願い、機会あればまた訪れたい。









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九州の旅 2日目 ソラヨイ編 その1

2015-09-27 23:59:35 | 日記

 ソラヨイは十五夜の晩に月と大地そして授かる収穫に感謝し、来年の豊作を祈る行事だそうである。月は自然界に影響を与えるし、月が出る夜は冷え込みとかで農作物に影響を与えるけど、月と収穫がスッと結びつかなかった。ソラヨイが含まれる南九州の十五夜綱引行事では、月が出ると夜露がおり、露が水(農作物にとって大切な)につながり、それで月が豊作祈願につながるそうである。また、同じく綱引行事として、健康祈願もあるという。綱引の綱は竜または蛇を表現しており、蛇の脱皮、月の満ち欠けが死と再生につながり、それが不老不死、健康祈願につながるそうである。ソラヨイの起源は定かではないという。南九州市知覧町内の数地区で行われているそうだが、ネットで画像、動画等付きの情報を得られたのが3地区であった。うち中福良という地区は昨年から途絶えてしまったそうで、この行事も存続が危ぶまれている。残る2地区のうち、浮辺(うけべ)という地区に行くことにした。
 会場に早く慣れたいのと、本番前にも何かやる事があるかもと思い、午後5時頃タクシーで会場へ向かった。途中、ソラヨイが途絶えてしまった中福良地区を通ったが、ソラヨイを紹介する看板を目にした。会場に入ると、部外者らしき人は他にいなかった。
 早速スタンバイされているものを見学。お供え物。実は、会場である公民館を介して、準備を含めての日程表を自治会長さんから送ってもらっていた。それには「ススキ、栗、柿、カライモ(サツマイモ)、萩、マス、里芋、榊、白米、彼岸花」とあった。「マス」は米が入った枡のことだろうか?榊は土俵の盛り砂に立ててあった。恥ずかしながら萩の花を知らなかった。おはぎの名の元だよね?ネットで花を見た。でも、写真を見直すと萩の花らしきものが見当たらない。米が入った枡の隣には、ラップが掛かって煮物らしきものがあった。






 やぐら。


 綱引で用いる大綱。5年に1度大綱での綱引があるそうで、幸運にも今年は該当した。他の年は既成のロープで綱引を行っている様である。地元の人に5年に1度の理由を尋ねたら、単に準備が大変だからだそうである。何年に1度というのは祭り、御開帳であるから。


 まわし又はさらしを着けた子ども達が出てきた。これも先と同じ人に尋ねたら、基本はまわしだけど重たいから、体格から着けれそうな子にはまわしを着けさせるとのこと。まあ、年長者がまわしということになる。新聞記者の取材を盗み聞きしたら、3~14歳が参加し、今年は3~12歳の11人が参加しているそうである。ネットでは(数え年)7~14歳が参加するとあるが、少子化、参加者不足ですごく小さいうちから参加してもらっているのであろう。花祭りと同じだね。
 辺りが暗くなり、午後6時半から「寄せ歌」が始まった。現在の浮辺のソラヨイは地区内4集落をまとめたものだそうで、昔は触れ回りで集落内を歩いたのであろう。いつの間にかカメラマンがたくさん来ていた。なお、これから子ども達が発する言葉を、撮った動画からそう聞こえた形として書くけど、間違いが多いはずである。
子ども達は円陣を組み、最年長者の「セーノ」の掛け声で、5回歌った。「コーンヤーデント ムギワライッパ デーマーゴッチョ ホーイホイ」と聞こえた。ネットでは「今夜出んと、小麦ガラ一握、松明五丁、ホーイホイ」とあり、「今夜綱引きに来ないと、罰として麦藁や松明を出させるぞ」という意味だそうである。なぜペナルティーが麦藁、松明なのか分からないけど。


 午後7時から本番で、始まりを告げる歌が先程と同じものであった。
 次に青年団の入場である。子ども達のうち3人が外に出ていった。青年団が会場に向かうのであるが、外の子ども達が青年団が近付いていくと「茅切りの歌・綱守りの歌」を歌い、それに呼応して中の子ども達が同じ歌を歌った。「寄せ歌」同様に円陣を組み、最年長者の「セーノ」の掛け声の後歌った。もう、なんて言葉を発してるか分からなかった・・・。呪文の様だし、子ども達は山から里へ降りてきた精霊だそうで、精霊の言葉かの様。もちろん、そんな意図は無いはずだが。「マタノーテトー ダーテーナーエートーエート マタト」、「デーテーナーエートーエート グヮングヮングヮン」と聞こえた。ネットには「八月ノ十五夜ンツーナ、エート、エート、八月ゴンジュンツーナ、エート、エート」、「ニカガライモン、尻ボヲ食チェ、かや切イヤレバ、かやヲ切イチカラモナカド、ガヤンガヤンガヤン」とあるけど、全然一致しない。「ガヤンガヤンガヤン」は聞こえたのと似ているけど。暗くなった会場辺りに歌が響き、幻想的な世界に酔いしれた。外の子ども達の歌が上手かったなあ。


 さて、この歌は青年団を迎えるというより、「綱守りの歌」という通り警戒する歌なのだろう。ネットによれば、青年団を「二才」と呼び、子ども達を「ドシグミ」と呼ぶそう。昔、二才は警棒を持って子ども達にけしかける恐い存在で、二才が近付くと歌を歌い、接近を知らせ、茅やできた綱を守ったそうである。また、二才と子ども達は綱引きをし二才が切れた綱を付近に投げ捨て、ドシグミがそれを見つけてつなぎ直し、再び綱引をしたそうである。それと、薩摩半島の十五夜綱引行事では、青年団と子ども達の儀礼的抗争の構図がみられるそうである。子ども達が青年団に立ち向かうことで、たくましさを育てる狙いがあったのだろう。それでも、子ども達は青年団に綱練りを促しに行き、青年団が綱を練ったそうであるから、不思議な関係である。また、茅切りも昔は子ども達が行っていたそうである。タテのつながりがある共同作業で、社会性を身につけさせる狙いがあったのだろう。
 白装束の青年団が入ってきた。上げる声が「シコシコシコー」と聞こえたけど、ネットでは「コイコーイ」となっている。


 持っている棒で大綱を叩いた。日程表では「大綱の清め」とあった。


 十五夜行事だから、お月様が出て欲しい。始まった頃は残念ながら曇っていた。ところが、行事が始まると少し姿を現した。「何かやっているぞ」と下界が気になったのであろう(笑)


 青年団と地域の人達との綱引が始まった。2回行った後に休憩を入れ、もう1回行われた。綱が切れたのかわざと切ったのか、それをつなぎ直していた。「一般の人達の勝ちです」という判定が出ると、「これで来年も豊作だ」という声が上がった。綱引は稲作の吉凶を占うものだそうである。




※その2(子ども達の行事)に続く

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九州の旅 2日目 宮ヶ浜駅、ホタル館富屋食堂編

2015-09-27 23:37:05 | 日記

 まずは指宿枕崎線を撮影しに。隼人から鹿児島中央へ。もちろん、鹿児島のシンボルである桜島を車窓から眺められる様、海側に座った。少し前に噴火警戒レベルが一時上がったね。


 鹿児島中央で乗りかえる列車の発車時間までに売店で朝食を買おうと思った。ところが、中に売店が見当たらなかった。県庁所在地のターミナル駅なのに、なんだよ・・・。時間まで駅撮りを。観覧車があるので、駅撮りでも絵になる。主に「快速 なのはな」で使用されている黄色いキハ200系。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/8e/e77cb631ff08fd7cbcaceaa4d25c8b7b.jpg

 415系もキターーー♪

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/23/300fb6d37f87d7f3d97a12a60bc5db9e.jpg

 指宿枕崎線の撮影地は宮ヶ浜駅近くの海岸にした。海越しに列車を撮影できる。ここを好んで撮影しておられる方のブログで知った。宮ヶ浜駅に降りてみると、「長淵剛ゆかりの地」という横断幕が貼ってあった。ステージもあった。携帯で調べたら、長淵剛さんが幼少の頃によく父親に連れられて遊びに来ていたそう。「鶴になった父ちゃん」という歌にも、その事が歌詞にある。


 ただ鉄道撮影で降りた駅にそういう観光要素があるとは予定外だった。さらに予定外の観光要素が駅前にあった。焼酎工場があり、米を蒸す匂いがした。中俣(名)さん。


 「工場見学、試飲ができないかなあ?でも、日曜日だから見学の方は無理かも」と思いながら反対側に廻った。売店があり、「工場見学できます」という貼り紙があった。撮影後に入ることにした。


 踏切を渡って海岸へ。島が見えた。知林ヶ島というらしい。


 海越しに線路が遠いので、本当に列車が撮れるのか不安にはなった。ちゃんと「指宿のたまて箱」の姿が見れた。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/aa/3a49f0538fcc3df79cf55bc79c8ca8ad.jpg

 キハ47系。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/5c/9d58bdb8d560a84752ffb9b383cdce4d.jpg

 さて、中俣(名)へ。おかみさんが出てきた。工場見学を申し出ると、受けてもらえた。芋切りの作業をやっていた。工場見学だから、製造過程の説明があった。瓶詰め作業は今日お休みだそう。そして、お楽しみの試飲。小さな蔵元らしいが、色々な名前の焼酎を出している。あっさりものもあれば、喉に絡んでくるものも。たくさん飲ませていただきました(笑) コクがあった「黒麹 薩摩桐野」を買った。


 工場から売店がに廻る時に、おかみさんが「この地域には古い建物が何件かあるんですよ」と言った。ひとつの商品の名前に含まれている篤姫のゆかりの地も近いらしい。鉄道撮影に観光の楽しみをプラスしてはいかがでしょうか?

※工場内の写真は企業秘密があるかもしれないので、掲載を差し控えます

 指宿枕崎線で喜入まで行き、バスで南九州市知覧へ。喜入は雨が降っていたが、峠を越えたら雨が降っておらず、幸運にも雨を避けたい時に避けられた。朝から何も食べていないので、着いたらご飯を食べようと思った。観光マップに載っている店を探したが、公共駐車場の奥で分かり辛かった。カップルの後をついて入店しようとしたら、先に入ったカップルに「すいません。今日は完売しました」と声が掛かったので、そこで引き返した。全メニュー売り切れ・・・?
 近くにスーパーがあったので、観光の後にそこで惣菜を買い、ホテルのチェックイン後に食べることにした。観光といっても1カ所だけ。数年前南さつま市のヨッカブイを見学しに行った時、知覧も観光した。「ホタル館 富屋食堂」はその時割愛したので、今回見学することにした。ここは「知覧特攻平和会館」と共に特攻隊員の心が残り続けている場所である。富屋食堂は軍指定の食堂で、鳥濱トメさんが女将さんであった。トメさんは特攻隊員の世話をし、隊員から慕われていたそうである。出撃の前日にはトメさんにその旨伝えにきたそうである。また、隊員のことについて遺族に便りを送ったそうである。戦後は平和観音の建立を当時の知覧町に訴え続け、実現した。「特攻の母」と呼ばれたそう。
 色々な特攻隊員の話が掲げられていたけれど、中は撮影禁止なので、メモしてきた。「私は朝鮮人です」と告白し、トメさんらの前で「アリラン」を唄っていった光山さん、布施さんという交際相手がいて、二度出撃しても戻ってきて、罰として命令された試験飛行で鹿児島県隼人の自宅近くに墜落死した川上さんなど、印象に残る話がいくつもあったけれど、最も印象に残ったのが施設名にも含まれているホタルの話である。
 滝本さん、宮川さんは出撃前夜にトメさんに出撃する事を伝えに来た。2人は「ホタルになって帰ってくる」と言った。ところが、滝本さんが戻ってきた。視界不良で引き返すことを決断し、宮川さんに合図するも、「お前は帰れ。俺は行く」と返され、帰ってきたそう。夜、トメさん、滝本さん、特攻隊員がいる食堂に1匹のホタルが入ってきた。トメさんは「みなさん、宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」と言った。
 ここまで読むと幻想的な部分で悲しい話が打ち消された様だが、その後極めて悲しい話となる。戦後、滝本さんは生き残り、新潟にある宮川さんの墓から2週間離れなかった。見かねた宮川さんの兄がおにぎりを差し出したところ、申し訳なく思った滝本さんは宮川家に別れを告げていった。その後、トメさんに宮川さんの兄から滝本さんが亡くなったことを伝える電話があった。滝本さんの死因については語られなかった。自殺ということだろう。戦争は殺し合い、傷つけあうのが最も悲惨なところだが、生き残っても地獄ということがモロに伝わってくる話である。


 トメさんが特攻隊員のために借りた家屋。中を自由に見学していいものかどうか分からなかった。


 ホテルは「ビジネスホテル 末広」にした。中に入ると、入浴券の券売機がある温泉銭湯だった。宿泊は2階へ。銭湯の営業時間が午後4~9時までで、宿泊者も同じだという。ちょっと終了が早いなあ。ソラヨイが終わってホテルに戻るのが午後9時過ぎそうなので、先に入った。その前に、スーパーで買ってきたサンドウィッチを食べた。



 

 

 





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