今回は古代ミステリーロマンの投稿です。
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前の投稿で紹介した『水屋神社』は、大和の国と伊勢の国の国境に位置していて国分けの伝承が残されている。
水屋神社は春日大社の「行在所」だったとされるが、行在所とは天皇が皇居から出て滞在する時に使う「仮宮」のことで、「平城宮」の行在所なら分かるが何故、春日大社だったのだろうか?
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今回はこの⛩️春日大社や水屋神社が創建された奈良時代の世界を、より古代ミステリー的な視点から異説を唱えてみます。
興味のある方はご覧下さい。😌🙏
【奈良時代の真相】
神仏習合の時代(神が仏教神にかえられ、神社が仏教の配下に置かれていた中世独特の宗教時代)春日大社は興福寺下に置かれていた。
春日大社や水屋神社ができた奈良時代は、仏教勢力が力を強めてきた時代であり、どんな世の中だったのだろうか?
1300年前にタイムスリップしてみて🛸🛸、当時の様子を窺っていく。
まず、奈良の前の飛鳥時代は、天武天皇が「天照大神を始祖神として、その子孫の天皇家を日本人が崇める」という宗教政策を考え実施していた。
天武天皇は、それまでクローズアップされてこなかった天照大神や神武天皇の存在を持ち出して自軍を鼓舞し天智天皇系の勢力に勝利した。
そして伊勢神宮の社格を日本一に高め、初めて「天皇」という王号と「日本」という国号を使った。古事記・日本書紀の編纂を命じ、天武天皇の跡を継いだ持統天皇は、「日本」という国号で初となる遣唐使を送り時の中国皇帝に「もう和国という国は無いのでその名で呼んではいけない。皆、日本と呼ぶように。」と言わしめた。
天皇を頂点とした日本の礎の時代だったが、その後、奈良時代になると藤原不比等(一説に鎌足に託した天武天皇の隠し子と言われている)がその事業を継承し、天皇を中心とした律令国家は固められたかと思われた。
しかし不比等の死後、権勢を誇っていた不比等の一族らが一斉に天然痘で亡くなると、権力の中心は仏教勢力へとって変わられた。
(天然痘は流行ってはいたが、一斉に亡くなるのは古代では暗殺の偽装とみる向きがある🤔)
藤原氏というと、天皇家を凌ぎ権勢を欲しいままにしてきた様に思われがちだが、それは奈良仏教の勢力から天皇家が逃れ「平安京」に遷都した100年後以降のことで、当初は天皇の支えとなり(天武系)、日本の天皇制と公地公民を守り天智系に対抗していた。
しかし、結局藤原氏を抑えて権力を欲しいままにしたのは仏教勢力だった。生まれたばかりの日本の公地公民制は、これによって破られたとも言える。
私達が歴史として学ぶ時は、天皇側は苛政を行い弾圧した悪玉で、僧・行基など奈良時代の仏教者は民衆の為に布教し開墾という社会事業を行ったヒーローの様に語られていることが多い。これに疑問を持ったことはなかった。
しかし、行基以来、国土開発は国家主導から仏教主導の世界へと変わってしまった。
仏教伝来後二百年が経ち、律令体制下では既に神仏両派が対立した時代ではなかったが、仏教勢力同士の新旧対立へと時代は動き始めていた。朝廷側は、布教を禁じる事までしなければならない程、新興勢力の行基らは僧業を超えた活動家だったのだ。
【布教という名の私有民化事業】
天智天皇系の長屋王が実権を握る様になると、開墾地の私的な所有を三世に限り認めるという「三世一身法」が施行され、大がかりな開発事業を行う行基らは私有地の開墾民達から多額の資金を集められる様になり、奈良仏教は堂々と巨万の富を蓄えていった。
国の田畑でさえ布教の後は私有地に変えられてしまい、ついには大仏を建立できるほどにまでに財を成し、行基は旧仏教者らを追い越して日本で初めての大僧正の位にまで昇りつめた。
国民は税は払わず、行基に資金を払い、平城京遷都の役務だけで終わったはずの国民も、千を超すとも言われる寺院や大仏の建立の使役に駆り出された。奈良仏教勢力の前に天皇家は言いなりであり「天皇は仏教の下僕である」事を宣言させられ、もはや政策者が仏教を利用するのではなく、仏教者が政策の実権を握っている世の中となっていた。
その後「墾田永年私財法」によって開墾地は永遠に免税となり、仏教勢力は開墾民から永遠に私税を得ることが可能になってしまった。布教による出家信者の増加は、開墾した広大な寺領で耕作を行う私有民の増加であり、即ち国民の減少でもあった。
墾田永年私財法ができた理由は、
三世一身法だと『免税期間が過ぎると開墾した田畑が放棄され耕されなくならから、永遠に免税にした』と言う。
本当にそんな事があるのだろうか?
農民自らが、自分達が汗を流して開墾した田畑を『税金を払いたくないから』と言って放置する事などない。
農民の一揆なら分かるが、
農民のストライキなど、飢え死にしてしまうだけではないか😳💦
日本人の生存を可能にしてきた、定住型農耕社会では有り得ない事だが、
免税目当てにそれを可能にしてしまう程、耕作人をコントロールする大きな力が働いていたのだろう。
開墾と抱き合わせて行われる布教という名の私有民化事業によって事実上、かつての和国の部族連合国の様な「私有地・私有民時代」のへの逆戻りとなった為、日本国の公地公民制は早くも崩れた。
【法王と天皇のせめぎ合い】
奈良仏教の法王・僧道鏡の時代になると勢力はピークに達し、とうとう天皇の位を譲れと迫る様になった。仏国土(仏教国化)を掲げる奈良仏教としては、法王が国王の地位を狙うのは当然のことである。
天皇を頂点とする日本国から、
法王を頂点とする仏教国日本へ、
実質支配だけでなく、ついに天皇という位を奪うまで、道鏡はあと一歩という所まで迫っていた。
天武天皇系は最後まで天智系に皇統を譲る事に抵抗していた為、利用され力を削がれながらも苦肉の選択で僧・道鏡に譲位しようとしていた様だが、伊勢神宮と並び天皇家の第二の祖廟である九州の宇佐神宮の存在により、土壇場で道鏡に皇位を譲位するには至らなかった。
春日大社や水屋神社が造られたのは、この頃の事である。天皇側は失速しつつも結局皇位を保ち仏教勢力に王位を譲ることは無かったが、仏教勢力をどうにかすることも出来なかった。藤原氏の生き残り達も、この頃は仏教勢力側についていたと思われる。
当に
天皇側・伊勢神宮と、
法王側・興福寺の勢力がせめぎ合い拮抗していた時代の真っ只中だった。
天皇側は様々な妨害に合いながらも、何度も奈良から脱出しようと遷都を試み、ようやく京都の平安京に遷都して新政権を開いたのはこれから20年以上経った後のことだ。
天皇は君臨しつつも、天武天皇、桓武天皇、嵯峨天皇、または村上天皇の様に時代を切り開いた天皇以外は律令国家以降、自ら政治を行ったということがあまり無い。後醍醐天皇の様に天皇の政治に戻そうと言う戦いは失敗に終わっている。
天皇主導の時代は黎明期の飛鳥時代だけで、奈良時代は最初に天皇側が脅かされた時代だった。
そしてその仏教勢力の時代の後は、貴族の時代、武士の時代へと国家権力の中心は移り変わっていった。
伊勢神宮の領域と、興福寺の領域と、国境を分けた神話と共に、
水屋神社周辺には、珍し峠や水屋神社の楠と杉の和合の樹など
かつての領地のせめぎ合いを、景観までもがそれを物語っているかの様に残されている。
『珍し峠』
『楠と杉の和合の樹』
長い話しをお読み頂きありがとう御座いました。
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次回は、【日本の中央構造線上には何故、神社が多いのか?】
水屋神社が、日本列島を横切る中央構造線という大断層の上に祭られていることから、その秘密を解き明かしていきます。
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