辻村麻乃第二句集『るん』を読む
本句集には、日常を詠んだ秀句が少なくない。
珈琲粉膨らむまで の春愁
母留守の家に麦茶を作り置く
「追ひ焚きをします」と声する夕月夜
ポインセチア抱へ飛び込む終列車
初冠雪二円切手の見つからぬ
しかし、辻村麻乃という俳人の作家性が現れているのは、句集タイトルになっている「るん」を詠んだ、次のような句ではないだろうか。
鳩吹きて柞の森にるんの吹く
「鳩吹く」「柞」「るん」の三つの言葉の響きは、懐かしい匂いを纏って、読む者をどこか謎めいた世界へ誘う。
「ハメルンの笛吹男」でも「魔笛」でもよいが、笛は古今の物語において、しばしばあるパワーを呼び覚ます装置として機能する。鳩吹くは秋の季語だが、窄めた両手を合わせ、親指と親指の隙間から息を吹き込んで鳩の鳴き声に似せた音を出すことで、凡そ昭和の子供たちなら経験している遊びだろう。古くは猟師が仲間同士の合図や獲物をおびき寄せるために使ったという。
掲句は、鳩の笛を吹いたところ柞の森に風が吹くのを感じた、と読める。しかもそれは、チベット語で風を意味する「るん」だという。「るん」は、寂しい秋風でも、木々を激しく揺らすような風でもない。人の体内の気脈にも通じる自然界の「気」の流れに近いものだろう。
柞(ハハソ)はブナやナラといった落葉広葉樹の総称で、柞の森は、縄文以来の日本の森の姿を伝える空間であり、気を貯める神聖な場でもあった。実際には、作者がたびたび訪ねる埼玉県秩父市の秩父神社にある柞の森と呼ばれる鎮守の森のことだろう。このいわゆるパワースポットで、森に満ちた気を感じながら、「ぽー、ぽー」と鳩の笛を吹いたのだ。すると森の気が動き出し、柞の森と身体が一体になるような神秘的な体験をしたのだろう。「るん」と表現したことで、句そのものが、寂し気な秋の森の景ではなく、人と自然とが交わる生の称揚へと高められているのである。
本句集には、こうしたスピリチュアルな体験や異界との交信、あるいは日常にある異なった位相の存在を感じさせる句が少なくない。日常の中に異界を見つけ、虚実を織り交ぜながら独自の抒情性を描き出す。作者はそこに、言葉を自由にはばたかせ、自らも自由になろうとしているのだ。
春嶺や深き森から海の音
姫蛍祠に海の匂ひして
夏の雨耳石の破片漂うて
姫蛍は、水辺に生息する源氏蛍などと異なり鬱蒼とした森や山深い草地などで見られる。山の祠を囲む斜面に広がる蛍の光はさながら夜の海だろう。その地は太古では海だったかも知れない。作者は確かに地層が記憶する海の音を聞いたのだ。耳石の破片が漂う感覚とはめまいに似たトランス状態を思わせる。かつて見た魚の美しい耳石のイメージが、夏の雨のザザーという耳鳴りのような音に導かれ、かつて人類が魚類であった時代の記憶へワープしていったのだ。
作者は、日常生活でも吸い寄せられるようにして欠損したもの、過剰や虚空に引かれていく。
周波数合はぬラヂオや春埃
雛の目の片方だけが抉れゐて
引鶴の白吸はれゆく空の孔
電線の多きこの町蝶生まる
方角の定まらぬまま実梅落つ
髭男ざらりと話す夜店かな
二句一章であろうと一句一章であろうと、ここでは見慣れた風景を少しずらすことで作者独自の世界を創り出している。周波数の合わぬラヂオ、片目の抉れ、電線の多き街、方角も定まらずに落ちる梅の実などなど、見慣れた不調和の風景は、シュルレアリストたちが試みた無意識の作品化を思わせる。シュルレアリスムの画家たちが、細密なリアリズムの技法を駆使して夢や無意識を描いたように、写生という方法で、日常の中にある孔や不調和を描き出す。それは作者の無意識の表出に他ならないのだが、いずれの句も言葉を俳句のフレームに閉じ込めることなく、読むものをフレームの外の世界へとおびき出す。そして、いよいよ我々を異界へと誘うのである。
あはあはと人込みに消ゆ狐の子
走り梅雨何処かで妖狐に呼ばれたり
こうした作者が好むファンタジーに、次のような句を並べてみると、日常の可愛らしい姉妹のふるまいも、まるでスタンリー・キューブリクの映画「シャイニング」の双子の少女のように思えてこないだろうか。
アネモネや姉妹同時に物を言ふ
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