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昭和新山の巻(2021北海道no15)

2021-08-27 | 北海道

 皆さんは火口を見に行くという。しばらく同行してみたけど階段はあるし坂道が続いている。これはかなわんと途中で引き返してきた。最近はいつものことで珍しくもない。先に帰って昭和新山の近くを歩いてみたいとも思ってもいた。

 その展望台からの眺めがこれだった。添乗員殿から何枚かメールで送っていただいた写真の中から2枚をここに貼ります。

 1977年に噴火して2000年にも。次はいつだこの活火山は。

 先に山を下りたのは二人だけだった。ゴンドラから昭和新山をズーム。いずれ山頂までみどりに染まるのでしょうか。

 みなさん集まって出発したら「途中で拾ってくれ」と一緒にゴンドラで降りた彼女にお願いして、ひとりで新山の麓にやってきた。やはり誰もいません。

   地元の郵便局長三松正夫さんの記念像があった。この方の昭和新山誕生の観察記録をたたえています。台座の文字「麦圃生山」麦畠山を生ずと読むそうです。ご本人が自分の名前を彫るのを拒否したとのこと。さらに付け加えるならば、この地を荒廃から守るため周囲の土地を自費で購入したというのです。ですからこの辺はすべて三松家の所有地。ガイドさんのいないひとりのブラ歩き、すべて後刻調べたことです。

 昭和18年暮れから20年9月末にかけてのどかな麦畑とフカバを持ち上げ四ケ月の爆発期を経て溶岩塔推上という珍しい現象を伴ってこの地に誕生した。時は第二次世界大戦末期の混乱の中での観測経過などが書かれ、平成5年(1993)新山生成50周年記念事業としてこの像を建立したなどと書いています。英語はもちろん中国、韓国の皆さんも読める字もあった。

 

 どこかにあるはずだと探してみた。1978年 (昭和53) 9月8日の写真が出てきた。今は77歳の山だけれどこのときはまだ33歳の青年だった。もちろん私も若かった。緑が一つも見えない荒々しい山だった。43年も前の写真は質が悪い。各県から集まった人たちですが、顔は誰が誰やらさっぱりわからない。プライバシーは完全に守られている。

 こんな写真も繋がって出てきた。何も覚えていません。これ何処で撮っているんだろう。私たちの仲間に女性はいなかった。洞爺湖温泉街がそこに見えている。その背後で爆発があったのか。皆の視線がそちらを向いているようだ。1978年に何があったのか当時の有珠山がらみのことを調べてみた。1977年8月6日に始まった有珠山噴火はまだ続いていた。避難命令解除が9月7日だったという。いや驚いてしまう。その翌日に私たちはこの遊覧船の上だったのです。旅館業が再開されたのは噴火後100日が経っていたといいます。

 写真が残っていれば遠い昔を振り返ることができて楽しい。そんなことがあったのかと、忘れていたことがよみがえる。有珠山はずっと右の方なんだけど、湖の上から写した水蒸気爆発だ。覚えていないということは怖くなかったのか。こんな爆発は9月末まで続き10月27日に噴火は終わったというのです。

 高速道路を走って登別温泉に向かっています。

 登別東ICを降りたすぐそこにこの赤鬼はいた。

 登別温泉街にやってきた。

 私たちの宿「石水亭」はこちら。

 修学旅行の子供たちの夕食処。対面ではありません全員が前向き、しかも黙食か。楽しい食事時だというのに。それにしてもコロナがとまらない。日本国中コロナに埋まってしまった。全国の感染者数が25000人余といった日も出てきた。入院できず自宅療養中の方が亡くなってしまうという悲劇も起きている。救急車を呼んで病院を探しても病院が見つからず自宅に逆戻り。何たるこっちゃ日本国は。コロナの震源地かの国ではあっとういまに大きな野戦病院をつくってしまったというのに。日本には資金がないのか、技術がないのか、いやこの国はやる気がないんだ。ロックダウンせよ、なんて声も聞こえてくる。子供は大丈夫、といっていたのも崩れ始め小中学生にも感染がひろがっている。学校の2学期も始まっている、この先どうなってしまうのだろうかコロナは。早く平時を取り戻して楽しい修学旅行に行かせてあげたい。

 大浴場が2カ所にあってよかった。ひとつは子供たちの時間指定貸切風呂になっていた。この時間みなお風呂ではしゃいでいるのだろうか。ここには子供の姿はありませんでした。

コメント
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