茨木市で一番人気だろうってっていう茨木神社へ。
はやってまっせ~。
住所は大阪府茨木市元町4-3
茨木城の搦手門(からめてもん)といわれ、
元和3年茨木城廃城の際にこの地に移築されたそうです。
当神社の創祀は、当社由緒書きによると
「大同二年(807年)坂上田村麻呂が荊切の里をつくりしとき
天石門別神社が鎮座された」と伝え、明治十二年発刊の「茨木村誌」や
大正十一年に纏められた「大阪府全志」にも
「大同二年二月坂上田村麻呂茨木町ヲ作ル是日本町ノ始ト十三朝集ニ有」
と記されています。そしてこの「荊切の里」は
今日の宮元町付近 と伝えられていますってことだそうです。
天石門別神社を創祀した経緯や情況、坂上田村麻呂との関係等については
何ら資料がなく明らかではありません。しかし、大同二年から逆上ること三年前
延暦二十三年(804年)に坂上田村麻呂公は、
和泉・摂津両国に天皇巡幸時の仮宮殿・行宮設定のために派遣され両国の各所を
巡視されています。また、延暦年間は、東北征討を 通して東北から摂津・和泉へ
関東各地から東北へ人が移動定住した時代でもありました。
そして延暦二十四年(805年)は、長岡京・平安京の二度の造都事業と
度重なる東北 征討軍事によって農民が疲弊しているとして民政安定へ
朝廷の方針が変更決定された年でもあり、このような時代の背景が
起因しているのではないかと考えられます。
平安時代の延長五年(927年)編纂された延喜式巻第九に
摂津国島下郡十七座の一つとして、天石門別神社の名が記されています。
それは、天石門別神社が編纂当時に官弊社として 尊崇されていた
神社であったことを意味し、今日では特に式内社と呼ばれます。
それからのち中条村・茨木村の氏神として広く国主領主をはじめ
多くの人々の崇敬をあつめました。ってことらしいです。
中世に入り楠木正成公が村近くに砦を築いて後
戦国時代には城郭が整えられ惣構形成の過程で
茨木村はそれまでの農村的集落から城下町へと変貌し
天石門別神社も現在地へ 奉遷されたのでした。
中川清秀公も当社への崇敬の念篤く、当社への狼藉を厳しく禁止する
禁制の高礼を掲げるとともに、天正八年(1580年)には神領十三石を
寄進しました。
この時代、摂津名所図会(寛政十年・1798年)及び社伝によると
高槻城高山右近が、織田信長に倣い神社仏閣を焼却するに際し
信長が天照大御神、春日大神、八幡大神及び 牛頭天皇(素盞嗚大神)の
諸社は焼くべからずとしたので牛頭天皇を祀ると詐称して
焼却を免れたと伝えられています。
そして、元和八年(1622年)牛頭天皇、春日大神そして八幡大神を祀る社殿を
新たに築いて本殿とし、天石門別神社あめのいわとわけじんじゃを奥宮として
今日に至っております。ってことです。
参拝したのは七五三の時期でした。
御祭神 建速素盞嗚尊(タケスサノオノミコト)
配祀 天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
誉田別命(ホムタワケノミコト)
末社がいっぱい。
皇大神宮、稲荷神社、愛宕神社、天満宮、主原神社
多賀神社、皇太神社、事平神社、厳島神社、恵美須神社
奥宮の天石門別神社あめのいわとわけじんじゃ。
祭神 天手力男命アメノタヂカラヲノミコト
配祀 豊国神・東照神
天宇受売命アメノウズメノミコト
元は今日の宮元町に鎮座されていましたが、茨木城築城の際に
現在の地に移され、明治12年に郷社に列せられました。
そして、昭和49年に氏子崇敬者の浄財によって
神明造の社殿に改築造営されました。ってことです。
秀吉がタカ狩りで茨木に立ち寄った際、当時、茨木城内にあった
「黒井の清水」でたてた茶を飲んでたいそう気に入り、
大坂城で茶の湯を行うときに、わざわざ「黒井の清水」を
くみに行かせたという話です。
阪急京都線・茨木市駅より徒歩 約10分
JR東海道線・茨木駅より徒歩 約15分
ご訪問ありがとうございました。
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