タカへの個人的な日記-goo版

個人的な日々の出来事をつづっています。暇つぶしに読んでもらえれば。

素盞嗚神社(すさのおじんじゃ) 福山市

2016-09-12 17:59:21 | 広島県

去年のことですが広島県福山市で御朱印あつめを。
福山市、なかなか効率よく回れました。
最後にやってきたのは素盞嗚神社です。

DSC09487.jpg

社伝によれば天武天皇の治世であった7世紀ごろ(679年か)に
創建したとされる。その後、遣唐使であった吉備真備が唐から
帰国した後の天平6年 (734年)に備後から素盞嗚命を播磨の
広峯神社に勧請したとされるそうです。

DSC09485.jpg

相方城移築の城門。
戦国時代に城山(じょうやま/標高199m)一帯に築かれていた
山城相方城から、城門2棟と櫓が移築されたとされる。
現存する戦国期の山城の城門としては最古級とされるだそうです。

DSC09464.jpg

『釈日本紀』巻7(卜部兼方、鎌倉時代中期)に引用された
『備後国風土記』逸文(奈良時代か)の「蘇民将来」説話に
「疫隈國社(エノクマノクニツヤシロ)」とあるのがここのことじゃないか
ってことらしいです。

DSC09466.jpg

『延喜式神名帳』には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と
記載されているそうです。

DSC09486.jpg

現在は「全国一の宮会」に加盟して、備後国一宮を称してます。

DSC09471.jpg

大鳥居。
石造り。江戸時代中期元禄時代の建立。

DSC09461.jpg

素盞嗚神社の例祭である祇園祭では重さ約500kgの神輿を激しく
ぶつけ合う「けんか神輿」が繰り広げられるそうです。
祇園祭の発祥の地だそうで、神社の碑文には(長いけど)

当神社の例大祭「祇園祭」が、いつ頃始まったものかを示す
古文書は残念ながら現有せず、その始まりの時期は定かでは
ありません。奈良時代の初頭より我が国では疫病の流行や
大地震により数多くの人々が亡くなり「死」に対して
強烈な畏怖心をいだくようになりました。

当時、疫病の流行や自然災害は、この世に恨みを持って
亡くなった人たちの祟りによるものと考えられました。
そこでいつ襲い来るか計り知れぬ災害から逃れ
疫病に罹らぬようにするため、死者の怨霊を鎮めなだめる
儀式「御霊会(ごりょうえ)」が行われるようになりました。
これが後に「祇園信仰=祇園祭」へとつながっていきます。

「祇園信仰」とは、お釈迦様が修業された「祇園精舎」を護る
「牛頭天王(ごずてんのう)」と高天原を追われてのち出雲国で
「やまたのおろち」を退治された「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」
を共に祀る信仰です。つまり外国(とつくに)の誠に
恐ろしく力の強い仏様「牛頭大王」と我が国最強の
荒ぶる神様「素盞嗚尊」を一体化しより強力な神格にして
祇園社の主祭神「祇園神」としたのです。

この神の絶大なる霊威を以てすれば、いかなる怨霊の
祟りをも鎮め平穏な世を取り戻すことが出来ると
考えられたのでした。各地に伝わる様々な伝承や
資料からすると祇園信仰発祥の地はここ福山市新市町戸手に
鎮座される「疫隈國社(えのくまのくにつやしろ)」
現在の素盞嗚神社であると考えられます。

疫隈國社より播磨国明石浦(兵庫)-播磨国廣峯神社(姫路)
-北白川東光寺(京都)に至り、祇園感神院(八坂神社)へと
伝搬していったことは明らかです。

ってことだそうです。

DSC09458.jpg

本殿。備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わるそうです。

DSC09460.jpg

主祭神は素盞嗚尊 (すさのをのみこと)。
住所は広島県福山市新市町大字戸手1-1

無題

121枚目。

DSC06661.jpg

御訪問ありがとうございました。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 住みよさランキング 中国・... | トップ | 教会へGO!大阪ハリストス... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

広島県」カテゴリの最新記事